星の囁きが落ちてくるまで

鴎暦841年 熱の月 30日

 白虎ルシ・ニンブスを討伐したものの、朱雀正規軍は兵力の半数以上を損耗し、その隙をつくように、白虎はさらなる進撃を開始した。朱雀は依然、厳しい戦況下にあった。
 その時、残るもう1名の朱雀ルシが、最後の手段を提言した。

「ルシ・セツナ卿……! 『秘匿大軍神』を召喚するですと!?」

 驚愕の表情で叫ぶ軍令部長をよそに、朱雀ルシ・セツナは眉ひとつ動かさず頷いた。

「左様。其が我が主たる、朱雀クリスタルの意思」
「……確かに秘匿大軍神を召喚すれば、この劣勢も覆しうるかもしれません」

 朱雀クリスタルの傀儡であるルシ・セツナの淡々とした態度に苦慮しつつ、軍令部長は冷や汗をかきながら言葉を続ける。
 秘匿大軍神は、ルシをも超える強大な力を秘めた軍神である。だが、ここまで朱雀が劣勢になるまで頑なに召喚を行わなかったのには理由がある。圧倒的な力を得るには、それだけの代償――膨大な量の『生命』が必要とされるからである。

「秘匿大軍神は、神に等しい力を持つ召喚獣。いわば朱雀の、最後の切り札と言うべき存在ですが――その召喚に必要な犠牲がどれほどのものか、むろんご存知なのでしょう?」
「贄となる者は無数にいる。戦う力と意思を持たぬ、民たちが」
「ば……バカな! 朱雀の民の命を差し出せと……!?」

 いくら白虎に対抗する為とはいえ、戦う力を持たぬ民衆の命を犠牲にして召喚するなど、人の心を持ち合わせていれば思い付く事すらしない、許されざる禁忌の行為である。だが、大前提としてルシに選ばれた者は、徐々に人の心を失っていく。それはセツナとて例外ではない。

「力なき者らとて、半数の命を捧げれば召喚は成る。疾く、準備を始めよ」

 何の感情もない顔付きはまるで人形のようで、美しい容貌から紡がれる残酷な言葉は一瞬の恐ろしささえ感じる程であった。セツナの命令に誰も頷かないものの、クリスタルの意思は絶対である。人間に拒否権はなかった。

 セツナはそのまま軍令部を後にし、室内は静まり返った。そんな中、この場に同席している魔法局局長、アレシア・アルラシアの声が響く。

「……クリスタルは合理的ね。戦争に勝つため、ある意味最も犠牲の少ない道を選んだわ。民がいくら死のうと、兵や候補生は減らない。朱雀軍の戦力をそのままに、白虎を屠る作戦よ」

 アレシアがセツナの提言を由としているかは窺い知れないが、人道的とは言えない手段に院生局局長が声を上げる。

「しかし民が応じるとは思えません! それに、あまりに非道な……!」
「確かに非道とも見えるが……白虎との戦争に負ければ、どのみち多くの民が死ぬ。故に朱雀クリスタルも、この道を提示したのだろう。しかし、うぅむ……!」

 朱雀という国を護る為の戦い。とはいえ、兵士ではない民衆の命を戦争の道具として扱う事を認めてしまうのは、人として許されざる事ではないか。思い悩む軍令部長の横で、兵站局局長が朱雀の最高責任者である議長、カリヤ・シバル6世に問い掛ける。

「……カリヤ議長、いかがいたしますか……!?」

 カリヤは押し黙り、この場で秘匿大軍神の召喚を行うと明言はしなかった。だが、ルシの提言はクリスタルの意思と同義であり、朱雀クリスタルの意思に背く事は、朱雀の民として許されざる事であった。例えそれが、国を護る為に武器を持たない民衆の命を犠牲にするという、非人道的な行為であったとしても。





 魔導院に帰還した候補生たちは皆、体力的にも精神的にも疲弊していた。白虎ルシを倒せば、朱雀軍にも勝機が見出せる――そう信じて疑わなかったものの、半数以上の正規軍が命を落とした状況で、かつ白虎と蒼龍が手を組んでいる状態では、例えアギト候補生が前線に出ていても、戦況は絶望的であった。

