祝福は春の底より



 彼が帰ってくる音がする。彼の歩き方には特徴があるから、靴音もわかりやすいのだ。ドアから背中をはがして、ふう、と深呼吸をする。それから玄関の灯りをつけて、目が慣れるまで数回瞬きをした。ネグリジェの裾のしわを伸ばす。動く度にうすく香水の匂いがして、少しだけ気持ちが落ち着いてくる。

 ドアが開いたとき、虫太郎さんは驚いた顔をしていた。わたしが立っているなんて思いもしなかった、という表情だ。

「……ただいま」

 ずっとそこに、と彼は言いかけて、けれどその先はつづかない。居るわけないでしょ、たまたまよ。歌うようになめらかなセリフが口をついてでる。用意していたことば。

 虫太郎さんは脱いだ革靴をタイルの線にぴったりと合わせて、わたしの方へ振り返る。鞄が床へ置かれて、かたい音を立てた。彼はそのまま、ぎこちなく両手を広げる。わたしは笑みが広がるのも隠さずに、彼の胸へ飛び込む。

「おかえりなさい」

 わたしが考えてることぜんぶ、伝わればいいのに。そう思いながら、彼のことをぎゅっと抱きしめる。家のそとの匂いと、虫太郎さんの匂いが混ざっている。

「……私が居ない間に、なにか変わったことは」
「特にないかなあ。聞いて欲しいことは沢山あるけど」

 夕焼けが不思議な色だったことや散歩した先で素敵なカフェを見つけたこと。それから、寂しくて家のなかに居られなかったこと。今日読んだミステリの話。難しくてわからなかった神秘学の用語について。

 何を伝えても、虫太郎さんは毎回ちゃんと同じ温度で聞いてくれた。すごく楽しそうに相槌を打ってくれるとかなにか提案をしてくれるとか、そういうことではない。流したり適当にあしらったりせず、ただただ真剣に聞いてくれるのだ。他愛のない、どうでもいい話でも。だからわたしは何だって彼に言ってしまうし、嬉しいことでも悲しいことでも、真っ先に共有すべきは彼だと信じて疑わない。

「そうか。後で聞こう」

 どちらからともなく身体を離す。頭の上に手を置かれて、数回撫でつけられる。背伸びをして彼を見つめた。それはわたしたちの、キスの合図だった。虫太郎さんがふっと表情を緩めて、短い口づけをくれる。彼が離れないうちにわたしからも短いキスをして、かかとを床に降ろした。ぺたり、とふぬけた音がする。

「……すぐご飯にするね」

 虫太郎さんの鞄を持って、リビングへ方向転換する。そうしてくれと頼まれたわけではないけれど、大抵は玄関で彼の荷物を預かるのが決まりみたくなっていた。こうしていると本当に、虫太郎さんの妻みたいだ。いや、実際に妻なのだけれど。



 虫太郎さんはご飯を食べている最中も食べ終わったあとも、テレビをつけない。煩くて嫌、というのが理由だ。今も画面は真っ暗なままで、彼は夕刊に目を通している。

 わたしはわりとテレビは好きなほうだから(彼の居ない昼間はドラマを見たりニュースから情報を得たりする)、電源くらいはつけておいてもいいと思っているのだけれど、それ以上に、しずかなリビングで彼と過ごす夜を気に入っていた。わたしたちの間に外の世界の音は要らない。

 ソファに座る虫太郎さんのとなりへ、腰を下ろす。お風呂から上がったばかりで服がところどころ肌へ張りつき、髪からはぽたぽたと水が落ちてくる。首にかけたタオルで雑に撫でつけて、彼の持つ夕刊を覗き込む。

「君は本当に仕方がないな。風邪を引いたらどうする」
「風邪を引いたって、虫太郎さんが居るでしょう?」

 同棲し始めてからほとんど外に出ないため、わたしが風邪を引くのはめずらしい。本当は頻繁に体調を崩してもおかしくないのかもしれないけれど、いまのところは彼のおかげで健康に生きていた。

「居るかもしれないが、君が風邪を引くのは自業自得だろう。優しく出来るかは分からん」
「嘘。虫太郎さんは絶対優しいもの」
 新聞紙をたたみながら、虫太郎さんがひとつ咳払いをする。「……そのドライヤーはなんだ」
「なんとなく持ってるだけ 」

 虫太郎さんがふっと笑って、わたしの手からドライヤーを取る。こうなったらわたしの勝ちだ。彼はあきれたような、けれどやさしい夫の顔をしている。彼と出会ってから数年経つけれど、ずいぶん柔らかくなったと思う。雰囲気も、表情も。

「君は本当に仕方がないな。私にこんなことをさせるとは」

 ご飯を作るのもお風呂をわかすのも、彼の服を洗濯してアイロンをかけるのもわたしの仕事。本棚の整理も、掃除も、彼の蝶ネクタイを外すのも。けれどわたしの髪を乾かすのは大抵、虫太郎さんの仕事なのだ。

