ザ・ライト・イズ・カミング

「悠さん、この辺りの道は分かりますか?」
「ううん、全然……」
「まあ、友達が住んでいない限り、こんな住宅街まで来る事もないですよね」

 己の家への道程など知らない、というか知るわけがないであろう彼女の手を引きながら帰路を辿っているのは良いものの、徐々に気恥ずかしさに襲われて、果たしていつも通りに振る舞えているのか不安であった。そもそも恋仲でもないのに、こんな風に馴れ馴れしく手を繋ぐのは彼女にとって不快ではないだろうか。彼女から手を繋いで来る分には特に気にならないのだが――というか、振り返ってみると彼女が積極的な態度を取るのは、無人島での合宿や夏祭りといった、決まっていつもの日常とは異なる環境の時だ。普段は寧ろ己と距離を取っているような気がしないでもない。ならば、開放的な気分になっているからこその行動なのだろう。そう解釈すると、今己が馴れ馴れしくも彼女の手を引いているのは、一体己は彼女の何なのだというツッコミがどこからか入って来そうである。

「あらっ、竜ヶ崎さん家の弟さん」

 家の近所に差し掛かったところで、母親と仲が良い近隣住民と出くわして、己の堂々巡りの思考は一旦リセットされた。

「こんにちは、いつも母がお世話になっております」
「いえいえ、こちらこそ〜……って、あら、彼女さん?」
「えっ!? いや、あの」

 まさかそんな言葉が出て来るとは思わず、ついしどろもどろになってしまったのだが、普通に考えて高校生にもなる男女が手を繋いで歩いていれば、そう思われるのは至極当然の流れである。

「若いっていいわね〜」

 肯定も否定も出来ないまま、母の知人は去ってしまった。呆然とその後姿を見送るしかなかったのだが、それよりも今はやるべき事がある。誤解を招く行動を己が取ってしまった事を謝らなければ。謝罪すべき相手の顔をちらりと窺うと、彼女は頬を紅潮させて俯いていた。

「悠さん、あの……申し訳ありません……」
「えっ、なんで怜くんが謝るの?」
「悠さんが僕の彼女だと誤解されてしまったのに、きっぱり否定しませんでしたから」

 驚いて己の顔を見上げた彼女にそう言うと、その顔は更に赤く染まった。

「いや、でも、怜くんが謝ることじゃないし」
「それでも申し訳ないですよ。僕なんかの恋人にされては悠さんも迷惑でしょう」
「そんなことないよ! 迷惑どころか……」

 彼女は大きな声でそう言った瞬間、しまったとでも言い出しそうな何とも言えない引き攣った表情をして、かと思えば気まずそうに己から目を逸らして、視線を地面に落とした。彼女の心境を理解することは難しいが、これだけは言える。己も彼女も今この瞬間はろくに頭が働いていない。この夏の暑さのせいだ。彼女の場合アルバイトに加え、己たち水泳部への顔だしや差し入れもしていて疲れ気味なのかもしれない。
 今己がすべき最良の行動は、彼女を一刻も早く涼しい部屋に連れて行くことであろう。




 自宅のマンションに着き、なんだかんだでここまで手を繋いだままで来てしまった事に、今更ながら気恥ずかしさを感じ、恐る恐る彼女の顔を窺うと、意外にも落ち着いているように見えた。
 エレベーターに乗り、我が家のある階に到着するまでの時間などごく僅かなはずなのに、密室で彼女と二人きりという状況のせいでどうにも長く感じた。互いに無言だから尚更そう感じるのだろう。とはいえ、無言の空間を苦痛に感じないのは、目的がはっきりしているからなのか、手を繋いでいるからなのか、それとも――

 答えを見出せないまま、エレベーターが止まり、扉が開いた。まさか部屋に辿り着くまで手を繋いだままでいるとは我ながら思わなかったのだが、かといって解くタイミングもなかった。これは云わば不可抗力であり仕方のない事である。そう己に言い聞かせつつ、自宅の扉の前で立ち止まった。ふと、片手では鞄の中に入れている鍵を出す事が困難なことに気付き、漸く彼女の手を解くことにした。

「今鍵を開けますね。すみません、繋ぎっ放しで」
「ううん、私こそずっと繋いだままでいてごめんね」
「謝らなくていいですよ、僕が強引に手を引いていたようなものですし」
「そんな風には思ってないから大丈夫だよ、だから怜くんも謝らないで」

 お互いに同じことを言うものだから、どちらともなく顔を見合わせて、笑みを零してしまった。あまり気を遣わなくて良いと彼女に対して思っているのだが、もしかすると、これも性分で彼女の自然体の姿のひとつなのかも知れない。



