最後の審判

鴎暦841年 冷の月 3日

 アルトクリスタリウムでの出来事は、過ぎてみればほんの僅かな時間であったにも関わらず、ユリヤは随分と長い時を過ごしたような錯覚に陥っていた。
 0組の面々と同等までは当然いかないものの、元々魔法の才能に長けていたユリヤは、トレイの力を借りて無事短時間でホーリーを習得する事に成功した。ただ、使いこなせるかは実戦で試さなければ分からない。それでもユリヤは漸く希望を見出せた事に、かつてない程の高揚感を覚えていた。

「トレイさん、本当にありがとうございます!」
「当然の事をしたまでです。それにユリヤさん、理解が早くて正直驚きました。あなたを0組に推薦した総代の目に狂いはなかったと、今改めて確信しましたよ」
「それは褒め過ぎだと思いますが……でも、今日ぐらいは素直に受け止めたいと思います。そうじゃないと、あんな恐ろしい敵を倒すなんて出来ませんし」
「ええ、その意気です。何と言ってもこの私が伝授したのですから」

 自信満々にそう言ってみせるトレイに、ユリヤは笑顔で頷いた。トレイと一緒にいると、どんな苦境に立っていても前向きになれるから不思議だ。人を好きになるというのはそういう事なのかも知れない――今のユリヤに恐れるものは何もなかった。

「0組の皆さんは、他の候補生にもホーリーの習得を手助けしないといけないんですよね?」
「と言っても、ごく一部の候補生のみとなりますがね。残念ながら、ユリヤさんのように短時間で理解し、習得出来る候補生は限られています」

 本当に自分は選ばれた存在なのだと、ユリヤは畏れ多くも誇らしさを感じたが、それも一瞬の事だった。習得したホーリーは限られた候補生しか使えない。即ち、失敗は許されないのだ。

「ユリヤさん。『失敗出来ない』などとお考えではありませんか?」
「えっ、どうして分かったんですか?」
「少し不安そうな表情を浮かべていましたので。自分は実力不足だと0組編入を断るようなユリヤさんですから、堅実ゆえに失敗を恐れるのは想像に容易いですしね」
「うう……ごめんなさい、自信を持たないと、と思ってはいるのですが……」

 弱音など吐いている場合ではないというのに、ユリヤはどうしてもトレイの前で甘えが出てしまっていた。彼ならば、己が間違った事を口にすればしっかりと指摘し、正しい道を提示してくれるだろう。決してその場凌ぎの心地良い言葉を紡ぐのではなく、いつ如何なる時も冷静に、適切な判断が出来る――そんなトレイが相手だからこそ、ユリヤもつい本音を零してしまうのだった。
 自信が持てないなど、1組の候補生が口にする言葉ではない。そう叱って、喝を入れてくれるだろう。ユリヤはそう思っていたのだが、トレイは逆にユリヤを安心させようと、彼女の身体を抱き寄せた。

「あ、あの……!? すみません、私、気を遣わせるつもりで言ったわけじゃ……」
「無理に取り繕う事は『強さ』とは言えません。ユリヤさんが不安を感じているのであれば、それを緩和させるのが私の務めです」

 ユリヤはつい数日前に、1組の仲間が不安を払拭するために自分を抱き締めてくれた事、そして同じように自分がレムを抱き締めた事を思い出した。勿論、ユリヤの過去のやり取りはトレイの知るところではない。だが、トレイにとってはごく当然の行動であった。

「務めと言いましたが、勿論『0組』としてではなく、ユリヤさんの恋人としてですからね。このような危機的状況で、常に一緒に居られないのが本当に心苦しいですが……」
「その気持ちだけで充分です。トレイさんにも、そして私にも、互いにそれぞれ為すべき事がありますし……弱音を吐いている暇はないですね」

 こうしている間にも、この魔導院の外では異形の怪物によって、民衆も兵士も関係なく、多くの命が無差別に失われている。ユリヤはトレイの胸を軽く押して距離を置けば、笑顔を作ってみせた。

「トレイさん、魔法の伝授、本当にありがとうございます! 私、最後まで諦めません。フィニスは皆で乗り越えられると信じます……いえ、乗り越えてみせます」
「ええ。我々はこれまでも幾度となく困難な状況を乗り越えて来ましたからね。ただ、敵の殲滅も大事ですが、何より命を落とさない事を第一に考えてください。特にホーリーは特殊な魔法ゆえに発動に時間を要します。決して一人で行動する事のないように」

