泥中の蓮


 カルルスタイン機関には、外部では知り得ない掟がある。『不審者、内通者、脱落者、目撃者は殺せ』。入隊を認められた訓練兵はこれを遵守する必要があった。
 また、訓練兵は主に少人数の班を作って行動する。その中で、万が一裏切者が現れた際は――例え仲間であっても殺すのが、この小さな世界のルールであった。

 エールゼクスというコードネームを与えられ、本名を呼ばれる事も完全になくなった少女は、いつからかこの名前と称するには些か不自然である呼名にもすっかり慣れていた。最早、本名すら忘れそうになるくらいに。
 それほど、このカルルスタイン機関での訓練は過酷であり、いつ無駄死にするか分からない命懸けの日々であった。

 全てにおいて連帯責任、という大前提が存在するからでもあるが、班の仲間との生活は、少女――エールゼクスにとって心の支えであった。入隊を志願した以上、逃げる事は許されない。そもそもこのカルルスタイン機関に残っている訓練兵は皆、罪のない人間を命を奪っているのだから、自分だけ楽になりたいなど、初めから許されない感情なのだ。
 だが、今が辛い事に変わりはない。
 だからこそ、まだ見ぬ未来に希望を抱く。

「今耐えれば、いつかは立派な軍人になれるから、皆で頑張ろうね」
「エールゼクスも軍人になりたいのか?」
「だって、ここってその為の機関でしょ?」
「いや、女なら後方支援とか裏方とか……軍の仕事って言っても戦うだけが全てじゃないだろ」
「うーん……でも私、カイン様みたいな立派な軍人になりたいって夢があるから」

 班の仲間との雑談で、エールゼクスがそう言うと、話し相手だけでなく他の仲間たちも驚きの表情を浮かべて集まって来た。

「いや、それはさすがに夢見すぎだろ」
「夢見るくらいいいじゃん」
「確かに、目標は引くよりも高いほうが、着地点も変わって来るかもしれない」
「着地点?」
「機関を卒業した後の話さ。志を高く持って結果を出せば、単なる使い捨ての駒で終わらずに出世出来る」

 現実はそう甘くはないのだが、皆、そう言い聞かせて自分を奮い立たせているのだった。そうでもしなければ正気を保てない。脱落者は殺されるのだから、毎日が生きるか死ぬかの瀬戸際であった。

 他所の班では六人のうち一人が内通者であることが判明して、規則通り残りの五人が内通者を始末したのだという。そんな話を聞かされれば、エールゼクスだけでなく皆、下手な事は考えないほうが身の為だと、口にせずとも理解していた。

 初めは他人同士だった班員も、日々苦楽を共にすれば自然と仲間意識も芽生える。お互いに大切な仲間であり、死ぬ時は皆一緒である。誰かが欠けるなど、この時は誰も思うわけがなかった。





 この日の任務では、エールゼクスだけ別行動であった。仲間たちは敵地の内部へ潜入しているというのに、彼女だけ待機地点で待たされるよう言われたのだ。通信機で連絡は取れるものの、これではまるで「お前は足を引っ張るから待機していろ」と遠回しに言われているようなものではないか。エールゼクスは勝手にそう思い込んで内心腹を立てていた。

 尤も、緊急事態が発生した時の為に待機する人員はいるに越したことはないのだが、よりによって己だけ、というのがエールゼクスにとっては不満であった。過去に仲間から「女なら後方支援とか裏方とか……」などと言われたことを思い出して、女に生まれたというだけでカインのような軍人になれないと思われているのだと、思考はどんどん悪い方向へ進んでいった。エールゼクスとて夢物語として語ったのではなく、ドルシアには女性の軍人もいると孤児院にいた頃にカインから聞いており、自分が本当にそうなれるかは別として、裏付けがあるゆえの発言である。

 不貞腐れていたエールゼクスだったが、ふと身に付けている腕時計を見て、戻りが遅い事に気が付いた。あっさりと肩が付いて雑談でもしながらのんびり歩いているのか、それとも、戻り時間が遅くなるほど予定が狂うような事態が発生したのか。まさか――最悪の自体が脳裏をよぎったが、それを打ち消すようにエールゼクスは無心で鞄から通信機を取り出し、仲間の一人へ発信する。少し時間がかかった気がするが、繋がった。

「こちらエールゼクス。聞こえる?」

 問い掛けても返事はない。暫し間を置いた後、通信機の向こうから『生き残りだ』『傍受しろ』と叫ぶ声が聞こえた。

 エールゼクスは慌てて通信を切ったが、何が起こったのか嫌でも認識せざるを得なくなり、血の気が引いた。きっと通信を切るまでの間に傍受され、この場所も把握されているだろう。敵が残党狩りでここに来るのも時間の問題だ。

 仲間が出るはずの通信機には誰も出ず、敵と思わしき複数人の声が聞こえたのが意味するのは。
 要するに、仲間はもう殺されている。
 そして、己に残された時間は僅かだという事だ。

 エールゼクスは死期を悟り、その場から動かなかった。動けなかったと言ったほうが正しい。
 班員とは一蓮托生であり、己ひとりが誰かに助けを求めるなどあってはならない事だ。そもそも、誰に助けを求めろと言うのか。教官に連絡を取ることは可能だが、それも敵に傍受されてしまうのではないか。そうなれば己は敵に秘密を漏らした事になり、仮に助けられたとしても脱落者と見做されて殺されるであろう事は明白であった。

