今日も迷い子ばかり


 ユニスは、ジルを抱えるクライヴと共にシドの後ろを必死に付いていった。
 ユニスの身体の自由を奪っていた手錠と足枷は、クライヴが剣で鎖部分を斬ってくれたお陰で、漸く最低限の歩行から人並みに歩く事が出来るようになっていた。とはいえ、手首と足首に刑具が残ったままであり、今のユニスを何も知らない人間に見られたら、脱獄犯だと思われてしまうだろう。
 シドは淡々と歩いていたものの、振り返ってユニスの容貌を一瞥すれば、少し休憩しようと声を掛けた。そして、仲間らしき大柄な男に小声で何やら囁いていたが、ユニスの耳には届かなかった。

 クライヴはジルを岩陰に寝かせると、再会の喜びよりも困惑を露わにした表情で、彼女の頬を撫でながら呟いた。

「ジル……どうして君が……」

 突然シヴァのドミナントとして目覚めてしまったのだと、ユニスは伝えようとしたが、ここは自分が出しゃばるよりも、そっとしておいたほうが良いかも知れない。クライヴに声を掛けるべきか悩んでいると、後ろから優しい声が掛けられた。

「あ、あの」

 ユニスが振り向くと、シドの仲間の男が遠慮がちにこちらを見ていた。どう見ても敵意は感じず、危害を加えるつもりはないらしい。休憩する前まで彼の背中にはずっと背負子があり、荷物もちゃんと乗っていた。とてもではないが彼は戦える状態ではないだろう。
 危害を加えられる事はないと信じ、相手の言葉を待っていると、男は荷物の中から針金を取り出してユニスに見せた。

「これで、その枷を外せるか、試してみるよ」
「え……!」

 ユニスは鉄王国で酷い生活を送っていたが、特にジルがシヴァのドミナントとして目覚めてからは、更に悲惨な状況下に置かれていた。ユニスはジルを戦いの場に出す為の『道具』として管理され、枷は司祭か兵士でしか外せないようになっていたのだ。
 ユニスもジルに迷惑を掛けない為にも、自ら外そうと試みた事は一度もなかった。というより、己よりもずっと悲惨な目に遭っているジルを置いて脱走するなど、絶対に考えられなかったのだ。

「そんな事が、出来るのですか……?」
「うん、痛かったら言ってね」
「大丈夫です! ありがとうございます」

 ありがとう、なんて口にしたのは一体いつぶりだろう。ユニスは男の優しさに感極まって、零れそうになった涙を堪えつつ、彼に任せる事にした。男はしゃがんでユニスの手首に嵌められた枷を、針金を駆使して見事に解錠した。枷が地面に落ち、鈍い音が響く。

「やった……!」

 男は続いてもう片方の手首の枷も、先程よりも手早く外してみせた。恐らくコツを掴んだのだろう。そして、残るは足枷がふたつ。このままの体勢では、彼が這いつくばらないといけなくなる。それはさすがに失礼だと躊躇うユニスであったが、思わぬ助け舟がやって来た。
 低音で吠える、狼の鳴き声。
 けれど、ユニスにとっては何故か懐かしく感じる声。
 突如現れた灰色の毛並みの狼は、ユニスの元まで駆け寄れば、尻尾を振りながらじゃれついて来た。

「お前……もしかして、トルガル?」

 ユニスが訊ねると、狼はそうだとばかりに軽やかに吠えた。仔犬だと思っていたのに、まさか狼だったとは。尤も、皆は既に知っていて、ユニスだけがトルガルを犬だと思い込んでいたのはここだけの話である。

「トルガル……! まさかまた会えるなんて……」
「キミ、婆さんが面倒を見ているこいつを知ってるの?」
「婆さん?」
「ああ、えっとね。カローン婆さんっていう……」

 どうやら男の知り合いがトルガルの面倒を見ていたようだ。こんな偶然があるのかと驚いているユニスであったが、見違えるほど成長したトルガルが、今度はクライヴの元に駆け寄った。
 クライヴもすぐにその狼がトルガルだと気付き、漸く笑みを零せば、13年ぶりに再会して、可愛らしい仔犬のような姿から立派な狼に成長したトルガルを撫で回した。

