モア・ザン・ユー・ノウ

 ちょっとした小旅行だった合宿が終わり、暦も七月へと変わった後は、季節の変化を実感する間もないほど慌しく時が過ぎていった。
 朝のテレビで気象予報士が梅雨明けを宣言する頃には、もう既に暑い夏が訪れていて、熱い陽射しは学校の行き帰りやアルバイトに明け暮れる私の体力を存分に奪っていった。夏休みが始まってすらいないのに、早く涼しくならないかな、なんて腑抜けたことを考えてしまうけれど、怜くんも日々部活に励んでいるのを見る度に、自分も頑張ろうと思い直す、その繰り返しだった。
 そして、怜くんの泳ぎも徐々に上達していると江ちゃんから聞いて、『継続は力なり』という諺が真っ先に頭に浮かんだ。私も怜くんを見習って、勉強もアルバイトも毎日こつこつと頑張っていけば、苦慮することなく両立も出来るようになる。『なりたい』ではなく『なる』、そんな風に根拠のない自信を持てるくらい、私は知らず知らずのうちに怜くんに影響されていた。




 七月も中旬に差し掛かったある日の放課後。バイトがちょうど休みで、いつも通りプールサイドへ行こうと葉月くんと怜くんに声を掛けようとしたら、私の視線に気付いた葉月くんがこちらに駆けて来た。と思えば私の手を引いて、引きずられるように教室から強制退去されられる私の後を、怜くんが追ってくる。

「渚くん! 説明もなしに悠さんを連れ去らないでくださいっ!!」
「え〜、でも悠ちゃんは僕たちに合流するつもりだったんだし、ね? 悠ちゃん」
「う、うん」

 葉月くんに満面の笑みでそう言われたら、頷くしかない。怜くんの「説明もなしに」という表現から、恐らくプールサイドではなく別のところに行くのだろう。今日は部活が休みなのかもしれない。

「無理矢理言わせてるじゃないですか! 悠さん、嫌だったらはっきり言ってくださいね。僕が責任を持って悠さんを擁護しますから」
「怜くん、大袈裟だよ」

 葉月くんに引きずられるまま玄関まで辿り着いて、上履きを履き替える為かようやく解放して貰えた。一息吐くと、早足で歩きながらずっと私たちの真横で葉月くんに苦言を呈していた怜くんも、私に釣られて溜息を吐いた。

「怜くん、大丈夫だよ。二人のこと信じてるし」
「悠ちゃんも大袈裟〜」
「そうかなあ。二人とも私が嫌がることなんてしないから、何の心配もしてないというか……」
「いや、元はと言えば渚くんが悠さんを強引に水泳部に連れて来たじゃないですか」

 怜くんに言われて、そういえば最初は確かに強引だったことを思い出した。けれど、それこそ元はと言えば私が怜くんに勝手に一目惚れしたのがきっかけなので、葉月くんは何も悪いことなどしていないのだ。その事実は口が裂けても言えないけれど。

「でも、あの時も別に嫌じゃなかったから」
「本当に本当ですか? 悠さん、渚くんに流され過ぎてないですか? この先悪い人に騙されないか不安ですね……」
「えっ!?」
「酷いよ怜ちゃんっ! 僕は悪い人じゃないからね。ねっ、悠ちゃん?」

 怜くんから見て、私はそこまで不安感を与えてしまう子なのだと若干ショックだったけれど、葉月くんが唇を尖らせて怒る仕草を見せた後、私に向き直ってにっこりと微笑みものだから、ついまたこくりと頷いてしまった。まあ、悪い人じゃないのは本当だし。

「悠さん、また流されちゃってるじゃないですか」
「え、だって葉月くんが悪い人じゃないのは事実だし」
「それはそうですけど……悪い人に何らかの事を強要された時、今みたいに頷かないよう、気を付けてくださいね」
「ううっ」

 自分では流されていないし、人に騙される程ぼんやりと生きているつもりはないのだけれど、怜くんにとっては違ったみたいだ。そんな風に思われていたら、怜くんが私を恋愛対象として見てくれる時なんて、未来永劫訪れないんじゃないかとすら思う。

「あはは、怜ちゃんお母さんみたい〜」
「こんなお母さんいませんよ」
「じゃあお兄ちゃん」
「なんで身内になるんですか。もっと他にあるじゃないですか」
「ふ〜ん、怜ちゃんもしかして『彼氏』って言って欲しかったりして?」
「は!?」

 少しばかり落ち込んだ私は、怜くんと葉月くんの会話を全く聞いていなかった。上履きを外靴へ履き替えた後にふと二人を見れば、何故か頬を赤く染めた怜くんが葉月くんに対して怒っていて、私の視線に気付けば更にその顔を赤くさせた。

「怜くん」
「は、はいっ! いや、違うんです悠さん! 決して僕はそんな疚しい考えなど」
「皆、これから何処に行くの?」

 私の質問を聞いて、怜くんは一瞬呆気に取られた後、ほっとしたのか気落ちしたのかよく分からないけれど何故か脱力して、ほんの数秒だけ間を置けばひとつ咳払いをして、片手で眼鏡をくいと持ち上げて得意気な笑みを浮かべてみせた。いつもの怜くんだ。

「来週の県大会に向けて、水泳部の皆で願掛けに行くんです」




 外で待っていた水泳部の皆に混じって、私も近くの神社へのお参りに同行することになった。来慣れた場所なのに、こうして皆で来ると、なんだか特別な気持ちになるから不思議だ。

 参拝を終えた後、石段に座って皆の雑談を聞いていたけれど、怜くんが「自分もいずれはリレーに出たい」と言っていたのがとても印象的だった。まだ泳げるようになって二ヶ月くらいしか経っていないのに、新たな目標が出来るのは成長の証だ。夢は夢のままで終わることが多いけれど、怜くんはちゃんと叶えられる。根拠も何もないけれど、そんな気がしていた。

