Un Tierno y Dulce



 夏休みといっても、アイドル科の生徒は遊び呆けるわけにはいかない。長期休暇中にもライブは行われる。寧ろ授業などの拘束時間がない分、ある程度自由の利くスケジュールを組むことが出来、校内・校外問わず様々なドリフェスが繰り広げられていた。
 我が『fine』も同様であり、リーダーである天祥院英智の体調が安定している今こそ、精力的に活動する時であった。国内、海外と多岐に渡って活動していたが、そんな多忙な日々の中にも、己たちにもごく普通の高校生として夏休みを過ごす、ほんの一時が存在した。
 これは、天祥院英智から休暇を与えられた、とあるオフの日の話である。





 真夏のとある朝、姫宮家の邸宅にて。何やら落ち着かずそわそわしている主をよそに、来客の準備に明け暮れていた。

「弓弦、樹里はまだかな?」
「坊ちゃま、樹里さんが来られるのは正午前ですよ。退屈でしたら、勉強でもしたらいかがですか」
「これから樹里が遊びに来るっていうのに、捗るわけないだろ」
「では、坊ちゃまが勉強をサボっていたと樹里さんにお伝え致しますね」
「は!? それおかしいよね!? しれっと嘘を吐くな嘘を!」

 主を弄ったところで、再び準備へと取り掛かった。この邸宅は充分に冷房が行き渡っているが、外から来る彼女は暑さで参っているかもしれない。それならば、彼女の好きな紅茶をアイスティーにしてすぐに出せるようにしよう。

 送迎車を出して彼女の家まで迎えに行っても良かったのだが、「私はプロデューサーなんだからアイドルにそこまでさせられない」と言われてしまい、彼女が来るまで手持ち無沙汰になってしまっている。掃除等は来客の有無関係なく常に行っており、せいぜい彼女の好きそうなものを用意するぐらいしか、やる事がないのであった。
 正直、そわそわしている主に偉そうなことなど何も言えない位、己自身も彼女の来訪を心待ちにしていた。





「ええと、本日はお日柄も良く……」
「さすがに緊張しすぎですよ、樹里さん」

 指定よりもほんの少し早い時間。邸宅の門で来客を出迎えると、彼女は随分と緊張している様子であった。さすがに初めて出会った転入初日の挨拶の時ほどではないが、この屋敷に圧倒されているのであろう。

「いつも通りで大丈夫ですよ。寧ろ、休みなのですからリラックスしてくださいまし。礼儀作法はうるさくありませんから」
「いや、桃李くんが御曹司っていうのは百も承知だし、姫宮家の凄さも知識としては分かっているはずだったけど、いざこうして来ると……」
「学院にいる時と同じ感覚で結構ですよ」
「うん……普通に振る舞うよう心掛けるね」

『心掛ける』なんて言葉が出て来る時点で、リラックスしろなどと言っても無理のある話ではあるが、時間が経てば慣れるであろう。

「それでは、樹里さん。どうぞこちらへ」

 彼女が承諾するよりも先にその手を取って、屋敷の中へと歩を進めた。エントランスを抜けたところで、振り返って彼女の様子を窺うも、まだ少し表情が硬いようで、緊張は解けていない事が見て取れた。ここは己が会話をリードした方が良いだろう。

「樹里さん」
「は、はい!」
「素敵な御召物ですね。私服の樹里さんを見る機会は早々ありませんから、何だか得した気分です」
「なんで伏見が得するの。……でも、ありがと」
「とても良くお似合いですよ。さすが樹里さん、ご自身に合う服をよく分かっていらっしゃいますね」

 身体のラインが美しく見える型で、シンプルで淡い色合いのワンピースを身に纏う彼女は、それこそ何処かの令嬢と見紛うほどであった。ただ、その表情は硬く、それどころか少し曇ってしまった。何か失言をしてしまっただろうか。

「どうかされましたか? 気に障ることを言ってしまったのでしたら、謝ります」
「ううん、そうじゃなくて……これ、私が選んだんじゃなくて、お母さんが」
「おや、そうだったんですか。お母様も随分とセンスが良いのですね。きっと、樹里さんが可愛くて仕方がないでしょうね」
「まさか。あんたはいっつもマイナス思考!って呆れられてるし……お父さんは優しいけど、仕事が忙しくて家でゆっくり話す時間もなくて」

