アルカディアは遠い


 結局、ロザリアへの旅に同行する事になったユニスは、とにかくふたりの足手纏いにならないよう、慎重に行動する事に決めた。モンスターに気付かれたら、クライヴとジルの指示に従って剣を振るいながら、仕留めるよりも攻撃を回避する事に努めていた。ここでうっかり深い傷を負うほうがふたりに迷惑が掛かるからだ。そう思っていたのも束の間――。

「ユニス、疲れたんじゃないか?」
「だ、大丈夫です!」
「息が上がっている。無理するな」

 鉄王国で奴隷のような暮らしを十年以上送っていたユニスにとって、クライヴとジルと共に行動すること自体が身体に負担の掛かる行為であった。シドの隠れ家で人としての生活を取り戻しはしたものの、それはあくまで日常生活が送れる程度であり、ザンブレク皇国の傭兵として生きて来たクライヴや、ドミナントとして戦って来たジルに着いていくのは、初めから困難な道だったのだ。

「……ごめんなさい、クライヴ様、ジル様」
「謝らないで。私が強引に連れて来たようなものなのだから」
「やはり、私がいたらおふたりの足を引っ張る事に……」
「焦らないで、ユニス。この旅の目的は、あの日フェニックスゲートで何があったのかを確かめる為……あなたが戦うためではないのよ」

 落ち込むユニスの髪を、ジルが優しく撫でる。ジルもクライヴもユニスが足手纏いとは思っていないし、話し合わずとも、元からふたりでユニスを守るつもりで戦っていた。
 ただ、ユニス本人はそれを良しとはしない事も、幼いころから彼女を見て来たふたりには分かっていた。ゆえに、これから少しずつ勘を取り戻し、戦い方は徐々に覚えていけば良い――そう思っていたのだが、ユニスはふたりが想定していたよりもずっと落ち込んでいる様子である。

 だが、幸い三人は無事イーストプールへと到着し、民家が建ち並ぶ集落へと足を踏み入れた。ここで休む事が出来ればと思いながら、クライヴはジルとユニスと共に歩を進めていく。

「ここには幼い頃、将軍と来た事がある。マードック将軍はご健在だろうか……」

 だが、ロザリア領だった頃のかつての賑わいはなく、廃村と言われれば納得してしまうほど、辺りは静寂に包まれていた。まさか、誰も住んでいないのだろうか。不可解に思いながら歩を進める三人であったが、突然背後から声が掛けられた。

「あの……もしや、クライヴ様では……?」

 ユニスが振り向くと、そこには穏やかな物腰の女性が佇んでいた。クライヴが生きている事を知っているのはごく僅かの人間だけである。警戒するクライヴとジルであったが、女性から紡がれた言葉は、思い掛けないものであった。

「わたくし、ハンナです! マードックの家内の!」
「マードック夫人……!?」
「ああ、やっぱり! 面差しがあの頃のまま……! クライヴ様も、ジル様も……よくぞご無事でおられました……」

 その女性は、かつてクライヴに剣技を教えたマードック将軍の妻であった。十三年もの時が経過しても、クライヴとジルから溢れる気品や生まれ持った素質が、今の姿を知らずとも自然と気付かせるのだろう。
 そんな中、呆然としているユニスをハンナは恐る恐る見遣れば、驚いた表情で訊ねて来た。

「もしかして……ユニスちゃん……?」
「は、はい」
「あらあら、随分と大人になって……綺麗になられたものだから、気付くまで時間が掛かってしまったわ」

 ハンナは微笑を湛えてそう告げたものの、幼い頃は健康だった少女が、鉄王国での過酷な暮らしで痩せ細った大人に育ったのだから、気付かないのは無理もない。隠れ家の暮らしである程度身体に肉が付いたとはいえ、剣を習っていた頃の姿とは似ても似つかないのだろう。
 ユニスは、やはり自分がここにいる事自体が場違いに思えてしまったが、ハンナの言葉で我に返った。

「三人とも、ここで立ち話もなんです。大したお構いは出来ませんが、うちに上がっていらして」
「ええ、喜んで」

 ジルは笑顔でそう返し、クライヴと互いに顔を見合わせて頷けば、ユニスの手を引いてハンナの家へと歩を進めた。
 守ると決めたはずの相手に逆に守られているのは、戦いだけではない。心もだ。ユニスはジルのあたたかな手の感触に、改めてそう気付いたのだった。



