楽園は死んだ
時は過ぎ、大陸暦860年。ジルとユニスの故郷、北部諸国は黒の一帯に侵食され、最早人間の住めない土地と化していた。北部の民は和平を結んでいるロザリア公国へ流れたが、かつて鉄王国にマザークリスタルを奪われたロザリアもまた、黒の一帯に襲われ始めていた。
このままでは国を維持できないロザリア公国が、マザークリスタル奪還のために鉄王国との戦を始めるのは、もう間もない事であった。
「……兄さん、クライヴ兄さん!」
倒れるクライヴの顔に、容赦なく水が投げ掛けられる。マードック将軍との手合わせで敢えなく破れたクライヴは、一時的に気を失っていたのだ。
遠くから見守るジョシュアの声で、クライヴは漸く目を覚まし、体を起こす。
「もう終いで? ナイトの称号を返上しても構わんというわけだ。ナイトがこの体たらくでは、守られる側も気が気でないのでは?」
将軍の手厳しい言葉に、ジョシュアが笑みを浮かべながら真っ先に反論した。
「心配なんてあるもんか。兄さんは絶対に負けないよ。でしょ?」
負けじと、傍にいるトルガルも吠え、そして一緒に見ていたジルとユニスも声を上げる。
「クライヴ、次こそ一本取れるわ!」
「ジョシュア様のナイトの力は、その程度ではないはずです!」
ジルはともかく、ユニスの言っている事はマードック将軍の本心そのものであろう。ジョシュアはふと、過去に使用人が「ユニスはクライヴに嫉妬している」と言っていたのを思い出した。
ユニスがジルのナイトを気取っているのは、残念ながら自称でしかない。だが、クライヴがジョシュアだけでなく、多くの人を守る力を持っているのは明白である。自分がどんなに求めても手に入らない力を、彼が持っているからこその発言。そう考えると、ジョシュアはユニスの気持ちが手に取るように分かる気がした。
勿論、本人にそんな事は言えるわけがない。ジョシュアが勝手にユニスの理解者になったつもりでいる、ただそれだけの話である。
そんな思いをユニスに悟られぬよう、ジョシュアは笑顔でクライヴに向かって叫んだ。
「頑張って!」
そして、クライヴは見事にマードック将軍から一本取ったのだった。当然将軍とて手加減はしているものの、クライヴの腕は確かなものである。ジルとジョシュアは満面の笑みで喜んだ。
「やったー!」
「ほら、見て! 勝ったでしょ?」
そんな二人を、ウェイドをはじめとした騎士たちは温かく見守っていた。ユニスは落ち着いてはいるものの、安堵したように息を吐けば、クライヴではなくジルとジョシュアのふたりを優しい眼差しで見遣っていた。
だが、クライヴも相当無理をしていたのだろう。ふらついて地面に膝を付いてしまい、ジョシュアが真っ先に彼の傍に駆け寄った。
ユニスもジルと顔を見合わせれば、どちらともなく頷いて、クライヴの元に歩を進める。
ユニスはジョシュアがフェニックスの力を用いて、クライヴの身体を癒しているのを目の当たりにした。優しくも神々しい光にあてられ、クライヴは瞬く間に回復していく。ユニスの目から見たら原理など何も分からないが、魔法とはそういうものなのだ。
ドミナントではないものの、魔法を扱う事が出来る人間は『ベアラー』と呼ばれ、他国では迫害されている。ユニスは寧ろ彼らをドミナント程ではなくとも丁重に扱うべきではないかとすら思っていたが、そう思えるのは、このロザリア公国での暮らしが長くなって来たからに違いなかった。
「ジョシュア。疲れただけだ、こんな事にフェニックスの力を使うんじゃない」
「ナイトを癒すのも僕の務めだよ。これくらい、どう――」
刹那、ジョシュアは苦しそうに咳込んだ。クライヴの稽古を見ていた時も辛かったのか、突発的な発作なのか。どちらにせよ、治癒方法があるならとうにアナベラがどうにかしている筈である。他者を癒す事は出来ても、ドミナントである自身はその恩恵を受ける事が出来ないなど、この世界に神様がいるのなら、何故ジョシュアにこんな苦難を強いるのかと、ユニスは少しばかり捻くれた事を思ってしまった。
