常識は世界を騙す嘘である


 詳しい事は一切分からない。だが、疑わしきは罰せずなどと悠長な事を言っているような状況ではなかった。エールゼクスは一先ず今は早急にカーツベルフを捕獲しなければならないと決め、指示も待たずに走り出していた。
 本当にあの少年兵が内通者だとしたら、アードライの命令通り格納庫を調査しているとは限らない。だが、逆に疑わしい行動を取らないよう命令を遂行する可能性もある。まずは格納庫をあたり、いなければ内通者だと断定しよう。そう決めて、格納庫にカーツベルフがいる事を願いつつ向かった。

 エールゼクスは格納庫に足を踏み入れ、不測の事態に備えて足音を立てず、ゆっくりと歩を進めた。
 視線の先、ここより少し離れた場所にカーツベルフの姿を見つけて、エールゼクスは安堵した。だが、様子がおかしい。メモか何かを熱心に読んでいるようだ。そしてそれを元のパネルにしまえば、集合場所へ戻るでもなく違う方向へと走り出した。

 安堵したのも束の間、この不可解な行動でほぼ内通者と断定しても良いだろう。エールゼクスは自然と溜息を零したが、ぼうっとしている時間はない。カーツベルフを追わなければ。エールゼクスは引き続き足音を極力立てずに、カーツベルフの跡をつけた。
 内通者であれば、待っているのは処刑である。
 幼い子どもをそういう目に遭わせる事に加担するのは心が痛むが、あなたのような子どもに内通者なんて事をやらせた人間を恨んでくれ、と思うしかなかった。



 カーツベルフが向かった先は、長期休眠用のベッドがある部屋であった。普通なら、そんな場所に用があるわけがない。エールゼクスはこの部屋に敵がいる可能性を想定し、銃を構えて部屋の前で突入するタイミングを窺った。
 仮にカーツベルフに何の罪もなかったとしても、銃を向けて入室したところで驚くだけだろう。尤も、その可能性は限りなく低い以上、他に取り得る選択肢はなかった。
 エールゼクスは一呼吸置いて、銃口を前に向けて室内へ突入した。

 その瞬間、エールゼクスの視線の先では、信じられない事が起こっていた。
 カーツベルフがベッドに横たわる少女の首筋を齧り、数秒の間を置いて、少女が起き上がったのだ。そして、間髪入れずに少女はベッドから飛び降り、まるで自分と入れ替わるようにカーツベルフをベッドへ遣り、強化ガラスのハッチを閉じる。

 エールゼクスは目の前で何が起こったのかまるで理解出来なかったが、理解出来なくても今自分が何を為すべきかは分かっていた。
 目の前にいる長い黒髪を靡かせる少女は、エールゼクスもよく知っている。
 ヴァルヴレイヴのパイロット、流木野サキ。
 紛れもない、己たちの敵であり、更に言えば己の戦果を上げるための『獲物』であった。

「動くな!!」

 流木野サキに向かって、エールゼクスは銃口を向けて叫ぶ。彼女がこちらに気付いて怯んだ隙に、エールゼクスは好機とばかりに全速力で突進し、彼女の腹目掛けて足を振り上げ、蹴りを見舞わせた。その場に倒れ込み、痛みからか呻き声をあげる流木野サキに、エールゼクスは容赦せずその身体に圧し掛かり、隠し持っていた特殊素材のロープを手早く出せば彼女の両手首を縛り上げた。その間、ほんの数秒の出来事であった。

 流木野サキに跨るように圧し掛かりながら、一仕事終えたエールゼクスは通信機を取り出し、真っ先にカインに連絡を取る。

「大佐。ヴァルヴレイヴのパイロット、流木野サキを捕獲しました」
『ほう? 大物が釣れたな。上出来だ、エールゼクス』
「カーツベルフは――何故か休眠用のベッドに閉じ込められているように見えますが……この場で始末した方が良いでしょうか。それとも尋問に使いますか?」
『放置しておいて問題ない。それより、エールゼクス。捕獲と言ったが、ヴァルヴレイヴのパイロットに意識はあるのか?』

 その質問に答えようと、エールゼクスは念の為、流木野サキの様子を窺う。死なない程度に、だが痛みで動けない位には思い切り打撃を与えている。痛みに耐えながらこちらを睨み付けて来る流木野サキの顔を見て、エールゼクスは失神する位痛めつけた方が良かったか、と初動の甘さを後悔した。

「意識はあります」
『殺しておけ』
「……え?」
『私の指示に従えないのか?』

 上官の命令に背くなど有り得ない事だ。ブリッツゥン・デーゲン、と素直に従えば良いだけの話だというのに、エールゼクスは言葉を失っていた。まさかここまでの重要人物を殺せと命じられるとは思わなかったのだ。
 だが、動転していたのが命取りとなった。流木野サキが見計らっていたかのように一気に上体を起こし、エールゼクスの首筋に歯を立てた。
 瞬間――

「エールゼクス! 離れろ!」

 背後からアードライの声が聞こえ、エールゼクスは無心で飛び起きるように流木野サキから距離を取った。
 一体今、この女は己に何をしようとしたのか。どちらにせよ、エールゼクスの対応が甘かったのは事実である。失神させるほど痛めつけておくべきだったのだ。

