報われない恋だとしても


 フェニックスのドミナント、ジョシュア・ロズフィールドは、定められた己の使命から逃れたいと思った事は一度もなかった。ただ、己が病弱に生まれた事が原因で、まるで籠の鳥のように育てられ、今もそれが継続している事については、不満がない訳ではない。
 ロザリス城内の窓から外を眺めたジョシュアは、兄と北部地域から来た少女が並んで歩いているのを見つけ、己も自由に外に出る事が叶えば良いのにと羨む事が度々あった。
 そして、己ではなく兄がドミナントならば良かった、本来ならば兄がドミナントであるべきだった――そんな、自責の念を抱いていた。



「ジョシュア様、またニンジンをお残しに……」

 ある日、食事を残した事を使用人に窘められたジョシュアは、なんとか克服しようと試みたものの、どうしてもニンジンだけは苦手で口に出来そうになかった。母から口煩く言われた事はなく、ドミナントとしての務めを果たす事以外については、専ら大目に見られていたのだ。

「ユニスはなんでも美味しく平らげますよ?」

 まさか使用人に彼女の名前を出されるとは思わず、ジョシュアは気恥ずかしさを覚えた。だがそれ以上に、ユニスが当たり前に出来ている事が、何故己には出来ないのかと、情けなさも感じていた。

「……ユニスは凄いね。好き嫌いもなく、兄さんみたいに剣術も始めてしまうなんて……」

 このヴァリスゼアにおいて七人しか居らぬドミナントとして目覚め、召喚獣を喚び降ろす事が出来るだけで、奇跡のような存在だというのに、ただの小娘を羨ましがるとは。使用人は驚いてしまったが、魔法の扱いには長けていても、病弱に生まれ、体力に難のあるジョシュアにとって、『普通の人間』の肉体は望んでも得られぬ代えがたいものであった。それを察した使用人は、耳を欹てて近くにアナベラが居ない事を確認すれば、笑みを浮かべてジョシュアに内緒話をするように小声で囁いた。

「ユニスは完璧な子ではございません。負けず嫌いで、クライヴ様に嫉妬しているのですよ」
「兄さんに? どうして?」
「クライヴ様はジルと仲が良いですから。ジルを取られてしまうと思っているのでしょう」
「そんな、兄さんがそんな事するわけないよ」

 ユニスの事をただ強い女の子だと思っていたジョシュアは、信じられないとばかりに否定したが、使用人は首を横に振る。

「ユニスがそう思っているだけの事。クライヴ様は当然、上手く往なしていらっしゃいますが」
「ユニスが……」

 ユニスがそんな子だとジョシュアは思えなかったが、ただ、先日宴を抜け出して彼女を外に連れ出した際、急に不機嫌になったのを思い出した。疲れて苛々していたり、あるいは宴の前に何かあったのかと思っていたが、もしそうではなく、己が彼女を傷付けるような事を言ってしまったのだとしたら。

 ――君が心配しなくても大丈夫。兄さんは絶対、ジルの事も守ってくれるから。

 先日の事を思い返しているジョシュアであったが、使用人がニンジンの残った皿を片付けている事に気が付いて、我に返った。

「……ごめんなさい」
「いえ、健康の為に摂取して頂きたいのは山々ですが……ただ、ジョシュア様が気に掛けられているユニスも、彼女なりの悩みがあるのだと分かって頂ければ」

 ジョシュアの世話を焼いている使用人は、籠の鳥である次期大公が、外の世界で活発に生きる少女に特別な感情を抱いている事を察していた。例えそれが立場上叶わぬ恋であっても、他者と交流する事を咎める権利はない。
 使用人は、誰に対して言うでもなく、ぽつりと呟いた。まるで、ジョシュアの背中を押すように。

「確か今日は、クライヴ様がユニスの特訓に付き合う予定だとか……」

 その言葉を聞いたジョシュアに、いつまでも部屋に閉じこもっている選択肢など、最早存在しなかった。




 母の予定を把握し、己に干渉出来ない時間帯を見計らい、ジョシュアは城を抜け出して騎士たちの元へと歩を進めた。民衆に見つかると騒ぎになる為、人気のない道を選んで進んで行く。
 あんな事があっただけに、ユニスと顔を合わせるのは気が引けた。兄と彼女の剣技を遠くから見て戻れば良い。そう思っていたジョシュアであったが、突然目の前に仔犬が飛び出して来て、思考が一瞬飛んでしまった。

「トルガル! てっきり兄さんの元にいると思っていたけど……」

 目の前の仔犬は、ついて来いとでも言いたげに、少し離れた場所でジョシュアを見ながら尻尾を振っている。

「案内してくれるんだね。僕が顔を出しても大丈夫かな?」

 果たしてジョシュアの言葉の意味を理解しているかは定かではないが、トルガルは軽やかに吠えてみせた。まるで、ユニスも喜ぶから問題ない、と答えているかのように。



 吹き抜ける風がジョシュアの頬を擽り、そして、剣と剣が交わる乾いた音が聞こえる。トルガルの後を追って辿り着いた練習場では、まさにクライヴとユニスが特訓している最中であった。

