世界が歪むその前に


 突然ジョシュアに話し掛けられたユニスは、訳が分からぬまま彼に手を引かれて宴の場を抜け出して、既に陽の落ちた外へ出た。
 真っ暗な闇に包まれた世界を仄かに照らすのは、ロザリス城内から漏れる灯りと、頭上に輝く月の光だけである。夜にひとりで出歩くことがないユニスは少しばかり恐れを感じたが、それ以上に何が起こるか分からないと思えるような高揚感に襲われていた。それは、隣にジョシュアがいるからである。
 ただ、ずっと手を繋ぎっぱなしでいた事に気付き、ユニスは慌てて解こうと指を動かした。

「どうしたの?」
「その、ジョシュア様と手を繋ぐなど、恐れ多い事かと思い……」
「どうして? 君はいつもジルと手を繋いでいるじゃないか」

 それは、ジルが己の主であり、そして友人であるからだ。ユニスはそう答えようとしたものの、ジョシュアの真っ直ぐな瞳に見つめられて、何も言えなくなってしまった。
 彼はドミナントで、このロザリアの次期大公である御方だ。自分のような一般人が軽々しく触れていい相手ではない。ユニスはそう思っていたが、それ以上にジョシュアの意思の強い眼差しに囚われて、頭が働かなくなっていた。
 ユニスの無言をジョシュアは承諾と捉え、結局手を繋いだまま城下町を歩く事になったのだった。



「ジルを守る為に一緒にロザリアに来たんだね。ふふっ、兄さんみたいだ」

 和平の証としてロザリアに送られたのはジルだけだった筈が、何故この子がついて来たのか。皆当たり前に受け容れつつも疑問であった事の顛末を、ユニス本人から聞いたジョシュアは、嬉しそうに声を弾ませた。
 だが、対するユニスは緊張が解けずにいた。無理もない話である。

「いえ、クライヴ様と私はまるで違います。私はただの真似事、クライヴ様は正式なナイトであらせられます」
「僕が言いたいのはそういう事じゃなくて……」

 ジョシュアは話しながら、どうすればユニスが心を開いてくれるか考えていた。
 兄から聞いていたユニスという少女と、今手を繋いでいる少女はまるで違う。彼女はもっと強気な子で、負けず嫌いで、とりわけ剣術を教わっている時の彼女は輝いている。それだけ、ジルの事を守りたいと本気で思っている。そんな強い子だとジョシュアはクライヴから聞いていた。
 兄が嘘を言っているのではない。相手が自分だから、心を開いてくれないのだ。
 ジョシュアは暫し考えて、立ち止まった。歩を進めるユニスの手を引き留め、彼女が何事かと振り向いたのを見計らい、笑みを湛えてこう告げた。

「大切な人を守るために剣を振るう事に、肩書きなんて関係ないよ」

 肩書きなんて関係ない。だから、己に対しても兄と同じように接して欲しい。己を守る兄のように、ジルのナイトになろうと決めた君の話をもっと聞かせて欲しい。ジョシュアはそう言いたかったのだが――。
 突然息が苦しくなり、ジョシュアは肩を大きく震わせながら咳込んだ。

「ジョシュア様!?」

 ユニスは慌てて手を解き、ジョシュアの背中を撫でた。彼は元々身体が弱いというのは分かっていたのに、気付けば随分と歩いていた事に今更ながら気付き、ユニスは泣きそうになってしまった。

「ど、どうしよう……ジョシュア様、お薬はお持ちですか?」
「だ、大丈、夫……」
「急いでお城に戻りましょう」

 ジョシュアはこの束の間の自由をこんな形で終わらせたくはないと、気丈に振る舞おうとしたのだが、ユニスにしてみればそれどころではない。ドミナントであるジョシュアの身に何かあれば、己はおろかジルにも多大なる迷惑が掛かる。
 それに、目の前の苦しむ少年に無理をさせようなど思うわけがなかった。
 ユニスはジョシュアの前に回れば、しゃがみこんで背中を向けた。

「ジョシュア様、乗ってください。お城までお連れします」

 ユニスは自分がジョシュアを城まで背負っていくのは、当然の事だと思っていた。だが、ジョシュア本人がそれを承諾するわけがなかった。相手が大の大人ならいざ知らず、己と歳も変わらぬ少女にそこまでさせるなど、いくらなんでもプライドが許さなかった。

「無理だよ、そんな……だ、大丈夫だから……」

 そう言いながら咳込むジョシュアに、ユニスは自分の身体を第一に考えろと怒りたくなったが、無礼があってはならない。仕方なく立ち上がって再度ジョシュアを見遣り、その背中をさすったものの、どう見ても大丈夫だとは思えなかった。

「ジョシュア様。あなた様の身に何かあれば皆が困ります。ご自身を大切になさってください」
「だからって、君に甘えるなんて……」
「私をナイトだと言ったのはジョシュア様ではないですか。咳込んでいる人を背負って運ぶ事すら出来なくて、ジル様のナイトは務まりません」
「でも……」

