Over the Rain



「それで、おまえたちは結局どうするの?」

 七夕祭が終わり、夏休みももう目前に迫っている、ある日の昼休み。ガーデンテラスでお弁当を黙々と食べる私に、桃李くんは従者の膝に座って茶色いお弁当を食べながら、大きな瞳を向けて問い掛けてきた。

「どうする、って……どうするのかな。ねえ、伏見」

 桃色の髪から視線を上へ移すと、そこには既に食事を終え、主を抱えている従者――伏見弓弦が、いつもと変わらぬ落ち着いた様子で主を見守っている。返答に困った私が彼の名前を呼ぶと、視線を私へと向けた。何の話ですか?なんて訊き返されるかと思ったけれど、ちゃんと聞いていたらしい。彼は微笑を湛えて私の問に答えた。

「何も今焦って決めることはないでしょうし、これからゆっくりと考えていけば良いのではないですか」
「だよね」
「おまえら、全然進展してないじゃないか!」

 私たちの煮え切らない答えが気に食わなかったのか、桃李くんが呆れ果てた顔で溜息を吐いた。

「坊ちゃま。他人のことよりご自身の目の前の課題に向き合ってくださいまし。まだおかずが残ってますよ」
「話を逸らすな! ううっ、こんな茶色いお弁当食べたくない……」
「茶色いのって美味しいよね」
「樹里まで弓弦に加担するな〜!」

 別にどちらに味方したわけでもなく、率直な感想を言っただけなのだけれど、桃李くんはそうは思わなかったらしく、愛らしい声で騒ぎ立てた。すると、その声に釣られたのか、1年B組の子たちが集まって来た。

「あっ、姫ちゃん発見です!」
「姫ちゃ〜ん! こんなところにいたんだぜ!」
「うわっ! おい、庶民が馴れ馴れしくボクに抱き着くな!」
「全く、春川くんも光くんも……あ、伏見先輩と遠矢先輩。乱入しちゃってすみません」
「いいよ、賑やかな方が楽しいし」

 Ra*bitsの天満くんとSwitchの春川くんが何やら桃李くんと猫のようにじゃれ合っていて、苦笑いを浮かべながら一礼する葵――弟のゆうたくん、そして、少し離れた場所で仙石くんがこちらの様子を窺っている。同じクラスの朱桜くんは一緒ではないみたいだ。
 そのドタバタ劇に紛れて、今度は2年A組の面子もやって来た。あんずとTrickstarの面々だ。

「おっ、樹里〜! 今日は大所帯だね!」
「うん、なんか成り行きでね」
「明星。遠矢はまだ病み上がりだ。あまり大声を出すんじゃない」

 明星くんを窘める氷鷹くんに、別に大丈夫だから、と言おうとしたら、すぐ傍にいたあんずと目が合った。少し怒っているように見えるけど、気のせいだろうか。いや、思い当たるふしはたくさんある。

「あの……あんず、ごめんね。たくさん迷惑掛けちゃって」

 私がそう言うと、あんずはきょとんとして首を傾げた。心の底から不思議そうな顔をするものだから、別に怒ってなかったのかと安堵した。

「七夕祭の前、散々休んじゃって、あんず一人に負担を掛けちゃったから。もう同じことを繰り返さないよう、体調管理もしっかりしていくね」

 謝罪の理由を説明したら、今度は勘違いでもなんでもなく、あんずの目が釣り上がった。やっぱり怒ってる。私が穴を開けたことが理由なら、こうして謝っても許してくれなさそうなのは、多大なる迷惑が掛かっていたから、という事に他ならない。

「本当にごめん! もう迷惑掛けないよう心掛けるから……」
「あの〜、樹里ちゃん。あんずちゃんが怒ってるのはそういう事じゃなくて」

 今まで様子を窺っていた遊木くんが、恐る恐る間に入って解説してくれた。

「樹里ちゃんが倒れて復帰した後、みんなに内緒でこっそり居残りしてたことを怒ってるんだ」
「あ……」

 その事がバレていたのなら、気を悪くされても仕方ない。まあ、仮に鬼龍先輩が誰にも言わなかったとしても、武道場への出入りを見た生徒だっているだろうし、皆に知られるのは時間の問題だとは思っていたけれど……。

