バッド・ディシジョンズ

 怜くんから直接話を聞いて、逆に水泳部の皆は大丈夫だって思えた。根拠は何もないけれど、怜くんの頑張りを私よりもずっと傍で見ている水泳部の皆が、怜くんを邪険にするなんて考えられない。この間、怜くんの家に行った時に見た、本棚にある水泳関連の書籍の数々を見て、改めてそう気付かされたのだ。

 地方大会までの日数はもう片手で足りる程になり、何やらクラスの皆も応援に行くと浮足立っていた。入学したばかりの頃、葉月くんが必死に勧誘していた時は、誰も水泳なんて興味がなかったのに、県大会で良い結果が出て地方大会に進出するとなった途端、一気に皆の見る目が変わったのは私も感じ取っていた。もちろん嬉しくはあるけれど、水泳部の皆が遠い存在になってしまう気がして、ほんの少しだけ寂しい、なんて、怜くんの練習風景を眺めながら、少しだけ意地の悪いことを思ってしまった。

 練習を見ている限り、わだかまりは一切ないように見えた。当然、私は皆の心境なんて分かるはずがないのだけれど、怜くんと七瀬先輩の息の合ったバトンパスを見て、私が心配する事は何もない、と思うことにした。
 そもそも、本当に問題があったら江ちゃんに何らかの変化があるはずだ。江ちゃんは毎日マネージャー業務に励んでいて、笹部コーチと共に皆を鼓舞している。お兄さんの凛さんと怜くんは、きっと冷静に話し合ったのだと思うし、そうでなければ妹の江ちゃんの耳には絶対に入っているはず――私はそう決め付けて、あまり詮索はしなかった。

 仮にこの時、もっと凛さんのことについて踏み込んでいれば、地方大会でのあの結末は違っていたのかもしれない。……いや、きっと、私が何をしたところで、何も変わらなかったのだろう。私にはそこまで踏み込む権利もなければ、何かを変える力もないからだ。
 私が自分の無力さを痛感するのは、地方大会当日の事だ。今はまだ、あんな事が起こるなんて微塵も知らなかった。




「よし、俺がお前らに教えられる事は全部教えた! 後は力を出し切るだけだ!」
「ファイヤー!」
「その横断幕、すごく恥ずかしいんですけど……」

 地方大会前日。気持ちいいほどの快晴の下、岩鳶駅前で江ちゃんと千種ちゃん、天方先生、そして笹部コーチと共に、横断幕を持って水泳部を見送りに来たのだけれど、盛り上がってくれた葉月くんとは対照的に怜くんは若干引いている感じだった。このイワトビちゃんとかいう、ゆるキャラの筈が全くゆるく見えないキャラクターの絵が拙かったのだろうか。それとも色遣いが派手すぎたのか。
 公共の場という事もあり、怜くんの気持ちも分からないでもない……と思ったけれど、逆に七瀬先輩はいたく気に入っていた。というのも、このゆるく見えないゆるキャラ、七瀬先輩が描いたものらしい。私には七瀬先輩の美的センスを理解する日は来なさそうだ、と心の中で呟いた。どことなく浮世離れしているし、先輩らしいとは思うけれど。

「それじゃ、私たちは明日の朝イチで会場に向かうから」
「皆さんは会場近くのホテルで、ゆっくり体を休めてください!」

 天方先生と江ちゃんが皆に声を掛ける。私も地方大会は、事前にアルバイトも休みを取って、まる一日応援に費やすつもりでいる。今日はこうして皆を見送った後はバイトがあるけれど、夕方からは時間が空いているので、江ちゃん達の手伝いをするつもりだ。今手に持っている横断幕とは別に、本番用のものも作るのだ。

「古代ローマの軍人、カエサルの名言にもあります。ここを渡れば人間世界の悲惨、渡らなければ……」
「あ、バス!」
「えっと、それじゃ……」
「行ってきます!」

 天方先生が語ろうとした瞬間、会場行きのバスが来てしまい、水泳部の皆は慌ててバスへと乗り込んで行く。私はあくまで付き添いでここに来ただけなのだけれど、考えるより先に、無意識に声が出ていた。

「怜くん!」

 バスに乗ろうと背を向けていた怜くんが、ちらりとこちらに顔を向け、目が合った。

「明日、頑張ってね! 怜くんなら出来る!」
「任せてください!」

 私の言葉に、怜くんは眼鏡をくいと上げる仕草をして、自信満々な笑みを浮かべてみせた。バスの奥で葉月くんの「怜ちゃん、それフラグ〜」なんて声が聞こえて来て、つい笑いそうになってしまったけれど、怜くんなら、皆なら出来る。そんな、根拠のない自信に包まれていた。きっと私だけでなく、江ちゃんも、皆そうに違いなかった。
 ちなみに、フラグというかバスの中で怜くんが盛大に車酔いをする羽目になるなど、当然私は知りもしないのであった。