「お邪魔します」

 玄関から部屋まで歩を進めつつ、己の後ろを歩く彼女をちらりと窺うと、表情が固まっていて随分と緊張して見えた。

「今は誰もいないので、楽にしていていいですよ」
「あ、そうなんだ。でもあまり長居しないようにするね」

 長居はしないときっぱり言われて、一瞬、ほんの少しだけ気持ちが沈んでしまった。いや、一体何を期待しているのか。彼女は遊びに来たのではなく、練習を休んだ己を心配して会いたいと言ってくれたのだ。実質仮病と言っても過言ではないのに、気まずい空気にならないだけでも有り難い。彼女にはきちんと誠実な態度を取らなくては。

 自室に入り、荷物を置いて来客用のテーブルを出し、再び部屋を出ようとすると、彼女もまるで小動物のように己の後ろについて来ていた。

「飲み物を持って来ますので、悠さんは座ってゆっくりしてていいですよ」
「でも、一応お見舞いのつもりで来たから、私も何かお手伝い……」
「あいにく体調不良ではないので、気にしないでください」

 そう言って彼女を残して部屋から一旦出たは良いものの、寧ろ手伝って貰ったほうが親交も深められたのではないかと思い、己の判断ミスを早くも悔やむ事となった。いや、いつもアルバイト先で珈琲を淹れたりしている上に、水泳部のためにわざわざ差し入れまで作ってくれる事もあるのだから、こういう時ぐらい楽にして貰った方が良いのではないか。そう結論付けて、麦茶と来客用の茶菓子を用意して自室に戻った――のだが、やはり最初に危惧した事が正しかったかも知れない。

 部屋の扉を開けた瞬間、テーブルの前で律義に正座している彼女が、こちらへ顔を向けて嬉しそうな顔をしたのが真っ先に目に入ったからだ。大した手間ではないし、これなら一緒に行動した方が下手な気を遣わせなかったかも知れない。

「すみません、お待たせしました」
「怜くん、ごめんね」
「へ?」
「会いたいって言い出したのは私なのに、気を遣わせちゃって」

 そう言って苦笑いを浮かべる彼女を見て、逆に気遣いが足りないと反省するしかなかった。本棚にある本でも読んで暇を潰すよう言えば良かったのだが、今頃思っても後の祭りである。

「いえいえ、悠さんをお招きしたのは僕ですから。それに退屈させてしまってすみません」
「ううん、退屈っていう程待ってないし、大丈夫だよ。ありがとう」

 彼女の微笑に救われつつ、テーブルの上に飲食物を置いて彼女の向かいに腰を下ろした――のは良いものの、どう話を切り出せば良いものかと新たな問題が発生してしまった。彼女が会いたいと言ってきた理由は、練習を休んだ己を心配したからだ。病欠ではないとしたら、尚更訝しく思うだろう。よりにもよって大事な地方大会を目前にして休むなど、心配どころか叱責されてもおかしくない位なのだから。

「あの、怜くん」

 水泳部の部員でもないのに、見返りもないのに、何かと世話を焼いてくれる彼女には、己を叱責する権利がある。もう、何を言われても謝るしかない。

「たぶん、言い難いことを聞いちゃうと思うんだけど……」

 己には彼女の質問に答える義務がある。

「えっと、夏祭りの時、凛さんを追い掛けてたけど……今日練習を休んだのも、それに関係する事?」

 彼女なりに言葉を選んでの発言なのだろう。上目遣いで遠慮がちに、いつもより小さな声で問い掛けるその仕草を見るだけで、相当勇気のいる発言だったであろう事は推察出来た。己にとって言い難いこと、というより彼女にとって聞き難いこと、と称する方が正しいだろう。何故ならば、己は彼女の質問に答える義務があり、それに――彼女に己の心の内を打ち明けることを、不思議と嫌だとは感じないからだ。これも彼女の人徳の為せる業なのだろうか。

「何も知らない悠さんに、ご心配をお掛けしてしまってすみません」
「言い難いことだったら、無理に言わなくても大丈夫だから」
「いえ、ちゃんと順序立てて説明した方が、悠さんに気を遣わせる必要もなくなるでしょうし……というか、大した事ではないんです」

 そう言って苦笑を浮かべてみせると、彼女も少しほっとしたような笑みを見せた気がした。
 本当に、大した事ではない。先程その張本人と対面し、己の中で渦巻いていた蟠りは解けたのだ。もう自分の中で問題は解決している。それを説明するぐらい、容易い事だ。