 ジョシュアはユニスに従う事など出来なかった。彼女の言い分は正しいのは分かっているが、やはり歳の近い少女に背負われるのは嫌なのだ。それはドミナントとしてのプライドではなく、十歳の少年として、当たり前の感情である。
 ただ、ユニスの言葉が嬉しかったのも事実であった。己の身を案じてくれる事ではなく、己をひとりの人間として見てくれている事である。
 困っている人を助けられずにナイトが務まるものかという主張――きっと彼女は、己がフェニックスのドミナントではなくとも、同じように助けてくれたに違いない。ただ、背負って送るまではしないだろうけど。

「……ユニス、大丈夫。落ち着いた」
「本当ですか? ……どちらにしても、もう帰りましょう」
「ユニスは僕と一緒にいるのは、やっぱり楽しくない?」

 ユニスが己の体調を心配してくれているのは分かっている。だが、ジョシュアは折角籠から逃げ出す事の出来たこの僅かな時間を、少しでも延ばしたくて、つい意地悪な言葉を投げてしまった。悲しそうに目を細めながら。

「そのような事は、決して」

 ユニスは首を横に振った。次期大公を否定するなど出来るわけがないのは尤もなのだが、単純に、別に楽しくないから帰りたいわけではないからだ。

「僕はもう大丈夫。それとも、他に何か理由がある?」
「それは……」

 ジョシュアの『大丈夫』という言葉を信用しない訳ではないのだが、ユニスは理由を考えてみる事にした。
 いつも自分はジルと一緒にいる。帰りたいと思っているのは、ジルの元に戻りたいのもある。そこまで考えて、今頃ジルはひとりきりではなく、絶対クライヴと一緒にいるだろう――そんな予感が脳裏を過って、ユニスは面白くなさそうに頬を膨らませた。
 今まで淡々としていたユニスの変化を捉えたジョシュアは、即座に訊ねた。

「ユニス、どうしたの?」
「……今頃ジル様は、クライヴ様と談笑されているのでしょう。もしかしたら、ふたりきりで……」
「うん、そうかもしれないね。だから君が心配しなくても大丈夫。兄さんは絶対、ジルの事も守ってくれるから」

 ジョシュアは良かれと思って言ったのだが、その発言はユニスにとって完全に地雷であった。

「……つまり、ジル様にとって私は必要ではないと?」
「え?」
「そうですね、クライヴ様がいらっしゃれば、ナイトの真似事をしているだけの私など必要ないのです」

 よりにもよってユニスは、これまでしっかり敬意を払っていた相手の前で、いつもの悪い癖が出てしまった。
 突然こんな事を言われては、普通ならばうんざりするであろう。ジョシュアほどの立場であれば、最悪二度と顔を見せるなと言われても仕方のない態度である。
 だが、ジョシュアは決してユニスを窘めたりはしなかった。それどころか、どこか安堵した様子で、ユニスの頭を優しく撫でた。

「駄目だよ、そんな事を言ったらジルが悲しむ」
「でも、ジル様は……」

 ご両親の元に戻ったらどうか、というジルの言葉は、決して己が邪魔だからではない事は、ユニスとて分かっていた。けれど、いなくても構わない存在だと思われるのは辛かった。ジルは決して悪い意味で言っているわけではないと、考えずとも分かる筈なのに。
 ユニスが後ろ向きに考えてしまうのは、己がクライヴとジルの仲を邪魔しているのではないか、己の存在がふたりの関係の枷になっているのではないか――無意識にそう思うようになったからだ。
 その感情を上手く言葉に出来ないユニスの代わりに、ジョシュアが言葉を紡いでいく。

「君がさっき僕を助けようとしてくれたように、兄さんもジルを守る。同じ事だよ」
「違います。クライヴ様はジル様だけでなく、多くの人を助けるでしょう」
「同じだよ。君もそうだ」

 ジョシュアはきっぱりとそう言い切って、ユニスの髪から手を放せば、再び彼女の手を取った。

「ごめんね、連れ回して。でも、兄さんから君の話を聞いて、ふたりで話してみたいって思ってたんだ。こんな機会、滅多にないから……」

 そう言ったジョシュアの表情は、慈しみに溢れた笑みを湛えていたものの、ユニスには何処か寂しそうに見えた。

「機会はいつでもありますよ。私たちが、生きている限り」

 ユニスはジョシュアを元気づけようと、精一杯の笑みで答えた。これは残酷な嘘ともいえる発言であったが、ジョシュアは否定しなかった。

 フェニックスのドミナントとして生まれたジョシュアは、いずれ父であるエルウィンに代わり、このロザリアという国の頂点に立つ存在である。だが、兄と違い病弱な身体であり、体調を崩すのは日常茶飯事であった。ゆえに、母であるアナベラはジョシュアを溺愛し、籠の中の鳥の如く、外の世界に出さないよう城内に閉じ込めていた。
 こうして外の世界に出られるのは、父が遠征から戻るなど、大きな宴が行われる時くらいである。
 勿論、普段も周囲の目を掻い潜って抜け出そうと思えば出来るのだが、ユニス個人に会いに行く事を母に知られたら、良からぬ事が起こるだろう。ジョシュアは幼いながらも、己の行動による影響は理解していた。



