調和する冬



 
 久しぶりにひとりで歩く街はすっかり冬の装いになっていて、部屋から見ていた景色とはずいぶん印象が異なっていた。
 イルミネーションで装飾された背の高い木や、派手な色で縁取られた文字たち。目に入ってくるものすべてが眩しくて、気を抜くと迷ってしまいそうだった。この街に住んでもう何年もたつというのに、わたしはいまだに行きつけのお店の場所さえ覚えているか怪しい。今日は彼に持たされた地図があるから迷わずに買い物出来ているけれど、やっぱり次からはついてきてもらおうと思う。

 最後の用事を済ませて雑貨屋さんを出ると、人ごみの中からよく知る香りが漂ってきて、思わずそちらへ振り向いてしまった。
――彼と同じ香水。街中で同じ香水をつけているひとなんか滅多に出会うことのない、珍しいものだったから、どんなひとがつけているのか気になってついて行きそうになってしまう。
 けれどそこで彼の「知らない人について行ってはいけません」という子供にでも言い聞かせるみたいな忠告が過って、わたしは反対方向へと向きかけていた足を止めた。

 彼の香りを少し嗅いだだけで昨日までのことが鮮明に蘇ってきて、顔に熱が集まるのを感じる。彼の、普通の人よりもすこし低い体温だとか、わたしだけが聞ける色気を含んだ声だとか、キスをするときに腰に回される手の感じだとか、……そういうのを人前で思い出してしまったときって、どんなふうにごまかしていいものかわからない。
 ショウウインドウに映る自分の顔には、まるで彼と一緒に居るときみたいに恋愛の色が滲んでいて、どこに居てもわたしは彼の恋人なのだな、とよくわからないことを想ったりした。


 彼と付き合い始めたのは高校一年生の冬で、お互い初めての恋人だった。まさか卒業してからもこんなに一緒に居られるとは思っていなかったし(こういうことを言うとあなたは本当に夢がないですね、と彼に叱られてしまいそうだけれど)、彼とわたしは考え方から価値観まで違うことだらけで、いまだによく喧嘩もする。
 それでも一緒に居られるのは結局、どこか揺るぎない信頼や、うまく言えないけれど、根本にある譲れないところ、みたいなのの基準が合っているからだと思う。彼のここがいいなあ、と感じるところは、最近だとたとえば、スマートフォンの話。

 彼のスマートフォンは仕事関係の連絡で鳴ることが多くて、メッセージもあんまり、ひとに見せていいものではないことが多い。わたしが見たって何もわからないのだけれど、多分この間までは、テーブルに置くときにパタンって伏せて置くのが、彼の癖になっていた。

「すごく嫌ってわけじゃないんだけれど、なんとなくもやもやすることって、あるじゃない。そういう話なんだけど」彼が相槌を打つのを待ってから、「スマホを伏せて置かれるのって、なんか寂しいんだよね」と続ける。

 絶対に直してほしいとか、死ぬほどいやだとかは全然考えていなかったけれど、その時のわたしはふと言ってみる気になって、彼に話しかけた。ほどなくして、「そうですか」と短い返事がくる。

「別に内容が気になるとかではないの。覗き込まれたりするのは、わたしだっていやだし。だから、見る気はないんだけれど、わたしは伏せないことが多いからちょっと、こう、突き放されてる感じがするというか。たまたま裏返し、じゃなくて、わざとされてるのが分かるって時ね」

 すごく距離が遠のくのではなくて、ちょっとだけ、トンって押されて、目の前に30センチくらいの空白ができる感覚。伝わらないだろうし訂正しよう、と思って口を開いたとき、
「確かに、あなたがもしスマホを伏せて置いたら、僕も少し寂しいかもしれないですね」
 彼がテーブルの上のスマートフォンを静かにひっくり返して、言う。

「そうでしょ。でも、すごく直してほしいってわけじゃない。わたしが表で置いているのも、ただの癖だから」
「わかってますよ。でも」彼がわたしを見て微笑む。「あなたの前では、こうすることにします」
 彼にわかってますよ、と言われてしまうと、わたしはもう何も言えなくなる。わたしの事をわたしより理解している彼はいつもこうやって、言ったことに対してまずは共感して、もし間違っていても、それとなく正してくれる。

 たまに言い合いになったときだって、適当にはぐらかしたりしないで絶対に納得するまで話し合うのがわたしたちの中では決まりみたいになっていた。この後彼はスマホを裏返しで置かなくなって、でもそれが全然嫌味っぽくもなく、ずっと慣れ親しんできた動作みたく見えるものだから、わたしは本当に感心してしまったし、こういうところが好きだなあ、と思ったのだ。
 直してくれるから好き、とかそういうのじゃなくて、こういう些細などうでもいいことでも蔑ろにせず、すぐに話して解決してしまえるこの関係性と彼のやさしさが、愛しい。