「ただでさえ大変なあんずに、これ以上迷惑掛けたくなくて、そうしたんだけど……でも、かえって心配掛けちゃったね」

 そう、あんずが怒るのも当然だ。私ももしあんずに同じことをされたら、私はそんなに頼りにならないのかって思ってしまうだろうから。

「これからは、ちゃんとあんずに相談する。共有する。じゃないと、逆にあんずが辛い時、私に頼ることが出来なくなるもんね」

 私の身勝手な行動によって、巡り巡って誰かに迷惑が掛かるのであれば、自分の殻に閉じこもらないで、素直に助けを求めるべきだ。それもプロデューサーとして大事なことだ。そんな単純なことさえ、つい前の私は見えていなかった。これからは、悪い方向に考えないよう心掛けていかないと。周りを頼ることは甘えではなく、コミュニケーションの一つだ。こちらが心を開かなければ、アイドル科の皆だって心を開かない。

 私の言葉を聞いて、あんずはうんうんと頷けば、いつもの彼女らしい微笑を浮かべてみせた。

「これで一件落着だな。それに――」

 ふと、氷鷹くんの視線が、私とあんずではなく伏見のほうに向いた。

「仲直り出来たみたいで何よりだ」
「ええ、お陰様で。あの時は本当にありがとうございました」

 まさか私の七夕の短冊を伏見に渡したのが、氷鷹くんをはじめとするTrickstarの面々だとは夢にも思わない私は、二人のやりとりを不思議に思いつつも聞き流していた。
 人の想いが通じ合うのは、当人たちの相性や行動力も勿論ある。けれど、周りの人たちの何気ない気遣いが、ちょっとしたきっかけを生んだりもする。今はまだ何も分からなくても、月日が過ぎて、あるいは数年経って、分かることもあるのかも知れない。尤も、この時の私にとっては与り知らぬ話なのだけれど。





 桃李くんが言った「おまえたちはどうするの」という言葉。恐らく、彼から桃李くんに私たちのことを報告したのだろう。従者が主に黙ってこっそり恋人を作るのは有りか無しかとか、執事の雇用条件や禁止事項は全く分からないし、プライベートの報告義務の要否もさっぱり見当が付かない世界だけれど、主従関係を置いておくとしても、ひとりの家族、あるいは友人として考えても、話はするだろうことは二人の関係を思えば理解出来た。
 とはいえ、別に正式に恋人同士になったというわけではなく、この先どうするかは追々考えるということで、正直なところ、私たちの関係は以前と何も変わってはいない。

「おやおや、妖精さんではありませんか!」
「ひえっ」

 廊下を闊歩していると、突然天井から日々樹先輩が降って来て、思わず腰を抜かしそうになった。日々樹先輩のイリュージョンには未だに慣れない。やたらと構われている真白くんのことを思うと、他人事ながら胸が痛んだ。

「驚かさないでくださいよ! 心臓が止まるかと思いました……」
「フフフ、友也くんのように良い反応をして頂けるので、つい」
「誰でもびっくりしますって」

 まだ心臓がばくばくと鳴っている感覚がする。若干涙目になっているかもしれない私を見て、日々樹先輩は実に愉快そうな笑みを浮かべていた。

「そういえば、日々樹先輩とお話するのは久し振りですね」
「そうですねえ、妖精さんが籠の中に引きこもってなかなか顔を見せてくれませんでしたから……」
「ううっ」

 やたらメルヘンな言い方をしてくれているけれど、要するに自分の殻に閉じこもって、会長率いるユニットの練習に顔出しもしない、薄情なプロデューサーだということだろう。

「その節は申し訳ありません……『fine』には春からあんなにお世話になっていたというのに、恩を仇で返すようなことを……」
「いえいえ、執事さんと仲直りされたようで何よりです」
「えっ?」

 なんで知ってるんだろう、と疑問に思ったけれど、きっと伏見が情報共有しているのだろうとすぐに合点がいった。桃李くんに言うのはともかく、会長や日々樹先輩にまで言うのはどうなのかと少しだけもやもやはするけれど、私自身が撒いた種なのだから仕方ない。

「あ、執事さんから聞いたわけではありませんよ」
「えっ!? あ、あの、私、今考えてることが声に出てました?」
「フフフ、妖精さんの考えていることは全てお見通しですよ」

 声に出ていないとしても、隠したいことがまるわかりとなるとさすがに恥ずかしい。疑ってしまった伏見に対しても申し訳ない気持ちでいっぱいで、自然と視線が床へと落ちた。

「というのは冗談で」
「冗談なんですか!? 良かった……いや、全然良くないですけど」
「執事さんの様子もおかしかったですから。私も英智も心配していましたよ、あなたたちのことを」