「お前も、随分『大物』になったな」

 クライヴがトルガルをあやしていると、見計らったかのように、今まで休んでいたシドが現れた。

「そいつのおかげで助かったんだ。感謝しろよ」
「トルガル」
「ん?」
「こいつの名はトルガルだ」

 先程の微笑は何処へやら、笑みひとつ零さずそう言い放つクライヴに、シドは苦笑した。ただ、ユニスが見る限りでは、やはりシドという男は敵ではないように思えた。

「顔馴染みか。道理で、やけに吠えてきたわけだ。それじゃ、あとの世話はお前に任せるぞ。――クライヴ・ロズフィールド」

 何故その名前を知っているのか。ファーストネームだけならユニスとの会話を聞いて把握しているとしても、ファミリーネームは分からない筈だ。
 警戒するクライヴに、シドは淡々と説明する。

「さっきの、炎を操り剣を振るう姿……あれはフェニックスのナイトそのものだ。噂には聞いていたが、本当に生きていたとは」

 一体この男は何者で、どこからどこまで知っているのか。クライヴだけでなく、ユニスも顔を強張らせたが、シドは相変わらず余裕綽々の笑みを浮かべている。

「安心しろ、お前をどうこうしたいわけじゃない。俺たちの目的は、この娘を口説くことさ」

 シドがそう言って顔を向けたのは、当然ユニスではなく、今もまだ意識が戻らないジルであった。

「目立った傷はないが、一度、診たほうがいいだろうな。グツ、頼む」

 シドが簡潔に言うと、ユニスの手錠を外してくれた男――グツは、慌てて頷けばジルの傍に駆け寄った。
 だが、クライヴはすぐさま剣を抜き、グツの首筋に剣先を向けて牽制する。グツが小さな悲鳴をあげてたじろぐと、今度はその剣先をシドに向けた。

「何をする気だ。言え」
「俺たちの隠れ家に連れてく。このままにもしておけない」

 シドは顔色ひとつ変えずきっぱりとそう言って、グツに声を掛けた。

「いいぞ」

 今度こそ、グツがジルの元に向かう。『隠れ家』がどんな場所なのかユニスには見当も付かなかったが、シドの言葉を信じるなら、助けてくれることに変わりはない。
 ユニスはジルを抱えようとするグツに声を掛けた。

「グツ様、お手伝いします」
「あ、ありがとう! えっと……」
「ユニスと申します。ジル様の……付き人、といったところです」
「そうなんだね。よろしく、ユニス。それと、オレに『様』はいらないよ」

 グツは敵意を露わにするクライヴとは真逆のユニスに安堵しつつ、ふたりでジルを抱えて背負子に乗せた。グツが背負って運んでくれるのだろうと察し、ユニスはほっと一息吐いたが、まだ足首に枷が残っている事を思い出したグツが、シドに声を掛けた。

「シド! ユニスの足枷を取ってあげたいんだ」
「成程、お嬢さんに足を上げさせるわけにはいかないからな」

 シドは察してすぐにユニスの元に駆け寄れば、あっさりと横抱きして、グツに彼女の足首を向けた。

「ありがとう、シド。ユニス、ちょっと待っててね」

 グツは屈んで再び針金でユニスの枷の鍵穴を弄ると、無事ふたつとも解錠され、重い枷が地面にぼとりと落ちた。
 ついでに、素足のまま歩かせるわけにはいかないと、簡易的ではあるがグツは丈夫な布きれを荷物から取り出して、ユニスの両足に巻き付けた。足下に気を付けて歩けば、鋭利な石などで足裏の皮膚が抉れて出血するような惨事は免れることが出来る。

「グツさん、何から何までありがとうございます……!」

 ユニスが礼を述べると同時に、シドは彼女を地面に下ろした。一体何歳なのかは分からないが、あまりにも軽すぎる。見るからに奴隷の容貌であり、恐らくはまともな食事を与えられていないのではないかと察したシドは、ユニスの肩に手を置いて告げた。

