影が惑う


 フェニックスゲートへ向かう中、ユニスは少しだけ気掛かりな事があった。
 今クライヴが身に着けているのは、ハンナから譲り受けた亡きエルウィン大公の装備である。もし、当時のエルウィンを知る者が見れば、クライヴの正体に気付いてしまうのではないだろうか。
 ユニスは若き頃のエルウィンの姿を知らない。けれど、血は争えないものだ。今のクライヴを見た者が、エルウィンの面影を感じた結果、クライヴ・ロズフィールドが生きていると察するかもしれない。
 それだけなら良いのだが、この地は今、ザンブレク皇国の領土である。もしアナベラに知られたら、良からぬ事が起こるのではないか――考え過ぎとは思いつつも、ユニスは嫌な予感がしていた。
 そんなユニスの不安を即座に感じたのは、他の誰でもない、トルガルであった。ユニスに寄り添うように近付けば、尻尾を振りながら軽やかに吠えた。

「トルガル、どうしたの? お腹空いた?」

 ユニスが頭を撫でると、トルガルは気持ちよさそうに目を細める。あんなに小さかった子がこんなに立派な狼に成長するとは。己が幼かった頃は、狼だと聞いても可愛らしい仔犬としか思えなかったのだが、今となっては逞しく、頼りがいのある存在である。

「ユニスを守る、とでも言いたげだな」

 クライヴが柔和な笑みを浮かべて言うと、ジルも頷いてみせた。

「ええ。トルガルも一緒なら、ユニスも心強いわね」

 トルガルに守られているようでは、ジルのナイトになるなど夢のまた夢だ。ユニスは内心自嘲したが、ジルの言っている事はまさにその通りであった。
 トルガルが傍にいると不思議と安心出来るのは、所謂番犬という意味合いではない。子どもの頃に触れ合っていた積み重ねがあるからこそ、一緒にいて落ち着くのだろう。まるで、平穏だった当時を思い出すかのように。





「そのお姿……殿下……!? いや、まさか……! まさか、クライヴ様なのですか!?」

 考え過ぎだと思っていたユニスの不安は、早くも的中する事となった。
 イーストプールの集落で、突然男からそう声を掛けられたクライヴは、咄嗟に首を横に振った。

「……人違いだ」
「ですが、それはハンナ様が大切にされていた、エルウィン殿下のお召し物……! お譲りになるとすれば、嫡男であるクライヴ様をおいて、ほかに考えられませぬ!」

 ザンブレク皇国の属領となった今でも、エルウィンを慕っている様子から、ここに住んでいる人たちは信用出来る事は確かである。この人にクライヴの正体が知られても問題なさそうだと判断したユニスは、ジルと互いに顔を見合わせて頷いたのだった。



 詳しく話を聞いたところ、男はここイーストプールの村長で、13年前の鉄王国の戦乱で主を失ったベアラーの保護を、ロザリア公国の命で一時的に行っていたのだという。だが、やがてロザリアがザンブレク皇国の属領となり、ベアラーへの差別が横行している皇国に彼らをかえすわけにはいかないと、13年もの間ベアラーを預かっているのだ。
 それだけではない。この地にも黒の一帯が迫っており、作物も徐々に実らなくなった事で村人が徐々に去っていったのだ。今はハンナの私財を売って凌いでいるが、ベアラーを養う事が出来なくなるのも時間の問題であった。

 その話を聞き、ユニスは真っ先にシドの隠れ家を思い浮かべたが、クライヴも同様であった。ここに住まうベアラーたちが今でも亡き父を慕っているのを目の当たりにし、クライヴも思うところがあったようだ。

「……シドという知人がいる。彼なら、ベアラーを受け入れてくれるはずだ。俺の用事が済んだら話をつけておく。決して悪いようにはしない」
「感謝致します……」

 村長は深々と頭を下げれば、改めてクライヴとジルを見遣った。

「クライヴ様、ご用向きが済んだら、ここに立ち寄って頂けますか? 貧しい思いをさせているハンナ様の身の回りのことも含め、今後の事を相談させてください」
「分かった。必ず寄ろう」

