虚ろなる生なれど
タルヤの後を追い掛け、医務室に足を踏み入れたユニスは、一先ずジルをこの隠れ家の人たちに任せる事にした。自分ひとりではどうにもならず、最悪ジルを死なせてしまう可能性がある。ならば、ここの人たちに任せて一縷の望みに賭けたほうが良いと思ったのだ。
それに、ユニスはシドが悪人とは思えなかった。それは、同伴していたグツがどう見ても善人としか思えず、それにここの隠れ家は鉄王国での生活とは正反対だとすぐに察する事が出来たからであった。
「ジル様と私は、元々ロザリア公国より北……北部の人間です」
医務室内にいる、医術に心得のある者たちがジルの身体を診ている間。ユニスは椅子に腰掛けて、タルヤに説明を始めた。そして、ここに来る前にタルヤが勧められたとおり、シドから受け取った果実に恐る恐る口を付ける。
「……美味しい……!」
「ふふっ、後で菜園に顔を出して礼を伝えるといい」
「はい、是非!」
こんなに甘くて美味しい食べ物を口にしたのは、一体何年ぶりだろうか。ロザリア公国にいた時以来と考えると、もう13年も良質なものを摂取していない事になる。これは是非ジルにも食べて貰わないと、とユニスは決意を新たにした。
その為にも、タルヤに己が知っている情報を伝える必要がある。それが治療に役立つのなら、ユニスはいくらでも話すつもりであった。
「……北部諸国はロザリア公国との領土争いに敗れ、私たちはロザリア公国に移り住む事になりました。ですが……突然鉄王国が襲って来て、わけがわからないまま、私たちは捕虜として連れ去られました」
「ロザリア公国がザンブレク皇国の属領となったのが13年前……その時ね」
鉄王国で奴隷のような生活を送って来たユニスは、詳しい世界情勢の知識はないに等しかった。ロザリア公国が結果的に滅亡した事は分かるものの、その他の情勢は、己を管理していた者たちの雑談から情報を得る事くらいしか出来なかった。
今この世界は一体どうなっているのか――それは追々この隠れ家の皆に教えて貰う事にして、ユニスは取り急ぎタルヤへ説明を続けた。
「その後、ジル様が突然シヴァのドミナントとして目覚めました。前触れは……何もなかったように思います」
「ドミナントが死ぬと、新たなドミナントが生まれる……それがすぐに起こるのか、何年も先になるかは様々らしい。だから、ユニスが気付かなかったのは無理もない。きっと、ジル本人もね」
タルヤはユニスを傷付けないよう、諭すようにそう言うと、医務室内にいる者を呼び寄せて、小声で何かを命じた。ユニスの耳には入らなかったが、まさかそれが自分に関する事だとは考えもしなかった。
ユニスは果実に再び口を付け、ゆっくりと味わうと、頃合いを見計らって、改めてタルヤに向き直った。
「……鉄王国での暮らしは、地獄と言っても過言ではありませんでした。ジル様はドミナントとして戦場に出られるようになるまで、暗殺などの任務に強制的に行かされていました」
「そう……ユニス、あなたは?」
まさか自分自身の事を訊ねられるとは思わず、ユニスは果実を手から落としかけたが、今更隠す事など何もなかった。ジルを助ける為、この隠れ家の人たちからの信用を得る為ならば。
「私は、云わば『餌』として生かされ、ジル様と共に戦場に連行されていました。大司祭が、歯向かえば私を殺すとジル様を脅して……」
ユニスの痩せ細った身体、それにぼろぼろの布切れを纏った姿を見れば、どんな悲惨な環境で生きて来たかを察するのは容易かった。ゆえに、タルヤはそれ以上追及する事はせず、ユニスの身体を優しく抱きしめた。
「タ、タルヤさん……?」
「ここではそんな扱いはしない。ユニス、あなたはまず『人』としての暮らしを取り戻す事から始めるべきよ」
「人として……」
ユニスはタルヤの言葉を心の中で反復した。『人』として生きる事。それはきっと、北部諸国やロザリア公国で、当たり前のように穏やかに過ごしていた日々を取り戻すという意味なのだろう。
ここでは、それが叶うのだろうか。
タルヤの胸に顔を埋めていたユニスであったが、医務室に入って来る足音が聞こえ、慌てて顔を上げた。タルヤもユニスから手を放して、来訪者へと顔を向ける。
「ありがとう」
入って来たのは、先程タルヤが何らかの指示を出した相手であった。そして、タルヤは相手から荷物を受け取れば、それをユニスに差し出した。
今身に付けている布きれとは違う、まともな衣類。そして見るからに丈夫に見える靴であった。
「あ、あの、これは……」