 その日の夜、バイトを終えた私は夕飯も早々に終わらせて学校へ駆け付けて、蛍光灯が煌々と光る教室で、明日の応援のための横断幕を江ちゃんと千種ちゃんと一緒に作った。こうやって皆で協力して何かをすると、少なからず役に立てた気がして充実感がある。入学したばかりの頃の私は、まさか自分が人のために動くなんて、思いもしなかったに違いない。

 皆で横断幕の絵がどうのこうのと言い合っていると、私たちがまだ残っていることに気付いた天方先生が、教室を覗きに来た。

「皆、早く帰らないと。明日も朝早いんだから」
「あ、はい、もうちょっとで……ん? お兄ちゃん?」

 話も途中の状態で、江ちゃんの携帯電話が鳴った。どうやらお兄さんからメールが来たようだった。そういえば、当然お兄さんの高校――鮫柄学園も地方大会に出るのだし、明日の本番に向けて連絡を取り合ってもおかしくない……のだけれど、ごく普通のやり取りにしては、江ちゃんの様子が変だ。離れて暮らしている凛さんが明日大会に出て、岩鳶の皆だけでなくお兄さんのことも応援出来るのだから、嬉しい出来事の筈なのに、江ちゃんは不可解そうに眉を寄せながら、メールを打っていた。

 凛さんへの返信が終わったのか、暫くして江ちゃんは私に向き直って、真剣な眼差しを向けて訊ねて来た。

「悠ちゃん。お兄ちゃんと怜くんが何かあったか知らない?」
「え?」

 突然話を振られて、頭が真っ白になった。怜くんと凛さんが何かあった――というのは知っている。けれど、私が知っていることはすべて怜くんから聞いた話だけで、実際にその場に居合わせたわけではない。それに、怜くんが私に本当にすべてを打ち明けたとも限らない。
 私が知っている事実は、怜くんが凛さんに会いにいったこと。そして、怜くんから聞いたのは、鮫柄学園の代表としてリレーに出る凛さんに対して、自分たちの邪魔をしないで欲しいということと、自分はチームの一員としてリレーに出ると伝えたということだけだ。凛さんが突然リレーに出ると言った行動原理は、まだ誰も知らない。

 勿論、怜くんが嘘を吐くとは思っていないし、私に打ち明けてくれた内容は事実なのだと思う。けれど、その時どういう状況だったかは分からない。冷静に話し合ったのか、喧嘩腰だったのか。凛さんの言い分だってあるだろう。それらがすべて明確でない以上、私が自分の判断で勝手に怜くんと凛さんのやり取りを伝えることは出来ない――そう思った。

「私はそこまで踏み込んでなくて……江ちゃんが知らないことは私も知らない、と思う」
「うーん、そう……。怜くんも悠ちゃんになら何でも話してると思ったんだけど」
「私より葉月くんのほうがよく知ってると思うよ。力になれなくてごめんね」

 最初に「思う」なんてついうっかり言ってしまって、江ちゃんに追及されるんじゃないかと不安だったけど、とりあえずは大丈夫だった。江ちゃんも多少引っ掛かりはしただろうけど、私を問い質したところで解決しないと思ったのかもしれない。
 江ちゃんにあえて打ち明けないことに対して罪悪感が沸かないわけではないけれど、大会前日に下手に中途半端なことを説明して、それこそチームが滅茶苦茶になってしまってはいけないと思った。伝えるのは、大会が終わった後でいい。たぶん、私の判断は正しかったと思う。

「ねえねえ、一野瀬さんって水泳部の人と付き合ってるの?」
「えっ!? つ、付き合ってないよ!?」
「花ちゃん! 悠ちゃんを弄るのやめなさ〜いっ」

 見送りの際に名指しで応援したり、そして今の江ちゃんとのやり取りで、さすがに千種ちゃんも色々と勘付いたようだった。尤も、自分が口にした通り、全くもってそういう関係ではないのだけれど。
 怜くんと凛さんのこともそうだけど、私の怜くんへの想いを打ち明けるかどうかも、大切な地方大会が終わってからでいい。前者については私が危惧している間に、様々なことが解決しているかも知れないし。

 ただ、江ちゃんが私に怜くんのことを訊ねてきたのは、つまり、凛さんが江ちゃんに送ったメールが怜くんに関することだと推察出来る。果たして、何も知らないふりをするのが得策だったのか、少しだけ迷いが生じてしまった。今更撤回することなど出来ず、心の内に秘めるしかない。




 翌朝。あまり寝付けなくて起きるのが辛かったけれど、ここまで来て当日寝坊して応援に行けません、なんて情けない事態になっては一生立ち直れそうにない。怜くんのため、怜くんのためと呪文のように何度も自分の脳内で唱え、気合で起き上がれば急いで準備を済ませた。

