スウィーター・ザン・フィクション

 翌朝。前日の疲れからか夢も見ずに深い眠りに落ちていた私は、江ちゃんからの突然の電話によって目を覚ました。寝起きで頭が全く働いていなくて、アラームとは違う音である事に気付かず、その音を止めようと寝ぼけ眼で携帯電話に手を伸ばし、画面を見たら江ちゃんの名前が表示されていて、そこで初めてアラームではなく着信音である事に気付いた。とはいえ、まだ夢うつつの状態で、その電話が何を意味するのかも分からないまま、何も考えずに電話を取った。

「もしもし」
『悠ちゃん! 朝早くにごめんね〜!』
「ううん、いいよ〜。どうしたの?」
『怜くん達、リレーに出る事になったの!』

 怜くん、その名を聞いた瞬間、私は一気に現実世界へと引き戻された。

「えっ!? 江ちゃん、なに!? 怜くんが何!?」

 私の声は家じゅうに響き渡るどころか、家の外まで聞こえていたという。




 居ても立っても居られなくなった私は、江ちゃんに怜くんと葉月くんの連絡先を聞いて、二人に連絡を取る事にした。『リレーに出られると江ちゃんから聞きました! 応援以外にも、私に何か出来る事があったら何でも言ってください、協力します』。そう二人にメールを送ったら、少しして葉月くんからメールが返って来た。

『じゃあ早速、これから怜ちゃんとリレーの練習をしたいんだけど、付き合って貰ってもいいかな?』

 当然、答えはYESだ。でも、怜くんはどうなんだろう。協力すると自分で言っておきながら、あまり私が押し掛けて出しゃばるのもどうなんだろう、逆に調子が狂わないだろうか、と一瞬迷ってしまった。葉月くんは私に気を遣って言っているのかもしれないし。そう思って携帯の画面を見つめたまま悩んでいると、ふとメールのCC欄に怜くんのアドレスが入っている事に気が付いた。と同時に、画面にメールの着信が表示される。怜くんからだ。

『無理にとは言いませんが、悠さんがいてくださると僕も更に頑張れます!』

 嬉しい。怜くん、絶対気を遣って言ってくれてるんだと思うけど、例え本心ではなくても嬉しい。ついさっきまでの悩みなんて一気に吹き飛んでしまって、私は即『今すぐ行きます』と返信して、慌てて身支度を始めた。今すぐ行くって、どこに?という自分への単純な疑問が沸いたのは、歯を磨いて、顔を洗って、髪を梳かしている最中だった。

「行くってどこへ!?」

 慌てて洗面所から部屋へと駆け戻り、真っ先に携帯を手に取った。馬鹿な発言を訂正するためだ。けれど、届いていた新着のメールは私の発言にツッコミを入れるものではなかった。

『学校のプールで怜ちゃんとバトンパスの練習をするから、待ってるね!』

 葉月くんは私の短絡的なメールに対して、困惑もせず馬鹿にするでもなく、的確な答えを返してくれていた。更に続けて怜くんからも『急がなくて大丈夫ですからね!』とメールが来ていた。ああ、絶対に馬鹿だって思われた……と少し凹んだけれど、落ち込んでいる暇はない。目的が明確化されたことで、私は漸く時間配分の計算とやるべき事を頭の中で整理することを始めたのだった。




 すっかり来慣れた場所。けれど、休日の朝に来る事なんてなかったから、不思議な感覚だ。別に私が何をするわけではないのに高揚感を覚えて、急がなくていいと怜くんに言われているのに、足が勝手に走り出す。息を切らしながら学校に来て、駆け抜けた先にあるプールサイド。そこで、既に怜くんと葉月くんはバトンパスの練習をしていた。

 私がもたもたしている間も二人が練習に励んでいたのが、経緯を見ていなくても分かった。近くに駆け寄ったのと同じタイミングで、葉月くんが壁に手を付け、その瞬間、怜くんがプールに飛び込む。その姿に見惚れてしまうと共に、あまりにも息がぴったりで、怜くんがつい最近まで泳げなかった事なんて、すっかり忘れてしまうぐらいだった。

 ばしゃり、と水が地面にぶつかる音が聞こえて、我に返った。葉月くんがプールから上がった音だ。葉月くんは私の姿に気付けば満面の笑みを浮かべて、私の傍まで駆け寄って来た。

「おっ、悠ちゃん! おっはよ〜!」
「おはよう、葉月くん。すごい! 二人とも息ぴったりだったね!」
「見ていてくれたんだ、ありがとう! うんうん、今の悠ちゃんの笑顔見たら、お世辞じゃなくて本当にその通りなんだなあって分かったよ」

 言葉にせずともすべてを理解してくれた葉月くんの言葉に、嬉しさを感じると同時に私はそんなに顔に出やすいのかと、少しだけ複雑な気持ちになってしまった。とはいえ、落ち込んでもいられない。自分の事は二の次だ。今日は二人を、水泳部の皆を応援する為にこうして行動しているのだから。

「悠さん、おはようございます! 朝早くにすみません、昨日も遅くまで付き合ってくださったのに、わざわざ来て頂いて」

 私がくだらない事を思い悩んでいる間に、怜くんも泳ぐのを止め水面から顔を出して、こちらへと大きく手を振った。

「怜ちゃーん! 悠ちゃんが僕たちのバトンパス完璧だったってー!」
「本当ですか!? ありがとうございます、悠さん!」
「いや、私は何もしてないけど……」

 怜くんが私にお礼を言うのも何だかおかしな話だと思って、苦笑いを浮かべてしまった。そう、私が今口にした通り、何もしていないし何の役にも立っていない。二人は優しいから私の事を邪魔だとか思わないだろうけど、だからこそ二人の優しさに甘えてはいけない。