 トレイの忠告に、ユリヤは神妙な面持ちで深く頷いた。異形の怪物に対抗し得る魔法『ホーリー』は、一撃であの怪物を倒す事が可能だという。だが、それだけ強大な魔法であれば、詠唱も長く複雑で、発動までに相応の時間を要する。一人で戦場に立つにはあまりにもリスクが高く、敵を引き付ける者や詠唱者を守る者がいなければ、間違いなく発動前に殺されてしまうだろう。
 無限に増え続ける怪物をひとつひとつ仕留めるなど気が遠くなる話ではあるが、これしか手段はないのだから、やるしかない。今となっては、この世界の人間に選択肢は存在しないのだから。

「では、戦場に戻りますね」

 ユリヤはそう言ってトレイに背中を向けたものの、引き留められるように突然手を掴まれた。つい反射的に振り向くと、トレイの顔がすぐ傍にあり、二人は今にも唇が触れそうな状態にあった。いつものユリヤであれば、ぼうっとしてこのまま身を任せていただろう。だが、今はそうも言っていられない。

「トレイさん、今は駄目です!」
「何故ですか? まさかユリヤさん、私に冷めてしまわれたのですか……?」
「そんな訳ないじゃないですか! 今、ここでキスしたら……私、戦場に戻れなくなりそうです。なので、後でお会いした時に……」
「……名残惜しいですが、承知しました。ユリヤさん、絶対に死んではなりませんよ」

 ずっと冷静沈着でいたトレイが若干狼狽えて、ユリヤはこんな緊迫した状況だというのに、自然と笑みを零してしまった。だが、少しだけ肩の力が抜けた気がして、自分の甘さや弱さを素直に口にして、口付けを拒んだ理由を明らかにすると、トレイは仕方なしに頷いてみせた。
 絶対に死んではならない。己たちは折角恋人同士になれたというのに、それらしい事をまだ少ししかしていないのだ。絶対にこの戦いを終わらせて、未来を取り戻さなければ。ユリヤはそう固く胸に誓って、後ろ髪を引かれつつもトレイから離れ、今度こそ振り向かずに走り、魔導院を後にした。

 もう二度とここに戻れないかも知れない。初めてこの魔導院に来てからまだ半年も経っておらず、任務で不在にする事も多かった。もっとここで多くの事を学びたかったし、候補生としてまだまだやりたい事がたくさんある。
 救世主『アギト』になる為に己たちはこの魔導院に集ったのだから、絶対に乗り越える。そうすれば、己たちアギト候補生はれっきとした『アギト』になれる。だが、ユリヤにとっては救世主になりたいという思いよりも、とにかくこの惨劇を止めたいという思いの方が勝っていた。





 戦場に戻ったユリヤは、前衛で戦う0組のナインや遠方からの攻撃に努めるキング、彼らをサポートするデュースを筆頭に、皆で力を合わせて異形の怪物――ルルサスを攻撃していった。そしてユリヤに続き、1組でより魔法に秀でた候補生はホーリーを習得し、その間、魔法局では全候補生が使える聖魔法の開発を急ピッチで行い、その結果、ホーリーより威力は劣るものの、攻撃魔法部隊ではない候補生でも使いこなす事が出来る『ホーリーライト』なる新たな魔法を生み出したのだった。
 漸く、悪夢のような戦いに光が差したと誰もが思い、無限に現れるルルサスもいつかは姿を消す時が来る――そう信じながら戦闘に明け暮れていた。

 だが、戦いの最中、候補生たちの耳にどこからか突然声が響いた。

「――よくぞ集った。滅びの運命に、打ち克たんとする者たちよ」

 その声は、候補生ならば誰もが聞き覚えのあるものであった。
 魔導院総代、ミユウ・カギロヒ。
 直接交流はなくとも、魔導院で、戦場で、幾度となく聞いた声を、他人だと疑う者はいなかった。
 どこから発された声なのか、皆が周囲を見回す中、真っ先に気付いたのは0組のエースであった。
 紅の空に浮かぶ人影。それはミユウに相違なかったが、紫色の光を纏っており、明らかに異質な光景であった。

「総代! その姿――どうしたんだ!?」
「汝らの決断の果てに、世界は『フィニス』の刻に至った。戦と試練の日々は終わり、磨き上げられた魂が揃った……」
「一体、何を言って……!? お前、何者なんだ!?」

