絶望は舞い降りた


 まるで嵐のように去っていったクライヴとシドを見送った後、ユニスはタルヤやカローン、グツの手伝いをしながら、未だ目を覚ます気配のないジルを見守る日々を送っていた。
 シドの隠れ家で暮らす人々に自己紹介をして回り、挨拶を繰り返す中、ユニスは徐々にこの隠れ家の構造と、住人の顔と名前を覚えていった。

 シドが不在の間は、オットーという男性が云わばここの管理者のような立場であった。まだどんな人物かユニスは掴み切れてはいないが、彼は既にタルヤたちから話は聞いていたようで、「無理はするな、ゆっくり慣れていけばいい」と気遣う言葉を掛けた。ユニスは、シドは勿論、オットーも皆に慕われている存在なのだと実感した。

 鉄のにおいと金属音に惹かれて歩を進めた先では、ブラックソーンという寡黙な男性が鍛冶に勤しんでいた。きっと戦える者は彼に武器や装備を整えてもらうのだろう。まだ戦闘に出られるような状態ではないユニスは、今はまだ彼の世話になる事はないが、いずれ己がジルを守る立場になるのだからと、前もって挨拶をしたものの、完全に無視されてしまった。戦えない者に用はないという事なのだろうか。

 ただ、ブラックソーンに冷たくあしらわれても、ユニスは嫌な気持ちにはならなかった。
 別室にいる、ハルポクラテス2世という名の歴史研究家。彼の話が、ユニスにとって実に興味深いものであったからだ。

 ハルポクラテス2世はその名前の長さから、隠れ家では『語り部』と呼ばれているそうだ。部屋には歴史書が数多くあり、彼自身も隠れ家の皆の生き様を、備忘録として書き留めているのだという。
 ユニスも彼の役に立てばと、己の生い立ちを説明したところ、「よく耐えて来た。ここで皆で支え合いながら、少しずつ人としての生活を取り戻していきなさい」というような事を言われ、彼の優しい表情も相まって、ユニスは思わず涙を流してしまった。己よりジルのほうが余程辛い思いをしているというのに、泣くなんて情けない。そう思いつつも、『語り部』はまるで己にとっての祖父のように感じ、ユニスは今後も度々彼の元を訪れる事になるのだった。

 ハルポクラテスをはじめとする、隠れ家の皆が教えてくれた『今』の世界情勢は、ユニスの心を揺さぶった。
 13年前のあの日、ロザリア公国は壊滅状態に陥り、のちにザンブレク皇国の属領と化した事。ザンブレクとダルメキア共和国が、領土争いを続けている事。
 そこまではユニスも把握しており、奴隷のような扱いを受けながら生きる中でも、人々の噂話を耳にする機会が度々あった。
 だが、鉄王国の外の世界で、人々がどんな暮らしをしているのかまでは知らなかった。ベアラーが、どんな扱いを受けているのかも。

 鉄王国に連行された後、ユニスは「両親の元を離れ、ジルと共にロザリア公国に行かなければ良かった」と思った事は一度もなかった。自分で決めた事であり、あのまま北部に残っていれば、ロザリア公国での暮らしは存在しなかった事になるからだ。
『今』がどうであれ、あの時のユニスは間違いなく幸せだった。
 ジルがいつも己の傍にいて、ジルと仲の良いクライヴにやきもちを焼いて、そして、ジョシュアが偶に部屋を抜け出して己たちの元にやって来る。あの日々は、間違いなくユニスの人生において一番幸福な時間であり、そんな大切な想い出があるからこそ、鉄王国での辛い日々を耐える事が出来たのだ。

 鉄王国は宗教上の理由で、魔法を悪と捉え、魔法を使えるベアラーは例外なく殺されている。
 けれど、クリスタル正教ではないはずのザンブレク皇国でも、同様の事が起こっていると、ユニスは隠れ家での暮らしで初めて知った。。
 ベアラーが、鉄王国で生きて来た己よりもずっと酷い扱いを受けているのだと。