 ここで敵に殺されるのを待つしかない。
 エールゼクスに残された道は、それだけだった。

「カイン様……」

 己を助け、導いてくれた恩人の名が自然と口から零れる。カインはカルルスタイン機関の教官であり、つまりエールゼクスとは今も繋がりはあるが、私情を持ち出すことは許されない。それに、カインはドルシア改新に伴う王党派狩りで戦地に駆り出される事が多く、ゆっくり会話するどころか対面する機会も少なかった。
 仮に今カインが機関に戻っていたとしても、それならば尚更連絡を取るのは躊躇われた。せめて最期に声だけでも聞きたい――そんな甘い考えが脳裏をよぎりつつも、エールゼクスはそれを振り払うように通信機を鞄の中へ追いやった。

 逃げ場もなく、殺される時をただじっと待っていなければならないなど、まるで死刑囚だ、とエールゼクスは心の中で嘆いたが、そもそもこの機関へ入隊する際に罪の無い人間を殺しているのだから、いざ自分がその立場になった瞬間に嘆くなど、調子のいい話だと自嘲した。
 きっと己はこうなる運命だったのだ。運命の悪戯で、故郷でただひとり生き残ったが、結局はこうなる運命だったのだ。数年間、夢を見られただけでも幸せだったのだろうか。それとも、両親と一緒に死んでいた方が幸せだったのか。まとまらない思考がぐるぐると頭の中を駆け巡り、次第にエールゼクスの双眸から涙が零れた。



 最早腕時計に目を遣る気力すらなく、どれくらい時間が経ったのかも分からなかった。いっそ早く殺しに来ればいいと自暴自棄になりかけたエールゼクスだったが、足音が聞こえて、身構えた。
 耳を澄まして、辺りを入念に見回す。足音のする方向は、敵地の方角ではない。だが、どちらにせよ己は死にゆく運命なのだと、エールゼクスは自衛する気も起きず、銃を手に取ることもなかった。

 人の姿を肉眼で捉えられるほどの距離まで詰められ、エールゼクスは息を呑んだ。ここまで来たら、わけがわからないまま死ぬのは嫌だ。意味がある、ないに関わらず、相手の顔をしっかりと拝んで、呪いながら死んでやる。そんな事を思いながらこちらへ駆けて来る相手の姿を捉えた瞬間、エールゼクスは全身から力が抜けた。

 こちらへ駆けて来る少年は、己と同じカルルスタイン機関の服を着ていたからだ。
 それが援軍とは知らず、エールゼクスはただただ敵ではない事に安堵した。やはり、どうせ殺されるなら仲間のほうがいい。仲間が来たという事は、全てが分かれば己は脱落者として始末される。それならもうそれでいい、と半ば諦めの境地であったが、ほんの少しだけ救われた気がして、エールゼクスはその場に倒れ込んだ。



「大丈夫か!? 怪我は!?」
「……ええと、私は待機していただけだから、怪我は何も」
「良かった。もう大丈夫だ」

 これから殺されるというのに何が大丈夫なのか。駆け付けた少年はエールゼクスを抱き締めたが、この後脱落者として始末されるであろうことを思うと、エールゼクスは気休め程度の優しさなどいらないと押し退けたくなった。引き剥がそうと顔を上げた瞬間、少年の顔が視界に飛び込む。
 紫の瞳。肩まで切り揃えられた薄紫色の髪。美しい容貌に、彼がただの少年ではない事をエールゼクスは察したが、そんな事はどうでも良かった。
 どうせこの後私を殺すのだから優しくするなと、エールゼクスは口に出さずとも目で訴えたが、相手の少年は当然そんな胸中など知る由もない。

「気に障ったなら、ごめん。でも、本当にもう大丈夫だ」
「嘘」
「嘘じゃない。教官の命令で援軍に来たんだ」

 そんな優しい嘘はいらない、とエールゼクスは少年を睨み付けたが、少年の言葉を裏付けるように、同じ服を身に纏う訓練兵たちが己たちの横を通り過ぎて行く。

「アードライ、その子は任せた!」
「分かった」
「ふん、大勢で行く必要なんてない。俺一人で充分だ」
「頼んだぞ、エルエルフ」

 己より年上に見える活発そうな少年と、銀髪を靡かせる少年が、エールゼクスの傍に寄り添う少年と二言三言交わし、敵地のある方角へと走って行く。その後ろを更に二人の少年が追っていく。

 何が起こっているのか分からなかったが、エールゼクスはひとまず目の前の少年を信じてみる事にした。

「『大丈夫』って、処刑までの間、身の安全は保障するっていう意味でいい?」
「処刑?」
「班で私一人が生き残っちゃったんだから、脱落者扱いでしょ?」
「君は待機命令でここにいただけだ。皆を見捨てて生き残ったわけじゃない」
「同じことだよ」
「違う」

 迷いのないまっすぐな瞳で、あまりにもきっぱりと言い切るものだから、エールゼクスも圧されてしまい、それ以上何かを言うのは止めにした。

 後に、この任務は難易度が高く失敗に終わる可能性があり、援軍として他班が近くで待機していた事を知らされ、エールゼクスは初めから己たちは敵を油断させるための捨て駒だったのだと悟った。本軍はエールゼクスを助けに来た少年のいる班であり、己とはレベルが違う集団なのだと知り、本当に自分は今まで叶うわけもない夢を見ていたのだと恥ずかしさすら覚えた。

 だが、処刑を覚悟していたエールゼクスは、援軍の班の少年たちと共に帰還した後、信じられない事を命じられた。
 援軍に来た班に欠員が生じている為、彼らの班に入れという命令である。
 欠員者の名はエフゼクス――つい前に、内通者と判明して始末された少年であった。

2019/09/07

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