調和するふたり 後編





「二時間後、か…」口に出すつもりはなかったのに、気が付いたら声に出していた。
 掲示板に貼られた時刻表をもう一度確認する。
 何度見ても、今の時刻から二時間後だった。終電。いつもは駅に着いたらすぐに電車が来ていたから、こんなに本数が少ないことなど知らなかった。きっと、彼が入念に下調べしてくれていたのだろう。

 あのあと、看板を眺めていたら何となくそれだけで満足してしまって、わたしはすぐに駅に向かって引き返した。もっと暗くなったら駅までの道のりもまた、違う道のように見えてしまうに違いない、と早足で。
 進行方向、外の明るさ、見慣れた建物の改修工事。真の方向音痴とは、そういった要素ひとつで、何度も歩いた道でも、さも初めて来たかのような感覚に襲われてしまうものだ。

 案外すんなりと駅までついて、さあ帰ろうか、と思ったところで二時間待ち。暇をつぶせるスマートフォンはないし、散歩しようにも土地勘がなさ過ぎて諦めた。仕方がないので、目をつぶって眠ることにする。
 さすがにアナウンスがかかれば気が付くだろうし、さっき切符を買ったときの駅員さんはわたしを珍しそうに見ていたので、声くらいはかけてくれるだろう、と思った。普段ならここまで他人任せにしたりしないものだけれど(他人、というのは友達以外のことで、わたしが何事もアズール任せにしていたことは否めない)、そんなことがどこかへ行ってしまうくらい、今のわたしは睡魔に襲われていた。





 いつもの場所にもその道中にも、彼女はいなかった。
 スマートフォンもマジカルペンもない彼女への連絡手段はなく、立ち尽くしてしまう。気が付いたら、行きで確認した看板の前に立っていた。
「そういう場所、だったとは…」
 遠くから眺めていた時は、気が付かなかった。意気揚々と目印を提案した自分が恥ずかしくなる。とはいえ、ここはいつも通っていた道から少し逸れて歩かないとたどりつかないような、入り組んだ道だった。今度来る時からはなにごともなかったかのように目印を変えればよいだけのことである。いずれはそういうことも、と思ってはいても、彼女と僕に夜の経験はなかった。

 気持ちを切り替えて、駅へ引き返す。この時間は列車が少ないから、もし彼女がいるとすれば、駅しかないと思った。外套のポケットに入れた彼女のスマートフォンの存在を手で確認しながら、空を見上げる。いつもはこんな遅くにくることのない場所だから、彼女がいたらきっと、全然違う道みたい、などと思うのだろう。稀代の努力家、だとか稀代の天才、だとか、そういうのになぞらえて言うならば、彼女は稀代の方向音痴、だ。

 駅には自分と駅員の他には誰もおらず、自分でもわかりやすいくらいに落ち込んでしまった。窓口で切符を購入して、時計を確認する。目線を下にやると、端の方にひらひらした黒いものが見えた。はっとして目をやると、振り向いた先で黒いワンピースの彼女が眠っている。視界のはしで揺れたのは、ベンチからこぼれたワンピースの裾だったらしい。完全に横になっていて、これは後ろから見えないわけだな、と思った。どうやら駅員も起こすかどうか迷っているらしく、ちらちらと彼女に目をやっている。

「すみません。…知り合いです」いま起こしますから、と軽く頭を下げると、そうですか、と人のよさそうな笑みが返ってきた。もう一度会釈してから、彼女のもとへ向かう。
「どこでねてるんですか。帰りますよ」
 ゆすっても起きない彼女を無理やり抱き起すと、アズール、と小さく呼ばれた。寝ぼけているらしく、体の重心が定まっていない。ゆらゆら左右に動いていて、支えていないとまた横になってしまう勢いだった。

「うわ、駅員さんかと思ったら、アズールだった。びっくり」
 寝ぼけたまま髪の毛を直されたり曲がった襟を戻されたりしていくうちに、目の前にいるのが駅員ではなく僕だと認識したらしく、彼女は突如目を大きく開いて、言った。
 何がおかしいのかはわからないが、口元が緩んでいる。とりあえず機嫌はよさそうだな、と安心した。

「びっくりしたのはこっちです。もう会えないかと思いました」
「迎えに来てくれて、ありがとう」もう帰れないかと思ったの、という彼女はこれまた楽しげで、「大冒険しちゃった」なんて笑っている。
「もうこうやって一人で出歩くのはやめてください。迷ったらどうするんですか」
「そういわれても、もう迷っちゃったもの。わたし、稀代の方向音痴、だから」

 先ほど考えていたことと全く同じことを言われてしまって、僕も案外彼女と似ているところがあるのかもしれないな、とつられて笑ってしまう。

「せめてスマホは持っていてください」
 ポケットから取り出したスマートフォンを手渡す。彼女はなぜか焦ったような表情をしていた。
「あの、待ち受け画面とか、」
「見ましたよ。それを見て、ここに来ようと思ったんです」
「ああ、それは…よかった」
 彼女のスマートフォンには、一か月前に思い出の場所で撮った、彼女と僕のツーショットが映っていた。