 手を繋ぎ、来た道を戻るジョシュアとユニスであったが、遠くから犬の鳴き声が聞こえて、どちらともなく顔を見合わせた。

「トルガルかな?」
「きっとジョシュア様を探しに来てくれたのでしょう」
「それなら僕だけじゃなくて、ユニスもだよ」

 きっと忽然といなくなったジョシュアを皆が探しているのかも知れない。そう思うと、ユニスは酷く叱られるのではないかと恐怖を覚えたが、それと同時に、この時間が終わって欲しくないという新たな想いが芽生えていた。
 ユニスがその感情を自覚するより先に、仔犬がふたりの元に駆けて来て、ジョシュアの足下にじゃれ付いた。

「あははっ、くすぐったいよ」
「ほら、やっぱりトルガルはジョシュア様を迎えに来たのです」

 ユニスは他人事のように言ったものの、すかさずジョシュアがトルガルを抱きかかえて彼女の顔に近付けた。
 ぺろり、と生暖かい感触がユニスの頬を刺激する。

「もう! ジョシュア様、トルガルで遊ばないでください……!」
「兄さんの言う通りだ、君にも凄く懐いているんだね」

 お互いに笑い合っていたのも束の間。
 トルガルは決して単独でふたりを探していたのではない。ジョシュアが居なくなったと騒ぎになり、皆が探し回っていたのだ。それだけならまだしも、この騒ぎは既にアナベラの耳に入ってしまった事を、ジョシュアとユニスは知らなかった。

「ジョシュア!!」

 夜道に甲高い声が響き渡ったのも束の間、ふたりの元に駆けて来る足音がした。ユニスが顔を向けた瞬間、声の主は彼女を障害物かの如く押し退けて、ジョシュアをきつく抱きしめた。その反動でジョシュアとユニスの手は解け、ついにふたりきりの時間は呆気なく終わったのだった。

「こんな時間に出歩くなんて……! 身体は大丈夫なの? 痛いところはない?」
「だ、大丈夫だから、離して……」

 ジョシュアは母親に抱き締められる姿をユニスに見られたくないと、抵抗しようとしたのだが、無理が祟ったのか再び咳込んでしまった。

「ジョシュア! やはり身体が辛いのね……ああ、なんて事……」

 ユニスは徐々に己の身体から熱という熱が失われていく錯覚を味わっていた。血の気が引く、とはこのような事を言うのだろう。
 今ジョシュアを抱き締めている女性は紛れもなく、大公妃アナベラ・ロズフィールドその人であるからだ。
 決して自分がジョシュアを連れ回したわけではない。けれど、この状況下では言い逃れなど出来る訳がない。
 アナベラはジョシュアを一旦解放すれば、すぐ傍で呆然としているユニスを思い切り平手打ちした。
 この程度で済めばまだ良い。ユニスは物理的な痛みはさほど気にしていなかったが、それよりも目の前の女が、まるで汚物を見るような眼差しで己を見下ろしていた事に恐怖を覚えていた。

「二度とジョシュアに近付くな……! 汚らわしい溝鼠が!」

 アナベラはユニスにそう吐き捨てれば、ジョシュアを抱きかかえて早々にその場を後にした。

「ユニス……!」

 ジョシュアは母の腕の中でか細い声で叫んだが、ユニスの耳には届かなかった。こんな姿を彼女に見られたくはなかったし、彼女がこんな暴言を吐かれて良いわけがない。ジョシュアはこの後必死でユニスの無実を訴えたのだが、アナベラは一切聞く耳を持たなかった。経緯などどうでも良く、アナベラにとってユニスは、愛する我が子を誑かした存在に過ぎないからだ。



 呆然とその場に佇むユニスの元に、続々と騎士たちが駆け付ける。ユニスがひとりぼっちでいる間、トルガルが吠えて場所を知らせてくれていたのだ。クライヴとジルも一緒に、ユニスの傍に駆け寄った。

「ユニス! 帰りが遅いから心配してたのよ」

 ジルは真っ先にそう言ったものの、見る見るうちにユニスの双眸から涙が零れ出した事に気付き、やはりアナベラと何かあったのだと察するのは容易であった。

「無事で良かった……ユニス、私にはあなたがいないと駄目なんだから」

 詳しく聞く必要もなければ、叱る必要もない。ユニスは何も悪くないのだと、ジルは信じていたからだ。ジルが今にも泣きそうな彼女を抱き締めた瞬間、耐え切れなくなったのか、ユニスは糸が切れたように声を上げて泣き始めた。

「クライヴ様。これはアナベラ様にこっぴどくやられたようですね」
「…………」

 騎士のひとり、ウェイドが肩を竦めて呟く横で、クライヴは神妙な面持ちでユニスを見つめていた。
 ロザリア公国を治めるエルウィンは、民衆を決して虐げたりはしなかった。例えベアラーであろうと同様である。だが、大公妃アナベラは違った。ジョシュアだけを愛し、ドミナントの力を宿さなかったクライヴを存在しないもののように扱う彼女が、この後悪行の限りを尽くすのは、遠くない未来の話であった。

2023/08/05
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