「ほら見ろ。今朝も咳込んでたな。外に出ていいのか?」
「大丈夫だよ。安心して」
「無理をするな」
ジルもユニスも心配そうにジョシュアを見遣っていたが、思い掛けない声が聞こえて来た。
「殿下がお戻りになられました!」
殿下――このロザリア公国を治めるエルウィン大公が、遠征から戻ったとの知らせである。
「父上だ!」
一気に顔を明るくさせるジョシュアに、発作は一時的なものだったと分かりユニスは少しだけほっとしたが、間もなくして周囲がざわつき始めた。
「皆の者、我がロザリアへの揺るぎない忠誠に感謝します」
使用人を引き連れて、アナベラがこちらに向かって歩いているのが目に入り、ユニスは思わずジルの後ろに隠れてしまった。これでは彼女のナイトを自称する事すら滑稽である。
アナベラはジョシュアただひとりをその視界に捉え、目の前まで来れば優しく窘めた。
「ジョシュア。また部屋を抜け出して、いけない子ね」
「ごめんなさい」
束の間の自由な時間が終わってしまい、ジョシュアはどこか寂しそうにそう告げた。重苦しい空気が漂う中、クライヴはジルと共にアナベラに向かって一礼する。
「ご機嫌麗しゅう、母上」
だが、アナベラは何も聞こえていないかのようにクライヴを無視し、ジョシュアだけを見据えていた。
「さあ、ジョシュア。殿下をお迎えに上がりましょう」
ジョシュアは名残惜しそうにクライヴたちを見遣りながら、アナベラと共にその場を後にした。
「まるで血が繋がってないような扱いだ」
「……ああ。実の息子なのに、フェニックスが宿らなかっただけで」
騎士たちの囁きは、クライヴたちの耳にも届いていた。実の息子に対してこんな態度を取る時点で、ジョシュアと僅かでも仲睦まじい様子を見せたユニスなど、アナベラにとっては汚らわしい存在なのだ。ユニスはこのロザリア公国で皆に良くして貰っているが、アナベラがジルと己の事を、北部から来た卑しい蛮族だと罵っていると人伝に聞いており、例え大公エルウィンが人格者であっても、皆が皆そうではない事も現実として知っていた。
「……行こうか」
ぽつりと呟くクライヴに、ジルは悲しそうに頷けば、ユニスの髪を撫でて「もう大丈夫よ」と苦笑混じりに告げた。果たしてジルとユニスがロザリアに来てから、こんな遣り取りが何回あっただろうか。
ジョシュアより遅れて城門に到着し、エルウィンの帰還を目にしたクライヴたちは、少し離れた場所でその様子を見ていた。本来ならばクライヴとジョシュア二人で迎えるところなのだが、アナベラの手前それが出来ないのが、ユニスにとっても歯痒かった。クライヴに嫉妬していようと、彼が真っ当な人間であるのは当たり前のように理解しており、アナベラの態度は間違っていると子どもながらに痛感していたのだ。
「お帰りなさい、父上!」
「ありがとう、ジョシュア。大事はなかったか?」
「ええ、もちろん。大丈夫です。今日は、兄さんの稽古をずっと見ておりました」
「そうか」
ただ、エルウィンに対して今日の出来事を嬉しそうに話すジョシュアの姿が救いであった。もし仲が悪ければ、母に存在しない者として扱われている兄弟の話などしないだろう。クライヴもジョシュアも心優しい人なのに、どうして母親は『ああ』なのか、とユニスが溜息を吐きそうになった瞬間。
突然トルガルがクライヴの元に駆け付け、吠え出したのだ。まるで、エルウィンに対してお前の子どもはここにもいるぞ、と主張せんとばかりに。
「トルガル、静かに! こら、やめろ! トルガル!」
必死にトルガルを宥めるクライヴであったが、当のエルウィンは悠々たる足取りで彼らの傍まで歩を進める。ジルは慌ててトルガルを抱きかかえ、その様子を見てエルウィンは微笑ましそうに呟いた。
「そいつは大物になるな」
「父上……!」
突然己たちの目の前に来られた大公に、ジルとユニスは慌てて頭を下げた。だが、エルウィンは決して北部の者を差別したりはしなかった。
「楽にされよ」
「ご厚情、痛み入ります」
