サワー・キャンディ

 終業式の朝、全校集会にて。校長先生の長いお話をBGMに、校舎に垂れ下がる『水泳部地方大会進出』の横断幕を、私はどこか夢見心地な気分で眺めていた。来年はリレーが出来たらいい、なんて神社で話していたのがほんの数日前だというのに、あの県大会が夢ではなかったことが、風で少し靡いている横断幕が証明している。それに、校長先生も水泳部の事に触れてくれているし。今の今まで閑話だと聞き流していたというのに、『水泳部』の単語が発されただけで、ぼうっとしていた意識がはっきりするのだから、我ながら都合の良い耳だなあと心の中で苦笑いしてしまった。





「ねえねえ悠ちゃん、水泳部凄いね!?」
「私もびっくりしてる……」

 集会が終わった後、教室へ戻る途中で友達がやや興奮しがちに言って、怜くんたちはとんでもない快挙を成し遂げたのだと改めて実感した。入学したばかりの頃、当時はまだ陸上部だった怜くんに一目惚れして友達に相談していたのが、まるで遠い昔のようにすら思える。夏休みが訪れる頃には皆がこんなに高みへと登っているなんて、入学当時の自分に教えても信じないに違いない。

「そういえば悠ちゃん、竜ヶ崎くんとはどうなの?」
「どう、って、別に」

 突然そっちの意味での近況を聞かれて、あまりに不意打ちだったからうわずった声が出てしまった。

「入学したばかりの頃さあ、散々相談に乗ってあげたじゃん。進展があったかどうかの報告ぐらいはして欲しいなあ」
「そうは言っても、アドレス交換したくらいしか……」
「交換したんだ!」
「でもつい最近で、一回しか遣り取りしてないし……それも葉月くんも間に入ってだし」
「でも前進したじゃん! おめでとう〜!」

 友達にぎゅうと抱き締められて、くぐもった声が私の口から漏れた。前進した、と称しても良いんだろうか。だって、向こうに恋愛感情は一切ないわけだし。私が勝手に怜くんを好きになって、周りが面白がっているだけというか……

「悠ちゃ〜ん!」

 今度は離れた場所から葉月くんの声が聞こえると共に、此方へ駆けてくる足音が響いた。友達に抱き着かれたまま、顔だけを声の聞こえたほうへ向けると、葉月くんだけでなく怜くんも一緒にこちらへと駆けて来た。友達が小声で「噂をすれば……」なんて言うものだから、気恥ずかしくなってつい友達の脇腹をつついてしまった。当たり前だけどそんな私の胸中など知らない葉月くんは、屈託のない笑顔で私に訊ねてきた。

「悠ちゃん、今日はこの後バイト?」
「夕方からだから、それまでは予定はないけど……」

 そう言いかけて、私はちらりと友達に視線を移した。水泳部の皆とも居たいけど、いつも部活に勤しんでいる友達ともし都合が合えば遊びたい気持ちもある。友達に予定を聞いてみようとしたけれど、長年の付き合いでさすがというべきか、私の意図を視線だけで理解してくれていた。

「私も今日はこれから部活」
「そうなんだ、残念……。部活、いつもお疲れ様」
「悠ちゃんもバイトお疲れ様だよ〜。夏休みの間はお互い暇な時間もあるだろうし、ね?」

 友達はそう言って私の髪を撫でて、漸く解放してくれた。というか、友達とじゃれ合う姿を怜くんと葉月くんにしっかりと見られていた事を今更認識して、少しだけ恥ずかしくなってしまった。私と友達は楽しいから良いけれど、同い年の男子から見てどうなんだろう、子供っぽいと思われていないかな、と不安になってしまったのだ。

「悠さん」
「は、はい!」

 そんな私の不安は一瞬で払拭された。名前を呼ばれて反射的に顔を向けると、そこには優しい笑みを湛えている怜くんがいたからだ。たぶん、私たちの姿を微笑ましいと思ってくれている……のかも知れない。

「もし良ければ、水泳部に顔出しして頂けると江さんも喜ぶと思います。あ、勿論無理強いはしませんけど」
「ううん、行く!」
「ありがとうございます、お待ちしてますね」
「うん、また後でね、怜くん」

 怜くんはそう言って一礼すると、教室へと歩いて行き、続いて葉月くんも「待ってるね〜」と笑顔で告げて、後を追い掛けていった。
 二人の背中を見送って一息吐くや否や、今度は友達が私の顔を覗き込んできた。目を大きく見開いて私を見つめるその表情は、驚愕とも困惑とも取れる。

「悠ちゃん……」
「な、何?」
「いつの間に竜ヶ崎くんと下の名前で呼び合う仲になってたわけ?」

 水泳部の皆からは特に何も突っ込まれたことはなかったから、すっかり忘れていた。そもそも、下の名前で呼ぶようになったのは、先月末の合宿の時だ。まだ最近の事だし、逐一報告することでもないと思っていたけど、私が友達の立場だったら確かにびっくりする……と思う。

「つい最近かな。なんとなく流れで、自然に……」
「ふ〜ん」
「進展があったらちゃんと報告します」
「って事は、諦めてないんだ!?」
「いや、そういうんじゃなくて!」

 自分で自分の首を絞めてしまった。今の言い方だとまるで進展する事を期待しているみたいじゃないか。そこまで求めていないはずなのに。そう、求めたら駄目だ。地方大会への進出も決まったことだし、怜くんは今が大事な時なのだ。余計な事をして怜くんに余計な気を遣わせてはいけない。私は友達に釈明しながら、そう心に誓うのだった。




