フィニス

鴎暦841年 冷の月 3日

 己たちアギト候補生は人間の矜持を示し、白虎への降伏という形を以て、紛れもなく戦争を終結させた。白虎軍は決して朱雀の民間人に手を掛ける事はなく、速やかに和平条約が結ばれた。
 朱雀という国の維持よりも民衆の命を優先した事に悔いはない。朱雀クリスタルの意思である軍神バハムートをも打ち破り、ルシ・セツナを昇華に到らせた以上、こうするしかなく、これが今出来る最善の策であったと、皆そう思うしかなかった。今後の事は朱雀政府が白虎との話し合いで決まるだろう。アギトを目指す者として、出来る事はすべて成し遂げた。国より民の命を救った事は絶対に間違っていない――候補生たちは、誰もがそう信じ、魔導院への帰路を辿った。

 戦争は終わり、これからは誰も血を流す事のない平和が訪れる筈だった。
 そんな中、何の前触れもなく『フィニス』は訪れた。
 あまりにも突然の出来事で、今起こっている事が現実だと認識する前に命を落とした者も少なくない。
 それ程までに、恐らくこのオリエンスに住まう全ての人間にとって理解不能な事が起こったのだ。

 突如として赤く染まった空。
 無限に現れ続ける異形の怪物。
 後に『ルルサスの戦士』と呼ばれるそれは、巨大な剣を振り翳し、あらゆる全ての生物をこの世から消滅させるかの如く、無差別な殺戮を世界中で繰り広げ始めた。最早朱雀や白虎という国同士の争いなど無関係に、瞬く間にこの世界から命が消えて行った。

 白虎軍はシド・オールスタイン元帥の指揮下、全軍を挙げて抵抗を続けていたが、間もなく壊滅――それでもなお、アギト候補生たちは人々を救うべく戦いを続けていた。



「どうして……なんでこんな事に……」

 ユリヤは恐怖と混乱でまともに思考も回らない状態で、魔導院へ進軍するルルサスの戦士に向かって、がむしゃらに遠方から魔法攻撃を繰り返した。
 必ずや0組が活路を見い出してくれる筈だ。秘匿大軍神の召喚だって阻止する事が出来たのだ。そう心の中で言い聞かせはしても、今ユリヤたちを取り巻く現状は、最早魔法の力を以てしても打開出来ない程、絶望に満ち溢れていた。

「皆、魔力は切れてない!?」
「怪我人は!?」
「回復は――」

 威力のある魔法を放てば、あの異形の怪物の動きを止め、皆で力を合わせれば葬る事は可能だ。けれど、魔力には限りがある。それに何度倒せども無限に湧いて出る怪物に、皆の心は擦り切れていた。
 何故こんな事になったのか、どうすればこの地獄から抜け出す事が出来るのか。それが分からなくても、ここで諦めたら間違いなく世界は滅亡する。皆、本能的にそう理解していた。
 逃げた先も地獄であり、世界が滅亡するのをただ黙って待つしかないのなら、一縷の望みに賭けて立ち向かうしかなかった。例え、打開策が見つからなかったとしても。

 そんな、何も考えられずただ疲弊するばかりのユリヤの元に、思いも寄らない人物が駆け付けた。

「見つけたぞ!」
「――ユリヤ! 良かった、無事で……!」

 紅のマントを靡かせて現れたのは、マキナとレムであった。そういえば、初めて出会った時は、逆に己が戦場に駆け付けた時にこのふたりがいたのだと、ユリヤは瞬時に思い出した。
 ただ、あの時は自分ひとりではなく、己の側に誰かがいた気がする。たった四ヶ月前の出来事だというのに、記憶に靄が掛かっていて全く思い出せない。
 それはきっと、その相手が命を落としてしまったからなのだろう。墓標に眠る、かつて友達だった候補生の少女――全く覚えていないのに、ユリヤは無性に泣きたくなって、目の前にマキナとレムが来た瞬間、双眸から涙を溢れさせた。

「……ごめん、私ひとりが辛いわけじゃないのに、皆、もっと大変なのに……」
「いいよ、ユリヤ。我慢しないで」

 レムは咄嗟にユリヤの身体を抱き締めて、背中を優しく撫でた。こういう時だからこそ、互いに支えなければならない。いつ命を落とすか分からない状況だからこそ、後悔のないように。ユリヤはレムの優しさに漸く気持ちが落ち着いて、少しずつ考える力が戻って来ていた。