 ベアラーへの差別、酷使、粛清。
 それが、世界の常識なのか。

 皆口を揃えて「少しずつ」「ゆっくりと」とは言うものの、ユニスはジルが目覚めた時、剣も持てない有様ではいけないと、早くも内心焦りを覚えていた。
 とはいえ、シドやタルヤの言う通り、まずは人としての生活を取り戻す事から始めなければ話にならない。まずはここで暮らす人たちの手助けをする事から始め、少しずつ体力と知識を付けていく事に決めたのだった。

 この隠れ家で暮らす人々の手伝いは、思っていた以上に重労働が多かった。掃除、洗濯、食事作りといった、ロザリア公国で暮らしていた頃と変わらない家事に加え、身体が不自由な人へ必要なものを運ぶ仕事、それに、各地から助けられて来たベアラーを介抱する事もあった。
 それに、なんといってもシドがくれた果実を育てる仕事を手伝わないわけにはいかなかった。果実の御礼と感想を伝えに行ったところ、物凄く喜んで貰えて、それ以来ユニスは、栽培の手伝いもするようになったのだった。
 人どころか動物も住めないと言われる『黒の一帯』で植物を育てるのは、並大抵の事ではないと、難しい研究内容はよく分からないユニスでも察する事が出来た。力仕事ではない、少しでも肥料の量を間違えればすべてが台無しになってしまうという、神経を使う仕事であった。

 お陰で、夜が更ける頃には、ユニスは身体も頭も疲れ切って、泥のように眠りに落ちていた。心地良い疲れである。

 黒の一帯の中にある、皆が忌避するはずのこの場所は、鉄王国で悲惨な暮らしをしていたユニスにとっては楽園であった。ロザリア公国での生活も勿論幸せな日々であったが、過去を振り返っても世界が元には戻らない事を、13年の時を経たユニスは理解していた。
 ならば、今あるこの楽園を守っていく事が、今を生きる自分たちに出来る事だ。ジルが目覚めた後どうするかは、追々考えていけば良い。クライヴの頬にベアラーの刻印がある今、ジルが目覚めた後に三人でここを出てどこかで生活する事は難しい。ならば、いったんこの隠れ家を拠点とするしかない。

 それに、恐らく、シドはこの世界を変えるつもりだろう。
 そうでなければ、ザンブレク皇国軍の目を盗んでベアラーを保護するなんて、危険な真似は出来ない。
 ユニスはクライヴと違い、シドを早い段階で信用していたのもあり、この隠れ家でベアラーを助けながら、一生を過ごすのも悪くない――そんな風に思っていた。



「そ、そうなんだ。ユニスも北部出身なんだね」
「ユニス『も』……という事は、グツさんもですか?」

 カローンに頼まれて商品の整理をしていたある日、グツと同郷だと知ったユニスは頬を綻ばせた。だが、対するグツは何故か浮かない顔でユニスの問いに頷いた。
 いつもは穏やかな笑みを浮かべているグツが、こんな表情をするなど珍しい。その僅かな変化に気付いたユニスは、彼の生い立ちを詳しく問う事は止めた。もしかしたら、嫌な思い出があるのかも知れないと思ったからだ。ユニスも、ロザリア公国での思い出は話そうと思えばいくらでも話せるが、鉄王国での日々は、あまり思い出したくない。

「ふふっ、トルガルもなんですよ。私たち、おそろいですね」
「ほう」

 感心するようにそう答えたのは、カローンであった。どうやら、トルガルの面倒はカローンがずっと見ていたらしい。今はクライヴに付き添って隠れ家を不在にしている為、カローンもどこか手持ち無沙汰の様子である。
 トルガルが懐いているなら、カローンは絶対に良い人だ。ユニスはそう感じており、その判断に誤りはなかった。ゆえに、ユニスは彼女が知らないであろう、トルガルに纏わる話を口にした。

「エルウィン様が北部に遠征に行かれた際、偶然トルガルに出会って……懐いて来たので、そのままロザリス城に連れ帰ったそうです」

 その遠征の結果、北部はロザリア公国に領土争いで負け、和平の証としてジルがロザリアに預けられる事となった為、北部の人間としては喜ばしい事とは言い難い。だが、ジルと共にロザリアに移り住んだユニスは、あまり気にしていなかった。トルガルがエルウィンに拾われ、13年の時を経てこうして巡り会えた事も、まるで運命のように感じられたほどである。