 クライヴは決して嘘を吐くような人ではない。人々の生活が懸かっているだけに、安請け合いする事は出来ず、村長と約束を交わすその言葉には責任が伴う。
 やはりクライヴは、紛れもなくエルウィン大公の意思を継ぐ人だ。ユニスは改めてそう感じた。単なる親子の血の繋がりだけでなく、ベアラーを差別せず、出来る限り平等であろうとするその志をしっかりと継いでいるのだ。そう思うと、ユニスはこの旅を終えた後の未来がより明確なものになったような気がした。
 シドに話をつけるなら、先程の別れが今生の別れにはならないという事だ。きっと協力関係を結んでいくはずだし、自分もジルとシドの隠れ家の皆を天秤にかける必要もなくなる。この旅は己たちにとって、良い方向に向かうだろう――クライヴがジョシュアを殺したとは思っていないユニスは、そう信じていた。



 イーストプールの集落に別れを告げて、更にフェニックスゲートを目指して歩を進めていく一行であったが、今までの澄んだ空気とは一変、禍々しい気配を感じてユニスは足を止めた。
 ふと見れば、これから進むべき道は黒ずんでおり、黒の一帯に覆われている事は明白であった。
 村からそう遠くない場所まで迫っている事を目の当たりにし、ユニスは改めてイーストプールに住まうベアラーも、彼らを養う人々も、何もかもが限界に近付いているのだと認識せざるを得なかった。

「ユニス」

 ふとジルに声を掛けられて、ユニスは我に返った。クライヴと共に先に進んでいたものの、ユニスが付いて来ていない事に気が付いたジルが、振り返って声を掛けたのだ。

「ごめんなさい! ぼうっとしてました」
「無理もないわ。まさかここまで黒の一帯が迫っているなんて……」

 ユニスはジルを心配させまいと、すぐに走って皆に追い付けば、トルガルの背中を撫でた。それだけで、不安が薄れていくような気がする。
 それに、今に限っては黒の一帯も悪いことばかりではない。クライヴと再会し、シドの隠れ家に向かった際も、黒の一帯の中を必死で歩いたが、魔物に出くわす事はなかったのだ。それに、エーテルが枯渇した黒の一帯では植物も生えず、ゆえに動物も生きる事が出来ない。それを逆手に取ったシドは、その中にあった空の文明の残骸を有効活用して隠れ家を機能させるという荒業を行ったのだ。つまり、安全という見方も出来る。

「少なくとも、ここからは魔物と戦う事はなさそうですね」

 ユニスはそう言ったものの、では今のフェニックスゲートはどうなっているのか、と新たな疑問が湧いた。
 イーストプール自体がザンブレク皇国から見捨てられている状態では、フェニックスゲートも廃墟と化しているだろう。だが、そこも黒の一帯に覆われているとしたら。
 かつてジョシュアがフェニックスのドミナントとして、儀式を行っていたとされる神聖な場所。
 それが、いまや見捨てられた場所になっていると思うと、ユニスは胸がちくりと痛むような錯覚を覚えた。

「……見えてきた。フェニックスゲートだ」

 クライヴの声に、ユニスは顔を上げた。視線の先に、石造りの大きな建築物を捉え、破壊されていない事に安堵した。それに、黒く汚染されていた地面にはいつのまにか緑が生えていた。どうやらフェニックスゲート周辺は、黒の一帯ではないようだ。

「あそこで、俺は……!」
「行きましょう。あの日に、もう一度」

 静かに憤るクライヴに、寄り添うようにジルがそう告げると、一行は再び歩き出した。ユニスもトルガルと共に歩を進めていく。
 果たしてこの旅で、真実が分かるのだろうか。それは己の願望を打ち砕くような事なのだろうか。どこかでジョシュアが生きていたら良い――そう信じる事すら出来なくなったとしたら。
 だが、これはクライヴの旅だ。己の我儘で引き留めてはならない。ユニスが心の中で自分自身にそう言い聞かせると、まるで元気を出せと言わんばかりに、トルガルが軽やかに吠えたのだった。



