みとめた夜空は何色か


 カルルスタイン機関の入隊から幾年もの時が過ぎ、無事エルエルフの班が卒業を迎えた頃には、班の一員であるエールゼクスもすっかり顔付きも変わり、一人前の兵士となっていた。
 尤も、それはカインや他の軍人から見た評価であり、共に過ごして来た班員、特にエルエルフから見れば、エールゼクスはまだまだ未熟であった。身体能力に関してはどう足掻いても男女差は出て来るものだが、軍人たるもの、ある程度は平等に評価をしなくてはならない。その『ある程度』の匙加減が曖昧ではあるものの、卒業するための最低ラインというものは存在する。エールゼクスはそれをクリアしたという事に他ならない以上、異議を唱える者はいなかった。

「まさかエールゼクスが卒業出来るなんて思わなかったなぁ、よく今まで死ななかったよね」
「クーフィア、私に死んで欲しかったわけ?」
「褒めてるんだって。悪運の強さだって実力だしね〜」
「褒め言葉には聞こえないけど……」

 屈託なく笑いながら悪態をつくクーフィアであったが、当のエールゼクスは溜息を吐きつつも落ち込む様子は見せなかった。もうすっかり慣れてしまった、というより流す事を覚えたという様である。
 そんなエールゼクスの背中を、男二人が後ろから軽く叩く。ハーノインとイクスアインである。

「ま、そう落ち込みなさんな。エルゼの頑張りは何年も間近で見て来たからな」
「ハーノ、私別に落ち込んでないよ」
「卒業試験の合格ラインを設定しているのもカイン様だろう。ならば、エルゼの合格に難癖を付ける行為はカイン様への冒涜にもなるな」
「そこまで言う? でも、確かにイクスの言う通りかもね。カイン様もそんなに甘くないし……」

 幼い頃の己を救ってくれたカイン・ドレッセルという男は変わった――エールゼクスは誰にも言わずとも、心の中でそう結論付けていた。当時の優しさは、今のカインからは抜け落ちている。だが、それはカインが出世し現ドルシア総統の右腕となり、国を動かす立場となったからである。優しさを捨て、冷徹な人間にならなければこのドルシアという国を立て直す事は出来ないのだ。そう思うと納得出来た。
 人はいつまでも同じままではいられない。変わっていくものなのだ。カインも、そして己自身も。





 正式にドルシア軍に入隊したエールゼクス達は、辺境の集落を出て宇宙都市へと居を移し、本格的に宇宙空間での戦闘を想定した訓練へと移行する事となった。
 訓練は厳しくはあるものの、衣食住に困らず、命の危険に晒される事もなく毎日充分な睡眠が取れる生活は、カルルスタイン機関にいた頃のような死と隣り合わせの過酷なものとは正反対であった。何より休暇というものが設けられ、国から給与が出て好きに使えるという、社会に出る者としてはごく当たり前の事が、エールゼクスにとっては嬉しくて堪らなかった。

 エールゼクスは毎朝軍服を袖に通す度、今の恵まれた環境は、己が今まで殺めて来た命を犠牲にして成り立つものである、と言い聞かせていた。
 幼い頃に全てを奪われた時の事。カインに手を差し伸べられた時の事。軍人になると決めた時の事。カルルスタイン機関への入隊試験で、罪の無い人間を殺めた事。過酷な訓練の日々。任務で数多もの敵国の人間を殺した事。
 全ては生きる為。カインに救われた命を無駄にしない為。どんなに生活が楽になっても、その気持ちを忘れないようにしなければ。エールゼクスはそう決意して、ひたすら目の前の任務や訓練に励む日々を送っていた。





 軍人としての日々に慣れつつあったエールゼクスは、休暇を存分に楽しむ行為も徐々に学びつつあった。

「充実した余暇を送る事でメリハリが付き、任務や訓練でより良い結果を出せる」――そうエールゼクスに指南したのはハーノインであった。イクスアインはそんな彼に小言を言って呆れ顔をしていたものの、エールゼクスはあながち間違いではないと判断した。
 というのも、この二人は幼馴染みでエールゼクスから見ても仲が良いが、四六時中一緒にいるという訳ではなく、意外にも休日は別行動なのである。外に出て女性をナンパしたり遊びに興じるハーノインとは正反対に、イクスアインは読書に耽っている。どちらが良い悪いという話ではなく、皆それぞれ、自分なりの充実した余暇の過ごし方を心得ているのだ。

 ふと仲間たちの行動を思い返してみると、クーフィアは休日どころか空き時間があれば常に携帯型のゲーム機を弄っているし、アードライはエルエルフと一緒に行動している事が多い。