「そうですか、あの日からずっと旅を……。鉄王国の手から逃れるためとはいえ、幼い三人だけで旅なんて……」
「ええ……色々ありました。でも、なんとか生きて……ここに……」

 クライヴとジルは、ハンナに己たちの過去を知られない為に、ザンブレク皇国や鉄王国から逃れて三人で旅をして来たという事にして、話を進めていた。ユニスは余計な事を言わないよう、ただ黙って出された食事に口を付けるばかりである。
 自分たちの事を詮索されないよう、今度はジルがハンナに訊ねた。

「ハンナ様は……ずっとこちらで? ロザリスならクリスタルの加護を受けられるでしょうに、移られないのですか?」
「この家には思い出がありますから……。ひっそりと暮らせるのなら、それで良いのです。移ろうにも……アナベラ様は平民を受け入れないでしょう」

 出来れば二度と聞きたくなかった名前に、ユニスは思わず頬を強張らせ、フォークを落としそうになってしまった。

「ロザリアがザンブレクの属領になってから――アナベラ様が皇室に入られてから、すべてが変わってしまいました」
「ええ……そうですね……」

 ハンナの言葉にジルは相槌を打ったが、ユニスはアナベラが皇室に入ったなど初耳であった。知りたくもないから誰かに訊ねる事もなかったのだが、要するにザンブレク皇国の国王の妃になったという事だ。
 エルウィン亡き後、生き延びる為に敵国に魂を売るのは仕方のない事かも知れないが、それでもユニスは腑に落ちなかった。ロザリスでは平民を受け入れない、とはどういう事なのか。貴族だけを住まわせ、平民はクリスタルの加護を受けられない僻地へ追いやっているのだとしたら――。

「わたくしったら……! ああ、クライヴ様の前で……!」
「いいんです。仰る通りですから」

 重い雰囲気になったのを察したハンナは慌てふためいたが、クライヴは当然咎める事はせず、それよりも気掛かりな点を訊ねた。

「しかしマードック夫人、あなたは将軍の妻だ。貴族と等しい扱いを受けられるのでは?」
「そう……ご存知ないのね……」

 ハンナは穏やかな表情から一転、神妙な面持ちで呟いた。

「夫はあの日、亡くなりました。フェニックスゲートから戻らなかった」
「まさか、将軍も……!」

 フェニックスゲートで亡くなったという事は、クライヴの主張を肯定するならば、イフリートに顕現したクライヴが手を下したという事に他ならない。
 愕然とするクライヴの心境など知る由もないハンナは、心配そうに見遣れば、当然の提案を口にした。

「まあクライヴ様、お顔色が……旅の疲れでも出たのかしら。今夜だけでもどうか、うちで休んでらして。ね?」



 ハンナは三人のために部屋を用意してくれたが、クライヴはそれを断って、屋外で寝る事にした。クライヴとしては、ユニスだけは部屋で寝かせる事も考えたが、ひとりだけ特別扱いをすれば、ユニスがますます落ち込むのは明白であった。
 ユニスを己たちの旅に同行させる事について、クライヴは後悔していない。だが、もし己やジルとの戦力の差を目の当たりにし、ショックを受けているのなら、やはりシドの元に預けたほうが彼女のためだったのか。とはいえ、ユニスとジルが離れ離れになる事のほうが、クライヴにとっては考えられなかった。

「クライヴ様、ジル様。私、お手洗いに行ってきますね」

 ユニスは突然そう告げて、立ち上がればハンナの家へと向かった。その後ろ姿を視線だけで見送れば、クライヴはぽつりと呟いた。

「俺たちに相当気を遣っているな」
「クライヴ……私、間違っていたのかしら」

 皆まで言わずとも、ジルが何を言わんとしているのは、クライヴとて分かっていた。
 あの場でユニスを同行させたのはジル本人であり、責任を感じているのだろう。

「ジルとユニスが離れ離れになるなんて、俺には考えられない」
「でも、ユニスは隠れ家という居場所を見つけたわ。私の傍にいる以外の未来を、漸く自分の手で掴みかけたのに……それを奪ってしまった」

 いくらなんでもそれは真剣に考え過ぎだと、クライヴはジルの手を取り、労わるように微笑を向けた。

「その点は気にするな。シドが『旅が終わったら帰って来い』と言っていただろう」
「そうね……。つまり、今後の私たちの選択によっては、今がユニスと一緒にいられる最後の時かも知れない」