「ジョシュア様! お一人で出歩くなど、よろしいのですか?」

 真っ先に来客に気付いたウェイドが駆け付けて、恭しく頭を下げれば、顔を上げて恐る恐るジョシュアに訊ねる。

「この事は皆に内緒にしていてくれないかな」
「それは勿論構いませんが……」

 皆、というのは額面通り受け取るのではなく、大后妃アナベラの耳に入らないようにしろ、という意味であろう。そう察したウェイドは、一先ず特訓中のふたりに気付かれないよう、ジョシュアを連れてユニスの背後に回る。クライヴに気付かれるのは問題ないが、ユニスがジョシュアの存在に気付いたら、間違いなく集中力を切らす事が明白であったからだ。


「ユニス、疲れたか?」
「くっ……まだ大丈夫です!」

 ふたりの剣が交わるのを眺めているジョシュアは、兄が明らかに手心を加えている事に気付いていた。体力差、そして経験の差を考えれば当然の事なのだが、それでもユニスは全く諦めていないように見えた。

「ユニスに何かあったらジルが悲しむ。無理はしないでくれ」
「……そんな事を言ってたら、ジル様を護れない!」

 ユニスの剣を弾いているだけに留めているクライヴであったが、突如、彼女の顔付きが変わったのを見逃さなかった。ユニスの剣先がクライヴの胸元を捉えそうになり、彼は咄嗟に身を翻して剣を躱し、そして、無防備になった彼女の脇腹に向かって剣を振り被る。

「脇が甘いぞ、ユニス」
「……っ!」

 虚空を斬ったユニスの剣が、咄嗟にクライヴの剣を弾く。ここで声を掛けられなければ、確実に脇腹を斬られていた。尤も、クライヴとて手心を加えており、絶対に傷付けないよう途中で止めたであろう事は誰もが分かっているのだが。

「さっきの思い切りは良かった。だが、躱された後は必ず反撃が来ると思ったほうがいい」
「…………」
「さて、そろそろ休もう。ユニスもコツを掴めたんじゃないか?」
「私は、まだ……」

 ユニスとしてはほんの少しでもクライヴが驚くような攻撃をしたかったのだが、これ以上闇雲に剣を振るっても時間の無駄であった。主導権を握っている相手が休むと言っている以上、それを否定したら子どもの我儘になってしまう。そもそも、公国の第一王子をこうして剣の特訓に付き合わせている事自体が、我儘に他ならなかった。

「……分かりました。クライヴ様、貴重なお時間を頂き、感謝します」
「そういう堅苦しいのはナシだ」

 深々と頭を下げるユニスにクライヴは苦笑すれば、彼女の頭を優しく撫でた。先日の夜の出来事を思えば、ジョシュアはおろか己に対しても委縮してしまうのは理解できるものの、クライヴとしてはユニスにも、ジルと同じように気軽に接して欲しかった。
 そしてそれはきっと、ジョシュアも同じだ。

「ジョシュア! ユニスの特訓を見に来たのか?」

 クライヴが、己の視線の先にいるウェイドとジョシュアに顔を向けてそう叫ぶ。ユニスと剣を交えている間も、ジョシュアがこっそり城を抜け出して己たちを見ている事に気付いていたのだ。
 まさかジョシュアがこの場にいるとは思わなかったユニスは、慌てて顔を上げた。だが、どうしても振り向く事が出来ず、そのままクライヴの背中に回って姿を隠した。
 クライヴは苦笑したが、ユニスの行動は理解出来るだけに、決して彼女を引き摺り出したりはしなかった。代わりに、何も言わずジョシュアに向かって手招きする。
 本当に大丈夫だろうかとジョシュアは躊躇ったが、横でウェイドが微笑を湛えながら頷いており、トルガルも応援するように吠えた。
 ここは兄を信じよう。そう決めて、ジョシュアはクライヴとユニスの元へ歩を進めた。

「ふたりとも、お疲れ様」

 ジョシュアが声を掛けるも、ユニスはまだクライヴの後ろに隠れている。ずっとこうしている訳にもいかないと、クライヴは振り向いて腰を屈めてユニスと視線を合わせれば、彼女の頭を撫でた。

「大丈夫だ、ユニス」
「……ですが、アナベラ様が……」
「ここにはいない。ウェイド卿が見張ってくれている。そうだろ? ジョシュア」

 クライヴが振り返ってそう訊ねると、ジョシュアは苦笑しながら頷いた。

「という訳だ。今なら誰もユニスを傷付けたりしない」

 そう告げて、クライヴはユニスの頭から手を放せば、ジョシュアと目配せしてその場を後にした。

「えっ!? クライヴ様……」

 まさか己を置いていくとは夢にも思っていなかったユニスは、呆然としながらクライヴの背中を見ていたが、その隙にジョシュアに両手を掴まれてしまった。

「すごいや、ユニス! 兄さん相手にあそこまで戦えるなんて!」
「え!? で、ですが……」
「手加減していたって言いたいのは分かる。でも、兄さんより強いヤツなんて早々いない。兄さん相手にここまで出来るなら、モンスター討伐も夢じゃないよ!」
「討伐……」