「行ってきます!」

 玄関先で見送る家族に手を振って家を出る際、背中越しに「すっかり明るくなったわね」なんて声が聞こえた。急いでいて気にする暇もなく、待ち合わせ場所に向かったけれど、やっぱり私も成長したのかな、と少し自惚れてしまった。本当にただの自惚れだって、後になって知ることになるのだけれど。




 江ちゃん達と合流して会場へと向かっている間、結構遠くて途中で車酔いしそうになって、ふと、怜くんは昨日大丈夫だったのかなと心配になった。前に合宿に行った時、私も怜くんも船酔いしていたし……私はともかく怜くんは試合を控えているのだから、何ともないと良いのだけど。ふと葉月くんの「怜ちゃん、それフラグ〜」という台詞が脳裏をよぎって、尚更不安になった。って、私が不安になってどうするのか。応援に来たんだししっかりしないと。

 そんな事を考えている間に会場へ辿り着いた。さすが地方大会となると大きな会場で、私は自分が出るわけでもないのに胸が高鳴った。自分が主役ではないけれど、自分の好きな人がここで泳ぎを披露するなんて、それを考えるだけでも気分が高揚する。今の時点でこんな状態だと、実際に泳ぐ怜くんを見たら私は卒倒してしまうんじゃないだろうか。

 会場に入った後すぐ、千種ちゃんが応援席を確保しに行ってくれた。それから少しして、水泳部の皆も会場に現れた。

「よっ、来たか!」
「おはようございます」
「おはよう〜」

 笹部コーチの声掛けに、挨拶をする水泳部の皆。顔色もよく、コンディションは良さそうに見える。道中不安になったりもしたけれど、杞憂に済んで本当に良かった。胸を撫で下ろしたのも束の間、江ちゃんはすかさず怜くんに駆け寄って耳打ちしていた。

「昨日お兄ちゃんと何かあったの?」
「えっ……いえ、明日はお互いに頑張ろうという話をしただけです」

 盗み聞きするつもりはなかったのだけれど、聞こえてしまったのだから仕方ない。怜くんはたぶん嘘を吐いている。嘘、というより凛さんの妹の江ちゃんに余計なことは言いたくないのだろう。江ちゃんが追及するより先に、席を外していた千種ちゃんが戻って来た。

「応援席確保完了です!」
「ありがとう!」
「んじゃ、行くか〜」

 笹部コーチがそう言って、私たちは水泳部の皆と離れることになった。私は部外者だし気にしないようにしようと思ってはいても、どうしても気に掛かってしまって、視線がどうしても怜くんのほうに向かう。そんな私の視線を感じたのか、怜くんもちらりとこちらを見て、目が合った。試合直前なのだし余計な心配を掛けてはいけない。私は応援に徹しないと。余計な勘繰りは不要だ。そう自分に言い聞かせて、私は精一杯笑みを作ってみせた。

「怜くん、頑張って!」
「ありがとうございます、悠さんの応援があれば心強いです!」
「悠ちゃん、怜ちゃんだけ応援〜? 酷いよ〜!」

 怜くんの後ろから葉月くんが顔を覗かせて、頬を膨らませて怒ってみせた。それが演技というのは分かっているのだけれど、怜くんが心配なあまり周りが見えていなかった。いけない。個人種目はともかくリレーは全員で力を合わせないといけないというのに。

「ごめん! 怜くんのことが心配でつい……」
「冗談だよ、悠ちゃんにとって怜ちゃんが特別なのは僕たちも充分分かってるし」

 しどろもどろに言い訳をする私に、葉月くんはこっそり耳打ちしてきた。『特別』、なんて改めて言われて顔が熱くなるのを感じた。別に私が一方的に特別だと思っているだけで、当の怜くんはそうじゃないのに。頭ではそう分かっていても、心はそうもいかないのだ。

「何の話ですか?」
「なんでもない! えっと、皆さんなら絶対大丈夫です! 微力ながら、応援させて頂きますね!」

 怜くんが怪訝な顔で私たちを見てくるものだから、私は慌てて葉月くんと距離を取って、水泳部の皆を見遣って応援の声を投げ掛けた。葉月くんと橘先輩は私の気持ちを分かっているから、優しい笑みを浮かべて頷いてくれた。そして、七瀬先輩は――相変わらず何を考えているのか分からない無表情でマイペースな様子だけれど、県大会の個人戦で起こったような事にはならないと思えた。あの時のリレーのように、皆で力を合わせて良い結果を出せるに違いない。

「悠ちゃーん、置いてくわよー!」
「あ、今行く!」

 遠くで私を見守っていた江ちゃん達に呼ばれて、私は皆に一礼してその場を後にした。
 県大会のリレーのような奇跡がまた起こる、私はそう思っていた。思い込んでいた。まさかあんな事になるなんて、私だけでなく、ここにいる誰もが思っていなかった。

2019/04/14
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