「まずは衣食住を確保しなければ、人としての暮らしは成り立たない。その代わり、元気になったらこの隠れ家で働いて貰おう」
「働く……私が……」
ユニスはタルヤから衣類と靴を受け取ったものの、これは現実なのかと信じられずにいた。どうして見ず知らずの己にここまでしてくれるのか。ドミナントでもなければベアラーでもない、本来は保護の対象ではない筈である。
ただ、助けてくれたグツにはベアラーの刻印はなく、きっと己も彼のように皆の役に立つ存在になり得ると判断されたのだろう。
もう帰る場所は何処にもないのだ。ここに置いてくれるのなら、何だってしてみせる。ユニスは衣類と靴を抱き締めて、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます! 私、頑張ります!」
「理解が早くて助かる。ただ、まずはしっかり食事を取って体力を付ける事。彼女の付き人なら尚更だ」
「ジル様の為……はい! この御恩は、いつか必ず返します!」
黒の一帯の中にひっそりと佇む遺跡だというのに、ここはまるで楽園だ。あたたかな陽の光が隙間から漏れる部屋で、ユニスは漸く肩の力が抜け、頬を綻ばせたのだった。
早速着替えたユニスは、応急処置で己の足を保護してくれたグツに改めて御礼を言おうと、タルヤたちにジルを任せ、医務室を後にした。
だが、出会い頭に誰かとぶつかり、反動でよろけてしまった。
「ユニス! 大丈夫か」
その声が誰なのか、今となっては最早顔を見なくとも分かる。
ユニスは顔を上げ、相手の顔を見遣れば、心配させまいと口角を上げてみせた。
「大丈夫です、クライヴ様」
「……! その格好は……」
まともな衣類を纏ったユニスを目の当たりにして、クライヴは息を呑んだ。生気を失い、奴隷にしか見えなかった彼女が、まだ外見は弱々しいものの、その目には光が宿っているように見えたからだ。
「タルヤさんが用意してくれました。ジル様を診て頂く代わりに、私もここで働くつもりです」
「働く? いや、保護なら分かるが、君はまだ……」
ジルは勿論だが、ユニスの事も心配しているクライヴは、働くなどという言葉が出て来て困惑を露わにしたが、なにもタルヤは今すぐそうしろと言っているわけではない。誤解があってはならないと、ユニスは首を横に振った。
「これは私の意志です。ここで生活を立て直し、またロザリスにいた頃のように、皆で手を取り合って生きてみたい……そう思ったのです」
「…………」
クライヴは何も言えなかった。
ロザリスにいた頃のように――それはもう不可能なのだ。例えこの後ジルが目を覚ましたとしても、13年前のあの日々を取り戻す事は出来ないのだ。
何故ならば、ジョシュアは――。
「ユニス、それは無理だ。ジョシュアは、もう……」
拳を握り、苦悶の表情を浮かべるクライヴを見て、ユニスはすべてを察した。
言われなくとも分かっている。フェニックスゲートが襲撃され、ロザリス城に残っていたロザリア軍も呆気なく殺されてしまったのだ。大公エルウィン、そして次期大公のジョシュアも命を落とした事で、統制が取れなくなったのだろう。それは当時のユニスでも察するに容易く、鉄王国では悲嘆に暮れ、過去に戻りたいと何度願ったか分からなかった。
だが、いくら泣いても過去には戻れない。それならば。
ユニスはクライヴの手を取り、両手で包み込むように握った。
もうクライヴひとりで抱え込まなくても良い。ジルは必ず目を覚ますのだ。ユニスはそう信じていた。
「ジョシュア様が命を落とされた事は、察しが付いていました。なんとか逃げ延びて、どこかで生きていてくれたらと願ってはいましたが……」
クライヴの表情を見れば、それは叶わぬ願いなのだとユニスも受け容れざるを得なかった。
「俺は、この目で見たんだ……フェニックスじゃない、別の火の召喚獣に……ジョシュアが、殺されるところを……」
「フェニックス以外に、火の召喚獣が……!?」
ユニスは有り得ないと驚いたが、信じられない事を口にしたクライヴの声は震えていた。悲しみだけではない、愛する弟を守れなかった事への怒りもあるのだろう。
ユニスは己が何を言ってもクライヴの心を癒す事は出来ないと分かっていたが、それでも、こうしてクライヴが今も生きている事には必ず意味がある筈だと、心の中で言い聞かせた。
「クライヴ様、どうかひとりで抱え込まないでください。あなたにはジル様がいます。そして、私も……」
「ユニス……」
「さあ、シドさんのところへ行きましょう! 話があると言っていましたし」
