偽りのユーフォリア


 ヴァリスゼア北部、今は亡き国に生まれた少女ユニスは、首領ワーリック白銀公の使用人として働く両親の元で育ち、不自由のない生活を送っていた。とりわけ首領の娘ジルとは、年も近い事から自然と交流が芽生え、友人となるのにそう時間はかからなかった。傍から見れば身分の差など感じられないほど仲が良く、それはジルが慈愛に満ちた少女であったからに他ならなかった。

 そんな生活が終わりを告げたのは、突然の事であった。
 黒の一帯の拡大、そしてマザークリスタル『ドレイクアイ』の消滅に伴い、北部諸国は資源を求めて南部に位置するロザリア公国に攻め込むも、内乱により撤退。最終的にロザリア公国に統一される事となった。

 そして和平の証として、ジルがロザリアに差し出される事となったのは、大陸暦854年の事であった。




「ジル様、行かないで! どうしてジル様だけが、ロザリアに連行されなければならないのですか!?」

 幼いユニスは、ジルが敵国に連れ去られると思い込み、行かないで欲しいと泣きながら懇願した。『和平』の為とはいえ、ロザリア公国側が丁重に扱ってくれるとは、ユニスには思えなかった。云わば生贄となり、何をされるか分からないと思い込んでいたのだ。
 ユニスの両親は必死で彼女を止めたが、まっすぐな感情をぶつけられたジルは、嫌な顔ひとつせず、それどころか気丈に笑みを湛えていた。

「大丈夫よ、ユニス。あなたが私を忘れないでいてくれれば、またいつだって会える」
「嘘! そんなの信じられない!」

 我儘を言うユニスに、白銀公は暫し考えた後、思い掛けない提案をした。
 ならば、ジルの付き人として、共にロザリア公国へ行くのはどうか。それが出来ぬのなら、これ以上ジルを困らせるな、と。
 ユニスに、最早選択肢は存在しなかった。ジルが異国で酷い目に遭う事を受け容れるくらいなら、共に地獄を見た方がずっと良いと思ったからだ。

「私、行きます! ジル様と一緒に、ロザリア公国へ……!」

 その返事に、ジルは勿論の事、ユニスの両親も酷く驚き、絶句した。
 だが、これは白銀公の提案であり、娘がそれを承諾した以上、止める事は出来ない。
 話は瞬く間に進んで行き、ついにユニスはジルと共にロザリア公国に引き渡される事となったのだった。



「お父さん、お母さん。大丈夫、また絶対会えるから……」

 この時のユニスは、ジルが己に言っていた「またいつだって会える」という言葉を信じ、ロザリア公国が不義理を働かない限りは、両親にいつか再会出来ると思っていた。

「いいか、ユニス。何があっても生き延びるんだぞ」
「ジル様の支えになれるよう、強くなりなさい」

 両親は諦めるしかなく、せめて我が子が生きてさえくれれば充分だ、と願いを込めた。己の主、そして自分自身を守れるよう、強くあれ。そう言葉を掛ける事しか出来なかった。
 尤も、ユニスの心配は杞憂に終わり、ロザリアの大公家はジルとユニスを快く受け容れたのだが、これが両親との最期の別れとなった。




 ロズフィールド大公家に預けられたジルとユニスは、ふたりで助け合いながら、幸せな日々を過ごしていた。大公エルウィンは決して人々を差別せず、ジルとユニスもロザリアの民として扱い、この国に住まう人々もまた同様であった。



「ねえ、ユニス。ご両親の元に帰りたい?」

 ロザリアでの生活にも慣れて来た頃。ジルに突然そう問われたユニスは、少しばかり考える素振りを見せたものの、首を横に振った。

「ジル様が北部に帰られるのであれば、私もお供致しますが……」
「私はそういう訳にはいかないわ。ロザリアの皆は良くしてくれている。……もうユニスが私を気遣い、我慢する必要はないと思うの」

 それはジルなりの優しさであった。ユニスはひとり異国に渡される己を不憫に思い、何の利益もないのに付いて来てくれた。現状は、そんな少女の未来を奪っている事に他ならない。両親の元に帰ったほうが、自由に暮らせるのではないか。ジルはただ純粋にそう思ったのだが。

「ジル様は私が邪魔ですか……?」
「えっ? いえ、そういうわけではなく――」
「クライヴ様がいらっしゃるから、私はもう不要ですか?」
「ち、違うの……! 落ち着いて、ユニス……」

