調和するふたり 前編
昨日も一昨日も、こんな曇り空だった。雨こそ降らないけれど、じめじめしていて気分が上がらない。ずっと頭が重くて、何も話したくない気分だった。彼とは三日前から口をきいていない。鳴らないスマートフォンも制服もマジカルペンも、彼のことを彷彿とさせるものは全部放って、真っ黒な服に身を包んで部屋を出る。財布すら持つのが億劫で、ポケットに一万マドルだけを突っ込んできた。誰もわたしを知らない場所に行って、生まれ変わりたかった。
ホリデーシーズンは、学校に人がいないから好き。
前に彼にそう話したら、あなたはそういうところがあるから友達ができないんですよ、と言われたことを思い出す。人がいないから好き、なのではなくて、彼と二人だけで歩く静かな廊下が好き、という意味だったのだけれど、あのときのわたしはそれを正直に言ったのだろうか。言えなかったから、今こんなことを思い出すのだな、と納得する。
寮を出てから鏡舎につくまで、誰にも会わなかった。行先を告げて鏡に潜ると、一気に人混みの中に出る。誰とも話さずにいただけに、どうしていいかわからなくなった。街の喧騒がよく研がれた包丁みたいな鋭さをもって耳に刺さってくる。無意識に息を止めていた。
そこ、邪魔になってますよ、と声を掛けられてようやく、自分が駅の入り口付近に立っていたことに気が付いた。すみません、と絞り出すように発せられた声は場内アナウンスにかき消されて、無機質な床に落ちていく。それを追うようにして頭を下げて、トイレへ駆け込んだ。扉をしめて、ポケットに手を入れる。あ、スマホ、と声が出た。期待していた感触はなく、紙の先端が手のひらに触れる。
落ち着きを取り戻してトイレを出ると、先ほどより駅は静かに感じられた。気のせいかとも思ったけれど、アナウンスから数分経っているから、列車が来て人が減ったのかもしれなかった。改札の上の時計を確認して、切符を購入する。列車に乗ることは決めていたのだから小銭も持ってくるべきだったな、と思う。お釣りが沢山返ってきて、ポケットが重くなった。
列車は空いていて、乗り込んだドアのすぐ近くにある席に座ることができた。二人掛けの席はすべて進行方向を向いていて、なんだか安心した。きっと一つでもこちらを向いていたら、わたしが直した方がいいのかな、だとか、あの席に誰か座ってきてずっと向かい合わせになったら気まずいな、だとか余計なことを考えてしまうから。
そういう考える必要のない、どうでもいいことを考えては落ち込むのが、わたしの癖。それから、このどうでもいい想像を思いついたそばから彼に話してしまうのも、わたしの癖だった。
行先のアナウンスを聞きながらぼうっと窓の外を眺めていると、景色はどんどん緑が多くなっていって、それからお墓のような石碑が沢山立ち並ぶ丘に差し掛かった。
色とりどりの献花が芝生の緑と石碑の灰色に良く映えていて、きれい。不謹慎かもしれないけれど。そういえば、お墓に供えるのは献花、ではなく墓花というのだっけ。…お墓。今まで思いもしなかったけれど、この世界にも墓があるのだ。わたしはこの世界に生きているけれど、死ぬときもこの世界にいるとは限らない。わたしがいなくなったら彼はどうするのかな、と考えてみた。少しだけ涙が出る。
目的地に降り立つと空は晴れていて、服や髪についていた湿気が一気に乾いていくような、そんなすがすがしさがあった。風はそんなに強くなくて、心地よい。澄んだ空気をいっぱいに吸い込むと、どこからか花の香りがした。ポケットに手を突っ込んでから、錆びれた案内板へと向かう。スマートフォンはない。紙の地図をこうしてみるのは久しぶりだった。
「お葬式か何かですか」