 メインストリートを出て家へと続く脇道へ逸れていくと、さきほどまでは感じることのなかった冬の空気が頬を掠めて、わたしはマフラーをぐいと上に引っ張った。鼻の奥まで冷え切った空気が入り込んで、痛い。荷物を抱きしめながら歩き進めていくと、ひとの声や物音がないまぜになった喧騒がどんどん遠ざかっていって、かわりに踏切の特徴的な音が響いてくる。元の世界ではカンカン、といった高めな音だったような気がするけれど、もう正確には思い出せない。日本とは違う、外国風の街並みにも仕様の違う乗り物にもすっかり慣れてしまっていて、わたしの記憶のほとんどは、彼とともにあるこの世界で塗り替えられているのだな、と思った。

 ちょうど電車が通過する時間だったらしく、踏切の前には数人の人々が立ち止まっているところだった。わたしもそれに倣って、少し離れた位置で去っていく電車を眺める。
 いつかのウィンターホリデー中に喧嘩して、電車で随分遠くまで出かけたことがあった。見知らぬ土地で道に迷った恐ろしい記憶と彼が迎えに来てくれた暖かな記憶がよぎって、気がついたら口角があがっている。マフラーで顔の半分が隠れているから誰にも見えてはいないのだけれど、なんだか少し恥ずかしい。

 頭の中で思い描いた彼は今より若い感じがして、寮服がよく似合っていた。わたしが着ていたのとは違う、寮長仕様のシャツ。よく借りた外套。寮のモチーフが入った長いストール。卒業してからは寮服姿も見られなくなってしまっているから、なんだか本当に懐かしくなる。帰ったらクロゼットから引っ張り出して、着てもらおうかしら。あの、学生用とは思えない瀟洒なタキシードは、今の彼が着たらどんなに素敵だろう。彼は出会ったときからもうずっと素敵だけれど、きっとこれからも、素敵を更新していくのだろうな、と思った。早く帰りたい気持ちがどんどんあふれてくる。

 しばらくそうしていると、空から少しずつ白いふわふわしたものが降りてきて、数粒、手をのばして受け止めてみた。手のひらに留まる雪は熱で瞬く間に溶けてしまって、そうしている間にまた、新しい雪がわたしの手に落ちてくる。落ちる、消える、落ちるを何度か繰り返していると、踏切が軽快なメロディとともに上がっていった。


 ただいま、とドアを開けるとすぐに、リビングから彼が顔をだした。

「おかえりなさい。遅かったですね。変な人について行ったり、道に迷ったりしませんでしたか」

 わたしの手から買い物袋をそっと取り上げながら彼が言う。口調は相変わらず幼い子供に問いかけるみたいな優しさを含んでいるけれど、不思議とちっとも嫌な感じがしない。彼のわたしに対する心配性にはすっかり慣れてしまっていた。

「大丈夫。もう勝手に電車で居なくなったりしないし、紙の地図で迷いもしない」
「そんなこともありましたね」
「さっき踏切を待っているときに、思い出したの。寮服のアズール、見たくなっちゃった」

 コートを脱いでソファに腰掛ける。外に長くいたからか寒さに慣れてしまっていたようで、リビングの暖かさに皮膚の表面がぞわぞわと違和感を訴えてくる。寒いな、と思ったときにはすでに膝に毛布が掛けられていて、思わず彼のほうを見てしまった。わたしの横に座る彼はスマートフォンを確認して、テーブルに置く。画面にはわたしとアズール、それから現在の時刻が映し出されている。

「今日の服、良いですね」
 彼からの唐突な誉め言葉に動揺しそうになるのを抑えて、
「そうかな、嬉しい。やっぱり黒って、落ち着くんだよね」と返す。

 ニットの黒いワンピースは今年になってから買ったもので、自分でも気に入っていた。そういえば、彼の前で着るのは初めてかもしれない。
「あ、今日ね、街でアズールと同じ香水をつけた人がいて」
 ついて行きそうになっちゃった、と言いかけて、口を噤む。そんなことを言ったらまた呆れたように忠告されるに決まっている。

「ついていったんですか」彼が訝しげにわたしを見た。
「ついていってないから、ここに居るの。でも色々、……思い出しちゃって」
 毛布を掛け直すふりをして、彼から顔をそらす。あんなに寒かったはずなのにもうすっかり温まってしまっていて、暑いくらいだった。

「……色々、ですか」
 ふ、と彼が笑うのが分かった。
 直後、窓の向こうを見つめるわたしの頬に冷たい指が触れる。そのまま両手で顔の向きをかえられて、彼と目が合った。距離が近い。
「アズール、待って、」「待ちません」