 泣きそうな顔で訴えるユニスにジルは慌てふためいたが、それも束の間の事であった。仔犬の鳴き声と共に、まさに今ユニスが話題に出した人物が顔を出したからだ。

「どうした? 珍しいな、喧嘩なんて」
「クライヴ! 違うの、これは……」

 ジルと親しい様子の少年、クライヴ・ロズフィールド。大公エルウィンの嫡男である。彼の足下では、北部遠征で連れ帰ったという仔犬が尻尾を振っている。トルガルと名付けられたその仔犬は、云わばジルとユニスの同郷である。
 クライヴの顔を見るなり、ユニスは涙を引っ込めて頬を膨らませた。

「ジル様が私に北部に帰れと言うのです」
「違うわ! ただ、私は……ユニスがご両親に会いたいんじゃないかと思って……」

 クライヴは落ち込むジルの肩を優しく撫でると、ユニスに視線を合わせ、苦笑しながら窘めた。

「ユニス、あまりジルを困らせるんじゃない」
「…………」
「ジルにはユニスが必要だ。ユニスもその様子だと、すぐに帰りたいわけではないんだろ?」

 膨れっ面をしていたユニスであったが、クライヴの言葉には無言で頷いた。ジルにはお前が必要――ただそれだけの言葉で、ユニスの機嫌はあっという間に元に戻ったのだ。

「北部も黒の一帯が更に広がっていると聞く。ユニスの両親が元気で暮らしているか調べてみるよ」
「いえ、クライヴ様がそんな事をする必要は……」

 さすがにそこまでさせる訳にはいかないと、ユニスは首を大きく横に振ったのだが、当のクライヴは真剣な眼差しで言葉を紡ぐ。

「ユニスの大切な家族だ。それに、ロザリアの民が不自由なく暮らしているか確認するのも、立派な仕事のひとつだ」
「物は言い様ですね……」

 ユニスは悪態を吐きつつも、クライヴの御人好しっぷりに、これ以上子供じみた我儘を言うのは躊躇われた。

「両親とは定期的に便りで遣り取りしているので、大丈夫です」
「そうか。でも、ユニスに心配をさせまいと無理をしているかも知れない。しっかり確認したほうが、ユニスだけじゃなくジルも安心するだろ?」
「うう……」

 ジルの名前を出されては、ユニスも折れざるを得なかった。
 歯切れの悪い返事をするユニスの足に、突然ふわふわしたものが纏わりつく。トルガルが元気を出せとでも言いたげに、ユニスを気遣っているのだ。

「全く……この子に心配されているようでは、私もまだまだですね」
「ふふっ、トルガルはユニスの気持ちが分かるみたいね」

 ジルは微笑を零しながらそう言うと、トルガルを抱き上げ、ユニスの顔の前に持って来た。
 トルガルの舌がユニスの頬を舐める。元々犬は人懐っこい生き物ではあるものの、ここまで懐かれた経験はあまりなかった。

「もう……トルガルに免じて機嫌を直しますから!」

 自然と笑顔になるユニスに、ジルだけでなくクライヴも、心の底から安心したような優しい笑みを浮かべていた。

「ユニスもトルガルには頭が上がらないな」



 ロザリア公国の民は皆優しく、ユニスは充実した日々を送っていた。
 ただ、このロザリアも黒の一帯に蝕まれつつあり、更には西に位置する鉄王国とも緊迫した状況が続き、平和が永遠に続くわけではない事も薄々感じていた。
 無論、現在の平和を維持する為に、大公エルウィンは度々遠征に出ており、ロザリアを護る騎士たちも日々鍛錬を行っている。

 ユニスはふと、両親が己に伝えた言葉を思い出した。
 ――何があっても生き延びろ。ジル様を護る為に強くなれ。

 このままではいけない。平和を享受するだけではなく、平和を維持する為に出来る事を始めなくては。ユニスはそう思い立ち、早速翌日から剣術を習う事にしたのだった。
 騎士たちとて暇ではなく、非力な少女が剣を扱う事を良しとは思わなかったが、ユニスの何気ない一言で、護身術程度なら教えてやろうと気が変わったのだった。