 視線を日々樹先輩に再び向けたものの、その言葉を聞いて頭が一瞬真っ白になった。大事な時期に会長や日々樹先輩にも少なからず迷惑を掛けていたこともそうだし、伏見の様子もおかしかったという事実を告げられて、ますます自分の身勝手な態度で大切な人たちを振り回したのだと、ただただ反省するしかなかった。

「おや? 今にも死にそうな顔をしていますが……解決したのでは?」
「いえ、改めて自分の行動が色んな人に多大なる迷惑を掛けたのだなと……」
「大いに結構ではないですか! 失敗を繰り返してこそ、人間は成長するのですから」

 私の場合、七転八起というより七転八倒な気がするけれど……なんてまた後ろ向きになってしまったけれど、声を掛けてくれた日々樹先輩のためにも、明るく振る舞わなければ。

「ありがとうございます、日々樹先輩。お陰で元気が出ました」
「嘘はいけませんね、随分と浮かない顔をしていますよ〜? ほら」

 日々樹先輩は咄嗟に私の目の前に手鏡を出した。鏡にうつる自分の不甲斐ない表情を目の当たりにして、思わず「うわ」と声を出してしまった。

「妖精さんを天井から見守っていた時はお元気そうに見えましたが……私、失言をしてしまいましたかねえ」
「いえ、失言なんてしてませんよ。というか見守らなくていいです」
「ですが、なんだか落ち込まれているようで、このままでは私としても妖精さんに申し訳なくて立ち去るわけにはいきませんねえ……」
「いえ、本当に失言なんてしてませんから!」

 日々樹先輩は演劇の世界が長い。恐らく今、さめざめと泣きながら言っているのも演技だとは思うけれど、明確な回答をしなければ立ち去ってくれそうにない。いや、追い払いたいわけでは決してないのだけれど、日々樹先輩だって暇じゃないのだ。私のせいで足止めしているとしたらそっちの方が申し訳ないし。

「……日々樹先輩や会長、それに、伏見にも迷惑かけたなって、反省してるだけです。なので、日々樹先輩は悪くないですよ」
「私や英智ではなく、執事さんに対してではないですか?」
「皆さんに対してです」
「フフフ、そうですか。ありがとうございます、私の存在も勘定してくださって」

 日々樹先輩は今度は一気にぱっと満面の笑みに変わった。まるで少女漫画みたいに周りに花でも咲いているかのように――と思ったら本当にどこからともなく日々樹先輩の周りに花が舞った。一体その手品はどういう仕掛けなのかと思ったけれど、突っ込んだらますます話が長くなるので黙っておいた。

「今、この花を出した仕掛けを知りたいですか?」
「とても気になりますけど、知らないままだからこそ楽しめることもありますし」
「おや、今ので楽しんで頂けたとは嬉しいですね〜」
「今度は本当に元気になりましたよ」

 私はそう言って、宙を舞った後重力で地面へはらはらと落ちた花を拾い上げた。

「と言っても、後片付けはしないと怒られちゃいますよ」
「執事さんがいる時にやればよかったですねえ」
「いやいや、伏見の仕事を増やさないでくださいよ」
「執事さんは仕事があると喜ぶタイプですよ。あなたと一緒です、妖精さん」

 全然違うと思うし、そもそもゴミの後片付けを伏見の仕事と称するのもどうかと思うけど……というか、こんな綺麗な花をゴミ扱いするのもちょっと、いや、かなり勿体ない。

「これ、家に持って帰って飾りますね」
「おや、地面に落ちた花をですか?」
「でも、綺麗ですから」
「これは申し訳ないことをしましたね。次は地面に落とさず妖精さんの手に落ちるようにしましょう」

 日々樹先輩はそう言って、まるで全ての演目を終えた役者のように深々と一礼をすれば、背中を向けて上機嫌でこの場を後にした。
 何だったんだろう……と少し呆然としてしまったけれど、日々樹先輩なりに私を励ましてくれたのだと思うことにした。実際、元気も出たし。それに、ちゃんとやらないといけないことが出来た。



 伏見は、わけのわからない告白をしてしまった私のことを、きちんと受け止めてくれただけでなく、彼もまた告白を返してくれた。今まで校内SNSもあるし、けじめとして頑なに誰とも連絡先の交換をしなかったのだけれど、一応、この先『そういう』関係になるかもしれないし……と思って、あの夜、伏見と連絡先を交換した。早くもそれを使う日が来るなんて。