 かつてはカルルスタイン機関にも同性の仲間がいたが、皆命を落としてしまったか、行方知れずになっている。現状気心知れた同性の友達も居ないエールゼクスは、ひとまず何かしらの趣味を見つけることから始めようと決めたのだった。





「なあイクス。なんつーか、エルゼもすっかり女の子になったよな」
「ハーノ、何を言っている? エルゼは元から女性だろう」
「馬鹿、そういう当たり前の事を言ってるんじゃねぇっての」

 ドルシア軍に入隊し一ヶ月ほど経った頃。エールゼクスは徐々に同世代の女子の感覚を身に付けつつあった。趣味を見つけようと自ら行動を起こし始めたのをきっかけに、軍ではまだ数が多いわけではない女性たちから声を掛けられるようになり、自然と交友関係が広がっていった。それと共に、死と隣り合わせの世界とは関係のないごく普通の会話も気兼ねなく出来るようになった事で、徐々に『普通の生活を送っていた頃の自分』を思い出すようになったのだった。

 普通の感覚を思い出し、年相応に休日を満喫するのは良い事なのだが、この時のエールゼクスはやや調子に乗り過ぎているきらいがあった。

「エールゼクス、今日も出掛けるの〜?」

 とある休日の朝。私服姿で宿舎を後にしようとするエールゼクスを見掛けたクーフィアが、ゲーム機を片手に声を掛ける。

「うん。そんなに遅くはならないと思うけど」
「どうかなぁ、前もそんなこと言って日付変わった頃に帰って来たじゃん」
「そうだっけ? ギリギリ日付変わってなかったはずだけど」
「どっちにしても、あんまり夜遊びされるとエルエルフが不機嫌になるから程々にしてよね」
「エルエルフが?」

 面倒だとでも言いたげに苦虫を噛み潰したような顔をして言うクーフィアに、エールゼクスは首を傾げた。己の帰宅が遅くなる事と、エルエルフが不機嫌になる事が結び付かないからだ。

「なんでエルエルフが……」
「遊ぶ暇があったら鍛錬しろ、とかそういう意味じゃないの?」

 クーフィアの言葉はあくまで憶測に過ぎないが、エールゼクスは漸く納得出来た。確かに、己は無事機関を卒業出来たとはいえ、他の五人と比べると当然差は開いている。
 いくら自由を謳歌出来るようになったとはいえ、肝心の軍人としての本業に影響が出たら本末転倒である。そこまで羽目を外していないつもりではいたが、傍から見てそうは思えないのであれば、改めなくてはならない。

「迷惑かけてごめんね、クーフィア。夜遊びは今日で終わりにする」
「別にきっぱり辞めなくてもいいんじゃない? ていうか、いっそエルエルフを殺しちゃえば遊び放題じゃん」
「こら、冗談でも物騒な事言わないの」

 クーフィアは不敵な笑みを浮かべており、果たして本当に冗談なのか疑わしいが、エールゼクスはひとまずこの場は窘めるに留めて、最後の晩餐とばかりに宿舎を後にしたのだった。





 ショッピングモールも、映画館も、美術館も、ドルシアに当たり前のようにある何もかもが、エールゼクスにとっては新鮮なものであった。華やかな洋服も化粧品もアクセサリーも、全てが輝いて見えた。まるで失われた数年間を埋めるように、エールゼクスはあらゆる嗜みを吸収した。

 初めの頃は、趣味を探そうと思ってもまず何をどうすればいいのか分からず、少佐のクリムヒルトに休日はどう過ごせばいいのかと訊ねたところ、たまたま予定が空いていたらしく善は急げと外に連れ出され、様々な施設を教えて貰ったのだった。
 そして、クリムヒルトが気に掛けている事に気付いた他の女性たちも、何かとエールゼクスを構うようになり、日中に行けるような場所だけでなく、お勧めの酒場や酒の飲み方まで教えるようになった。ちなみにエールゼクスはまだ飲酒が可能な年齢には達していない為、やんわりと断ったものの、ノンアルコールもあるから大丈夫だと言われた上に、ハーノインも行っていると後押しされ、仲間も行っているのなら本当に大丈夫なのだろうと自分に言い訳をしつつ、誘惑に負けてしまったのだ。

 犯罪に手を染めているわけではないし、軍の掟にも反していない。負い目を感じる必要はまるでないのだから、堂々としていればいい。
 それに、夜の街を出歩くのは今日で最後にすると決めたのだから、存分に楽しもう――エールゼクスはそう思って、陽も落ちて夜の帳が下りた頃、軍の女性に教えて貰った酒場へと足を踏み入れたのだった。

 その酒場に罪は一切ないのだが、とかく飲食店とはその場にいる客によって命運が分かれる事がある。
 不運にも、この日エールゼクスは酔っ払った男に絡まれてしまったのだ。



