路地裏ラバーズ



 シバの女王からカスピエルとの交際を許可されて、初めて外で会う事となったとある日の事。ラウラは約束の時間よりも早く、待ち合わせ場所の王都にある大きな噴水の前に到着し、カスピエルが来るのを待ち焦がれていた。
 早く到着したという事は、傍から見れば待ちぼうけを食らっているようにも見える。この王都エルプシャフトは大国とはいえど、どの地域も治安が良いというわけではない。日中に一人で佇んでいる少女がいれば、良からぬことを考えて声を掛ける輩も存在するのだ。

「君、一人?」
「いえ、人と会う約束をしております」

 突然見知らぬ男に馴れ馴れしく話し掛けられても、ラウラは動揺せずきっぱりと告げた。けれども、相手の男は引き下がる様子はなく、寧ろラウラの顔をまじまじと覗き込んだ。

「『人と会う約束』って言っても、君もう三十分以上待ってるよ」
「えっ!?」

 流石に待ち合わせの時間より三十分以上も前に来るほど時間配分を間違えてはいない。ラウラは深く考えたくはなかったが、現在の時刻を確認しなくても分かった。相手の言う通り、自分は待ちぼうけを食らっている。要するに、カスピエルは遅刻しているのだ。まさか約束を破るとは思えないが、仮にカスピエルが来なかったとしても、ラウラにとって目の前の男の誘いに乗る理由は何もない。

「女の子を三十分以上待たせるなんて有り得ないって。そんな奴放っといて、俺と一緒に行こう?」
「あ、あの、どちらにしても、約束を破るわけにはいきません」
「いいから、ほら」

 男はラウラの肩を抱いて、強引に連れて行こうとした――が、ラウラとて腐っても女王の付き人である。メギドに立ち向かう事は出来なくても、兵士として訓練されていない一般人の男ひとりくらいであれば、護身術でどうにでも出来るのだ。ラウラは男の手首を掴めば捻り上げて、自身の身体から男を引き剥がした。

「痛ぇっ!!」
「再三申し上げておりますが、約束がありますので」
「肝心の相手にすっぽかされてんのに約束もクソもあるかよ、この暴力女!」

 その暴言に、ラウラは何も言えなくなってしまった。見知らぬ一般人に歯向かう理由もなく、そもそも何も話すことはないのだが、話すこともない相手に一方的に罵倒されるというのもとんだ災難であった。無理矢理連れていかれそうになって、相手に抵抗するだけなら正当防衛で済むが、相手の挑発に釣られて下手な事を言ってしまっては、万が一己の身分が知られた時、王宮の評判に傷が付いてしまう。それは何としても避けたかった。

 自分ひとりがちょっと我慢することで、誰も傷付かないのであればそれでいい。ラウラはそうして生きてきたが、今この瞬間は、何故だか胸が苦しくなった。待ち合わせの相手にすっぽかされたこと。約束を破られたこと。暴力女だと言われたこと。それくらい大した問題でもないほど、酷い目に遭った経験も、酷い言葉を浴びせられた経験もいくらでもあって、この程度、何も感じないはずだった。

「おい、そこの兄ちゃん」

 理不尽な目に遭うことなど慣れていて、何を言われても、何も感じなかったはずだった。

「俺の女に絡まんといてくれる?」

 ラウラと男の間に颯爽と現れて、口角を上げて男を見据えたカスピエルは、ラウラの肩を抱いてそう言ってのけた。その瞬間、ラウラはどうしてこんなに胸が苦しいのかを理解した。
 カスピエルに嫌われてしまったと思うだけで、胸が苦しくて、悲しくて仕方がないのだ。





「俺がちょっと遅れたばっかりに、あんな男に絡まれるなんて、ラウラちゃんも災難やね。ま、その分今日は俺がラウラちゃんに笑顔で帰って貰えるよう、楽しませたるからな」

 カスピエルは調子の良いことを言いながら、ラウラの手をしっかりと握って人混みの中を闊歩した。随分と上機嫌なのだが、それもそのはず、カスピエルはラウラと男の一部始終をしっかりと見ており、己が最高のタイミングで姿を見せるために様子を窺っていたのだった。

 本当は、男がラウラを強引に連れて行こうとした段階で助けに行きたかったのだが、己が助けに入る前に彼女があっさりと男を捻り上げてしまったものだから、どうにもタイミングを失ってしまった――そのはずが、カスピエルは男がラウラに暴言を吐いた瞬間、彼女の様子が変わったことを見逃さなかった。何も言い返さず、ただ黙って耐えているように見えたのだ。それが気のせいかどうかはさておき、このタイミングを逃すわけにはいかない。男がラウラに飽きて去るよりも先に行動に移し、彼女は己のものであるという事を主張しなければ。男がどう思うかではなく、『ラウラにそう思って貰う』ことが重要なのだ。