「葉月くん、練習はここで切り上げる?」
「うん、僕はもうこれ以上やらなくても大丈夫かなって思うけど、怜ちゃんはどうかな?」

 葉月くんと顔を見合わせて怜くんの方を見遣ると、怜くんはちょうどプールから上がって来たところだった。

「というか、まだ練習時間あるんですか?」
「あ」
「あ」

 怜くんの冷静な指摘に、私は葉月くんと改めて顔を見合わせた後、腕時計に視線を落とした。
 集合時間の存在を忘れていた。
 結構、まずいかもしれない。

「今から向かえば間に合うけど、のんびりしてたら、かなりまずいかも」
「わーっ! 急がないと!!」

 葉月くんが叫ぶと同時に、私は更衣室から予め持って来ていたタオルを二人に渡して、着替えを促した。

「二人とも、出来れば五分以内で着替えて貰えるとありがたいかも」
「了解〜!」
「これ、悠さんが来てくれなかったら間に合わなかったかもしれないですよ!」

 ばたばたと更衣室になだれ込む二人の背中を見送った後、改めて時間を確認した。今のところ間に合いそうではあるけれど、確実ではない。交通事情だとか不測の事態が発生する可能性も無きにしも非ず……と考えると、悠長にしてはいられない。

「悠ちゃん、おっ待たせ〜!」
「行きましょう! 会場へ!」

 かくして、五分以内にきっちりとジャージに着替えた二人と共に、駆け足で最寄り駅へと向かった。時間や本数は決まっているし、走らなくてもまだ間に合うのだけれど、多分みんなどこか浮足立っていて、走らずにはいられない気持ちだったのだろう。朝の眩しい太陽を浴びながら駅までの道を走っている間も、駅に駆け込んで電車に飛び乗る瞬間も、車窓から見慣れた山の景色を見るのも、全てが慣れ切ったことなのに、理由もなく楽しくて仕方がなかった。

 今日という日も私にとってはなんてことない日常だけれど、ふと、こういうのが青春っていうのかな、なんて事を思った。二人と違って、私は特別に何かをしているわけではないけれど、色々な縁があって、好きな人とこうして一緒に行動したり、応援したり、好きな人の友達も凄く良い人で、逆に私が励まされたり……こういう何気ない日々も、きっと大人になって振り返ってみると、懐かしい青春の一ページとなるのかも知れない。




 なんとか無事間に合って、葉月くんの言う『怜くんの失敗フラグ』も回避出来て、なんと、メドレーリレーで岩鳶高校は一位になり、地方大会への出場が決まったのだった。

「嘘……」
「嘘じゃないわよ、悠ちゃん〜!」

 応援席で江ちゃんと天方先生と抱き合って、いつになく甲高い声を上げて喜びを噛み締めた。ただ応援しているだけの私がここまで嬉しいのだから、水泳部の皆の喜びといったら、私には想像も出来ないものだろう。まさか、最後に泳ぐ七瀬先輩がどんどん他の人を追い抜いていって、本当に一位になるなんて。

「これも江ちゃんのお陰だね!」
「ううん、私は何もしてないわ」
「だって江ちゃんがリレーに申し込まなかったら、こうして地方大会に進出することもなかったし」
「そうよ、マネージャーとしての責務をしっかり果たしてくれたわね」

 私と天方先生に言われて、江ちゃんは頬を赤く染めて照れ臭そうに微笑んでみせた。その笑顔があまりに可愛くて、江ちゃんはまるで勝利の女神だ、なんて事を思った。私が男子だったら間違いなく惚れてしまうに違いない。そう、例えば怜くんだって、私に好かれるよりも江ちゃんに好かれる方が、余程嬉しいんじゃないだろうか。って、駄目だ、こんな事を考えたら。そもそも怜くんは私にとって憧れで、ただ見ているだけで良いのだし、それに私が怜くんを勝手に応援していることは、本人の了承を得ているわけだし。怜くんの優しさに甘えている気がしないでもないけれど。

「一野瀬さんだって頑張ったわよ! 失敗フラグ回避はきっと、一野瀬さんの応援のお陰よ!」
「いや、私にそんな力はないですよ」

 ちょっと落ち込んでいるのが顔に出てしまったのか、天方先生が気遣うように私をフォローしてくれた。私の応援は特に影響はないと思うのだけれど、江ちゃんが天方先生に同意するように頷きながら、私の手を取った。

「悠ちゃん、渚くんと怜くんの練習を見守っててくれたのよね? 本当にありがとう!」
「お礼を言われる事は何もしてないよ、本当に」
「いてくれるだけで充分力になるのよ! 悠ちゃんも立派な水泳部の一員だわ」
「えっ、それはさすがに恐れ多いよ」
「いっそ、一野瀬さんもマネージャー補佐として入部しても良いかもしれないわね」
「ええっ、ちょっと待ってください天方先生〜!」

 まるで水泳部の皆の第一歩を、夏の陽射しが眩しく照らしているように見えた。夏はまだ始まったばかりだ。皆にとって、そして私にとっても、きっと最高の夏になる。今からそんな気がしてならなかった。

2018/12/12
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