ジルとユニスが再び頭を下げると、エルウィンはジルの腕の中にいるトルガルの頭を優しく撫でた。トルガルも気持ちよさそうに鳴いており、エルウィンに心を許している事がよく分かる。
クライヴもジョシュアもどう考えても父親似だ、とユニスは改めて思ったが、恐らくはアナベラを快く思っていない者全員が同じ事を感じているであろう。
そんな呑気な事を考えているユニスをよそに、エルウィンはクライヴに耳打ちした。
「近いうちに戦になる。覚悟しておけ」
「そこまで切迫しているんですか?」
「あとで謁見の間に。話がある」
「はい、父上――殿下」
その囁きは、ジルとユニスの耳にも届いていた。
故郷の北部が黒の一帯に覆われており、己の家族が今どうしているかも知らぬユニスは、何故戦争が起こるのか不思議で仕方がなかった。例えマザークリスタルがある土地を鉄王国に奪われていようとも、今の暮らしで充分平和な生活を送る事が出来ているのに、と。
だが、現実はその平和が崩れようとしているからこそ、エルウィンもマザークリスタル奪還のため、鉄王国と戦う事を決めたのだった。
エルウィンがその場を離れ解散となった瞬間。
「あっ、トルガル!」
突然、トルガルが空を舞う蝶を掴もうと、ジルの腕から離れて走り出した。
「駄目よ、どこ行くの」
蝶は閉ざされた門の向こう側へと飛んでいき、トルガルは再びジルの腕によって優しく拘束された。
門の向こう側は危険だ。あの蝶がモンスターの餌食に遭わなければ良いのだが。ユニスは漠然とそんな事を思っていたが、果たしてそれはこの先起こる悲劇の前触れだったのか、それとも。
「戦になるの?」
「恐らくな。話を聞いてみないと」
ユニスはクライヴとジルの後ろを付いていきながら、エルウィンの言葉の意味を考えていた。戦はどちらかの国が仕掛けない限り始まらない。隣国のザンブレク皇国とは不可侵条約を結んでいるため、相手は鉄王国かダルメキア共和国という事になる。ただ、ダルメキアがこの国を狙うよりも、マザークリスタルを手中に収めた鉄王国がいよいよロザリア征服に手を伸ばすほうが、可能性としては高いだろう。
この時のユニスは、北部諸国の現状を知らなかっただけに、ロザリア公国が仕掛ける側だという事はまるで頭になかったのだった。そして、その憶測すべてが間違いである事も。
目的地は謁見の間。回り道をしながら、クライヴたちが辿り着いた先は、不死鳥の庭園――そこで、ジョシュアは不安を隠せずにひとり佇んでいた。
「ジョシュア!」
ジルが声を掛けると、ジョシュアは漸く顔を上げた。三人が駆け付けると、ジョシュアはクライヴの顔を見るなり、少しばかり安堵したような表情を浮かべた。
「兄さん……」
「戦が不安か?」
「フェニックスの力で、皆を守らなくちゃ。でも、僕は……」
「大丈夫だ。父上が導いてくださる。それに、俺がお前を守るさ」
「そうだね。ありがとう、兄さん」
それでもまだ、ジョシュアの表情は硬かった。
ロザリア公国が戦を行う際、フェニックスゲートにてドミナントが儀式を行う、古くからのしきたりがあるのだという。ユニスは一体ジョシュアが何を行うのか知る由もなく、それは元々他国の人間だからではなく、実の兄であるクライヴさえも知らない秘匿とされている事であった。
ここまでジョシュアが不安を露わにするというのは、余程の事なのだろう。それに、身体への負荷も相当かかるのではないか。ユニスは、クライヴを謁見の間の手前まで見送るジルについていくことはせず、ただただジョシュアを見つめていた。尤も、この庭園でジョシュアから少し離れた場所でアナベラが佇んでおり、下手な行動は取れないのだが。
そんな中、ユニスの視線に気付いたジョシュアが、苦笑しながら小声で囁きかけた。
「ユニス、ごめんね。嫌な思いをさせて」
それは、アナベラがこの場にいるためユニスが居心地の悪い思いをしているだろうとの気遣いから出た言葉であった。ジルは間もなく戻って来るであろうし、その間にアナベラの反感を買う事はないだろうと、ユニスは首を横に振った。
「私は大丈夫です。それより、ジョシュア様が心配です。その……儀式とは、私たちが想像出来ないような事を行うかと思いますし……」