「……ありがとう、レム。少し落ち着いた」
「本当に? 無理は駄目だからね、絶対」

 あまりレムを困らせては駄目だと、ユリヤは名残惜しそうに離れれば、様子を見守っていたマキナへ顔を向け問い掛けた。

「マキナ、ここに来たのには理由がある筈だよね? それこそ0組は最前線で戦っているのに……」

 遠慮がちに訊ねるユリヤに、マキナは神妙な面持ちで答えた。

「あの異形の怪物を倒す魔法がある」
「本当に!?」
「ああ。……ただ、高等魔法で使える候補生は限られている。それこそ1組に選ばれるような力がないと短時間での習得は困難だ」
「それを……私に教えるっていう事?」

 マキナの意図を瞬時に察し、ユリヤは不安を露わにした。恐らく0組しか使えないであろう魔法を、己が習得する事など出来るのか。せめてある程度の期間があるならまだしも、そんな悠長な事は言っていられない状況である。いつ、この世界が滅亡するか分からないのだ。一刻の猶予もなかった。
 だからこそ、ユリヤの不安はすぐに払拭された。迷っている暇などないのだから。

「……分かった。マキナ、レム……私、やってみる」

 ユリヤの決意に、マキナとレムは表情を綻ばせた。
 絶望して全てを諦めるのはまだ早い。0組は誰ひとりとしてまだ諦めてはおらず、それを全ての候補生に知らせる必要があった。その為には0組だけではなく、力ある候補生に協力も仰ぎ、あの異形の怪物たちを殲滅しなければならない。終わりのない戦いなどないのだと、全候補生たちに、そしてこのオリエンスに住まう全ての民に希望を与える為に。

 本来、候補生総代であるミユウが前線に立ち、全候補生に指示を出すのだが、世界が紅く染まり、ルルサスの戦士がオリエンス全土に現れたのと同時に、候補生たちの前から姿を消していた。
 朱雀政府と今後について話し合いをしているのかも知れないが、それにしては一切表に出て来ないなどこれまでかつてない事であった。だが、最早候補生たちは目の前の惨劇に対処するのが精一杯で、ミユウの不可解な行動を気に掛ける余裕すらないのが現状であった。





 ユリヤはマキナとレムの指示のもと、戦場から魔導院へと戻り、0組の教室へ向かった。幸い魔導院内にあの怪物は侵入しておらず、束の間の平穏にユリヤは安堵しつつも、早くこの混乱を収めなければと走り続けていると、教室の前に立つクイーンの姿が目に入った。

「クイーンさん!」
「ユリヤ、来てくれたんですね。ありがとうございます」
「マキナとレムから聞きました。なんでも、あの怪物に対抗出来る魔法があるとか……」

 息を切らしながら言うユリヤに、クイーンは普段と変わらず淡々とした様子でこくりと頷いた。

「ええ。ただ、これからユリヤを招く場所は、本来0組しか立ち入れない場所です。オリエンス滅亡の危機――『フィニス』が起こった今だからこそ、特別にあなたに許可を与えるという事を肝に銘じてください」
「特別……そんな場所に私が入っても、本当に良いんでしょうか」
「そもそも、本来はユリヤも0組に入る予定でしたから。マキナとレムが良くてユリヤが駄目だとは、わたくしたちは端から思っていません」

 クイーンは眼鏡を上げて、珍しく口角に上げて笑みを湛えてみせた。一見冷たくはあるものの、その言葉は常に的確である。だからこそユリヤも一度たりとも不快に思う事もなかった。そんなクイーンがこうして優しさを垣間見せたのは、それだけこの不測の事態――『フィニス』が、皆で支え合って乗り越えなければいけない厄災だからであろう。

「……本当に、来てしまったんですね。言い伝えにあった『フィニス』が……」
「恐らくは。つまり、この厄災を乗り越えれば、わたくしたちは晴れて『アギト』になれるという事です」
「『アギト』に……」

 書物に記載された昔からの言い伝えが、まさかこうして起こり得るとは、誰もが思いもしなかっただろう。ただ漠然と『アギト』を目指し、戦いに明け暮れていた日々が遠い昔の出来事に思えて、ユリヤはふと涙が出そうになったものの、辛うじて堪えた。感傷に浸っている暇はない。

「それでは、今から移動させます。ユリヤ、あなたなら大丈夫。わたくしが保証します」
「え? 移動『させる』って……」

 ユリヤが問いを投げ掛ける前に、クイーンは詠唱し、次の瞬間、ユリヤの足下に魔法陣が出現した。そして瞬く間にユリヤは転送され――気付いた時には、見知らぬ場所にいた。
 我に返ったユリヤの視線の先には、待ち構えていたかのようにトレイが立っていた。

「ユリヤさん。ようこそ、アルトクリスタリウムへ」
「トレイさん……! 無事で良かったです!」
「それはこちらの台詞ですよ。ユリヤさんの部隊が無事だと分かるまで、気が気ではありませんでしたからね」