「夏祭り?」

 夏休みに入り、徐々にアルバイト中心の生活になりつつある、ある日のこと。友達との電話でお祭りの話が出て、そういえばもうそんな時期か、なんてカレンダーを見ながら思った。やっぱりアルバイトに、勉強に、そして水泳部に顔を出しに……なんて予定が常に入っていると、毎日があっという間で時の流れがとても早く感じる。

「いいよ、行こう行こう! バイトは今からなら休みの申請も間に合うし」
『あ、でも悠ちゃんって……』
「何?」
『水泳部の人達とは行かなくてもいいの?』

 なんで、と言おうとしたけれど、考えてみたら合宿にも同伴させて貰ったし、県大会の応援にも行ったし、正式な部員ではなくても、それに近い立場ではある。かと言って、プライベートまで同伴しても良いものなんだろうか。

「特にそういう話は出てないしなあ……」
『私より竜ヶ崎くんを優先していいからね?』
「なんでそういう話になるわけ!? 片想いしてる相手より友達を優先するよ」
『じゃあ両想いになったら?』
「この短期間でそんな関係になるわけないでしょ」
『短期間じゃなかったらなるの!?』
「だから、どうしてそういう方向に持っていくわけ!?」

 そもそも入学当初、俗に言う恋バナなんてものをしてしまったのは紛れもなく私だけれど、まさか夏までこうして尾を引くなんて。きっぱり諦めもせず、かといって告白もしない、どっちつかずのままで今の今まで来てしまった私が悪いのだけれど……でも、夢に向かって邁進している怜くんは、今が一番大事な時だ。まさか地方大会に進出できるなんて思いもしなかったし、もしかしたら、全国大会だってあり得るかもしれない。そんな重要な時期に、私の一方的な感情で怜くんを振り回して、迷惑を掛けてはいけないのだ。

 ――なんて言い聞かせているけれど、正直言って、告白して振られるのが恐いというのもある。それだったら、ただのクラスメイトよりもほんの少しだけ親密な、今の微妙な関係の方がいい。要するに、相手の為だと言い訳をして逃げているだけなのかもしれない。




 夏休みの間、バイトのシフトは増えたけれど、時間帯は学校がある時と変わらない夕方から夜で、それまでの時間は云わばフリータイムだった。というのも、入学して一番最初の試験の結果が芳しくなかったので、本当はフルで働きたいところを両親に釘を刺されてしまったのだ。確かに、学生の本業は勉強であり、アルバイトはあくまで副業だ。副業を頑張るあまり本業が疎かになっては本末転倒なわけで、辞めさせられないだけでも有り難いのかもしれない。

 そして、その空いた時間を何に使っているかというと、勿論、勉強と、そして息抜きと称して水泳部の練習をまめに覗きに来ている。
 地方大会に向けて練習に励む皆をプールサイドで眺めつつ、江ちゃんにそれとなく訊いてみた。

「ねえ江ちゃん、江ちゃんは夏祭り、行く?」
「ええ、悠ちゃんも行く?」
「うん、友達とそういう話が出て、『水泳部の人達と行かなくていいの?』なんて言われちゃったんだけど……」
「ふふっ、悠ちゃんもすっかり水泳部の一員みたいに思われてるのね。いっそ正式に部員になっちゃえば?」
「う、う〜ん……」
「マネージャーがもう一人いると、私も助かるんだけどなあ」

 江ちゃんの笑顔が、冗談で笑ってるからなのか、それとも割と本気で言っているのか読めない。というか、私がマネージャー業なんて、全然役に立たないと思うのだけれど……それなら泳げるようになるために、一部員になる方がまだ現実的だ。

「いやいや、冗談よ! そんな眉間に皺寄せて考え込まなくても!」
「あっ、いや、割と真面目に検討してるというか」
「学校とバイトの往復に加えて部活は、ちょっとハードじゃない?」
「うっ、確かに……」
「それで、夏祭りの話だけど」

 すっかり本題を忘れていた。江ちゃんはまるで全てを見透かしたかのように、私の耳元で囁いた。

「私は友達と一緒に行くけど、水泳部の男子諸君は四人で行くみたいよ。まあ、遙先輩はまだ行くか分からないけどね」

 もしかして私が怜くんの動向を気に掛けていると思っての言葉なのだろうか。私が知りたいと思うより先に説明してくれるなんて、さすがマネージャーだ。いや、水泳部のマネージャー業とこれは無関係だけれど。

「悠ちゃんはどうするの? その友達と一緒に行く?」
「うん、そのつもり」
「もしかしたらばったり会うかもしれないわよ? 浴衣姿の怜くんと」
「いや、江ちゃん待って! なんで怜くん限定なわけ!?」
「ふふふ〜」

 悪戯っぽく笑う江ちゃんに、私は顔が熱くなるのを感じながらつい声を荒げてしまった。完全に自爆だ。江ちゃんがそんな事を言うものだから、つい、怜くんの浴衣姿を想像してしまって、自分の妄想力の逞しさに尚更恥ずかしくなったのであった。



「随分と楽しそうですけど、何の話ですか?」
「ひえっ、怜くん!!」
「女の子同士の秘密の話! 男子禁制ですっ!」
「ちょっと江ちゃん! そんな話してないよ〜!」

 そんな状態の中、怜くんが練習を終えてプールから上がって来たものだから、もうずっと混乱しきりだった。江ちゃんの言葉に対してむきになってしまうのも、変に意識してしまうあまり怜くんを直視することが出来ないのも、きっとこのうだるような暑さと眩し過ぎる陽射しのせいだ。そんなのは、ただの言い訳だって分かっているのに。

2019/01/09
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