 ぎこちない笑みを作ってそう呟く彼女を見て、もしかして己は彼女の地雷を踏んでしまったのではないか、と危惧してしまった。
 彼女が夢ノ咲に転入してきた経緯を踏まえ、かつこれまでの彼女の言動を思い返すと、彼女は失敗を過剰に恐れているように見えた。きっとそれは、かつての夢を諦め、遠方の学校――夢ノ咲への転校を強いられた事で、両親へ迷惑を掛けたという罪悪感を生み出しているのだろう。この学院で再び何らかの問題が起これば、もう立ち直れなくなる。そう思い込んで、萎縮しているのかも知れない。それに、七夕祭の直前に倒れて穴を開けた時の傷は、まだ癒えてはいないだろう。

「樹里〜!!」
「桃李くん!」

 足音を立てて走って来て、彼女に思いきり抱き着く主を見て、釘の一つでも刺そうと思ったが、やっと彼女の表情が穏やかになったのを見て、何も言えなくなってしまった。彼女が主にめっぽう弱いのは重々承知しているが、やはり、我が主は周囲の人間を明るくする力を持っているのだろう。そう思うと、些細な嫉妬心よりも、そんな主の存在が誇らしいと思えた。

「桃李くん、今日は招待してくれてありがとう」
「ボクの方こそ、来てくれてありがとう、樹里。……あれ、その荷物は何? ラッピングされてるし……別に手ぶらで良かったんだよ?」
「ああ、これはね」

 着替えなどが入ったバッグとはまた別に、明らかに贈り物と思われる手提げ袋も持っていて、大きなリボンがあしらわれた可愛らしいラッピングが見えていた。どう見ても己たち男へのプレゼントとは思えない。という事は――

「桃李くんの妹さんへのお土産だよ」

 さすがは女性だけあって気が利く、と感心せざるを得なかった。





 応接室に行くよりも先に妹君の部屋へと向かい、主が軽く扉を叩き、そのまま室内へと入っていった。
 少しして、部屋の向こうから主の呼声が聞こえた。

「お前たちも入っていいよ」

 彼女と目を見合わせて、どちらともなく頷けば、共に妹君の部屋へと足を踏み入れた。



 主の妹君は身体が弱く、学校へ通えない日も多い。部屋で安静にしているだけの生活を強いられており、我が主が夢ノ咲に進学してからというもの、主がアイドルとして精力的に活動している現状を、あまり快く思っていないようである。愛する兄と一緒にいる時間がより少なくなったのだから、無理もない。

 つまり、夢ノ咲自体を良く思っていない妹君にとっては、学院の関係者は云わば敵のようなものである。正直、妹君と、この一癖も二癖もある彼女を対面させても大丈夫なのかと些か不安だったが、どうやら杞憂に終わったようだった。
 ベッドから上体を起こし、怪訝そうな表情を向けている妹君に、彼女はゆっくりと歩み寄った。

「花言葉は『絆』『信頼』『幸多かれ』……それに、『健やかに』」

 そして、彼女は紙袋から橙色の薔薇のプリザーブドフラワーを出して、妹君に差し出した。フリルやリボンもあしらわれ、小さなぬいぐるみも付いていたりと、遊び心のある様々なアレンジメントもされている。

「今は辛くても、いつか光明がさす日が来るから。だから……」

 妹君が花に目を取られている間に、彼女は妹君の手を取って、優しい笑みを向ける。

「私も力になりたい。あなたが日々楽しく過ごせるように、少しでも協力したい」

 妹君はまだ警戒心を解いてはいないものの、彼女の手を払い除けることはしなかった。愛する兄も傍にいるから下手な振る舞いは出来ないとはいえ、それでも、少し頬を赤らめてこくりと頷いてみせたのだから、これもまた彼女の推し量れない魅力ゆえと言えよう。





「全く……樹里のヤツ、ボクの妹が可愛いのは分かるけど、延々と学院でのボクの姿の動画を流したり、いかにボクが頑張ってるかってことを熱く語ったり……」
「妹君もそれで喜んでいるから良いではないですか。自慢の兄君を褒められてさぞ嬉しいでしょうね」
「ったく、ボクをダシにして友好を深めるなっての」

 彼女が随分と妹君に構うものだから、肝心の主は少々機嫌を損ねてしまったようだ。とはいえ、彼女の立ち回りには目を見張るものがあった。病床に伏せる妹君を傷付けないよう言葉を選びながら、主の学院での様子を、良いところだけ掻い摘んで事細かに伝えるのは、妹君の信頼を勝ち取るには一番の近道であろう。
 尤も、前もって妹君の特徴を伝え、『天祥院英智の話題は地雷である』という事を彼女に共有していたためでもあるのだが。