 もう一度言いかけた待って、は発されることなく彼に飲み込まれてしまう。冷たい唇が触れて、離れる。指が絡んで、彼の瞳の中のわたしがどんどん揺らいでいって、目を瞑ったら、世界の音の全部が彼で満たされた。



 布団からはみ出た足が冬の朝の鋭い空気に触れて、はっと眼が覚めた。意識が浮上する間、一晩中の寒さが急に押し寄せたかのように体が震えて、隣の彼にそっと近づく。

 少しして、眠ったままの彼がわたしに布団をかけ直して、それから頭を撫でてくれた。起きたのかと思ったけれど、目は瞑ったままだ。長い睫毛をぼんやり眺めてひとつ、しあわせなため息をつく。嫌なことがあった時だとか、呆れた時、それから疲れきった時だとか、・・・・・・そういう時にだけ、ため息は出るものだと思っていたけれど、そんなことも無いのかもしれない。

 彼の無意識のなかには確かにわたしがいて、一緒に住んでいるのだからそれは当たり前だといわれてしまうかもしれないけれど、それでも、実感する度に涙が出るほどしあわせな気持ちになってしまう。
 この世界のひとではないわたし。この世界のものでいっぱいのアズール。本当はずっと一緒にいられる保証なんてないけれど、……いつか突然、全部が夢だったなんてことも、あるかもしれないけれど、それでもこの朝の、この気持ちだけは本物だったと信じたい。

 こういうことをたまに彼にも言ってみるのだけれど、必ずと言っていいほど笑われてしまう。毎回毎回、起こってもいない事でよくそんなに悲しめますね、だとか、帰さないって言ってるじゃないですか、だとか。本当はわたしだって黙って悲しくなったり感傷的になったりしてみたいのだけれど、何でも彼に話してしまうのは、最早癖と言ってもいい。
 彼がわたしの話を聞いている時の顔が好きで、それは楽しそうだったり面白がっていたり、たまに心底つまらなそうにしていたりもするのだけれど、全部わたしがさせている表情だと思うと、たまらなくなる。高校で彼に出会ってから今までずっと、わたしは彼に恋をしているのだ。

「先に起きるの、珍しいですね」

 わたしももう少し寝ていようかしら、と目を閉じていたにも関わらず、なぜか気づかれている。もしかすると彼はわたしのことなら何でも分かるのではなかろうか、なんて思って、ふふと笑ってしまった。

「・・・なんですか」

 メガネをしていない彼は少し目付きが悪い。寝起きなのと相まって、ものすごく機嫌が悪そうに見える。けれど声色はこちらが照れてしまう程優しくて、なんだかアンバランスで可笑しいな、とわたしはまた小さく笑う。

「起きてるのなんで気づいたんだろう、って思って」
「何となく、です」

 何となく。なんて彼に似合わない言葉なんだろう。顔に出ていたらしく、意外ですか、と目をそらされた。意外です、と返しておく。彼が微笑んだ。

「今日、一緒にどこかでかけましょうか」
「うん。久しぶりに電車とか、乗る?」
「学生の頃を思い出しますね」

 そうだね、と同意しかけたところで、「あなたはどこへいっても道に迷っていた気がします」と彼が楽しそうに言う。多分、いや確実に馬鹿にされているのだけれど、何も言い返せない。わたしが迷っているのを助けてくれたのはいつだって彼で、事実、わたしは稀代の方向音痴、だからだ。

「・・・・・・迷ってもだいたい、アズールが迎えに来てくれるから」
 だからいいの、と返せば、
「何がいいんですか。改善する努力をしてください」なんて呆れられる。
「嫌だよ。地図を読むのは、アズールに任せる。わたしは話題提供でも担当するから」
 適材適所、の四文字が頭に浮かんだけれど、言わなかった。この世界の言葉ではない。

「いつも僕が、一緒にいられるとは限らないでしょう」
「だいたい、一緒にいるじゃない」
 ため息をつかれたけれど、聞かなかったことにして彼の頬に触れる。一瞬驚いた顔をされたけれど、気にしない。そのまま触れるだけのキスをして彼の目を見る。

「これからも、一緒にいてよ」
「プロポーズですか?」

 茶化すような口調の彼はなんだか高校生戻ったみたいに幼く見える。出会った時の彼を思い出して、暖かい気持ちで胸が満たされた。昨日から、昔を思い出してばかりだ。

「違うよ。わたしプロポーズは、するよりされたい派だから」

 待ってるね、と続ければキスが返ってきて、そのまま思い切り抱きしめられた。
 もしわたしがどこへ行ってたって、彼は見つけてくれるのだろうな、とぼんやり思う。これからずっと、何度だって、こんな煌めいた朝が来る。
 アズールはきっと、わたしの最初で最後のひと。





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