 ユリヤも打ちひしがれてはいたものの、全てを諦めたわけではなかった。そう思えるのは、ガブリエルとの戦い、そして此度のニンブスとの戦いを、トレイと共に乗り切った事が大きかった。トレイが、0組がいればどんな困難な状況も乗り越える事が出来る、根拠はないが不思議とそう感じていた。

 真っ先に墓地へ向かい、かつての友人へ祈りを捧げた後。ユリヤは意を決したように、墓標へ向かって呟いた。

「……私、トレイさんに告白しようと思う。もしあなたが生きていたら……頑張れって、応援してくれたのかな」

 朱雀がこの戦争に勝利する事が出来たとしても、その時、自分が生きているかは分からない。明日も今日と同じ生活を送る事が出来るかどうかすら分からない。それはこれまでの戦況が証明している。
 せめて、いつ命を落としても後悔のないよう、好きな人に想いを伝えたい。応えてくれなくていい。ただ、自分はあなたのお陰で何度も救われ、あなたのお陰で前向きに生きる事が出来たのだと、ユリヤはトレイにしっかりと想いを伝えようと決心した。
 どんな時も冷静に行動し、己を助け、支えてくれた人に、恋をしないわけがないのだと。





 この広い魔導院、それも有事の際に0組が今どこにいるのか、ユリヤには見当が付かなかった。この状況下ゆえ、総代と共に今後の戦略について話し合っているかも知れない。だとしたら、今日無理に会おうとしては迷惑が掛かってしまう。自分の事だけを考えず、周りを見て適切な行動を心掛けなくては。縁があれば、そのうちばったり会う機会があるだろう。ユリヤはそう思い直して、クリスタリウムへと向かった。
 かつて、トレイが早く自分に追い付くようにと、ユリヤに勉学を薦めてくれたからだ。



 一生かけても読み切れない程の本に溢れたクリスタリウムは、いつ訪れても圧倒され、何度来てもユリヤにとって飽きる事がなかった。この過酷な状況を打破できるような戦略を見つけ出す事は出来なくても、いざ命令が下った時に、生存確率を少しでも上げる為に様々な知識があった方が良い。今更手遅れかも知れなくとも、何もせずただ死を待つよりは、何かをした方が良い。悩んでいる暇があればすぐにでも本を物色すべきだとユリヤは思い、幾多にも並ぶ巨大な本棚の迷路へと歩を進めた。
 刹那、ユリヤは背後に人の気配を感じた。

「ユリヤさん、何か探し物ですか?」

 まさか会いたいと思っていた人物が自ら己の元に現れるとは思ってもおらず、ユリヤはびくりと肩を震わせれば、恐る恐る振り返った。視線の先には、朱雀が滅亡寸前である現状がまるで夢かのように、いつもと違わぬ微笑を湛えているトレイの姿があった。

「トレイさん! どうしてここに?」
「この不利なる障壁を乗り越える為、何か有益な情報が得られればと思い、こうしてクリスタリウムへ足を運んだのですが……もしかして、ユリヤさんもですか?」
「はい! と言っても、私に何かが出来るとは思えませんが……じっとしていられなくて……」

 ユリヤは気まずそうに苦笑いを浮かべながら言葉を返した。自分はトレイや0組の皆のように優秀ではない。1組といっても戦力補充の為の穴埋めである。ユリヤは自身が実力で昇格したとは思えず、どうしても卑下する言葉が口をついてしまうのだが、トレイは特に不快に思う事もなく、寧ろユリヤにつられて眉を下げて力なく笑ってみせた。

「私も似たようなものですよ。白虎がこの魔導院を襲撃するまでの限られた時間内で、打開策を見つけるのは難しいでしょう。ですが、アギト候補生たるもの、最後まで諦めるわけにはいきませんから」

 言い終える時にはもうトレイの表情は力強いものへと変わっていて、ユリヤは自然と胸が高鳴った。やはり、この朱雀の救世主は0組の候補生たちだ。自分に出来る事は、少しでも彼らの手助けになる事だ。想いを告げるのは、今この時でなくても良い。
 ユリヤは改めてトレイを見上げて、両手を胸元で組んで訴えかけた。

「私にも手伝わせてください! 少しでもトレイさんの力になりたいんです」

 初めて出逢った時から一貫してずっと己を慕ってくれる女子にそう言われれば、トレイとて断る理由もなく、寧ろ有り難い申し出であった。



 夜更けまで二人で協力してクリスタリウム内の書物を漁り、読み耽ったものの、この日はこれといった進展はなかった。

「トレイさん、すみません。全然お役に立てなくて……」
「そう気を落とす必要はありませんよ、ユリヤさん。あの本棚の一角に有益な情報がなかった事が収穫と考えましょう」