急に横から声がして、わたしはあからさまに狼狽えてしまう。わたしに声をかけてきたのは若い女の人で、敵意は何も感じられなかったけど、なんていうか露出が激しくて、目のやり場に困ってしまう。ショッキングピンクのスカートが眩しい。人と話すのは三日ぶりだった。彼と喧嘩してからのわたしは一歩も、部屋から出ていない。
「あ、これは…。いえ、そうだったんです。お葬式です」
首の後ろに手をやって、なんとか笑って見せた。これは私服で、と言おうとしてやめたのは、単に会話を早く切り上げたかったのももちろんあったけれど、それ以上に、わたしのお気に入りのワンピースが喪服に見えているのだという事実に驚いてしまったのもあった。天気の良さにつられて浮足立っていた自分が嫌になる。お気に入りのワンピースを着てお気に入りの場所に来ればきっと気持ちの整理がついて、彼とも上手くいって、それから、なんて考えていた浅はかな自分が。
「そうですか。ご愁傷様です」
わたしに声をかけてきた女の人は案内板の写真を一枚撮ったあとそう言って、駅に入っていった。辺りには香水のような残り香が漂っている。
仮にわたしが葬式帰りだからといって、それを聞いて何になるというのだろう。
今日の帰り陰気臭い女が一人で案内板見ててさ、聞いてみたらやっぱり葬式帰りだったんだよね、なんて世間話にもならないようなくだらない場つなぎの道具として、わたしを消費するつもりなのだろうか。また悪い癖が出てしまって、わたしは一層落ちこんだ。
川沿いをずっと歩いていくと、遠くに列車から見たのと同じ丘が見えてきた。そんなに駅も離れていなかったし、もしかすると歩きでも行ける距離にあるのかな、と考えてみる。それか、直通のバスが出ているとか。バスなんて、というか車なんてこの世界に来てから一度も見ていないというのに、わたしはまだ前の世界のことを引きずっているのだな、と思った。
道に迷っていることに気が付いた時には、もう自分がどちらから歩いてきたのかもわからなくなっていた。彼との思い出をひとつひとつなぞるように、確認するみたいにゆっくり歩いてきたはずなのに、一度立ち止まって振り向くともうそこには何の面影もなくて、目の前が真っ暗になるような焦燥感でいっぱいになる。手先がどんどん冷えて、感覚がなくなっていった。案内板で見た地図の記憶は思い出そうとすればするほど遠くなって、もやがかかっていく。このまま帰れなくなってしまったらどうしよう。いまは明るいからいいけれど、暗くなってきたらいよいよ危ないのではないか。ここについてからは駅前で会った女の人以外誰も見ていないし、あたりを見渡してもお店ひとつなかった。
ひとりで来ることなんてないでしょうけど、迷ったときはあの看板を目印にするといいんじゃないですか。よく目立ちます。
彼の声が突如頭の中で再生されて、もう一度前を見る。
看板。何のお店かはわからないけど昼から文字がチカチカ光っている、あの煌びやかな看板。思い返せばここに来るまでに見かけたような気もしてきて、わたしは来た道を引き返すことにした。
方向音痴にもいろいろな種類があると思っていて、それはまず地図が読めない、というものだったり、途中で方角が分からなくなってしまうというものだったりするのだけれど、わたしはその両方を持ち合わせた上で、同じ道でも進行方向によって違う道に見えてしまう、というなんともめんどくさいたちだった。誰かと一緒(友達がいないから、誰かは殆ど彼なのだけれど)にいるときはどうしても連れて行ってもらう形になってしまうし、ひとりで行動するときだってスマートフォンに連れて行ってもらっていたようなものだった。
もっともスマートフォンの地図に従っているつもりでも実際にはまったく別の方向に進んでしまっている、なんてこともざらにあったのだけれど、その時はそのまま彼に電話をかけてどうにかしてもらっていたし、今思えばわたしは彼がいないと何もできないのではないかとすら思えてくる。