 そうして、ユニスたちは漸くフェニックスゲートに辿り着いた。緑が生えてはいるものの、人の営みが感じられないこの地は、物悲しさを漂わせていた。

「時の流れから取り残されたみたい」
「足を踏み入れる者など誰もいない。きっと……あの日のままなんだ」

 13年前のあの日、ジョシュアはここで命を落としたとされている。ユニスは信じたくないと思いつつ、皆に倣って歩を進めていく。

 かつては青空に靡いていたであろうロザリア公国の大きな旗が、今は焼けてぼろぼろになった状態で翳されている。
 あの日、ここで一体どんな事が起こったのか、ユニスは詳しくは知らない。だが、マードック将軍が殺されたとハンナが言っていたように、きっと激しい戦いが繰り広げられたのだろう。ジルとユニスを含む女子供が鉄王国にあっさり連れ去られた事を鑑みれば、多くの犠牲があった事は考えるまでもない。

 刹那、突然トルガルが唸り出した。

「トルガル?」

 こんなトルガルの様子を、ユニスは今まで見た事がなかった。周囲に魔物がいるわけでもない。けれど、まるで己たちに害を為す者が目の前にいるかのように、敵意を露わにしている。
 ユニスは宥めようと背を撫でつつ、トルガルが顔を向けている先へ顔を向けた。同じく、ジルも剣を取って同じ方向を見遣る。

「クライヴ」

 ジルがそう声を掛けた瞬間、ユニスは視線の先に人の姿がある事に気が付いた。頭をフードで覆っているローブの姿では、それが一体誰なのか、男なのか女なのかすら判断が付かない。

「あいつは……!」

 だが、クライヴは違った。

「あいつは真実を握ってる! 追うんだ!」

 そう叫び、相手に追い付こうと一気に走り出した。
 ジルとトルガルもクライヴの後を追い、ユニスも慌てて走り出す。追い付けそうにないが、少なくともはぐれないようにしなくてはと、必死で足を動かした。
 だが、フェニックスゲートの跡地に足を踏み入れた先で、クライヴは相手の姿を見失ってしまったようだ。立ち止まり、苛立ちの声を上げる。

「何処へ行った……!」

 追い付いたジルも周囲を見回すものの、人の姿は見当たらない。

「隠れる場所なんて……」
「くそ! また消えたってのか!」

 トルガルはユニスが追い付くのを待ち、ふたりの元へ案内するように、何度も振り返りながら彼女を導いていく。
 ユニスはやっとふたりに追い付いたものの、辺りを見回して、謎の人物を見失った事よりも、この場所の荘厳さに息を呑んだ。単なる石造りの建物ではない。中はまるで古代に存在した城のようであった。尤も、そんなものを見た事がないだけに、ユニスの想像に過ぎないのだが。

「砦だと聞いていたけど、まるで神殿のようね」
「ああ、君は……ここは初めてだったな。この場所は門なんだ」
「門?」

 ユニスと同様、初めてここに来るジルが訊ねると、クライヴは石で出来た巨大な扉を指さした。固く閉ざされ、人の手では開かないように見える。

「この遺跡は巨大な門になっていて、フェニックスのドミナントにしか開けない」
「だから『フェニックスゲート』……それじゃあの日、ジョシュアはここで……」

 クライヴはゆっくりと歩を進め、巨大な扉の前で立ち止まった。ジルも彼の後を付いていく。

「ああ、この扉の向こうにある『天啓の間』で、儀式をするはずだった……」
「あなたも一緒に?」
「いや、ここから先は禁足地だ。ドミナントしか入れない。ジョシュアが儀式を執り行う間、俺たちは、ここで祈りを捧げて待つんだ」

 一体儀式とは何なのだろう。こんな場所で、ジョシュアはたったひとりで何を背負い、何をして来たのだろう。まるで見当も付かず、ユニスはただあの頃のジョシュアに思いを馳せる事しか出来なかった。

「しかし、奴は何処へ……」

 クライヴは先程の謎の人物をしきりに気にしていた。13年前に何があったのか、真実を知っている人物だというのが本当ならば無理もない。
 そんな中、ジルが扉に手を触れて呟いた。

「この扉の向こう……」
「まさか。フェニックスは、もういないんだぞ」

 クライヴはジルの言葉を否定するつもりでそう口にした。だが、自らのその言葉に、クライヴは閃いたかのように目を見開けば、己の手を見遣った。
 この扉を開けられるのは、フェニックスのドミナントだけ。
 だが、クライヴはフェニックスの祝福を受けている。ジョシュアから力を分け与えられた自分ならば、この扉を開けられるのではないか。そう気付いたのだ。
 そして、クライヴが扉に手を当てた瞬間。