 皆が話している隙に、少しだけ席を外して駆け足で石段を上った。私が怜くんの力になれることなんて何ひとつないけれど、邪魔にならないよう静かに見守り、目標を達成できたり夢が叶えられるよう、想い、願いことだけなら出来る。



「悠さん」

 ふと怜くんの声が聞こえて振り向くと、辺りはもうすっかり夕暮れの橙色に染まっていた。石段を上って来た怜くんが、不思議そうに私を見つめている。

「どうされたんですか? 願い足りませんでしたか?」

 拝殿の前で立ちすくむ私を見れば、怜くんは苦笑してみせた。

「うん。足りなかったから、またお願いしちゃった」
「悠さん、意外と貪欲なんですね。あ、いえ! 決して悪い意味ではなくですね」
「あはは。私自身のことじゃないから、尚更貪欲になるのかも」

 慌てふためく怜くんを見て、つい笑ってしまった。悪い意味ではないのは知っている。言葉自体に良い意味も含まれている、というよりも、怜くんが悪意を持って私に接するとは思えないからだ。決して確証があるわけではなくて、私が勝手にそう思っている。それだけだ。

「悠さん自身のことじゃないんですか?」
「うん」
「ああ、もしかして僕たちが県大会で良い成績を出せるように、ですか?」
「それもある、けど」
「……けど?」

 打ち明けてしまったら、まるで告白みたいになりそうだ。ううん、きっと怜くんは私のことをそんな風に思ってなんていないだろうから、言ってしまっても問題ない。私が怜くんのことが好きだという気持ちは、自分の心の中に秘めておくだけでいい。怜くんが認識している私という存在は『自分に憧れているクラスメイト』。それだけでいい。

「怜くんが、夢を叶えられますように」
「……へ?」
「さっき怜くんが『リレーに出たい』って語ってるのを聞いて、つい、居ても立っても居られなくなって」

 余計なお世話だ、と我ながら呆れてしまったのだけれど、怜くんはそんな私の発言に何を思ったのか、口許に手を当てて、私から目を逸らした。呆気に取られたのか、不快に思ったのか、それとも――やっぱり、言わなければ良かったかもしれない。ほんの少し後悔の念に駆られていると、怜くんが再び私に視線を移して、恐る恐る問い掛けてきた。

「……どうして、僕なんですか?」
「え?」
「いや、あの、夢があるのは他の皆さんも同じですし、どうして僕だけなのかと、純粋に疑問に感じただけです。言い難ければ結構ですが……」

 怜くんのことが好きだから、と容易く言ってしまえれば良いけれど、きっとそれをしたら怜くんにとって重荷になる。リレーに出ないとはいえ、怜くんも県大会に出るのだから、余計な気を遣わせるのも、怜くんを振り回すのも、今は絶対にしてはいけない事だ。私は無い頭を使って、なんとか、最良と思われる言葉を口にした。

「怜くんは、私にとっての憧れだから」

 怜くんははっとした表情になり、私を見据えている。

「怜くん、最初は泳げなかったのに、いつの間にか泳げるようになって、タイムもぐんぐん上がって行って……それに勉強も出来て、学業と部活もちゃんと両立出来ていて、現状に満足しないで常に上を見てて……えっと、うまく言えないけど憧れなの。怜くんを見てたら、私も頑張ろうって思えるんだ」

 自分なりに恋心を隠しつつ、自分の行動がそれ以外の意味であることの説明が出来た……はずだ。「秘密」だなんて可愛い誤魔化し方が出来れば良かったけれど、それをすると多分、怜くんを混乱させてしまうだろう。ましてや大会を控えているのだし、ここは『憧れ』という言葉で称するのが、最良の選択肢だと思った。

 とはいえ、自分では最良だと思っても、相手がどう思うかは分からない。恐る恐る怜くんの顔を窺うと、私の心配は杞憂であることが分かった。怜くんはどこか照れ臭そうに微笑を浮かべながら、私を見据えていたからだ。

「こうして面と向かって言われると、なんだか気恥ずかしいですね」
「ご、ごめんね」
「いえ、決して悠さんを責めてるわけではありません! 寧ろ光栄です、僕が悠さんの憧れの存在になれるなんて」

 そう言って、今度はほんの少し得意気に笑う怜くんを見て、ほっとした。私の一方的な感情を重いだとか、悪い風に捉えられていなくて良かった。人を好きになるのは自由と云えども、怜くんに迷惑を掛けるのであれば本末転倒だ。それがなくて、本当に良かった。
 一気に安堵すると同時に、皆からはぐれてどれくらい時間が経ったのか、不安になってしまった。

「ていうか、怜くんごめん! 早く皆のところに行かないとね」
「ええ、戻りましょうか」

 もしかして皆を待たせているんじゃないかと思って、この時の私は頭が真っ白になっていた。私は何も考えずに怜くんに駆け寄ればその手を取って、来た道を戻ろうとした。

「悠さん、急がなくても大丈夫ですよ」
「でも、皆待ちくたびれてるかもしれないし」
「大して経ってませんよ――って、踏み外さないよう気を付けてくださいね!」

 怜くんと手を繋いだまま石段を下りていき、皆の元に戻るまで、自分が随分と積極的な態度を取っていることを自覚していなかった。皆の元に戻って、江ちゃんと葉月くんが私たちを見て目を見開いた瞬間、漸く私はそれを悟って慌てて手を放したのだけれど、この時私自身だけでなく怜くんも顔を真っ赤に染めていたなんて、この時の私は全く気付いていなかったのだった。

2018/10/13
- ナノ -