つまりわたしは今、引き返したつもりで全然知らない道を歩いているような感覚に陥っていて、喧嘩中の彼に電話を掛けるスマートフォンが手元にない事に後悔さえ抱き始めていた。
せめてマジカルペンは持ってくるべきだったかもしれない。ライトブルー一色だった空はどこかからやってきた紺色とマーブル模様を描いていて、月も顔を出し始めている。このまま暗くなったら、都会では考えられない間隔で置かれている心もとない街灯たちだけを頼りに、知らない道を歩いていかなくてはならないのだ。
不安な気持ちをなんとか誤魔化しながら進んでいくと、目当ての看板が一本向こうの道に光っているのが見えた。昼でも目立つから目印に、と決めたけれど、やっぱりイルミネーションというのは夜に真価を発揮するものなのだなと思う。暗闇に浮かび上がっているみたいで綺麗だった。吸い寄せられるようにして、店の方に向かう。
「この世界にもラブホテルって、あるんだ」心の中で言ったつもりが、口に出していた。
ふんわりと浮かんでいるようにみえた光は、近くで見ると目が痛くなるほど鮮やかなネオンライトで周りを彩られた、ただの無機質なプラスチック板だった。
な にもかもが違うと思っていたこの世界も、本質はわたしが元居た世界とそう変わらないのではないか、とさえ思ってしまう。現実感。積み上げられた努力にも思想にも一点の曇りもない、ある意味一番純粋で美しい彼が、すっかりいなくなってしまったわたしの世界。
☆
スカラビア寮への滞在を終えて自分の寮へ帰ってくると、彼女はどこにもいなくなっていた。談話室にも学校にも彼女の影はなく、電話をかけて着信音が部屋のベッドの上から聞こえてきたときは思わずふ、と笑ってしまった。彼女は今度こそ僕に愛想をつかしてしまったのだろうか、という、自嘲的な笑み。一年生のころからずっと一緒にいて、数えきれないほど喧嘩もしてきたけれど、三日も顔を合わせなかったのは初めてだった。
喧嘩の内容は今思うと本当にくだらないものであったのに、なぜかいつものように許すことができず、誰もいないオクタヴィネル寮に彼女をひとり残して出かけてしまったのだ。
スカラビアでの出来事は危険なこともあったけれども有意義なものであったし、帰ってきたらすぐに彼女に謝って、それから、よく二人で行っていた景色の良く見える高台にでも連れて行ってきちんと話をするつもりだった。
彼女のスマートフォンをつけると三日前とは違う待ち受けが表示されていて、よっぽど寂しい思いをさせたのだな、と落ち込む。
ため息をついてベッドに座ろうとすると、財布とマジカルペンまで転がっているのに気が付いた。立ち上がって、クロゼットを開ける。三日前までここにかけられていた真っ黒なワンピースだけがなくなっていた。彼女の一番のお気に入りの、レースでできたワンピース。なぜ気に入っているのかを以前聞いてみたとき、「これを初めて着たときに、アズールが黒似合うねって、ほめてくれたから」と返されて、何も言えなくなってしまったのが懐かしい。
そっとクロゼットの戸を閉めて、外套を羽織った。誰よりも愛しい方向音痴の彼女を迎えに行かなくてはいけない。
駅に着いて時刻を確認すると、ちょうど十六時を回ったところだった。列車が来るまでホームのベンチに腰掛ける。待合所の壁にもたれるようにして、若い女が電話をしているのが目に入った。声が大きくて、聞きたくなくても内容が入ってきてしまう。
「さっき全身真っ黒の女の人がいてね、私てっきり葬式かなにかあったのかと思って聞いちゃったんだけど」
見ず知らずの人に話しかけるなんてよっぽど暇なんだな、と思うと同時に、彼女とは正反対だな、と思った。