 案の定、ラウラはまんまとカスピエルの企みに嵌った。ラウラと男の間に割って入り、俺の女に手を出すなと言っただけで、男は何やら捨て台詞を吐いて去っていった。揉めそうならラウラを連れて逃避行とばかりにとっとと逃げよう、それもそれで彼女にとってはスリルがあっていいだろうと考えていたが、男がさっさと退散してくれた事であっさりと片付いてしまった。

 振り返り、ラウラの顔を見据えれば、彼女は今にも泣きそうな顔で己を見上げていた。そして目が合った瞬間、徐々に頬を紅潮させて精一杯笑みを作ってみせるものだから、カスピエルは内心笑いが止まらなかった。酒の飲み過ぎで寝坊したせいで遅刻したのだが、まさかそれが功を制するとは。最早何も策略せずとも、ちょっと優しくしただけで勝手に己に惚れてくれるのだから、こんなに楽な話はない。こうした積み重ねを続けていけば、いずれは王宮への潜入も容易になるだろう。カスピエルはそう淡い期待を抱いていた。

「そういやどこに行って何するとか、全然話できてへんな。ラウラちゃんはどこ行きたいとかある? なければ俺が決めてもええけど」
「ええと……」
「そもそもラウラちゃんが嫌な思いしたのは、俺が遅刻したせいやしな。今日はなんでも言う事聞いたる」

 カスピエルは愛想の良い微笑を浮かべてそう言ってみせたものの、ラウラは困惑したように黙り込んでしまった。受け身な女のほうが自分の思うように扱えるから丁度良い、ぐらいにカスピエルは思ったが、一応表面上は心配する素振りを見せようと、軽く腰を屈めてラウラに視線を合わせて問い掛けた。

「考え込まんでもええよ、思い付かんなら俺に任しとき」
「すみません……私、普通の女性はどんなことを楽しいと思うのか、よく分からなくて……どう答えたらカスピエルさんにご満足頂けるのか、分からないのです」

 オッドアイの双眸から視線を逸らして不安そうにそう呟くラウラに、カスピエルは内心ほくそ笑んだ。こういった不安定な女ほど操りやすいことはない。王宮にまんまと侵入出来るのも、思っていたより早いかもしれない。そう考えただけでも心が躍った。

「ラウラちゃん、いつから王宮のメイドさんやっとるんか知らんけど、あんま外の世界のこと知らないんとちゃう?」
「無知ではないと思いますが……いいえ、きっと知らないことばかりです」
「知らんことが多くても、別に悪いことやないで。これからたくさん知っていけばええだけの話やろ?」

 ラウラの瞳が己へと向いた瞬間、カスピエルはすかさず顔を更に近付けて囁いた。

「俺が色々教えたる。楽しいことも、ラウラちゃんの知らないことも、全部な」

 何もおかしい事は言っていないのだが、ラウラは何を想像したのか一気に顔を紅潮させた。その様子を見て、偶にはこんなにも容易すぎる女遊びも悪くないと気を良くするカスピエルであった。





 流行りのスイーツ、今話題の新しく出来たブティックなど、若い女が興味を持ちそうな所へラウラを連れ回しつつ、カスピエルは事あるごとに様子を窺った。専ら酒とギャンブルに明け暮れるカスピエルにとって、これらの場所は己にとってはさして興味のあるものではなく、あくまで数多くいる女たちから得た情報である。果たしてラウラにとっても同様に楽しいと感じるものであるのか、確信はなかった。

「ラウラちゃん、退屈やない?」
「退屈だなんて、どうしてそんな事を仰るんですか?」

 というのも、ラウラはカスピエルを見て頬を赤らめたりうっとりとした表情を向けることはあっても、カスピエルが連れ回したあらゆる店、衣類、食べ物、宝飾品を見ても、他の女のように瞳を輝かせることがまるでないのだ。これでは、己が強引に彼女を振り回しているように見えて、カスピエルは顔には出さないものの非常に癪であった。

「カスピエルさんと一緒なら、どこに行っても、何をしても楽しいです」

 ラウラの返答に、カスピエルはこれまでの店巡りは徒労に終わったのかと脱力しかけた。ラウラは己のことしか見えておらず、己がなんとかラウラを楽しませようとしている努力など察しようともしていないのだ。そう思うと、カスピエルはほんの少しだけ苛立ちを覚えた。

「どこに行っても、何をしても楽しいって、ほんまに?」
「はい」
「俺は嘘を吐く女は嫌いやけど」
「カスピエルさんに嘘なんて吐きません」

 その言葉に、カスピエルは言質を取ったとばかりに双眸を光らせて、ラウラの手をきつく掴んだ。

「その言葉、撤回したらあかんで?」



 ラウラはカスピエルの様子が変わったことを瞬時に把握していた。恐らく自分が彼の気に障ることを言ってしまったのか。もしくは、『退屈なのか』なんてカスピエルに訊かれるということは、己は退屈そうな顔をしていたのだろう。そう思うと、ラウラは泣きそうになってしまった。カスピエルに嫌われたくない恐怖よりも、己がつまらない女だというせいで、彼に不快な思いをさせてしまったことが悔しかったのだ。