ユニスはそう言って、振り払う事などいとも簡単に出来てしまうであろう弱々しい力で、クライヴの手を引いた。彼女の手を解くのは容易かったが、クライヴは敢えてそのままでいた。13年前、強く凛々しい少女だったユニスが、ここまで弱ってしまったのを目の当たりにして、複雑な感情を抱いたからだ。
一体彼女は、彼女とジルは、鉄王国でどんな目に遭って来たのだろう、と。
「ちょっとした仕掛けを考えてるんだが、こいつがなかなか上手くいかなくてな」
クライヴと共にシドの自室を訪れたユニスは、物珍しそうに室内を見回していた。人を痛めつけるような代物はなく、ごく普通の部屋に見える。シドに椅子に座るよう片手で促され、ユニスはそれを受け容れて腰掛けたが、クライヴは立ったままでいた。シドを信用していないのが見て取れる。
ユニスが恐る恐るシドを見遣ると、彼は気にするなとばかりに苦笑を零せば、クライヴに顔を向けた。
「さて、クライヴ・ロズフィールド。お前、あそこで何をしてた」
シドの質問は尤もであった。ユニスはクライヴと再会出来た喜びと、ジルを介抱したい気持ちでいっぱいで、そこまで頭が回っていなかった。
そもそもニサ峡谷ではダルメキア共和国との戦いの為、ジルは前線に駆り出されたのだ。だが、クライヴはダルメキアとは関係ない筈である。
13年前のフェニックスゲート襲撃後、ロザリア公国はザンブレク皇国の属領となった。そして、クライヴは生きている。となれば、考えられる答えは――。
「ザンブレク皇国軍の『ベアラー』なんだろう? だとしたら――戦場の混乱に乗じたドミナント暗殺。おおよそ、そんなところか?」
クライヴの頬にはベアラーの証である刻印があった。
ジョシュアのナイトとしてフェニックスの祝福を受け、炎魔法が使えるようになったクライヴは、ジョシュアを喪った後はベアラーとして扱われる事になったという事だ。
シドの問いに、クライヴは困惑の表情で呟いた。
「殺そうとして気付いた。なぜ彼女が……」
「それで、あの子を助けるために仲間を斬って、一緒に逃げようとしたか」
シドは一旦ユニスに視線を移す。心配そうにクライヴを見つめている彼女の表情に、恐らくはふたりの間には信頼関係があるのだろうと判断し、言葉を続けた。
「ベアラーが任務を放棄すりゃ極刑と決まってる。逃げたところで、その『刻印』だ。いずれは軍の耳にも入るだろう」
そして、試す様に言い放つ。
「たいした零落ぶりだな、ロズフィールド卿」
ただ、それは決して軽蔑の類ではない。逆である。でなければ、シドがこの隠れ家にクライヴを案内する事はない。
その証拠に、シドは一杯の酒をクライヴに差し出した。
「客への礼儀ってやつさ」
クライヴはそれを受け取ったが、口は付けなかった。
ユニスは彼らをすっかり信頼しきっているようだが、クライヴはそうではないからだ。
「ジルをどうするつもりだ」
「どうもしない。自分の意志で生きてくれりゃいい」
クライヴの問いに、シドはあっさりとそう答えれば、疑いようのない根拠を口にする。
「利用する気なら、もっと上手くやってる。保護してるだけさ。ドミナントや、ベアラーたちをな」
そして、再びユニスの傍まで歩み寄れば、彼女の肩に手を乗せて告げた。
「勿論、お前さんもだ。だが、酒はもう少し健康になってからだ」
「はい! あの果実で充分です。あんなに美味しいものを口にしたのは……ロザリア公国にいた時以来です」
「だろ?」
ユニスの言葉に、シドは得意気に笑みを浮かべた。彼女はもう大丈夫そうだと、シドはユニスの肩から手を放せば、再びクライヴに向き直る。
「……だが、こんな事してりゃ、国から目をつけられちまう。ここの連中を守るために、ひとりでも多くの腕利きが必要でね。力を貸してくれないか――クライヴ」
先程までの飄々とした態度とは打って変わって、神妙な面持ちでそう告げるシドに、クライヴは漸く耳を傾ける気になったようだ。
「シド……だったな。ジルの事を任せていいか。弟の仇を討つまでは、何も考えられない」
「仇?」
シドは首を傾げたが、クライヴから「ジョシュアが殺されるのを見ていた」と打ち明けられていたユニスは、目を伏せて、胸元に手を当てた。この13年間、クライヴは一体どんな思いで生きて来たのだろう。復讐する事すら出来ず、敵国でベアラーとして扱われて生きて来たなど、ジルが置かれていた状況と何も違わない。
それも、たったひとりで。
だが、唯一の望みがあった。クライヴは、ジョシュアを殺した人物の手掛かりを既に持っている。