「ユニス、だったか。お前も医者に診て貰ったほうが良さそうだ」
「いえ、私は大丈夫です。それよりも、ジル様を――」
「お前さんは彼女の『付き人』なんだろ? そんな身体で主を守れると思ってるのか」

 シドは口許は笑みを浮かべているものの、その目は笑っていなかった。彼の言っている事は正しいと、ユニスは思わず身構えた。
 だが、シドは再び微笑を浮かべ、ユニスの肩を撫でれば、軽く叩いてその手を放した。

「まずは自分自身を大事にしろ」

 そして、シドは身動きひとつ取れないクライヴに向かって声を掛けた。

「お前も来い。彼女が心配だろ?」
「シド、早く帰ろう。婆さんにどやされる」
「詳しい話は向こうに着いてからだ。行くぞ」

 急かすグツに応じるように、シドは詳しい事は言わずにクライヴへそう告げれば、歩を進めた。ジルをグツに任せている以上、付いていく以外の選択肢はない。

「クライヴ様、私たちも行きましょう。何よりも、ジル様のお身体が心配です」
「…………」

 納得いかないクライヴではあったが、とにかく相手に従うしかないというユニスの判断は間違っていない事も分かっていた。そんなクライヴに喝を入れるようにトルガルが吠え、仕方なくシドたちの後を付いていく事にしたのだった。



 山岳地帯の道は険しく、ついには黒の一帯へと突入した。グツが足に布を巻いてくれなければ、恐らく足裏から血が出ていたに違いない。ユニスはグツの気遣いに心から感謝しつつ、徐々にシドとグツが何をしようとしているのか、分かり始めて来ていた。

 シドの狙いは当然己ではなくジルだ。ただ、敵対する意思はないように見える。
 それに、例えついでだとしても。己までこうして助けてくれるなんて。
 彼らの目的は、弱き者の救済ではないだろうか。弱き者――それが『どのような存在』を指すのかは、言うまでもなかった。

 ロザリア公国亡き今、この世界で圧倒的に迫害されているのはベアラーだ。
 彼らの目的は、きっと――。

「ようこそ、我が家へ」

 歩きながら考えを巡らせていたユニスは、シドの声で我に返った。
 目の前には、見た事もない造形の建築物が広がっていた。意味があるのか分からない模様の白い壁に覆われたそこは、紛れもなく人が居住している『隠れ家』だった。
 ユニスとは反対に、クライヴはここが元々何なのかをすぐに察し、驚きを露わにした。

「まさか、『空の文明』の遺跡か……」
「ああ、間借りしてる。雨風をしのげるんでな」

 空の文明――太古の昔に栄えた超文明であり、空を飛ぶ事も可能であったという。今の時代では考えられない技術を持っていたが、神と人との戦いで消滅したという言い伝えがある。

「魔法を使わずに暮らすなんて……」
「頭を使って、何とかやってるのさ」

 黒の一帯では、人だけでなく生物自体が生きる事など出来ないとユニスは思っていた。だから、北部諸国からロザリア公国に難民が押し寄せていたのだ。
 この隠れ家も黒の一帯の中にあるものの、周囲を見渡せば、確かに間違いなく多くの人が生活している。そんな事が出来るなど夢にも思っていなかったユニスは、目を輝かせてあちこちを見回していた。
 そんなユニスを見てシドは笑みを零せば、置かれていた果実をひとつ拝借してクライヴに差し出した。

「ここで採れたんだ。えらく手間暇はかかったがな」

 だが、クライヴは受け取りもしなければ、無言を貫いていた。何が入っているかも分からない、というより、ユニスと違ってシドを信用しているわけではないからだ。雑談に興じる余裕などなかった。

「……いけるのに」

 シドはぽつりと呟けば、果実を丸かじりした。それと共に突然漂って来た甘い香りに、ユニスの興味津々な目線がシドの手元の果実に向かう。その視線に気付いたシドは、ユニスに食べかけの果実を見せ付けた。

「食べるか?」
「……よろしいのですか?」

 目を瞬かせるユニスに、シドは気を良くしたのか、更にもう一個果実を拝借してユニスに手渡した。だが、ユニスは礼を告げた後、それを大事そうに抱えて食べる気配がない。

「早く食べないと腐っちまうぞ」
「いえ、折角ですし、ジル様に食べて頂こうと……」
「これはユニス、お前さんのだ。彼女の分は、目が覚めたら改めて一緒に食べればいい」
「……ありがとうございます」