「あのう、私もう帰らないといけないのですが……」

 俗に言うナンパというものを受けたのだが、今のエールゼクスにとってはまずは軍での生活に慣れ、訓練について行き、任務を遂行するにあたり仲間の皆の足を引っ張らないという事が第一であり、こうして休日に遊び呆けるのは単なる息抜きである。決して『そういう』出逢いを目的に酒場に来ているわけではない。
 だが、そんなエールゼクスの胸中など相手の男は知る由もない。いつの間にか隣に座って口説くだけでは飽き足らず、勝手に肩にまで手を回して来たため、さすがにエールゼクスもこの流れはまずいのではないかと察した。カルルスタイン機関での生活が長かったとはいえ、恋仲ではない男女の間で許されることとそうでないことの区別くらいは付いている。

「帰るって、家どこ? 送ってくよ」
「いえ、一人で帰れますので!」

 さすがに軍の宿舎まで来られるのは拙過ぎる、とエールゼクスは真っ青になって慌てて立ち上がったが、次の瞬間、男に手を掴まれて引き寄せられた。結果、バランスを崩してしまったエールゼクスは、あっさりと男に拘束されてしまった。

「その気にさせといてそれはナシだろ。ちゃんと家まで送っていくからさ」
「あの、困ります! 本当に……」

 普通に考えれば店員が助けに入ってくれると思うのだが、あいにくこの日は混んでいるうえ人手が足りないらしく店員たちは休む間もなく店内を走り回っており、己たちが揉めていることに気付いていないようだった。

 軍人たるもの、男とはいえ民間人を叩き伏せるくらい容易いのだが、軍人であるからこそ武器を持たない民間人に手を出すなどあってはならない事であった。相手を突き飛ばして、その隙に代金を置いて逃げるのが一番ベストな対応なのだが、この時のエールゼクスは完全に気が動転していて、そこまで頭が回らずただただ混乱していた。
 そんな中、聞き慣れた声がエールゼクスの耳をついた。

「エルゼ。こんな所で何をしている」

 どうしてここにいるのかと思考を巡らせる前に、声の主はエールゼクスの腕を引き、つい今まで纏わり付いていた男から引き剥がした。

「チッ、彼氏持ちかよ」

 意外にも男はあっさりと引き下がり、漸く自由の身となったエールゼクスは大きな溜息を吐いた。

「ありがとう……いや、それよりもごめんね」
「何故謝る」
「だって、アードライは普段こんな所来ないでしょ? 誰かに頼まれて来たんだって分かるから」

 エールゼクスを助けたのは、仲間のひとりであるアードライであった。尤も、このような場所には一番来なさそうである相手なだけに、エールゼクスは何故彼がここにいるのかをなんとなく察して、ただただ申し訳なく、反省するばかりであった。

 恐らく、仲間内で迎えに行こうという話でも出たのだ。それに己の交友関係は決して広いわけではなく、身近な人物を当たれば行先など容易に特定することが可能である。そして、迎えに行く役に抜擢された、というより押し付けられたのがアードライなのだろう、というのがエールゼクスの想像した経緯であった。『エルゼ』という呼称をあっさり使ったあたり、己をそう呼ぶハーノインかイクスアインの指示だと思っていた。

 尤も、実際はアードライが率先して自ら迎えに行くと言ったのだが、それをエールゼクスに伝えたところで特に意味は為さないと判断した為、真実が彼女の耳に入るのはまだ先の話である。呼称も民間人の前でコードネームを呼ぶわけにはいかず、かと言って彼女の本名も知らず、適当な偽名で呼ぶのも不自然であり、仲間が使っている呼称を拝借するのが無難であるという経緯であった。





 店から出て、エールゼクスはアードライと共に宿舎への帰路を辿るものの、互いに無言の状態が続いていた。煌びやかな街の灯も喧騒も、宿舎が近付くにつれて徐々に暗く、静かになっていき、エールゼクスにとっては夢の世界から現実へ引き戻されるようでもあった。

「……やはり静かな方が落ち着くな」

 アードライが己の胸中とは真逆の事を言って、エールゼクスはびくりと肩を震わせた。

「そ、そうなんだ。私はああいうのも、たまには悪くないって思うけど……」
「『たまには』と言う割には頻繁に外出している様に思えるが」
「ううっ……本当にごめんなさい……」
「君を責めるつもりはない。ただ、心配でな。あのような場所に出向くのは……」