 扉は青白い光を放ち、音を立ててゆっくりと開いた。

「フェニックスの……祝福……!」
「クライヴ……」
「ああ、行こう」

 クライヴとジルは互いに頷き合えば、呆然としているユニスを見遣った。
 そして、先にジルが声を掛ける。

「ユニス。この先はどんな危険が潜んでいるか分からないわ。……ここで待っていてくれる?」

 己が力不足である事は、ユニスとて分かっている。ここまで来てふたりを困らせるわけにはいかない。

「分かりました。無事に帰って来てくださいね」
「ええ、勿論よ」

 互いに笑みを浮かべて頷き合ったものの、トルガルはどちらに付くべきか迷っているようである。クライヴとユニスを交互に見遣れば、主の指示を待つかのように、クライヴに尻尾を振っている。
 ふたりだけでなく、トルガルまで困らせるわけにはいかない。
 ユニスはトルガルに向かって声を掛けた。

「トルガル、私は大丈夫だよ。フェニックスゲートには誰もいない事が分かったから、ひとりでも平気」
「……ユニス、大丈夫か?」

 念を押して訊ねるクライヴに、ユニスは真っ直ぐな瞳を向けた。

「見失ったあの人が真実を知っているのですよね? 早く追い掛けないと」

 まるで13年前の頃のような強い眼差しを向けるユニスに、クライヴも彼女を信頼する事にした。ここで頷かなければ、彼女を弱いと決め付ける事になる。とはいえ、心配な事に変わりはない。13年の時を経て再会出来たユニスも、かけがえのない存在なのだから。

「ユニス、万が一盗賊や魔物が現れたら、身を潜めるんだ。君が弱いと言っているわけじゃない、俺たちが戻るまで体力を温存して欲しい」
「分かってますよ。ジル様をよろしくお願いしますね」

 ユニスはそう言うと、早く行けとばかりに笑顔で手を振った。本音を言えば、トルガルと離れてひとりぼっちになるのは心細くはあるものの、それ以上にふたりの足手纏いにはなりたくなかった。まるで時が止まったかのようなこの廃墟に、正直盗賊が現れるとは思えなかった。魔物が現れれば、黒の一帯まで逃げる手もある。

「ありがとう、ユニス。少しの間待っていてくれ」
「万が一私たちの帰りが遅ければ、イーストプールに戻って待っていて。でも、そうならないよう努めるわ」

 クライヴとジルはユニスにそう告げると、背を向けて、扉の奥へと歩を進めていった。トルガルもまるですぐ戻ると言いたげに軽やかに吠えれば、クライヴの後をついていく。

 やがて皆の姿が見えなくなり、ユニスは溜息を吐いた。
 強がって見送ったは良いものの、やはり心細い。イーストプールに戻らなければならないほど待たされるのなら、いっそシドの隠れ家まで戻ったほうが良いだろう。ユニスはふたりが命を落とすとは全く考えていないが、この遺跡に閉じ込められて出て来られない、なんて事があれば、ラムウのドミナントであるシドの知恵を借りるしかない。

 少し外の空気を浴びよう。ユニスはそう決めて、フェニックスゲートから抜け出そうと踵を返して歩き出した。
 ジョシュアが儀式を行っていたとされる場所。そんな神聖な場に、己のようなちっぽけな存在が足を踏み入れていいとは思えなかったのだ。
 アナベラに罵られた過去は、今でもユニスの心を蝕んでいた。



 遺跡の外に出て、ユニスは漸く肩の荷が下りたような感覚を覚えて、軽く深呼吸した。
 ここで待つ事にしよう。ジルもクライヴも己がここにいると気付くだろうし、きっとトルガルも鼻を利かせて案内してくれるはずだ。
 そう思ったのも束の間。
 ユニスの目の前に、本来いるはずのない人影が現れた。

「そこで何をしている」

 相手が誰なのかを認識するより先にそう問われ、ユニスは一気に青褪めた。
 相手の頭はフードで覆われて、その顔を窺う事は出来ない。
 ローブを纏うその姿は、先程クライヴが「真実を知っている」といった相手ではないのか。
 混乱と恐怖で何も言えないユニスを前に、相手は微動だにしなかった。目の前の存在が一体誰なのか、今のユニスには知る由もなかった。

2024/04/03
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