 思ってもいない言葉にユニスは首を傾げたが、ジョシュアは真剣な眼差しで、決して世辞を言っているわけではなかった。ふたりの様子を遠巻きに窺っていたウェイドとクライヴも、互いに顔を見合わせて、どちらともなく頷く。

「確かに、ジョシュア様の言うように、そろそろユニスを見回りに同行させても良いかも知れません」
「ああ、俺もそう思うが……ただジルがどう言うかだな。万一の事がないとは言い切れない」

 クライヴたちの会話はふたりには届いていない。ユニスよりも、寧ろジョシュアが本気になって嬉しそうに話を進めていく。

「君ひとりで戦うわけじゃないし、皆がいる。実戦はきっと、君がジルのナイトになる為の糧になるはずだ」
「ですが、ジル様がお許しになるかどうか……」
「大丈夫。もし君が傷を負ってしまっても、僕が癒すから」

 そう言って微笑むジョシュアに、ユニスは瞬く間に頬を紅潮させた。アナベラに近付くなと言われているのに、相手から来られてはどうしようもない。
 だが、ジョシュアが癒すという事は、フェニックスの力を使う事に他ならない。神の業ともいえる魔法を、己の為に使うのは間違っている。ユニスはそう思い、険しい顔付きで首を横に振った。

「ジョシュア様のお力は、私のような下賤な者に使うべきではありません」
「そんな事言わないで。僕はそんな風に思った事は一度もない。僕も、兄さんも、そして父上も……」

 ただ、アナベラがユニスに放った言葉を帳消しにする事は出来ない。間違いなく彼女を深く傷付けた。ジョシュアはユニスとの距離を縮める事が出来ない事に、心の中で落胆したが、それでも諦めてはならないと、口角を上げた。ジルのようにいつも彼女の傍にいて、兄のように彼女に剣技を教えるなど出来なくとも、己にも彼女のために出来る事がある筈だからだ。

「母上の目を盗んで来たから、今日はそろそろ戻らないといけないけれど……こうしてまた、君に会いに来ても良いかな?」
「ジョシュア様、お言葉ですが……アナベラ様の言付は守るべきかと存じます」
「兄さんは良いのに、僕は駄目なの?」

 真っ直ぐな瞳でそう問われて、ユニスは何も反論出来なかった。
 クライヴは良くてジョシュアは駄目だと主張する事は、アナベラがそうしているように、クライヴを公国の王子だと認めない事と同じである。ユニスはドミナントであろうとなかろうと、クライヴの事を持たざる者だと思った事は一度もなかった。それどころか、ドミナントである弟のジョシュアに対して決して嫌な感情を抱かず、心から愛し、護ろうとしている事も分かっていた。果たして自分が彼と同じ立場だったとして、同じような気高い振る舞いが出来ただろうかと思うほどに。

「ユニス。母上の言葉は忘れて、なんて言っても出来ないとは思うけど……でも、僕は絶対に君をそんな風に見たりなんてしない。君は強くて、気高くて……僕の憧れだ」

 まるで告白とも取れる発言に、ユニスはどうして良いか分からず、ただ頬を真っ赤にして潤んだ瞳でジョシュアを見る事しか出来なかった。己の両手を握るジョシュアの手から伝わる熱が、きっとこんな気持ちにさせてしまうのだ。ユニスはこれが決して愛の告白ではない事は分かっていたが、それでも、ジョシュアというひとりの少年に本気で恋をするには、充分過ぎる出来事であった。



「ユニスを討伐に同行させる? 本当に、大丈夫なの……?」

 遅れてやって来たジルは、クライヴから経緯を聞いて不安そうに呟いた。ふたりの特訓は、ジルを心配させまいと内緒で行われたものであった。

「ああ。手合わせを、と言われた時は、ユニスを傷付けるような事があったらと乗り気ではなかったが……俺も驚いたよ。ユニスは思った以上に成長している」
「クライヴがそう言うのなら……ただ、ユニスは本当にそれを望んでいるの?」
「ジョシュアに応援されて、気合が入ったみたいだ」
「そう……」

 ジルもまたユニスの成長に驚く反面、少しばかり寂しさを感じていた。己を思って、両親の元から離れてついて来てくれた少女が、いつの間にか己の手の届かない相手になってしまうのではないか。そんな不安が過ったのだ。
 だが、いつまでも己が傍にいては、ユニスの為にならない。いつかはお互いに愛する人が出来て、離れて暮らす日が来るかも知れないのだから。ジルはそう思い、ユニスをクライヴたちに任せる事にした。

 ユニスが戦う力を身に付ける為に日々努力しているのは、ジルの為に他ならない。彼女の元を離れるなど、本人は考えてもいないのだが、このロザリア公国が戦禍を被る日は、刻一刻と迫っていた。

2023/08/13
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