 ☆

 列車のなかは空いていて、わたしたちのほかに客はひとりも乗っていなかった。彼に促されて、窓際の席に座る。外はすっかり暗くなっていて、車窓からの景色は期待できそうにない。
「わたしがいなくなったら、アズールはどうする」
 何となく沈黙が重くて、思ったことをそのまま言ってみた。
「現にこうして、迎えに来たじゃないですか」
 確かに、と思う。たとえ話ではなく、わたしは彼の前からいなくなったばかりなのだから。

「ごめん、そういうことじゃなくて」
「わかってます。元の世界に戻ったらどうするのかって話でしょう」

 久しぶりに言われて気が付いた。わたしがなんでもないような想像やたとえ話を次々に彼に話すのは、彼がそれを笑ったりしないできいてくれるからというのもあるけれど、この、わかってますよ、があるからなのだ。あなたが毎回本気で想像して落ち込んだりしているのも、どういうひとなのかも、わかってますよ。そういう、彼だけがわたしにくれる親愛なる理解、共感。
 たまに、ああ流されてるなあ、とか、あんまりおもしろくなかったんだなあ、とか反応で分かるときもあったけれど、それはそれで、好き。わたしは彼と話すのが、一番好きだ。

「そう。まあ、答えなくてもいいんだけれど」
「答えますよ、どうするかは決めてるので。絶対に連れ戻します」
「え、連れ戻されるんだ、わたし」
 素っ頓狂な声が出てしまって、言ってから自分で笑ってしまう。てっきり、彼はわたしのことをあきらめるのかと思っていた。わたしが海で暮らせるとは思えないし。
「嫌だと言ったら、縄で縛ってでも」冗談だと思って彼を見たら思いのほか真剣だったので、
「え、縛られるんだ、わたし」と大げさに怖がるような仕草をしてみる。
「冗談です。まず、帰しませんので」
 強気な口調とは裏腹に、そっと手を握られた。

「そう。それは安心。帰るつもりありませんので」
 きゅ、と指先に力を入れてから、彼の口調をまねてみる。
「え、帰るつもりないんですか、あなた」
「ないよ。何も覚えていないもの。何もわからないのに元の世界だなんて、想像したら怖いじゃない」
 そう思わない?と彼を伺うと、
「確かに、それは怖いかもしれない」と繋いでいない方の手を顎に当てて、考え込んでいた。これはわたしの想像を真剣に聞いているときの、癖。

「あ、聞いてよ。今日ね、すごい派手なスカートのお姉さんに、葬式ですかって聞かれちゃって」
 あまりに急な話題転換に驚く彼を無視して、続ける。
「ちょっとだけショックだった。お気に入りなのに」
 悲しい体験談をお話ししているはずなのに、なぜか彼は微笑んでいる。合わせて悲しい顔をしろとは言わないけれど、もっとこう、雰囲気ってものが、あると思う。

「彼女曰く、後ろから見たスカートの形が、素敵だったそうです」
「え、それはどういう」
「あなたが思っているよりかは、この世界もそう悪くはないですよ、という話です」
 なによそれ、と返そうとしたところで、列車が駅に到着した。手を引かれて下車すると空は晴れていて、爛々と星が輝いていた。

「晴れてる。ずっと曇りだったのに」
「スカラビアはずっと晴れでした。そういえばカリムさん、雨を降らせることができるそうで」いろいろあったんですよ、と彼が笑った。
「え、すごい!素敵な魔法ね」
「そうですね」

 寮に戻ったら、この三日間何があったのか沢山話してもらおうと思った。ひとりで置いてけぼりにされたのだから、きっとどれだけ聞いても気が済まない。わたしが勝手に、彼の部屋で過ごした三日間。もとより クロゼットから何から、わたしの私物でいっぱいだったけれど。生まれ変わりたいだとかなんとか言っていたけれど結局は、彼の部屋に何もかもおいて寮を出た時点で、わたしは彼に気が付いて、迎えに来てほしかったのだ。

「ほんとわたしって面倒くさくて、申し訳ない」
「今更ですね。…ホリデーは長いですから、今度また来ましょう」
「そうだね。ありがとう」

 歩きながら、そっと彼の肩に頭を預けてみる。帰ったらきっと、ジェイドもフロイドも心配しているだろう。謝らなくてはいけないな、と思った。
 終電を過ぎた駅は静まり返っていて、心地良い。いつかの学校に似ている気がした。





「ホリデーシーズンは、学校に人がいないから好き。」
「あなたはそういうところがあるから友達ができないんですよ」
「そういう意味で、言ったんじゃない」
「わかってますよ」





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