「そうだったんだ……水泳部の皆と凛さん、小学生の頃一緒に泳いでたっていうだけの話じゃなくて、色々な事情があったんだね」

 込み入った話をしても良いものか若干迷ったが、彼女の性格上、他言する事は考えられない。そもそも皆の前で彼女の口から凛さんの話を出すこともないだろう。寧ろ、わざわざ夏祭りの出来事を切り出してきた辺り、己が今日凛さんに会いに行った事を、渚くんから聞いていると考えるのが自然だ。大会前にこんな休み方をしていては、単なる病欠よりも心配するというものだ。やはり、ここは正直に全てを打ち明けて正解である。

「怜くん、説明してくれてありがとう。というか、自分で聞いておきながら、ここまで聞いちゃって良かったのかな、って気もするけど……」
「僕が勝手に打ち明けた事なので、悠さんはお気になさらないでください」

 彼女は真剣な面持ちで、己の話を聞いてくれた。己以外の水泳部の皆の過去はともかく、己が疎外感を感じていたことを打ち明けるのは少々気が引けたが、これを説明しない以上己の行動理由が彼女に伝わらないので、今更どう思われても仕方がないと腹を括ったのだが、意外にも彼女は己に対して幻滅などはしていないように見えた。それどころか、

「こないだ皆で七瀬先輩の家に行った時も思ったんだけど、なんていうか、絆が深すぎて……ちょっと入っていけないところはあるよね」

 なんて、己に同意するような事を言うものだから、正直驚いた。

「私は元々部外者だし、絆が深いんだな、って流せるけど、怜くんは部活のメンバーなんだし、色々思うところはあって当然だと思うよ」
「……悠さん、珍しいですね。そこまではっきりとご自身の意見を口にするなんて」
「あっ、その、別に水泳部の皆を責めてるわけじゃなくて、私が怜くんの立場だったら、あまり良い気分はしないなって思って……皆良い人で悪気はないのは分かるから、尚更もやもやしちゃうかな、って」

 たどたどしく、遠慮がちにそう告げる彼女を目の当たりにして、やはり打ち明けて良かったと改めて思った。彼女は嘘を吐くような人ではないことは、僅か数ヶ月の間であっても見ていてよく分かっているつもりだ。水泳部の皆を悪いと思っているわけではない事も、それでも己の立ち位置に共感し、己の胸中を肯定してくれた事も、全て彼女の意思なのだと思うと、それだけで幾分か気持ちが楽になった。

「まあ、こうして打ち明けられたのも、僕自身気持ちの整理が付いたからというのもありますし」
「あ……問題はもう解決した、って事?」
「はい。今日、凛さんに直接お会いして、僕はこの水泳部の皆と一緒にフリーを泳ぐと改めて決意出来ましたから」

 そう言うと、彼女は暫くぽかんとしていたが、徐々に頬を染めて俯いてしまった。今言った通り、己のやりたい事、為すべき事の答えは既に出ており、彼女に心配を掛けさせない為にもそう言ったのだが、何か拙い事を言ってしまっただろうか。

「悠さん、僕、何か余計な事を言いましたでしょうか……」
「ううん、違うの! 既に怜くんの中で解決してるのに、余計なお節介を焼いちゃったなって……怜くん、駅まで迎えに来てくれたんだよね?」

 己が失言したわけではない事にほっとしつつ、本当に彼女は心配性だと改めて思い、つい苦笑してしまった。

「悠さんからメールが来た時、ちょうど鮫柄学園から家に帰るところだったんですよ。途中で駅に寄るくらい全然大した距離ではありませんから」
「でも、怜くん駅で待たなかった?」
「いえいえ、悠さんが気にされる程待っていませんので、本当に心配しなくて大丈夫ですよ」

 と言いつつも、実は彼女が駅に到着する時間を計算し、すぐに迎えられるように早めに駅に着いて待っていたなどとは口が裂けても言えなかった。必ずしも正直でいることが誠実とは限らず、時には嘘も方便である。今ここで馬鹿正直に、悠さんが来る時間を予め把握して待っていましたよなんて言おうものなら、気を遣わせるどころか引かれる落ちになるであろう事は想像に容易い。

「悠さんにご足労をお掛けして、僕なんかのことを気に掛けて頂けて、嬉しい――と言ったら語弊がありますが、こうして話せてなんだかほっとしました。きっと僕は、誰かに肯定して欲しかったのかもしれません」
「私なんかでも役に立てたなら良かった」
「じゅうぶん役に立ってますよ! 悠さんが水泳部に顔を出してくださるだけで、どれだけモチベーションが上がっているか……」
「ちょっとそれはさすがに褒めすぎだよ」