『伏見、お疲れ様。もし時間があれば少し話したいです。もちろん、桃李くんも一緒で大丈夫です』

 微妙に堅苦しくなってしまった気がするけれど、まあ、向こうなんて常に仰々しい敬語だし……あまり期待せずにいたけれど、すぐに来た返信は『承知致しました』の簡潔な一言であった。『どこにいる? そっちに行くから』と返したら、『こちらから出向きます』と返ってきて、ああ、これ押し問答になりそう……と思ってしまった。具体的に落ち合う場所を言えば解決するけれど、今彼らがどこにいるか分からない。今日はfineのレッスンはないし、二人共部活がなければ車で帰るだろう。それなら――『長い話じゃないから、玄関口でどうかな?』と返したら、『承知致しました。お待ちしております』とまた簡潔な返信が来た。

『お待ちしております』って事は、きっと二人は今玄関口にいて、帰るところだったのかもしれない。だとしたら申し訳ないことをしてしまった。あまり引き留めないよう、言いたいことを頭の中でまとめておこう。そう思いながら、早歩きで玄関口へ向かった。急いで走って転んだりでもしたらまた恥ずかしい思いをするし……私も多少は学習能力はあるのだ。



「伏見……と桃李くんも! ごめんね、急に」

 玄関口で二人の姿を捉えて、私は少し速度を上げて傍に駆け寄った。二人は気にするなと言わんばかりに笑みを湛えていたけれど、私の片手を見て怪訝な顔をした。

「樹里、その花どうしたの?」
「あ、これ、日々樹先輩に貰ったの」

 鞄にしまうと花が傷付いてしまいそうだし、学院から家までは徒歩で通える距離だし、このまま手に持って帰るつもりでいたのだけれど、少し目立ってしまっているみたいだ。

「どうして日々樹さまから花を……?」
「えっ、なんで伏見怒ってるの?」
「怒っていません」
「よくわからないけど、手品を披露したかったんだと思うよ。私のこと、真白くんみたいに反応が面白いって言ってたし」

 真白くんの名前を出したら、伏見から発されていた殺気がふっと消えた。私も根拠もなく相手を怒っていると指摘しているのではなく、第六感的なもので分かるのだ。特に伏見は、人ひとり殺さない微笑を湛えておきながら、人ひとり簡単に殺めてしまいそうな圧を放つことがたまにある。

「樹里、気にしなくていいよ。こいつ、ロン毛に嫉妬したんだよ」
「は? 嫉妬などしていませんが」
「好きな女の子に他の男が花なんてプレゼントしたら、そりゃ気も悪くするだろうし……」
「坊ちゃま、それ以上減らず口を叩くようなら今晩のおかずは全て茶色にしますよ」
「嫌だ〜!! 弓弦ごめん! 今のは全部ボクの勘違いだから!」

 涙声で必死に訴える桃李くんが可哀想になってしまって、つい私も口を挟んでしまった。

「伏見が嫉妬してるかどうかは置いといて、異性からお花を受け取るのは変な噂も立つかもしれないから、これからは気を付けるね」
「そうですね。日々樹さまに下心があるとは思えませんが、要らぬ誤解を招くことも無きにしも非ずですから」

 恐らくこれで桃李くんの今夜のおかずが茶色いもので染められる事態は回避できたに違いない。今日のお昼に言ったように、茶色いおかずって基本的に美味しいから私は好きだけれど、桃李くんはそうじゃないだろうし。

「それで、話とは?」
「ああ、ごめん。伏見にちゃんと謝りたいと思ってさ」
「え?」

 私の言葉があまりにも意外だったのか、伏見も、桃李くんも目を見開いて驚いてみせた。

「私が倒れて復帰してから、よそよそしい態度取っちゃったりして……色々と気苦労を掛けたと思うから、本当にごめんなさい」
「それはわたくしにも非がありますから、謝らなくても結構ですよ」
「なんで? 伏見は悪くないよ」
「寧ろ謝らなくてはならないのはわたくしです。避けられようと強引に接触すべきでしたから」
「アイドルにそこまでさせるなんて、プロデューサー失格だよ」
「アイドルとプロデューサーだけの関係ではないでしょう、わたくしたちは」

