フォール・トゥ・ピーシス

 七月も下旬に差し掛かり、夏休みがもうすぐ傍まで迫っているある日の休日。晴れ渡る空の下、私は江ちゃん達と共に県大会の会場へ赴いていた。県大会は今日と明日行われ、怜くんは今日の個人種目だけに出る。いつかリレーにも出たいという願いが来年には叶えばいい、そう思っていたけれど、まさか翌日叶うなんて夢にも思わなかったし、それを知るのはまだ後の話であった。




 会場に着いたは良いものの、怜くんは緊張して眠れなかったと話していたから、つい不安になって声を掛けた。

「怜くん、大丈夫?」
「勿論です! 悠さんの前でみっともない姿は見せられませんから!」
「怜ちゃん、それフラグ〜」

 自信満々に胸を叩いて言う怜くんの横で、葉月くんがツッコミを入れる。多分、逆に私に心配をかけまいと言っているのだろうと思ったのだけれど、葉月くんがそれを否定するようにこっそりと私に耳打ちした。

「怜ちゃん、悠ちゃんの前ではかっこつけたいんだよ」
「そうかなあ、心配かけないように振る舞ってなければいいけど」
「もう! 悠ちゃんがそんなんじゃダメだよ! 笑顔笑顔っ」

 葉月くんは今度は私の目の前に来れば、両頬に人差し指を当てて満面の笑みを私に向けてみせた。真夏の青空に映える向日葵のような笑顔を見たら、誰もが恋をしてしまいそうだ。――けれど、私には怜くんがいるし。いや、「いるし」と言っても別に付き合っているわけでも何でもないのだけれど。

「渚くん、なに悠さんに強要してるんですか」
「わ〜、怜ちゃんヤキモチ!?」
「なんでそういう方向に持っていくんですかっ! お忙しい中応援に来てくださっただけでも有難いというのに、無理をさせたら駄目ですよ」

 怜くんは葉月くんを窘めて大きな溜息を吐いた後、私の方に顔を向けて、胸をとんと叩いて自信のある笑みを浮かべてみせた。

「悠さん、見ていてください! 日頃の特訓の成果を出してみせますから!」




 結果は残念なものに終わってしまった。まさか水泳部全員が決勝に進めないなんて……最近泳げるようになった怜くんはともかく、他の皆も進めないとは思っていなかったから、どう声を掛けていいのか分からなくて、ただただ皆の様子を窺うしかなかった。

 何も出来なかったけど、分かったことはそれなりにあった。七瀬先輩の様子がおかしかったこと。七瀬先輩は江ちゃんのお兄さんと何やら確執があるように見受けられたこと。ただ、「何か違う気がする」という江ちゃんの言葉の意味が分からなくて、やはり私はあまり立ち入らない方が良いという結論に至った。そもそも私は水泳部員ではなく、ただ応援に来ているだけの部外者なのだし。

「悠ちゃん」

 悶々とそんな事を考えていたら突然江ちゃんに話し掛けられて、つい肩をびくりと震わせてしまった。

「なんだか気まずい思いをさせちゃって、ごめんね」
「ううん、私の方こそ何も出来なくてごめんね……まさか七瀬先輩たちまで決勝に進出出来ないなんて、びっくりしちゃって。でも一番悔しいのは本人たちだよね」
「そうね……」
「せめて挽回のチャンスがあればいいんだけど、皆出るのは今日だけだもんね」

 ぽつりと呟いた私の言葉に、江ちゃんが顔を上げて反応した。何かおかしなことを言っただろうか。悔しいのは七瀬先輩たちだけではなく、マネージャーの江ちゃんも同じだろう。江ちゃんのマネージャー業を間近に見ていたから、江ちゃんに落ち度はなく完璧だったと胸を張って言える。そして、江ちゃんの教えをもとに練習に励んで来た皆も同じだ。ただ、他の学校の生徒が皆強かった、それだけだ。あと、怜くんだけゴーグルがずれてしまったという不運に見舞われたぐらいで……誰も悪くなく、強いて言うなら私の神社での願掛けが足りなかった位だ。

「悠ちゃん!」
「は、はいっ」

 突然の呼声に、つい敬礼のような返答をしてしまった。無意識に背筋がぴんと伸びて、恐る恐る江ちゃんを見遣った。

「実はね、打ち明けたい事があるんだけど」
「えっ、何かな?」
「あたしが間違った事をしていないか、悠ちゃんに判断して貰いたい」

 江ちゃんの表情は溌剌としていて、悲愴さは一切なかった。前向きなその眼差しに、きっと現状を打破出来る解決策があるのだとすぐに察した。それはきっと、『間違った事』ではない。私よりもずっと彼らを見てきた江ちゃんの判断なのだから、私は自身を持って背中を押せる。