「貴様はヴァルヴレイヴのパイロット、流木野サキだな? ……聞きたい事がありすぎる」

 アードライは言いながら、銃口を流木野サキへと向ける。二対一、それも相手は拘束されているとなれば、後は軍の到着を待つだけである。
 ふと、握り締めていた通信機からがカインの声が聞こえている事に気付き、エールゼクスは慌てて耳元に近付けた。

『エールゼクス。無事か?』
「アードライが助けてくれました。申し訳ありません、大佐の命令を聞いていればこんな失態は……」
『気にするな。殺してしまっては尋問が出来ない、と思ったのだろう?』
「はい。ですが、大佐が意味もなく殺せと言う訳がありません。真っ当な理由があるのですから、私は素直に指示に従うべきでした」
『そこまで反省出来ているなら、私からはもう何も言う事はないよ。既にそちらに軍を向かわせているから、アードライと待機していろ。私の命令の意味は、いずれ分かる時が来る』

 通信はそこで途絶えた。エールゼクスはカインが叱咤しなかった事でかえって落ち込んでしまった。自分だけの力で民間人ひとり取り押さえる事すら出来なかった事。上官の命令を素直に聞けなかった事。いかなる理由であれ、敵を殺す事に躊躇ってしまった事。そして、アードライを守るどころか逆に守られてしまった事。反省点を挙げればきりがなかった。

「エールゼクス。流木野サキに噛み付かれてはいないな?」
「噛み付く……? 何もされてないけど。アードライが助けてくれたから」

 エールゼクスはアードライの傍に駆け寄ったものの、気まずさで目を合わせる事が出来なかった。

「勝手な行動は慎むように。私が間に合わなければ、君は今こうして無事でいられなかった可能性があると自覚して欲しい」

 耳の痛い、ご尤もな忠告であった。普段なら、いくらなんでも民間人相手に無事でいられないと反論するところだが、今回ばかりは訳が違う。
 カインが殺せと命じたのには、絶対に真っ当な理由がある。エールゼクスはそう断言出来た。

「……君が無事で良かった。エルエルフに続き、君まで訳の分からない理由で離れられては堪ったものではないからな」

 その言葉に、エールゼクスは漸くアードライの顔を見た。その表情には心から安心している様子が窺える。
 訳の分からない理由。それが具体的に何なのかを言葉で説明する事は難しいが、エールゼクスは真相に近付きつつあった。

「アードライ、いつから見ていたの?」
「君がこの部屋に突入しようとしていた時からだ」

 随分と前から見守られていたのだと、エールゼクスは一種の恥ずかしさを覚えたが、重要なのはそこではない。あの不可解な一部始終を、アードライも見ていたという事になる。
 カーツベルフが横たわる流木野サキの首筋を齧り、その後、まるで入れ替わるように流木野サキが目覚めたのを。

 エールゼクスはふと、休眠用のベッドへ視線を移す。カーツベルフがここから出せと言わんばかりに内側から強化ガラスを叩いている。
 カインは放置しておいて良いと言っていた。それも不可解ではあるが、この後、軍が駆け付けて流木野サキが捕虜として連行された後、軍に保護されたカーツベルフと対話出来た事で、エールゼクスはひとつの答えに辿り着いたのだった。

「カーツベルフ。念の為の確認なんだけど……私と話した事は覚えてる?」
「いえ。大尉とは初めてお会いしました」
「そう……分かった。ありがとう」

 カーツベルフは不可解な顔でエールゼクスを見上げていた。彼が嘘を吐いているようには見えず、「分かった」と口にはしたものの、ありとあらゆる仮説がエールゼクスの脳内を駆け巡り、頭がどうにかなりそうであった。

 カーツベルフの、己とはここで初めて会ったという言葉は事実である。そう断定するならば、果たして己たちと共に行動していたカーツベルフは、一体何者だったのか。
 様々な仮定が思い付いたが、まさかオカルトじみた憶測が一番筋が通るとは、エールゼクスも思わなかった。
 この密室で起こったカーツベルフと流木野サキの不可解な行動。この場所に来るまでは、カーツベルフは己と普通に会話をしており、覚えてない、なんて言葉が出て来るわけがない。

 入れ替わったタイミングは、この密室でカーツベルフが流木野サキに噛み付いた時だ。
 つまり、己たちと一緒に行動していた少年兵の正体は――ヴァルヴレイヴのパイロット、流木野サキ。そう考えれば、全ての辻褄が合う。

 こんな事を口にすれば、気が狂ったと思われるだろう。けれど、不幸中の幸いか、ヴァルヴレイヴに関する不可解な現象を己とともに目の当たりにしている仲間がいる。
 モジュール77に潜入した際、エールゼクスはアードライと共に、殺したはずの時縞ハルトが生き返っているのを目の当たりにしているのだ。
 そして、モジュール77が中立地帯に到着するのを阻止する為に強硬手段に出た際、ハーノインと共に見たカインの人ならざる姿。
 全て、ヴァルヴレイヴという兵器に繋がっているのだ。

 ハーノインは他言無用だと言っていたが、ここまで来たら仲間内で情報共有しないといけないとエールゼクスは強く感じていた。己だけでは抱えきれない。まずはアードライも交え、三人で話し合いべきだと。

 だが、エールゼクスの願いが叶う事はなかった。既にハーノインは処刑され、この世を去っているという残酷な事実を突き付けられるのは、もう間もない事であった。

2020/02/23

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