 段々と収拾が付かなくなって来た私たちの会話に痺れを切らしたのか、桃李くんはわざと大きな声で盛大な溜息を吐いた。

「は〜〜〜あ。あのさあ、ボク先に帰っていい?」
「ご、ごめん、桃李くん。もうこれで話は終わりだから。伏見、引き留めてごめんね!」
「樹里さん、まだ話は終わっていませんよ。人の意見は柔軟に聞き入れているのに、どうしてわたくしに対してだけはそう意地を張るのですか」

 やばい、これは伏見の長時間に渡る小言の始まりだ。この流れだと謝ったら謝ったで「謝れば済むと思っているのですか」とか言われて、更なる小言が続くのだ。私は助けを求めんとばかりにちらりと桃李くんへ視線を遣ると、目が合った瞬間すぐに行動に起こしてくれた。天使だ。

「あ〜もう! どっちも悪い、でいいだろ! 喧嘩両成敗! どっちも謝ったから樹里の言うとおり、この話は終わりだ!」
「はあ……まあ、坊ちゃまの言う通りですけれど。ただ、樹里さんが全面的に悪いわけでは決してなく、わたくしにも落ち度があることはご理解くださいね」
「そうは思わないけど……」
「樹里さん」
「いえ、なんでもないです」

 世の中にはそう思っていても言わない方が事が早く解決することも多々あることを、今まさに身をもって痛感している。言わぬが花だとか沈黙は金なんて言葉が存在するのも、全ては先人たちの経験によるものなのだ。そう思って、もやもやしつつも彼の言葉を受け入れることにした。

「じゃあ、引き留めてごめんね」
「樹里さんもお帰りですか? よろしければ車でお送り致しますけれど」
「ううん、ちょっとやることがあるから少しだけ残っていくよ」
「そうですか。ご無理だけはなさらないでくださいね。夏休み前とはいえ、夏休みもあってないようなものでしょうし」

 伏見は微笑を浮かべてはいるものの、眉を下げて私を見遣るその表情は、どこか寂しそうでもあり、心配そうでもあった。

「さすがにもう倒れるのは御免だから、すぐに帰るよ」
「あ、そうだ。樹里!」
「どうしたの? 桃李くん」

 もうここで解散と思ったら、桃李くんが何か思い付いたのか、瞳を輝かせて私に向かって身を乗り出してきた。

「夏休み、少しは暇な日とかあるでしょ? ボクの家に泊まりにおいでよ」
「え!? い、いや……それは……」

 いくらなんでもプロデューサーがアイドルの家に外泊は駄目だろう。あんずのように、あくまで大規模なドリフェスのために学院に泊まり込むのとは、全くもって訳が違う。
 私が返答に困っていると、桃李くんはこっそりと私に耳打ちした。

「校内じゃ弓弦と二人きりになれないだろ」
「いや、割となれてる気がするけど……」
「でも手を繋いだり、抱き着いたり、そういう事は出来ないでしょ?」

 確かに、手を繋いだのも、不可抗力で抱き着く、みたいなことになったのは大抵外での出来事だった気がする。というか、改めて異性として意識してそういうことをする、と考えただけでちょっと顔が熱くなってきた。

「坊ちゃま。樹里さんに何を吹き込んでいるのですか?」
「人聞きの悪いことを言うな!」
「ではどうして樹里さんの顔が真っ赤なんですか」
「えっ、樹里? 大丈夫? おまえ、また無理しすぎて熱でも出たんじゃないの!?」
「いやいや、違う、大丈夫だから」

 まさかこんなことくらいで動揺してしまうなんて恥ずかしい。子供か。そういう面では桃李くんのほうが、私より遥かに精神的に大人な気がする。

「空いてる日、後で伏見経由で連絡するね」
「え、連絡先教えるから直接ボクに言ってくれればいいよ」
「伏見がそれを許すと思う?」
「弓弦、おまえ……それぐらい許せよ〜!」

 なんだかんだで長話になりつつあるけれど、話していて色々と肩の荷が下りた気がした。夏休みといっても、その間も色んなライブを開催したり、やることはいくらでもある。正直恋愛に現を抜かしている暇なんかないんじゃないかってくらい。でも、あんずと協力すればなんだって乗り越えられる気がしていた。それに、伏見とも――正直、彼が私のことをそういう風に見てくれたというだけで充分幸せで、桃李くんと一緒にこんな風に、楽しく過ごせるだけでいい。こんな平和な日々がずっと続けばいい。そう思っていたのだけれど、そんな日々は長くは続かないことを、この時の私はまだ知る由もなかった。

2019/03/16


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