「もう一体の火の召喚獣――それを駆るドミナントを探している」
「火の召喚獣に二体目がいた……噂は事実だってのか?」
「あの日、俺は弟に生かされた。だから、泥水を啜ってでも生きてきた。弟の……ジョシュアの仇を討つためだけに生きてきたんだ」
クライヴが今もこうして生きている事には意味がある、ユニスはそう思っていた。
それはクライヴ本人も同じで、ジョシュアを殺した人物に復讐する為に、生きる事を諦めず、この日までずっと耐えて来たのだ。
なんて強い人なのだろう。己の手助けなど不要だと分かってはいるが、それでも力になりたい。その為に、己には何が出来るだろう。ユニスは必死に考えていた。
「奴らの監視から逃れる事が出来た、今しかない。これが、きっと最後の機会だろう。最後の……」
クライヴはこの隠れ家を拠点とする気はなく、ザンブレク皇国に見つかり処刑される事を覚悟の上で、仇討ちをするつもりなのだ。
「待ってください、クライヴ様――」
ユニスは慌てて引き留めようとしたが、それとは対照的にシドはあっけらかんとした様子でクライヴに告げた。
「なら、もう少し付き合え」
「仲間にはなれない」
「最後まで聞け」
シドは決してその場しのぎで話しているのではない。これだけの人を集めて動いているのだ、有益な情報も多く入って来ていた。
「ザンブレクのロストウィングという村に、皇都から逃れたベアラーたちが集まってる。そこに、火のドミナントらしき奴がいると報せがあった」
「本当か……!?」
「どうだ、付き合うか?」
不敵な笑みを浮かべるシドに、クライヴはまんまと乗せられたような気がしつつも、ここはシドに付き合うしかないと決めた。
「仇が見つかるまでだ」
クライヴはシドにそう言い放って、受け取った酒を一気に飲み干せば、シドに突き出したのだった。
出発の準備が整い、シドとクライヴが隠れ家を後にしようとした時、白髪の女性が彼らに声を掛けた。
「……また出掛けるのかい、シド」
「モテる男は忙しいのさ、カローン婆さん」
「そういう事にしといてやるよ」
クライヴを見送ろうと後ろを付いていったユニスは、この人がグツの言っていた怖い人なのかと認識した。とはいえ、想像していたような悪い人には全く以て見えない。ここで生活する為にも、色んな人達の仕事を手伝って、一日でも早く馴染もうとユニスは心に決めた。今の己がクライヴと共に、それもドミナント相手に戦うなど無謀なのは分かっていたからこそ、出来る事から始めようと決意したのだった。
「行くぞ」
「ああ」
互いにそう言い合うシドとクライヴの傍に、トルガルが駆け寄った。どうやら主に付いていくようだ。
「トルガル、クライヴ様をよろしくね」
13年経ち随分と大きくなった狼を撫でながらそう告げるユニスに、トルガルは任せろとばかりに軽やかに吠えてみせた。
「クライヴ様、シドさん、どうかお気を付けて」
トルガルがクライヴの元に駆け寄るのを名残惜しそうに見つつ、ユニスはふたりに向かって笑みを浮かべて言った。ジョシュアを殺した相手と対峙するかもしれないと思うと、心配ではあるものの、シドが一緒にいるならきっと大丈夫だ。クライヴを死なせるような事はない筈だ。ユニスはそう思い、すっかりシドを信頼していた。
「カローン婆さん、新入りをよろしく頼む。グツと馬が合うようだ」
「ほう?」
シドは自分たちが不在の間、ユニスが肩身の狭いを思いをしないようカローンにそう告げた。まるで品定めするように見つめてくるカローンに、ユニスは背筋を伸ばして両拳を握った。
「ニサ峡谷でグツさんに助けて頂きました、ユニスと申します。早く馴染めるよう、何でもお手伝いします!」
「何でも……二言はないよ?」
これはこき使われるな、とシドは苦笑したが、ユニスならきっとすぐに皆と打ち解けるだろうと安堵した。彼女の事をまだ詳しくは知らないものの、シヴァのドミナントを守る為に自らの命を犠牲にしようとした娘だ、きっと逞しくやっていくだろう。
歩を進めるシドの後をついていく前に、クライヴは改めてユニスを見遣った。
「ユニス、ジルを頼んだぞ」
「はい! 絶対に生きて帰って来てくださいね。死んだら承知しませんから」
「そうだな……ああ、必ず帰って来る」
仕草も声も弱々しくはあるものの、まるで13年前に戻ったかのような口調のユニスに、クライヴは懐かしさを覚えて、思わず笑みを零した。13年前の若きクライヴを思わせる、優しくも頼もしくもある笑みを。
2023/11/03