 クリスタリウムを後にして、落ち込むユリヤにトレイは気にする事なくきっぱりとそう答え、続けて一瞬何かを言い掛けたものの、不自然に目を逸らした。ユリヤはいつも冷静沈着なトレイにしては珍しいと思い、何も考えず問い掛けた。

「あの、トレイさん。どうかされましたか?」
「いえ! ええと……その、ユリヤさん。ご都合がよろしければ、これからお茶でも……」
「こんな夜にですか?」
「……そうですね、日を改めます」

 つい反射的に、まるで拒否するような返答をしてしまったユリヤに、トレイは肩を落としてその場を後にしようと歩を進めた。ユリヤはトレイの言葉を頭の中で思い返し、自分はなんて事を言ってしまったのかと狼狽えた。こんな夜更けでさえなければ、実質デートのお誘いのようなものである。それを無下にしてトレイを落ち込ませてしまった上、そもそも大前提として己はトレイに告白しようと思っていたのだ。折角のチャンスを自ら棒に振るなど、自分は馬鹿だ。大馬鹿だ。ユリヤは無我夢中でトレイを追いかけ、彼の手を握った。

「どうしましたか? ユリヤさん」
「あ、あのう! 私、トレイさんにお話があるんです」
「こんな時間に、ですか?」
「はい! 明日もどうなるかも分からない以上、言える時にちゃんと言いたいんです」

 ユリヤのただならぬ様子に、トレイは驚きつつも頷いた。ユリヤの言う『明日もどうなるか分からない』とは、白虎の襲撃で自分が命を落とすかも知れない――そう考えているのだろうとトレイは解釈した。

 0組にとって、死は恐れるものではない。何故ならば、肉体さえ持ち帰れば育ての親であるアレシア・アルラシアによって蘇生が可能だからである。
 この事は秘匿であり、ユリヤのような0組以外の候補生だけでなく、軍令部等にも知られていない。
 だからこそ、トレイたち0組は死を恐れる事なく、あらゆる敵と対峙出来ているが、並の人間ではそうもいかない。自分が死ぬと把握する前に、訳も分からぬまま死んでいくならまだしも、自分が間もなく死ぬと理解した上で、徐々に息絶えるとしたら。これ程までに絶望する事は他にないだろう。
 ユリヤはそういった事を覚悟の上で、己と今、話がしたいと申し出ている。どんな内容であっても、彼女と向き合うべきだ。トレイはそう心を決めて、ユリヤの手を握り返した。

「分かりました。ここで立ち話もなんですから、移動しましょうか」





 ユリヤから誘った筈なのだが、気が付けばトレイに手を引かれており、辿り着いた先はテラスであった。漆黒の空に淡く輝く月と瞬く星々は、戦争下にある事など忘れさせてくれるかのように穏やかで、ユリヤも張り詰めていた気持ちが少しだけ楽になっていた。

「ユリヤさん、寒くはないですか?」
「いえ、大丈夫です。寧ろ冷たい風が気持ちいい位です」

 季節は間もなく熱の月から冷の月へと変わる。戦争などなければ、徐々に色付く木々やこの季節でしか見られない花を楽しむ事が出来ただろう。魔導院に来るまで、辺境の地で暮らしていたユリヤはそうして季節の移ろいを感じていた。そんな当たり前の事も、戦時中では出来なくなってしまう。明日も自分が生きているという確証すらないのだから。

「……トレイさん。お話、というか一方的な告白なんですが……」
「告白、ですか?」
「あ、ええと、その……」

 ユリヤはつい混乱してしまったが、そもそもトレイは何の告白をされるのかすら分かっていないだろう。冷静になれ、ユリヤはそう自分に言い聞かせ、未だ繋いだままのトレイの手を、軽く握り返した。

「トレイさん。私は、あなたの事が好きです。アギトを目指す候補生として尊敬もしています。でも、それだけじゃない」

 ユリヤは拙いながらも、偽りのない自分の言葉で、想いを紡ぐ。

「いつだって私を助けてくれて、戦場で恐怖に震える私を鼓舞してくれて……候補生として尊敬しているだけじゃなくて、一人の異性として、あなたに憧れ、恋をしているんです。トレイさんがいるなら、私、死ぬのも怖くありません」