 相手は最早ミユウ・カギロヒではなく、彼女の身体あるいは精神を何者かが乗っ取ったのだとエースは察し、声を荒げた。

「我が名はミューリア。ルルサスのルシたる審判者。この世界に住む人間が、生きるに値するか審判する……その為に、我は遣わされた」

 その言葉を瞬時に受け容れ、理解出来る者はいなかった。ユリヤも他の候補生たちと共に、ミユウの姿をした審判者『ミューリア』を見上げ、呆然としていた。

 あんなに誇り高く、誰よりもこの世界を救いたいと願っていたのは総代だと断言出来る。そこまで深い仲ではなかったとはいえ、ユリヤだけでなく、候補生の誰もがそう思っているに違いなかった。

 誰よりもこの世界を救いたい――そう強く願った者がこの『審判者』に選ばれるという、この世界の理を知る者は存在しない。ゆえに、ユリヤは今起こっている現状が理解出来なかった。
 己たちが慕って来た総代は、そもそも人間ではなかったのか。あの声を信じるなら、このフィニスを引き起こす為に彼女は遣わされたのか。紛れもなく己たちと共に、この世界を救うために戦って来たはずなのに。

「力なき者には、死を。力ある者には、我に挑む誉れを。そしてこの世界に一人でも、我を討つ力がある者がいるか見定める事――それこそが、我が使命だ」

 審判者ミューリアの言葉に誰もが呆然とする中、レムとマキナが共に前に出て、空に浮かぶミユウ――ミューリアに向かって声を上げる。

「そんな……!? どうして私たちが、戦わなければならないの!?」
「目を覚ましてくれ、総代! オレたちは仲間だったはずじゃないか!? ここまでオレたちを導いてくれたはずなのに、なぜこんなことを……!」

 二人の訴えに、ミューリアは顔色ひとつ変えず淡々としていた。そして、ミユウ・カギロヒの精神が少しでも残っていれば、絶対に言わないであろう事を口にする。

「嘆き、惑い、怒り――そのすべては、我を討つための力に変えよ。さもなくば、死ぬのみだ。戦う意思なき魂に、価値はない」

 民衆の命を犠牲とする秘匿大軍神召喚の阻止に踏み切ったのは、紛れもなく総代であった。そんな彼女から『戦う意思のない者は無価値』という言葉が出て来るなど、最早もうあの審判者はミユウ・カギロヒではないと、誰もが思わざるを得なかった。
 皆が絶望に陥る中、エースがかつてミユウであった相手――審判者ミューリアを見上げて、真っ直ぐな瞳で言い放った。

「……わかったよ、総代。だったら僕等が、あんたを倒して……世界を救ってやる」
「それでいい、人間よ。それでは、終焉の戦を始めるとしよう。さあ、今こそ審判の刻だ!」

 瞬間、ミューリアの傍に巨大な軍神が出現した。それは如何なる書物でも見た事のない姿形をし、この世界を破滅へと導く禍々しさを放っていた。

 恐らくは、これが最後の戦いになる。国と国の戦争ではない、この世界『オリエンス』における、人類最後の戦いになるのだと、候補生は皆そう理解した。
 このまま殺されるか、審判者に立ち向かい奇跡を起こすか。
 アギトを目指しここまで来た候補生たちが選ぶ道は、当然ながらひとつであった。



「候補生の皆、僕の話を聞いてくれ! 総代――いや、審判者ミューリアは、世界を滅ぼす力を持つ、神にも等しい存在だ」

 エースが候補生たち全員を見回しながら、必死で声を上げる。ここで諦めれば、間違いなくこのオリエンスそのものが滅亡するだろう。だが、諦めなければ望みはある。アギト候補生たちに出来る事は、一縷の望みに賭け、ミューリアに立ち向かう事だけである。

「だが、僕等人間は屈するわけにはいかない。この戦いに勝利して、今度こそ僕等の戦いを終わりにしよう!」

 エースの言葉に、皆が同意の声を上げた。皆で力を合わせれば奇跡は起きる。これまでもそうして困難を乗り越えて来たのだから。
 候補生たちの最後の戦いが、今この瞬間幕を上げた。これは、オリエンスというこの世界の、長い歴史に幕を下ろす最後の戦いでもあった。

2020/10/16

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