淋しい、寂しい、傍にいて
「おや!」と旅人は言いました、「私はこの木を知っている。」――そうして産地にいたころの彼女の名を呼びました。
「失礼ですが」と、ちょうどそのとき何かの草の茎を、一心にメスの刃で切りこまざいていた園長が、例の研究室のなかから呼びかけました、「あなたは思い違いをしておいでです。今あなたがおっしゃったような木なんか、この世の中にありはしません。それはブラジル産で、アッタレーア・プリンケプスというのです。」
「はあ、なるほど」ブラジル人は答えました、「植物学者がこれをアッタレーアと呼んでいることは、いかにもおっしゃるとおりでしょう。しかしまたこの木には、産地でついている本当の名があるのですよ。」
「学問上ついている名が本当の名なのです」と植物学者は無愛想に言い捨てて、研究室のガラス戸をぴしゃりとしめてしまいました。いったん科学者が物を言いかけたら、黙って拝聴するものだということさえ心得ていない人間に、仕事の邪魔をされたくなかったからでありました。
 けれどブラジル人はいつまでもそこにたたずんで、その木をながめておりました。そしてだんだん悲しい気持に落ちてゆきました。旅人は故郷のことを思い出したのです。あの太陽や青空を、珍しい鳥や獣のすんでいる豊かな森を、あの砂漠さばくを、あの妙たえなる南国の夜を、思い出したのです。それからまた、自分は世界じゅうくまなくへめぐって見たものの、生まれ故郷にいたときのほかは、どこにいても幸福な気持になれなかったことも、思い出されたのでありました。旅人はさながらしゅろの木と別れを惜しむかのように、片手でそっと木の膚にさわって見てから、植物園を出て行きました。そしてあくる日はもう、故郷へ向けて出帆したのでありました。
 が、しゅろの木は置いてきぼりです。
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