 こんな状況下でもいつもと変わらぬ笑みを浮かべるトレイを捉えた瞬間、ユリヤの心から瞬く間に不安が消え失せた。尤も、さすがにトレイも冷静でいるというよりも、敢えてそう振る舞うよう努めているのだと、ユリヤも薄々分かっていたが口にはせずにいた。
 トレイの側に駆け寄れば、ユリヤは改めて室内を見回した。室内と称するよりも、まるで別世界に転移したかのような空間であった。いくつもの柱に囲まれ、細い通路の先には巨大な魔導書のようなものが浮かんでいた。魔力に満ち溢れたここは、己のような平々凡々たる人間が足を踏み入れる場所ではない――そう錯覚する程、異質な場所であった。

「ユリヤさん、不安に思われなくても大丈夫です。私を信じて、共に来て頂けますか」
「はい! トレイさんを疑うなんて考えられません」

 恐怖心はまだあるものの、ユリヤはトレイの言葉に素直に頷いた。その胸中を察したのか、トレイはユリヤの手を取って、ゆっくりと細い通路を歩み始めた。ユリヤも落ちないよう注意を払って歩を進めるも、徐々に不思議と恐れも薄れ、魔導書の前まで辿り着く頃にはトレイの助けも不要なほど落ち着いていた。

「これは一体……」
「『アカシャの書』と呼ばれる物です。決してユリヤさんに危害を加えるものではありませんので、ご安心ください。それよりも――」
「分かっています。あの怪物に対抗し得る魔法を習得出来ると伺いました」

 それならば話は早い、とトレイは何処か不敵な笑みを浮かべ、改めてユリヤの手を取った。

「これからユリヤさんに伝授する魔法は、聖属性魔法『ホーリー』。あの突如現れた怪物に有効であると、我々が既に実戦で把握しています」
「ホーリー……書物で見ただけですが、本当に私が習得出来るんでしょうか」
「出来る出来ないではなく、ユリヤさんには必ず習得して頂きます。私が直々に伝授するのですから、不可能など有り得ませんよ」

 自信満々にそう言い放つトレイに、ユリヤはかえって自信を喪失し掛けたが、今起こっているのが『フィニス』であれば、弱音など吐いている時間はない。少しでも早く習得し、戦場に戻らなくては。自分が上手くホーリーを使いこなせれば、他の候補生たちにも教える事が出来る。いくら0組でも、あの数の怪物を相手にするのは、さすがにたった十四人では厳しい戦いだ。戦力は少しでも多い方が良い。一刻も早く、この厄災を終わらせる為に。
 ユリヤは改めてトレイの顔を見上げ、力強く頷いてみせた。





 その頃、朱雀政府では――候補生たちの前から姿を消していたミユウが、カリヤ・シバル6世議長と対面していた。
 ミユウがフィニスの到来とほぼ同時に、不可解な行動を取っている事は、カリヤの耳にも伝わっていた。

「聞きましたよ、ミユウ君。候補生の指揮を放棄したそうですね?」
「………」
「なぜ今になって、そんなことを? 君は候補生たちの、支えだったというのに――」

 カリヤの問いにミユウは沈黙していたが、暫くして漸く口を開いた。だが、紡がれた言葉は、候補生総代、ミユウ・カギロヒとは思えないものであった。

「……其は我の、人としての使命に過ぎず。我は新たなる使命を与えられたのだ」
「え……?」

 明らかに様子のおかしいミユウに、カリヤは違和感を覚えたが、最早考える間も与えないとばかりに、ミユウはカリヤに魔法攻撃を放った。即死は免れたものの、命を絶つには充分な威力であり、咄嗟の事で防御も出来ず、カリヤはその場に倒れ込んだ。

「ぐっ! み、ミユウ君……!? な、ぜ……!?」
「弱き命に、死を与える――それが、我が使命だ。すべての命に審判を下すため、我は降臨した。ルルサスの戦士を伴って」
「ば、馬鹿な……! まさか君が、あの怪物たちを……!」

 驚愕するカリヤの前にいる少女は既に、候補生総代であるミユウ・カギロヒではなかった。かつてミユウという少女だった『それ』は、既に別の何かに乗っ取られたかのようであり、その真実に辿り着く前に、カリヤの意識は途絶えた。

「……9と9が9を迎えし時、識なる底、脈動せし。そして始まりの封が切れし時、雷の如き声音響かん」

 かつてミユウ・カギロヒという名前であった少女。既に候補生総代である彼女の人格は消失していた。

「我、来たれり――」

 審判者ミューリア。ルルサスのルシたる審判者が依代として選んだ、戦乱の世の終結を誰よりも願った少女の成れの果てであった。

2020/09/25

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