 今の発言は嘘ではなく本音なのだが、どうも彼女は褒められ慣れていないようで、照れくさそうに視線を逸らせば、麦茶をこくこくと飲み干した。ちょっとした仕草も可愛らしい――などと見惚れている場合ではない。今日休んだ分の遅れを、明日から取り戻さなくては。彼女がこうして己を心配し、会いに来てくれたのは、あくまで水泳に打ち込んでいる己に憧れているからなのであり、恋愛に現を抜かす己ではないだろう。そこを勘違いしてはならない。今はひたすら水泳に専念する時だ。

「怜くん」

 己の名を呼んだ彼女は微笑を湛えていて、どこか芯の強さを思わせるような真っ直ぐな目線を己に向けていた。

「水泳部の皆も、怜くんのことをちゃんと大切な仲間だと思ってると思う。部外者だけど、それでも皆のことはそれなりに見てきたつもり」
「そうでしょうか……あ、いや、悠さんの審美眼を疑っているわけではないのですが」

 あたふたする己を見て彼女はくすりと微笑むと、この部屋を見回して、再度己と視線を合わせた。

「陸上部を辞めていきなり水泳部に入ることになって、最初は泳げなかったのに泳げるようになって……普通はなかなか出来ないことだし、そういう怜くんの見えない努力を、皆ちゃんと分かってると思うから」

 ふと、彼女が先程見回した箇所へ視線を遣ると、水泳関連の書籍が入った本棚が視界に入った。ここで待たせている間、ただ黙って座っていただけでは決してなく、そういう所に目を向けてくれていたとは。気恥ずかしさはあるが、彼女の言葉は嬉しくもあった。

「ありがとうございます。悠さんがそう言うなら僕も自信が持てます」

 そう答えると、彼女も漸く安心したらしく、目を細めて穏やかな笑みを浮かべた。そういう表情をされると、こちらも平常心を取り繕っていても意識せずにはいられないのだが……いや、彼女にとって己はあくまで憧れの存在というだけであり(彼女と渚くんの言っていることが事実であれば)そこに恋愛感情があるかは分からないのだ。そう脳内で言い聞かせていると、突然、家のインターフォンが鳴り響いた。家族が帰って来るにはまだ早い時間だ。来客だろうか。

「すみません、ちょっと出て来ますね」

 そう言って彼女を部屋に残し、玄関へ出て扉を開けると、そこには見慣れた皆の姿があった。

「やっほー! 怜ちゃん!」

 渚くんだけでなく、遙先輩と真琴先輩もいて、あまりにも突然の訪問に驚いたが、まさに彼女の言葉は正しいのだと早くも証明された気がしないでもない。

「おおっ、悠ちゃん! 有言実行したんだね!」

 渚くんの声が己の後ろに向けて放たれて、振り返るとそこには鞄を持った彼女の姿があった。わざわざ鞄を持っているという事は、まさか。

「渚くんたちも怜くんに会いに来たんだね」
「うん、二人きりのところ邪魔してごめん!」
「ええっ、別にそんな変な雰囲気じゃないから大丈夫だよ〜」

 変な雰囲気とはどういう意味かと心の中で突っ込みを入れたが、まあ言わんとすることは分かる。己に対してやたらと彼女とのことを茶化してくる渚くんの事なので、恐らく彼女に対してもそれに近い事をしているのだろう。

「悠さん、もう帰られるんですね」
「うん、家族に何も言ってないから、遅くなると後々面倒だし」

 そういえば夏の合宿の時も、車で彼女を送っているのを見たが、心配性なのは親譲りなのかもしれない、などと若干失礼なことを思ってしまった。

「駅まで送りますよ」
「ううん、大丈夫! えっと……そう、私はお見舞いに来たわけだし、送って貰うのは申し訳ないから。行きで道順も覚えたから問題ないよ」

 彼女は遙先輩と真琴先輩をちらりと見て、『お見舞い』という言い方を敢えてした。今日練習を休んだのが病欠という事になっているのであれば、これから辻褄合わせをしなくては。ひとまず彼女の気配りに心の中で感謝した。
 大会が終わったらちゃんとお礼をしよう。彼女が己に会いたいと言ったのは、渚くんがけしかけた可能性が高い、というか恐らくそうだとは思うが、経緯はどうであれ彼女の笑顔や言葉にいつも救われているのは、紛れもない事実なのだから。

2019/03/31
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