「ありがとう、ユニス。……君を守るためにも、頑張るよ」
ジョシュアは精一杯の強がりでそう呟いたが、その声が微かに震えている事に、ユニスは気付いていた。
戦が恐いのは民だけではない。生まれつき身体が弱いジョシュアが、もし戦により召喚獣フェニックスに顕現するとしたら。
それは、ジョシュアがその身を賭して戦うという事に他ならない。
儀式が何なのかは分からないものの、戦争とは、ジョシュアが召喚獣として前線に立つという事も覚悟しなければならない事態である。
国を護るドミナントに対し、無理をするな、などと言えるわけがない。ユニスはジョシュアを元気付けるような気の利いた言葉を言おうと考えたが、結局何も言葉が出て来ず、アナベラの視線を浴びながら、ジルの帰りを待つに留まったのだった。
翌日。ジョシュアは儀式を執り行う為、エルウィンと共にフェニックスゲートへと発つ事となった。また、クライヴはその前に黒の一帯の調査に向かう事になり、それを終えてからフェニックスゲートに向かうのだという。
「大丈夫! 儀式はきっと上手くいくわ!」
「うん、頑張るよ」
ジルの激励にジョシュアは笑みを浮かべて頷いた。いざ当日ともなれば、不安を抱いている余裕などないためか。ユニスは今度こそ気の利いた事を言おうと、ジルの横で咄嗟に口を開いた。
「ジョシュア様! その……お戻りになられたら……」
一体何を言い出すのかと、ジルは目を見開き息を呑んだが――。
「……一緒にニンジンを克服しましょう!」
愛の告白でもなんでもない言葉に、ジルは思い切り肩を竦めて窘めた。
「もう、ユニスはニンジン好きでしょ? ジョシュアにとって何の得もないじゃない」
「うう……」
これではまるで、寧ろ戻ったら嫌な事が待ち受けているようではないか。やはり「頑張れ」と無難な事を言っておけば良かったと、ユニスは今更ながら後悔したが、そんな二人の様子をチョコボに騎乗しながら眺めていたジョシュアは、ユニスに笑みを向けて言った。
「ふふっ、いいよ。約束だよ、ユニス」
恐らくはユニスの思い込みなのだが、この時のジョシュアは不安など吹き飛んだかのような笑顔を浮かべているように見えた。アナベラの手前、そんな事を本当に実行出来るのかは置いておくとして、とにかくジョシュアが無事に戻って来てくれたら良い。ユニスは当たり前のようにそう思っていた。
少し離れた場所では、滅多に見掛けない白色の羽根をしたチョコボと共に、クライヴが任務に発とうとしていた。
「行ってらっしゃい」
ジルがそう声を掛けると、クライヴは笑みを浮かべて頷いた。
「クライヴ様も、どうかお気を付けて!」
ユニスは相手がクライヴとなると、自然とそんな言葉が口をついていたのだが、どうしてこんな当たり前の事をジョシュアにも言えなかったのか。改めてそう後悔したユニスであったが、その後悔はこの先ずっと何年も、彼女の心を蝕む事となる。
「これより、フェニックスゲートに出発する! 皆にクリスタルの加護があらんことを!」
「我ら炎の民! 不死鳥の盾とならん!」
エルウィンとジョシュア、そして護衛の騎士たちを、ユニスはジルと共に頭を下げて見送った。まさかこれがジョシュアとの最期の遣り取りになり、永遠の別れになるなど、ユニスは夢にも思わなかった。例えこの先戦が起ころうと、クライヴも、ジョシュアも、当たり前のように帰ってくるのだと、誰もが思っていた。
大陸暦860年。密かにザンブレク皇国と裏で通じていたアナベラの策略により、フェニックスゲートは皇国軍の襲撃に遭い、大公エルウィンとフェニックスのドミナント、ジョシュアは殺害され、長年続いたロザリア公国は滅亡し、翌年ザンブレク皇国の属領と化した。
そして、フェニックスゲートが陥落した後、鉄王国が首都ロザリスに攻め込み、指揮官を失ったロザリア軍は瞬く間に敗北。北部諸国から来たジルとユニスは、一方的に鉄王国に連れ去られ、奴隷として生きる事になったのだった。
2023/09/02