 闇に包まれた夜更けでは、院内から漏れる明かりを頼りに相手の顔を捉える事しか出来ない。それだけでは、トレイが今どんな表情をしているのか窺うのは、ユリヤには困難であった。

「……それだけです。貴重な時間を奪ってしまってすみません。でも、どうしてもお伝えしたかったんです。トレイさんのお陰で、私、戦場に立つ事が出来ているんです」

 ユリヤはそう告げて、話は終わったとばかりにトレイから離れようとしたユリヤであったが、手は固く握られたままで身動きが取れずにいた。

「……すみません。トレイさんの都合も考えず、突然こんな事を言ってしまって……」
「本当ですね。私の返答も聞かずに帰ろうとするなど、身勝手も良いところですよ」
「ご、ごめんなさい! でも、想いを伝えたかっただけなので」
「ユリヤさん。私にも言い分はあります」

 トレイの言葉に、ユリヤは頭が真っ白になった。言い分など、きっとこんな身勝手な事を言う子は嫌いだと言いたいのだ。一方的に感情を押し付けるなど、やってはいけない事だった。もう言葉にしてしまったものは取り消せず、後悔するしかないのだが。ユリヤは後悔しない為に行動に移したつもりだったが、かえって逆効果になってしまい、もう今すぐにでも自室に帰りたい気持ちでいっぱいであった。
 だが、トレイから返って来た言葉は、ユリヤにとって思いもしないものであった。

「私もあなたの事が大好きですよ、ユリヤさん。恐らくは、あなたが思っている以上に」

 その言葉を受け止めるよりも先に、ユリヤの身体はトレイによって抱き締められていた。身長差ゆえに相手の顔を窺う事は出来なかったが、互いに見遣らずとも、想いを紡ぎ合うのは言葉だけで充分であった。ユリヤはふと、これまでトレイに戦場で抱き留められたり横抱きされたりした事はあっても、こうして普通に抱き締められるのは初めてだと気付いた。

「ユリヤさん、少し考えれば分かる事です。これまでに何度もあなたを助け、時には干渉し、その結果、0組の面々には私の想いを知られて茶化される始末……」
「ええと、それは私が足手まといだから、気を遣ってくださっているのを、皆さんが誤解されているのかと」
「足手まといな候補生を助けるほど、私は優しい人間ではありませんよ。ユリヤさん、あなただから手を差し伸べて来たんです」

 本当にその好意を受け止めていいのだろうか。いつものユリヤならそう思い留まっていたが、今この瞬間は違っていた。
 己の告白に、こうして誠意を持って応えてくれたトレイの想いを否定してはいけない。彼の言葉を信じよう。己が愛した人の言葉なのだから。ユリヤはそう心に決めた瞬間、胸の奥が熱くなる感覚をおぼえ、居ても立っても居られなかった。トレイの胸元に手を置いて少しだけ引き離せば、顔を上げて、トレイの双眸を見つめた。室内から漏れる明かりだけでははっきりとその表情を窺う事は出来ない。けれど、優しく己を見据えている気がした。

「トレイさん、ありがとうございます。戦時中だというのにこんな話をしてしまってすみません」
「いえ、こんな時だからこそ、人々は手を取り合い、想いを伝えるべきです。ユリヤさんもそう思ったからこそ、私に秘めていた想いを打ち明けてくれたと思っていますよ」

 ユリヤはあまりの嬉しさに感極まって、瞬く間にその瞳を涙で滲ませた。そんなユリヤの姿にトレイは愛おしさを感じつつ、その勇気に応えるべく、ユリヤの目元に浮かぶ涙を指で拭えば、腰を屈めて顔を近付けた。

「ユリヤさん、私と付き合って頂けますか? 運命を共にする、たった一人の恋人として」

 本当に己で良いのかと訊ねる余裕もなく、ユリヤは静かに頷いた。そして、ユリヤの口許にトレイの唇が触れる。もしかしたらこれは夢なのかもしれない――ユリヤはそんな不安を覚えつつ、夢ならばどうか覚めないで欲しいと密かに願いながら、トレイにその身を委ねたのだった。

2020/06/20

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