「クライヴ様がジョシュア様のナイトであらせられるのならば、私はジル様のナイトになりたいのです」

 無論、クライヴがナイトの称号を得た事と、ユニスのようなただの少女がナイトを気取りたいのは、全く異なると誰もが分かっていた。それはユニスとて同様である。

 クライヴは生まれ持った剣技の才能を持ち、若くして正式にナイトとなり、フェニックスの祝福を受けている。
『フェニックスの祝福』――それは、フェニックスのドミナントとして生まれた、クライヴの弟ジョシュアを護る為に与えられた力であった。
 ユニスがそんなクライヴのようになりたいと願う事自体が烏滸がましいのだが、彼女の高すぎる望みは、巡り巡ってジョシュアの耳に入る事となり、少しずつ運命が変わり始めたのだった。




 エルウィンが遠征から戻ったある日、ロザリス城にて宴が行われ、騎士見習いのユニスもそれに参加する事となった。勿論、主のジルも同席している。
 ユニスはまだ子どもの為、飲酒は出来ないものの、豪華な食事を前に目を輝かせていた。

「ジル様、こんな機会があるなんて嬉しいですね!」
「もう……ユニス、あまり皆様を困らせないように」

 ジルは騎士たちがユニスに気を遣って招いてくれたのだと思い、軽く窘めた。まさか彼女が剣術に興味を持ち、長続きしているとは思いもしなかった為、いつか危険な目に遭うのではないかと、ジルは内心恐れていた。

「それに、無理もしないで。私を護る事を使命と思っているのなら、それは間違っているから……」

 当のユニスはジルの心配をまるで気に留める事もなく、目の前の肉料理に口をつけ、恍惚の表情を浮かべていた。

「いえ、ジル様。私、楽しいです! 仰る通り、皆様気を遣ってくださっているので、上達しているのか分かりませんが……」

 ユニスとて現実は嫌というほど痛感していた。フェニックスの祝福あるなしに関わらず、クライヴは強い。傍から見ているだけでも、この国を護る騎士に相応しいと思わざるを得なかった。
 ならば、自分に出来る事をしよう。クライヴがジョシュアの盾になるのなら、自分はジルの盾になる。勿論そんな事をする必要がないくらい平和である事が一番なのだが、ユニスも世界の情勢は騎士たちを通して把握しつつあった。
 鉄王国がロザリアに攻め込めば、一溜まりもない。その時が来てからでは遅いのだ。自分がこの身を賭してもジルを護らなければ。不思議とそんな感情が、ユニスに芽生え始めていた。

「ねえ、君」

 突然見知らぬ声が聞こえたが、ユニスはまさか自分が声を掛けられているとは思わず、肉料理に続けて添えられた野菜を堪能していた。北部では採れる食材が限られていた為、ロザリアの料理にはいつも驚かされてばかりであった。

「ユニス」
「はい! ジル様、なんでしょう」
「ジョシュアが、あなたに……」

 何も考えずに答えたユニスは、ジルの目線の先に顔を向けた。
 目の前には、いつも遠巻きでしか見た事のない少年が立っていた。
 ロザリア公国を象徴する、赤い礼服を纏った金髪の少年。
 フェニックスのドミナントであり、次期大公。ジョシュア・ロズフィールドに違いなかった。

「ジョシュア様! お、お初にお目に掛かります……!」

 ユニスは口に含んでいた野菜を一気に飲み込んで咳払いすれば、深々と頭を下げた。
 なんてみっともない姿を見せてしまったのか。自分がどう思われようと気にしないのだが、ジルの付き人である以上、自分だけの問題ではない。無礼な態度を取ればジルの顔に泥を塗る事になる。
 ジョシュアがいなくなった後、ジルにしっかり謝らなければ。そこまで考えて、ユニスはそもそもジョシュアは何の用があるのかと不思議に思った。
 ジルに用があるのなら、己が席を外すまでだ。そう思い、ユニスは顔を上げて告げた。

「ジル様に御用ですか? では、私はこれにて……」
「ユニス、違うの。ジョシュアはあなたに……」

 ジルが何を言っているのか瞬時に理解出来ず、呆けた顔をしているユニスに、今度はジョシュアが声を掛けた。

「ユニス、君と話をしたいんだ。ジルのナイトである君とね」

 そう言って、小首を傾げて微笑むジョシュアを見た瞬間、ユニスは一気に頬を紅潮させた。風邪などひいていないのに、顔が熱く、胸の鼓動が早まったような気がする。
 ユニスがジョシュアに身分違いの恋をするのに、そう時間は掛からなかった。

2023/07/23
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