 なんだか食い意地が張っているようで、ユニスは気恥ずかしさを覚えたが、こんな感情になるなど、鉄王国に連れて行かれてから一度もなかったかも知れない。まるで、ロザリア公国で暮らしていた頃に戻ったようで、ユニスは不思議な感覚を味わっていた。

「戻ったのね」

 突然女性の声が聞こえ、ユニスは果実を大事に抱えたまま、彼女のほうへ顔を向けた。

「よう、タルヤ」

 シドにタルヤと呼ばれた女性は真っ先に、横たわっているジルを見遣った。

「その子が、例のドミナント?」
「意識が戻らない。ちょっと身体のほうを診て貰えないか」
「分かったわ。グツ、手伝ってちょうだい」

 恐らくはこのタルヤという女性が医者なのだろう。タルヤはグツに声を掛けるも、どういうわけかグツは困惑している。

「婆さんが……」
「代金は払ってある。大丈夫だから安心なさい」
「……ならいいけど」

 ユニスはふたりの遣り取りを聞いて、グツの言う『カローン婆さん』は恐ろしい人なのだろうと察した。尤も、決してユニスが警戒するような加害的な人では当然ないのだが。
 ひとまずこのタルヤという人にジルを診て貰い、その後の事はジルが目覚めてからふたりで考えよう。ユニスはそう思っていたのだが、間髪入れずにシドがタルヤに告げる。

「タルヤ。ついでにユニスも診てやってくれ」
「その子は?」
「シヴァのドミナントの『付き人』だそうだ」

 シドはそれ以上何も言わなかったが、タルヤはユニスの姿を見るなり、彼が何を言わんとしているのかすぐに察した。ぼろぼろの布切れを纏い、靴は履いておらずグツが巻いた布で辛うじて足を守っている。その身体は華奢というよりも、栄養失調で痩せ細っているのは一目瞭然であった。
 タルヤは口角を上げれば、ユニスに向かって声を掛けた。

「ユニス、付いておいで」
「いえ、私は大丈夫です! それよりも、ジル様を……」
「その『ジル様』の治療の為にも、分かる範囲で教えて欲しい事がある。大事に持ってる『それ』でも食べながらね」
「こ、これは……」

 さすがにこれは食い意地が張っていると思われたと、ユニスは顔を真っ赤に染めたが、タルヤにとっては、ユニスがちゃんと食事を取る事が出来るのか判断する必要があった。今の反応を見る限り、咀嚼に問題はなさそうだ。となると、ちゃんと食事を取らせて少しずつ身体を回復させ、恐らくは心のケアも必要になるだろう。タルヤは考えを巡らせながら、ジルを抱えたグツ、そしてユニスに手招きして、奥へと歩を進めて行った。

 タルヤとグツ、そしてジルの後を追う前に、ユニスはクライヴに声を掛けようとした。わけがわからぬ間に話が進んでしまったが、ユニスとしてはクライヴとゆっくり話がしたかった。13年前のあの日、何があったのか。クライヴはどう生きて来たのか。そして――ジョシュアはどうなったのか。生きているのか、あるいは。

「とびきり腕のいい医者なんだ。任せておけばいい」

 ユニスがクライヴに声を掛けるより先に、シドがそう告げた。そして、シドの顔がユニスへ向かう。

「ユニス、早く追い掛けないと道に迷うぞ。なに、後でゆっくり話そう。クライヴと三人でな」
「……はい! シド様、助けて頂き本当にありがとうございます!」
「『様』はいらん」

 後で場を設けてくれるのなら、一安心だ。ユニスはそう思い、笑みを浮かべてシドに頭を下げれば、背を向けてタルヤたちの後を追い掛けた。
 すっかりシドに心を開いているユニスとは対照的に、クライヴだけは警戒を解いていなかったが、シドとの出会いによって、クライヴの人生は大きく変わるのだった。

2023/10/14
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