 アードライがいつもと違い言葉を濁しているように思えて、エールゼクスは彼が何を伝えたいのか必死で考えた。心配だといっても、行先は単なる酒場である。あのような場所、という言い回しをするような危険な場所でもない。寧ろ普段の任務の方が余程危険である。
 ぐるぐると思考を巡らせた結果、「男ひとり軽くあしらえないような『幼い』己は、まだ酒場に行くのは早い」と言いたいのだろう、という結論に至った。

「アードライ、もう今夜で最後にするつもりだったから、大丈夫。もう迷惑掛けないよ」
「別に迷惑だとは思っていない。それに最後にしなくとも、誰かと一緒に行けば良いだろう」
「誰と?」
「クリムヒルト少佐や、それに君には友人がいる。軍で同性の気心知れた仲間が出来たのではないか?」

 その言葉に、エールゼクスは思わず足を止めた。まさかアードライが己のことをそこまで見ていると思わず、無性に嬉しくなってしまったからだ。いつもエルエルフと共にいて、己の事など気にも留めていないと思っていたのだ。

「……うん、女子の友達は出来た。けど、皆それぞれやるべき事があるし、今日は予定が合わなかったから」
「そのような時に、私達に声を掛けるのはやはり難しいか?」
「え? ううん、そんな事ないけど……いや、嘘。皆それぞれ自分なりの余暇の過ごし方を確立してるって思って、そもそも声を掛けようとすら思ってなかった」

 アードライはエールゼクスが立ち止まった事にすぐ気付き、目の前まで来れば、腰を屈めてエールゼクスの顔を覗き込んだ。

「候補に上がらない程、君にとって私が遠い存在になってしまっているのは心外だな」
「だって、アードライはいつもエルエルフと一緒にいるし……」
「君と一日共に過ごすぐらい、造作もない事だが」
「そ、そう? それなら、お言葉に甘えて今後はお誘いさせて頂きます……」

 決して恋愛感情などないと分かり切っているというのに、エールゼクスは妙に気恥ずかしくなり、つい敬語になってしまった。
 あくまでカルルスタイン機関の頃からずっと関係が続いている『仲間』だからであり、そこに恋愛感情などはない。己はともかく、アードライにあるわけがない。エールゼクスは心の中でそう何度も言い聞かせつつも、嬉しさと気恥ずかしさでどうにも平常心が乱されて、俯いてしまいアードライの顔をまともに見る事が出来ずにいた。

「これで解決だな。誰かと一緒に行動するなら『これが最後』にしなくても良いという事だ」
「でも、エルエルフが怒らない? 夜遅くまで遊んでる暇があったら鍛錬しろ!って」
「エルエルフも誘えば良い」
「いや、遠慮します」

 明らかに冗談だというのに、そもそもエルエルフが誘いに乗るなんて絶対にあるわけないし、何を言われるか分からないから誘いたくない、などと考えていると、突然アードライに手を取られて、エールゼクスは漸く顔を上げた。

「早く戻ろう。エルエルフの機嫌がこれ以上悪くならない様にな」
「うわ、怒られないといいけど……」
「その為にも、君は一人で動くより誰かを道連れにした方が良さそうだ」

 散々迷惑を掛けたというのに、まるで怒る様子を見せないどころか優しいアードライに、エールゼクスは申し訳なさを感じつつも心から安堵していた。
 手を繋いで夜道を歩いていると、ふと機関にいた頃の記憶が蘇った。

「アードライは変わってないね。昔も、今も」
「それは、褒め言葉と受け取っていいのだろうか……君が否定的な事を言うとは思えないが」
「当然、良い意味だよ。私が落ち込んだり困ってる時、いつもこうして手を繋いでくれたなあ、って」
「不快ではないか?」
「どうして? 嬉しいよ」

 珍しくアードライが己の様子を窺うように訊ねて来て、エールゼクスは素直に思った事を口にした。が、あまりにも考えなしだと気付いた時にはもう遅かった。手を繋いでくれて嬉しい、だなんて。幼かったあの頃ならともかく、もう十代後半にもなる今の年齢になって言う事ではない。今の発言を訂正しようと思ったものの、この繋いだ手を解いて欲しくない気持ちが勝ってしまい、結局何も言えなかった。

 繋いだ手はあたたかく、幼かったあの頃と変わらない。きっと、彼が己を助けてくれた、初めて出逢ったあの日から、ずっと彼に恋しているのかもしれない。異性として意識していないと言ってしまえば、それは嘘になる。
 エールゼクスは漸く自分の気持ちに素直になれたが、それを言葉にする事は許されない。漸く、全てを失った日からずっと夢見て来た軍人になれたのだから、今は愛だの恋だの現を抜かしている暇はない。軍人としての責務を果たさなくては。エールゼクスは必死にそう自分に心の中で言い聞かせながらも、繋いだ手を解くことなど出来ずにいたのだった。

2019/12/08

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