「さて、そろそろ夕飯だし、いい加減樹里を部屋から出さないとな」
「樹里さんが妹君と打ち解けられなかったらどうしようかと思いましたが、杞憂に終わって本当に良かったです」
「逆に仲良くなりすぎだけどな……」



 夕食時。当たり前のように己の膝の上に主が座って来て、「樹里さんに笑われてしまいますよ」とでも言おうとしたところ、それに対抗するように妹君が彼女の膝の上に乗って、そこまで親密になったのかと驚きを隠せずにいた。他の使用人たちが止めようとしたものの、彼女も愛想のいい笑顔で「私は全然構いませんよ」なんて言うものだから、またしても主に対して何も言えなくなってしまった。

「あの、樹里さん。本当に遠慮しなくてもよろしいんですよ」
「ううん、遠慮なんてしてないから。お兄ちゃんが可愛ければ妹も可愛いのは分かり切ってたことだけど……はあ、本当に可愛いなあ」
「……樹里さん、そっちの趣味もあったんですね」
「どういう意味!? 別に邪まな感情とかないから〜っ!」

 己たちの会話の意味が分からないのか、妹君はきょとんとしていたが、彼女がデレデレとしながら『可愛い』と連呼していることに、随分と気を良くしているように見えた。
 意図してやっているのか――否、彼女はそこまで器用に立ち回れる性質ではないことは、春からずっと間近に見ていて充分理解している。単純に、主の妹君が可愛くて仕方がないのだろう。
 妹君の顰蹙を買わずに済んだことは幸いだが、何とも言葉に形容し難い複雑な感情を覚えてしまった事は、今は伏せたままでいよう。そう心の中で言い聞かせた。





 夜も更け、主も眠りに落ちた頃。主の部屋でその愛らしい寝顔を眺めた後、今だ妹君の部屋にいる彼女はどうしているのかと、様子を見に行くことにした。いくら、己と彼女が俗に言う両想いであるとはいえ、さすがに彼女を己の部屋に寝かせるのは倫理上良くないのではないかと思い、無難に妹君の部屋で寝て貰うことになったのだ。

 物音を立てずに忍び足で妹君の部屋へと向かい、扉の前で立ち止まり、ドアノブに手を掛けようとした瞬間。開く気配を感じ、咄嗟に伸ばした手を下ろした。軋む音がして、目の前の扉が開かれる。扉の向こうにいた人物は目の前に己がいることに気付かず、そのまま歩を進め――己の胸元に相手の顔がぶつかった。妹君と彼女どちらか、ぶつかるまで判断が付かなかったが、この位置でぶつかるという事は。

「樹里さん」
「ひっ」

 驚いて声にならない声を上げた彼女の口に人差し指を当てて、小声で囁いた。

「もう遅い時間ですし、大きな声を出さないでくださいまし」
「わ、わかってる……けどなんで?」

 何故ここにいるのか、と聞きたいのだろう。無理もない、夕食のあと彼女は妹君と、そして己は主と共にいたのだから、己がここにいるのは彼女にとっては予想もしなかったに違いない。

「樹里さんが心配で様子を見に来ました」
「なんで?」
「お手洗いは大丈夫ですか? 場所は分かりますか?」
「失礼な、子供じゃあるまいし……で、でも場所はちょっと覚えてる自信がない、かも」
「承知しました、お連れ致します」
「は?」

 有無を言わさず彼女の手を取って、強引に歩き出した。彼女はわけもわからない様子といったところだが、とりあえず己に抵抗することなく付いて来てくれた。
 それにしても、己が部屋を訪れたタイミングで彼女が出てくるとは、タイミングが良すぎて些か恐ろしさすら感じる程である。



「……お待たせしました」

 目的地へ案内した後、少し離れた場所で待っていた己の傍へ、彼女が駆け寄って来た。

「やっぱり伏見に案内して貰って良かった。伏見がいなかったら私、多分道に迷ってた」
「いえいえ、恐らく辿り着けていたとは思いますが、初めて来る屋敷で、しかも夜更けともなれば、一人では心細いでしょう」
「うん……幽霊とか信じてないけど、一人だと怖かったかも」

 そう口にして、改めて不安になったのか、己の手を握る彼女。
 今日の彼女は妹君に付きっきりで、己とはあまり話も出来ていない。このまま部屋へ送るのは、少々名残惜しい。彼女もそう思ってくれていると良いのだが――そんな淡い期待を抱きつつ、口を開いた。

「樹里さん、眠いですか?」
「ううん、あまり。いつもはこの時間はまだ起きてるし」

 今の時刻はまだ日付が変わる前だ。女性にとっての美容に良い時間は22時以降だと言われているが、プロデュース業で多忙であれば、早い時間に寝たくても寝られないだろう。それはこの長期休暇中も同じだ。