「分かった。私に出来る事なら何でもするよ」

 私に出来る事が少しでもあるのなら喜んでしよう。そう思えるくらい、私も彼らに対していつの間にか思い入れがあったのだ。





 それから数時間後。もうすっかり陽も落ちて、いつもなら家で家事の手伝いをしているか、バイトに励んでいる時間だけれど、今日だけは違う。
 私は今、江ちゃん達と共に、七瀬先輩の家にいるからだ。別行動を取った七瀬先輩に会う為に。その肝心の七瀬先輩がまだ帰宅していないから、皆で帰りを待っている。

 事の経緯はというと、江ちゃんがなんと、岩鳶を明日のリレーにエントリーさせていたのだ。肝心の水泳部の皆は一切聞かされていなくて、江ちゃんの独断だった。その判断が間違っていないかどうか聞かれたのだけれど、私は考えるまでもなく、その判断は正しいと断言した。皆、すぐにでもリベンジしたいと思っているに違いない。個人戦ではなくリレーでも、泳ぐチャンスがあるに越したことはない。
 水泳部の皆は驚きはしたけれど、すぐに了承してくれた。ただ、その場に七瀬先輩はいなかった。だからこの事を伝える為にこうして皆で七瀬先輩の家に来たのだけれど、何処に行ったかも分からないし、帰ってくる気配も今のところ、ない。



「七瀬先輩って一人暮らしだったんですね」
「うん、ご両親の仕事の都合で」
「じゃあ家事全般、七瀬先輩が全部ひとりでこなしてるって事ですよね。凄いですね」
「まあ、必要に迫られたら意外と出来るものだと思うよ」

 橘先輩は穏やかな笑みを浮かべながらそんな事をさらりと言ってのけたけど、もし自分が一人暮らしを強いられたら、と思うと一人でなんでもこなせる自信はない。やっぱり私はまだまだ子供だと思わざるを得なかった。ちょっとバイトを始めたからといって、そう簡単に成長出来るわけではないのだ。

「悠さんも出来ますよ、アルバイトも凄くしっかりこなしてますし」
「そ、そうかな?」
「ええ、勿論ですよ! あんなに美味しい珈琲が淹れられるなら、さぞ普段の炊事も……」
「待って、ハードル上げないで!」

 怜くんに褒められてちょっといい気になってしまったけれど、期待値が上がり過ぎると絶対に自滅する。大体、喫茶店でお客様にお出しする為のものと、家で作るものは全然別だ。

「じゃあ、今度悠ちゃんに皆のお弁当作って貰うとかどうかしら?」
「えっ、江ちゃん何言ってるの!?」
「『何でもする』って言ってくれたじゃない」
「違う、それはそういう意味じゃなくて……」

 見事に悪乗りしてきた江ちゃんに、私はたじろいでしまった。確かに、確かに何でもするって言ったけど、まあ確かに数少ない出来ることではあるけれど……。

「悠さん、『何でもする』なんて言っちゃったんですか?」
「うっ、ええと……」

 怜くんが驚いた顔で言うものだから、口籠るしかなかった。そう言ったのは事実だし、認識も間違ってはいない。

「でも悠ちゃん『そういう意味じゃない』って言ったよね? どういう意味?」
「あの、うーんと、その……」

 更に葉月くんまで追究してきて、段々頭が回らなくなってきた。そんな私の様子を見かねたのか、橘先輩が助け舟を出してくれた。

「悠ちゃんの言う『何でもする』って、これからハルに話す事に関わってるんじゃないのかな」
「ああ〜、なるほど」
「そうなんですか? 悠さん」

 橘先輩が自然にフォローを入れてくれたお陰で、やっと本来私が言いたかった事が整理出来た。葉月くんはあっさりと納得して、怜くんは念の為とでも言いたげに私に訊ねてきた。
 無言でこくりと頷くと、今度は矛先が江ちゃんに向かった。

「江さん、悠さんをからかったら駄目ですよ!」
「あら、怜くんは悠ちゃんが作ったお弁当食べたいと思わないの?」
「いや、食べてみたいですけど……ってそうじゃなくて! 悠さんは真面目なんですから、無理を言って負担を掛けてしまうのは如何なものかと……」