「それでね」列車が来た。久しぶりに浴びた風圧に、帽子が飛びそうになる。その場の空気が循環して、声のする方から女もののコロンの匂いが漂ってきた。行先をもう一度確認して、列車に乗り込む。
「後ろから見たらスカートの形がすごくかわいくて、あ、これは喪服なんかじゃないなって気が付いたの。よく考えてみたら、なんだか機嫌よさそうだったし」
ドアが閉まった。まがまがしいスカートの色が、いつまでも目の奥に残っていた。
列車の人はまばらだったものの近くの席は空いておらず、車両を移動する。相席すれば座れただろうが、気分じゃなかった。一両前のドアを開けると一つだけこちらを向いた席があったので、景色が流れる方向に合わせて、座る。
いつもは彼女と話しているから、こうして窓から外を眺めるのは新鮮だった。次々に変わっていく景色をぼうっと見ていると、彼女のことばかりが思い出される。
「広く浅くってさ、苦手なんだよね」
窓側に座る彼女が言う。通路側だと乗り物酔いするらしく、何かに乗るときはいつも彼女が窓側に座るのが、何となく二人の中で決まっていた。
「何の話ですか」
彼女の話はいつも唐突で、大体、主語がない。思いついたものを思いついたそばから、好きな時に好きなだけ、話しかけてくる。こういうタイプの人間と仲良くするのは無理だろうなと思っていたけれども案外楽しく、適当に聞いているぶんには退屈もしなかった。
それに、彼女がこういう風に話す相手が自分だけなのも、悪くない。
「なんでも」彼女は前の座席の背もたれにあったパンフレットの一つを手に取り、「まあ主に、人間関係だよ」興味のあるものではなかったのか、すぐ閉じて戻した。
「何かあったんですか」
「特に、ないけど。こう、広く付き合っていくとさ」
それは何かあったときの顔だろう、と思った途端こちらに顔を向けられて、僕は焦って相槌を打つ。
「わたしを知っているひとも増えていくでしょ。友達の友達、とかで。そうしたら、その、わたしを知っているような知らないような人たちの中でわたしの話になることもあって」
「はい」
「そういうのを想像しただけで、嫌になるの。めんどくさい。実際には話題になるような事件も何も起こしていないし友達もいないから、ただの自意識過剰なんだけれど」
あなたは僕と常に一緒にいるだけで話題になっていますよ、とは言わなかった。彼女がしているのは現実の話ではなくて、あくまで想像の話だ。
「人脈が広いというのは、そう悪いことばかりでもありませんよ」これは本当だ。
「商売をしていく上ではもちろん、いいことだと思う」
だから、と彼女は続ける。
「広く浅く、はアズールに任せて、わたしは狭く深く、のプロフェッショナルにでもなるよ」
「狭く深くのプロフェッショナル…」とはなんですか。と続けたい気持ちを押さえて、いいですね、と流しておく。
「また変なこと言ってるなあ、って思ってるでしょう」
「ええ」
「でもいいの。わたし、アズールにこういう話をするのが、好きだから」
「そうですか」
あの日は確か、僕のオーバーブロットに関する騒動(僕が一方的に謝るだけの喧嘩は初めてだった。彼女に泣かれては謝ってを繰り返し、完全に収まるまでに二日を要した)がひと段落して、お詫びの意味も込めて久しぶりの遠出をしたのだった。彼女が知らないところであんなことになって心配をかけた上、その日の夜モストロ・ラウンジに出勤した彼女にすべての皺寄せがいったのだから怒られるのも当然である。行きだったのか帰りだったのかは定かではないが、あの日の彼女はいつにもまして考え込んでいる様子だった。ちゃんと理由を聞くべきだったのかもしれないな、と反省していると、駅に着いた。
外に出ると、空はすっかり夜の色に染まっていた。冬特有の透明な空気に鼻の奥が冷たくなる。遠くに輝く看板を確認して、歩き出した。彼女は、まだいるだろうか。