「では、わたくしに少しだけ付き合って頂けませんか?」

 彼女は少しだけ間を置いて、「うん」と静かに呟いた。一瞬の沈黙は、時間も時間ゆえ返答に迷ったからなのか、それとも、己のことを異性として意識したからなのか。どちらかは分からないが、悪い意味ではないと信じたい。



 彼女を己の部屋へと招き入れて、ベッドの上に腰掛けて貰い、いったん席を外して紅茶を淹れに行った。微量とはいえ、この時間にカフェインを取るのはあまり良くないと思い、ハーブティーを淹れることにした。彼女なら、きっと気に入るだろう。

「樹里さん、お待たせ致しました」

 部屋に戻ると、よく分からない光景がそこにあった。ベッドに座っていた筈の彼女は、何故かベッドに突っ伏していて、己の声を聞いた途端、光の速さで起き上がれば顔を真っ赤にして目を逸らした。

「どうしましたか? 眠いのでしたら、部屋までお送り致しますが……」
「え、ええと……その……眠くない……」

 予め出していた来客用の小さなテーブルにティーカップを置いて、改めて彼女を見遣ると、目が合った。すると、申し訳なさそうにしゅんと項垂れてしまった。一体何を考えているのか分からないが、妹君に付き添っていて、若干気疲れはしているだろう。疲労で頭が回っていない可能性はある。

「では、ハーブティーでも飲んで疲れを癒してくださいまし。わたくしにはそれぐらいしか出来ませんが……」
「ごめんね、いつも気を遣わせてばかりで」
「樹里さんはあくまでゲストですから。それに、気を遣ってなどいませんよ」
「そっか、執事だからこれ位は朝飯前って感じ? でも、気遣って貰ってばかりも申し訳ないな」

 彼女は漸く気持ちも落ち着いたのか、ベッドから足を下ろして、己の傍まで来てくれた。机上に置いたハーブティーを興味深そうに見遣れば、やっと己と目を合わせてくれた。

「これって、カモミール?」
「さすがですね」
「いや、当てずっぽうだけど……」
「ご謙遜を。会長さまの為に、色々勉強されているのではないですか?」
「ん〜、というより、紫之くんが詳しくて色々教えてくれるんだ。だから自発的ではなく受動的に覚えるというか……」

 彼女は「いただきます」と呟いて、ティーカップに口を付けた。まだ熱いからか、少しずつ飲む姿はまるで小動物のようで愛らしく見える。

「ちょっと伏見、じっと見ないでよ。恥ずかしいから」
「おっと、すみません」
「伏見は飲まないの? あ、猫舌なんだよね。ふふっ」
「どうして得意気なんですか」

 以前、彼女に猫舌なことを『可愛い』と称されて、少々複雑な気持ちになったのだが、彼女曰くウィークポイントではないとの事なので、誉め言葉とは思えないが好意的に受け取っておくことにしよう。

「伏見、ありがとう」
「お礼を言われるほどの事ではないですよ。妹君に付き添ってくださいましたし、そのお礼も込めてです」
「それこそお礼なんていいよ。私が好きでやったことだし。なんていうか……」

 彼女は言うべきか迷ったのか一瞬沈黙した後、再び、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「これ、他言無用でお願いしたいんだけど」
「承知致しました」
「妹さんね、英智さまに似ていると思うんだ。いや、似てはいないけど……病魔に侵されて、やりたいがあっても出来ない状態を強いられているっていうか。だから見ていて居ても立ってもいられなくて。私なんて役に立たないけど、少しでも何か力になれたらって」

 彼女の言っていることは綺麗事かもしれない。実際、誰かが尽くしたからといって快癒するわけではない。けれど、その純粋な気持ちを、愛する主の妹君に向けてくれたことが、ただ単純に嬉しく思えた。

「樹里さんのそのお気持ち、妹君にもちゃんと伝わっていますよ」
「気持ちだけじゃ、病気は治らないんだけどね」
「それは医者の仕事ですから。ですが、病は気からとも言いますし、愛情を受けることで快癒に近付くなんてことも有り得ますよ」
「だといいな……」

 そう言って再びティーカップに口を付けた彼女は、先程よりも随分と穏やかな表情になった。
 主が彼女を家に泊まらせると言った時は、正直反対以外の感情がなかったが、妹君と交流出来たことは、きっと彼女にとっても実りのある一日だっただろう。そう思うと、こういう日が偶にはあっても良いと思えた。そう、偶には――