「ふふ、ありがとう。きっとわたしだけの特権ね」

 彼の指がわたしの髪を梳かしていく。部屋のなかはドライヤーの音とあたたかい風だけになる。わたしの家。わたしの虫太郎さん。いつもどおりの夜。わたしはゆっくりと瞼をとじる。



 月明かりがひとすじ伸びて、暗い室内を照らしている。窓から洩れる自然のひかりを遮りたくなくて、カーテンをしめる手を止めた。そのまま端へ寄せて、ベッドへ戻る。

「虫太郎さん? 寝ないの」
「ああ、いや……」

 なにか悩み? とみじかい質問をしながら、掛布団を捲る。足だけ布団に入れ、壁に背中をつけている彼に倣って、わたしも同じ姿勢になる。横並びのまま、なんとなく距離を詰めた。彼に触れたい気分だった。

「その、……結婚式、本当にあげなくて良かったのか」
「なんだ、そのこと?」

 結婚する前、彼にウェディングドレスを着るのが夢だった、と話したことがあった。結局結婚式はあげず、わたしがドレスを着ることもなかったのだけれど、正直まったくと言っていいほど気にしていない。幼い頃から思い描く花嫁になることよりも、ずっと彼のとなりに居られるという事実が大切だった。

「虫太郎さんそういうの苦手じゃない。集まり、とか」

 わたしも好きじゃないし。続けた言葉は彼に気を使っているわけではなく、本心だった。お互い友達が多いわけでもなければ、環境も普通の人とは違う。そもそも彼がいちばん呼びたかったであろう人物はもう、この世に居ないのだ。きゅっと胸が痛む。布団の中で、足先をこすり合わせる。

「確かにそうだが、……君は、ドレスを」
「憧れてはいたけれど、そうじゃないの。いちばん綺麗な姿を虫太郎さんに見てもらえたらそれは素敵だと思うけれど」

 そう言いながらも、彼のタキシード姿を想像してみる。いや、やっぱり和装でもいいかもしれない。どっちを思い浮かべても彼は格好良くて、ただの想像なのに口もとが緩んでしまう。

 そうしてしばらく考えたあと、はっとして虫太郎さんを見る。夢中になってしまっていたから、どれくらいのあいだ静寂がひろがっていたのかわからない。彼は顎に手をやって何やら考え込んでいた。なにか難しいことを、というよりは楽しげに見える。もしかすると、わたしのドレス姿を想像したのかもしれない、……なんて。

「最高に格好良い虫太郎さんのことも、実際に見られたらそれ以上のことはないと思うの。でもね、こうして想像するだけでも楽しいでしょう?」

 それで充分。しずかにひとりごちる。こんなに日常が満ち足りているのに、わざわざ非日常に飛び込むのは怖いことだ。ただ平穏な、変わらない日々だけがあればそれで良い。ずっとこの家に居られれば、それで。

「……そうだな」

 ふっと微笑んだ虫太郎さんと、目が合う。このひとのこんなやさしい表情も、わたしだけの特権ならいいのに。
 彼の手に自分の手を重ねる。彼の薬指の指輪が鈍くひかる。

「わたし、本当に虫太郎さんの奥さんになれたのね」

 しみじみ、というかあらためて、というか。そんなふうにしてやっと、彼の妻だという実感が湧いてくる。
 プロポーズされてから結婚するまでの間は半同棲みたいなかたちになっていたし(わたしはたまに荷物を取りに帰る以外のほとんどを虫太郎さんの家で過ごした)、特に関係が変わることもなかった。少し前に仕事は辞めてしまったから、外で彼の苗字を名乗る機会も少ない。指輪を眺めることはあるけれど、毎回夢みたいな心地になって、とても現実のこととは思えないのだ。わたしだけがひとり、いつまでも恋人気分で居てしまう。

 結婚を機にこの家に引越しをして、だいたい三ヶ月が経つ。最近になってようやくやることが減ってきて(引越しというのは本当に大変な作業だ)、こうして落ち着いて話せるようになったところだ。
 指先が絡められて、わたしの手は虫太郎さんに覆われる。

「ああ」彼の困ったような、それでいて照れたような笑み。「君は、私の妻だ」

 身体の芯からじんわりと熱くなるような、そんなしあわせがわたしを満たした。きっと、世の中の妻がいだくような穏やかなものではない。きらきらしていて、するどく、しずかに燃えている。わたしは未だずっと、彼に恋をしている。

「虫太郎さん、」

 彼は返事の代わりにゆっくりと手を解いた。ほとんど力を入れずに引き寄せられて、くちびるが重なる。玄関で彼を出迎えたときとは違う、性急なキスだった。彼の首に手を回す。一瞬だけ離れて、また体温が溶ける。わたしに触れる指もくちびるも身体も、なにもかもが、あつい。


 虫太郎さんの腕のなかは、多分わたしが世界でいちばん落ち着く場所だ、と思う。それから、好きなひとに抱きしめられて眠るのは、この世でいちばんの贅沢だ、とも。


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祝福は春の底より
宝石箱のなかで

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