「カローン様がトルガルを守ってくださったのですね。本当に、なんと御礼を言ったらよいか……」
「守るなんて仰々しい事はしていないよ。御礼と言うなら私の仕事の手伝いをする事だね。ほら、手が止まってるよ」
「は、はい! すみません……!」

 ユニスにとって、隠れ家での暮らしは充実していた。あとはジルが目覚めるのを待ちながら、クライヴとシドを迎えるのみである。だが、まさかクライヴが何日も帰って来ないと思っていなかったユニスは、徐々に不安を覚え始めていた。

 もしかしたら、ジョシュアを殺した『火のドミナント』が見つかり、戦っているのかも知れない。

 仇を討てなくても、せめて、無事で帰って来て欲しい。
 ジョシュアにもう二度と会えないだけでなく、クライヴにまで先立たれたら。
 ジルが傍にいても、折角再会出来たクライヴと、また離れ離れになるのは嫌だ。
 負の感情に襲われて、浮かない顔をしているユニスに、グツが心配そうに声を掛けた。

「ユニス、大丈夫? 疲れてるなら、無理しないで」
「あ、ううん、なんでもないです……! ただ、シドさんとクライヴ様が心配で」

 グツに気を遣わせてはならないと、ユニスは笑顔を作ってそう言うと、カローンが励ますように彼女の肩を軽く叩いた。

「なに、シドは帰って来る。クライヴという奴も、そう簡単に死ぬようには見えないがね」
「……そうですね。この隠れ家をここまで大きくするまでに、きっと私には想像も付かない程の苦労があったと思いますし……」
「ああ、犠牲もあった」

 カローンの言葉は簡潔であった。だが、それだけでも、シドをはじめとする皆が今の生活に辿り着くまでに、様々な事があったとユニスは察した。

「……カローン様。私、皆様のお役に立てるよう、これからも精一杯頑張ります!」
「全く……やる気があっても、張り切り過ぎて倒れられちゃ話にならないよ。毎日コツコツやるんだね」
「はい!」

 カローンは手厳しいものの、決してユニスを悪く言う事はなかった。きっとブラックソーンも、ユニスが戦えるようになれば、少しは打ち解けるかも知れない。頑張ろう――ユニスが決意を新たにした瞬間。

「シドが戻って来たぞ!」

 隠れ家の人たちが声を上げ、ユニスはグツと顔を見合わせれば、次いでカローンを見遣った。

「……出迎えておいで」
「ありがとう、カローン婆さん!」
「カローン様、お手伝いの続きは後で必ず!」

 許可を得るや否や、走り出すグツとユニスを見て、カローンは溜息を吐きつつも、その口許には笑みが浮かんでいた。



「シド、お帰りなさい!」
「クライヴ様!」

 グツとユニスが出迎えようとしたのも束の間。
 ユニスの目に飛び込んで来たのは、13年ぶりに再会し、逞しく成長した、頼もしいクライヴの姿ではなかった。

「クライヴ様……?」

 シドがぐったりとしているクライヴを担いでいるのを見た瞬間、ユニスは立っていられなくなり、その場にへたり込んでしまった。
 グツは慌ててシドに駆け寄って訊ねた。自分の為ではない、ユニスの為である。

「シ、シド。クライヴは……」
「気を失っているだけだ。こいつはこのまま牢屋に運ぶ」
「牢屋……!?」

 シドの言葉に叫んだのは、グツではなくユニスであった。慌てて起き上がって覚束ない足取りでシドの傍に来たユニスに、シドは首を横に振った。

「お前たちの安全の為だ」
「安全……? シドさん、一体何が……」

 シドはユニスの問いに答えるべきか悩んだものの、適当にはぐらかせば、彼女は牢屋に入れる事を絶対に拒否すると分かっていた。
 ショックを受けて早まるような真似はするなよ――シドは心の中でそう願いながら、ユニスにきっぱりと告げた。

「……『火のドミナント』は、クライヴ自身だ」

2023/11/17
2024/04/27 Revise
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