 眼鏡をくいと上げて話し始める怜くんを遮るように、江ちゃんは話をすっぱりと切り上げた。

「ごめんごめん! ちゃんと分かってるわよ。県大会がこれで終わらないようにする為に、悠ちゃんが出来る事なら何でもしたいって言ってくれたこと」
「そう、それ」
「もしかして悠ちゃん、何でもするって言ったからお弁当も作らなきゃ〜って思っちゃった?」
「うん、でも江ちゃんが協力してくれるなら、いいよ」
「そう来たか、でも一緒に作るのも良いかもね?」

 そんな雑談をしているうちに、時計の針はどんどん回っていく。勝手に七瀬先輩の家にお邪魔しているのだけれど(橘先輩曰く、特に問題はないらしい)肝心の家主が帰ってくる気配がない。

 江ちゃんの計らいで、明日のリレーに参加する事になったのだから、ここは全員満足のいく泳ぎをする為にも、絶対に今日中に七瀬先輩に伝えないといけないのに。七瀬先輩は今どこで何をしているのだろう。江ちゃんのお兄さんと色々ある、というのは分かるのだけれど、きっと明日は良い方向に進む、そんな根拠のない自信があったから、早く伝えたくて仕方がなかった。

 けれど、結局この日は七瀬先輩に会うことは出来なかった。皆で七瀬先輩の携帯電話の留守電にメッセージを残したのだけれど、肝心の携帯電話を家に置きっぱなしにしていて、連絡さえも付かないまま、橘先輩だけを残して七瀬先輩の家を後にすることになった。





「七瀬先輩、何処に行ったのかな」
「戻って来ない事はないと思うけどね。真琴先輩が残ってくれてるし、大丈夫よ」
「でも……」

 江ちゃんに何かを言おうとしたけれど、言葉が出て来なかった。私が愚痴を吐露したところで何の解決にもならないし、ただでさえ重い雰囲気を悪化させてしまう。これでは何の為にいるのか分からない。辛いのは私ではなく、水泳部の皆なのに。

 橘先輩の「ハルはリレーには出ないと思う。棄権しよう」という言葉が、私たちに重く圧し掛かる。江ちゃんがリレーに申し込んでいる事を聞いた時は、間違いなく皆承諾してくれると思っていたのだけれど、それは単なる私の思い込みに過ぎなかった。七瀬先輩の事をよく知っている橘先輩の言葉のほうが、何も知らない、何の根拠も持たない私の考えよりもずっと信用出来るものだった。

「なんだか、悠ちゃんまで巻き込んじゃってごめん」
「えっ、巻き込まれたなんて思ってないよ。それより全然役に立てなくてごめんね」
「いえいえ、わざわざ足を運んで応援して下さっただけで充分ですよ!!」

 突然葉月くんに謝られて、逆にこっちも謝り返してしまい、更に怜くんにフォローまでされてしまった。仕方ないのだけれど、どうにも雰囲気がぎくしゃくしている。例え本選に進めなくても、もっとすっきりした感じで皆前進できるものだと思っていたから、まさかこんな事になるなんて。って、私が落ち込んでどうする。こういうのは皆に伝染してしまうし、明るく振る舞うぐらいはしないと。寧ろ私に出来ることは、それしかない。

「ていうか、私も応援し足りないし、また何かチャレンジ出来る機会があるといいね」
「そうですね、僕も何としてもリベンジをしたい所ですし」
「怜ちゃん、ゴーグルずれちゃってたもんね」

 笑顔を作って言った私の言葉に、怜くんが真っ先に反応して笑みを見せてくれた。更にそこで葉月くんがツッコミを入れて、少しだけ和やかな雰囲気に戻りつつあった。皆も疲れているし、あまり長話をするわけにもいかないから、すぐに解散となってそれぞれ帰路に着いた。皆、家まで送ると言ってくれたけど、七瀬先輩の家から我が家までは徒歩の行動範囲内だし、何より疲れている皆を更に疲れさせるわけにはいかないので断った。それに、橘先輩はああ言っていたけれど、もしかしたら七瀬先輩の気が変わって、リレーに出たいと言うかもしれない。可能性はゼロじゃない。そう言い聞かせているわけじゃないけれど、不思議と本当に叶うんじゃないかって気持ちになってきたから不思議だ。

 それがまさか翌日叶うなんて夢にも思わなかったし、その事を知るのは、数時間後の話であった。

2018/11/13
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