 己の手を離さないカスピエルの手は、いつもよりも強引で、初めて会った時のことを彷彿とさせた。あの時のカスピエルは、ラウラの言い分すら一切聞かずに、敵だと決めつけて鎖で拘束し、本当に息の根を止めようとしていた。命を落とす前に無事ウェパルに助けられ、紆余曲折を経て男女の関係となった今だからこそ呑気に思えることなのだが、正直ラウラはあの時、殺される恐怖と同時に、カスピエルに対して一種の憧憬の念を抱いていた。この美しい男になら殺されても構わないと言っても過言ではないくらいだった。

 尤も、立場上そんなことは口が裂けても言えない。己はシバの女王に仕える人間である以上、もっと毅然としていなくてはならないのだ。そう心の中で言い聞かせて、ふと我に返ると、先程まで居た繁華街とは真逆に薄暗い路地を進んでいた。

「あの、カスピエルさん。どちらに……」
「俺とならどこに行っても、何をしても楽しいって言ったやろ?」
「いえ、決して楽しくないというわけではなく……」

 周りを見回せば、如何わしい店があちらこちらに並んでおり、ラウラは話に聞くだけで足を踏み入れたことのない世界に来てしまったことに、不安を覚えた。カスピエルにも何か考えがあるのだろうし、決して不快なわけではない。けれど、こんな場所に来てしまったことがシバの女王に知られてしまったらと思うと、どうしていいか分からず本当に涙が零れそうになった。

「ラウラちゃん、どうしたん? やっぱり楽しくないんやろ」

 ラウラの変化を見逃さず、すかさず訊ねるカスピエルに、ラウラは精一杯の勇気を振り絞って答えた。

「楽しくないというより、怖いです」
「怖い?」
「こういった場所に来たのは初めてなので……ですが、カスピエルさんと一緒なら大丈夫です」

 明らかに涙を浮かべているにも関わらず、気丈に振る舞うラウラを見て、カスピエルは漸く腹の虫がおさまりつつあった。まだ暗くもない時間帯の飲み屋街など危険ですらないのだが、温室育ちの女にとっては、酒瓶が転がる道を浮浪者がうろつき、如何わしい店が連なる世界など、確かに恐れを感じるだろう。退屈な店を巡るより余程『外の世界を知る』のに良い勉強になったではないかと少しばかり愉快に感じるとともに、それでも己を信じる彼女の純朴さに、悪い気はしなかった。馬鹿な女であることに変わりはないのだが。

「怖がらせてごめんな、ラウラちゃん。こういう場所に来たのはな、ちゃんと理由があるんやで」

 カスピエルはそう言うと、強引に更に細い路地裏へとラウラを連れて行った。ラウラはもう恐怖心はなかった。カスピエルの機嫌が直ったように見えたからだ。どことなくぴりぴりとしていた雰囲気が、少し和らいだように感じたのだ。

 大人がふたり辛うじて通れるくらいの小さな裏道へとラウラを連れ込み、カスピエルは周囲を入念に見回して誰もいないのを確認すれば、拘束するように掴んでいた彼女の手を放した。ラウラは微かに痛む己の手が解放されたことに困惑しつつも、無垢な瞳をカスピエルに向けた。この後、何をされるかなどまるで考えることもなく。

 首筋にカスピエルの指が触れ、ラウラは思わずびくりと肩を震わせる。次の瞬間、既にラウラはカスピエルに唇を奪われていて、逃がさないとばかりに背中に手を回され、身動きが取れずにされるがままでいた。舐るような口付けに、息が苦しくて僅かに口を開けると、熱を帯びた粘膜が己の舌へと触れ、絡み合い、何とも形容し難い感覚にラウラは意識が遠退きそうになった。カスピエルが唇を離した時には、ラウラの瞳にはうっすらと涙を浮かび、頬を紅潮させながら恍惚の表情を見せていた。

「こういう事は、明るい場所やと出来ひんやろ?」

 何も答えられずにいるラウラを見て、カスピエルは満足気に微笑んだ。己が他の女を口説いているのを見た時のラウラは物凄い剣幕だったとウェパルから聞いていたが、一体この従順な女からそんな感情がどこから出てくるのか疑問であった。こうして少し優しくしただけで、いとも簡単に落ちてしまうなど、あまりにも容易すぎて裏でもあるのかと勘繰ってしまう程であった。

「今日はここまでにしとこ、な? これ以上のことしたら、さすがに女王様にバレて殺されてまうわ」

 冗談めかしてそんな事をのたまうカスピエルに、ラウラは徐々に夢心地な状態から現実へと戻りつつあるのか、漸く口を開いた。

「これ以上のこと……私、もっと知りたいです」
「焦ったらあかんよ、俺とラウラちゃんは長い付き合いになるんやから」

 尤も、己がラウラに利用価値を見出せなくなった時までの付き合いではあるが――と心の中で前置きをしつつ、カスピエルはラウラを強く抱き締め、狡猾な笑みを浮かべたのだった。

2019/05/08


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