「樹里さん」
「ん?」
「ここは学院ではありません。周りの目を気にする必要はありません。ですから……」

 強いるわけではないのだが、彼女は嫌なら嫌とはっきり言える意思は持っている。目上の相手であれば流されてしまう事があったとしても、己に対しては違う。いつだって本音で、これから己がすることに対して拒否しても、受け容れても、それはどちらも彼女の意思だ。迷う理由はなかった。

「わたくしの事を、名前で呼んで頂けますか?」

 そう囁いて、彼女の手からティーカップを奪い、机上に置いた。これから何をされるのか、彼女は全く理解していないだろう。不思議そうに己を見つめて、ほんの少し頬を赤らめて、消え入るように小さな声で、囁いた。

「……弓弦」

 彼女から己の名前が紡がれた瞬間。
 迷わず、彼女の身体を優しく抱き締めた。

「樹里さん。わたくし、ずっと嫉妬していたんですよ」
「……え?」
「坊ちゃまに対しては、いつの間にか『姫宮くん』から『桃李くん』へと変わっていて、それなのにわたくしに対しては、いつまでも……」
「だって、下の名前で呼んだりしたら、皆に誤解されるじゃん」
「坊ちゃまはよろしいのですか?」
「桃李くんとは、そういう仲にはならないし……」

 己の抱擁を拒否することもなく、寧ろこちらに身体を預ける彼女を愛おしく思う。こんな関係になるとは、七夕祭が終わったつい先日までは、夢にも思ってもいなかった。彼女が己を異性として見ていることが未だ不思議で、きっとそれは彼女も同じだ。だから、互いの関係をどう進めていいか分からず、『これから考えていけばいい』なんて曖昧な考えで濁していたのだ。
 己たちはアイドルとプロデューサーで、恋愛に発展するなど、決して好ましい状況ではないのは分かっている。けれど、今だけは――

「樹里さん」

 彼女の身体の拘束を解き、あらためてその顔を見つめた。

「好きです。あなたの事が」
「……私も、好き。弓弦、好きだよ……」

 瞳を潤ませてそう囁く彼女を見て、大丈夫だと確信した。きっと彼女も、それを望んでいる。嫌ならば拒否することだって、彼女には出来る。
 どちらともなく顔を近付けて、彼女の唇へと口付けをした。柔らかな感触に、つい気が焦ってその先まで進みそうになったが、強引では駄目だと理性が働き、唇を離した。

「……弓弦」
「はい」
「……もっとしたい」
「……よろしいのですか?」

 彼女は恥ずかしそうに目を伏せてこくりと頷くと、今度は彼女のほうから己へと口付けを交わしてきた。その唇は固く閉ざしたままだ。その先へ進んでも良いのか、今はまだ軽いものに留めておいて欲しいのか。彼女の本心を知ることは出来ないが、探ることならば出来る。
 僅かに口を開き、彼女の唇へ舌を触れさせると、彼女はびくりと肩を震わせた。焦り過ぎてしまったかと唇を離すと、彼女は泣きそうな、甘い声で囁いた。

「あの、私、こういうの初めてだから……下手だったらごめんね」
「そんなこと、気にしなくて結構ですよ。嫌がられたらどうしようかと思いました」
「嫌なわけないよ。嬉しいに決まってる」

 もう躊躇う必要はない。再び、互いに唇を近付け、己を待ち焦がれるかのように小さく開かれた彼女の咥内へと舌を這わせた。少しだけ漂うカモミールの香りが、更に甘美な気持ちにさせる。一体どれくらいの時間、そうしていただろうか。唇を離して彼女を解放した瞬間、彼女は全体重を己に預けてきて、そのまま倒れ込んでしまった。

「樹里さん、大丈夫ですか?」
「……だいじょうぶ、じゃない……」
「もしかして、苦しかったですか? 申し訳ありません、わたくし、ついやりすぎてしまって……」
「ううん、だいじょうぶ」
「どっちなんですか?」

 今の彼女が混乱しているのは手に取るように分かる。少々虐めたくなってしまったが、焦りは禁物だ。ゆっくりと、慎重に進めていかなければ。下手な事をして、彼女のプロデュース業に支障が出ては元も子もない。

「弓弦、あの……」
「はい」
「また、して……」
「構いませんが、今ではなく?」
「今は……したいけど、妹さんの部屋に戻れなくなりそうだから……」

 己より寧ろ彼女のほうが、余程理性が働いているのではないかと思わざるを得ない。心の中で反省しつつ、彼女の身体を抱き締めた。今度は少しだけきつく、この甘い時間を愛おしむように。

2019/05/03


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