 クライヴもジルも、ドミナントとして多くの命を奪って来た責任がある。互いに支え合い生きていくという意思が、既にふたりの中に存在していた。
 だが、ユニスは違う。ジルだけでなく、クライヴもまた彼女の人生を狂わせてしまったとも言えるのだ。
 この旅が終われば、ユニスには自由に生きて欲しい。例えジルから離れる事になったとしても、それがユニスの願いならば。

「ジル、大丈夫だ。生きてさえいれば、いつだってユニスと会えるさ」

 クライヴはそう告げて、ジルの手を固く握った。
 ジョシュアはもう二度と戻らない。だが、ユニスは今、紛れもなく生きているのだから。根拠がなくとも、いつだって会えると信じていた。



 ハンナの元を訪れたユニスは、嫌な顔をされるかも知れないと気が気ではなかったが、幸い快く部屋に迎えられ、漸く安堵の息を吐いた。

「申し訳ありません、こんな夜更けに」
「ふふ、良いのよ。折角会えたのだもの、ユニスちゃんともお話したいと思っていたところなの」

 己が鉄王国に囚われていた事が知られてしまったら、クライヴとジルが辻褄合わせをした努力が無駄になってしまう。ユニスは上手く取り繕わなくてはと心の中で言い聞かせ、ハンナに促されるままに椅子に腰かけた。

「ジル様とクライヴ様にはお手洗いに、と言っているので、あまり長くは話せませんが……」
「あら、ジル様に嘘を?」
「だって、私がいたらふたりの邪魔になってしまうと思って……」

 ついうっかりそんな事を言ってしまい、ユニスは慌てて口を塞いだが、ハンナは嬉しそうに頬を綻ばせた。

「ユニスちゃん、本当に大人になったわね。昔はクライヴ様にジル様を取られたくなくて、よく歯向かっていたのに」
「恥ずかしいです。あの頃の私は、本当に無鉄砲でした」
「ううん、そんな事ないわ。ジョシュア様もそんなユニスちゃんの事を気に入っていたものね」

 その名前を訊いた瞬間、ユニスは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

「そんな、ジョシュア様が私を気に入るなんて。私はアナベラ様にも嫌われていましたし……」

 今でも思い出すと、恐怖で手が震えてしまう。
 鉄王国での暮らしに比べたら、ロザリスでアナベラに酷い態度を取られたくらい、些細な事だというのに。
 だが、幼い頃のトラウマゆえか、ユニスにとっては未だにアナベラは恐ろしい存在として心に植え付けられていた。

「ユニスちゃん、大丈夫よ。あなたは旅をしているのでしょう?」

 ハンナはユニスの傍に来れば、その身体を優しく抱き締めた。

「今までどんな思いをして来たのか、私は何も知らないけれど……今のユニスちゃんは、ロザリアという国に囚われず、自由に生きる事が出来るわ。アナベラ様と会う事もない」
「ハンナ様……」

 その言葉に、ユニスはもしかしてこの人は、全て察しているのではないかと気付いた。

 ベアラーの刻印を頬に刻まれ、ザンブレク皇国の鎧を纏っているクライヴ。
 そして、少しずつ健康な身体になりつつはあるものの、奴隷のように生きて来た頃の名残である、ユニスの皮膚に赤く黒ずんで残っている枷の跡や傷。
 深くは聞かずとも、ただの旅ではない事くらい、ハンナは察しているのだ。
 ハンナは明日、クライヴに着替えを用意すると言っていた。皇国軍の兵装のままでは良からぬ事が起こると分かっているからだ。

「ハンナ様……ありがとうございます。私、クライヴ様とジル様の足手纏いになっている事が、とても辛くて、悔しくて……」
「ふふ、負けず嫌いなところは変わっていないわね。やっぱりあなたは、あのユニスちゃんで間違いないわ」
「私……もう少し頑張ってみます。自由に生きる事が出来るのか、私は何をしたいのか、この旅で、よく考えてみます」

 ユニスはハンナの胸の中で少しだけ涙を零し、暫しそのまま身を委ねていたが、顔を上げてもう大丈夫だとばかりに微笑んでみせた。

「もう少しゆっくりしていても良いのよ?」
「いえ、ジル様が心配しているかもしれません」
「相変わらず仲が良いのね。大丈夫、ユニスちゃんはふたりの邪魔なんてしていないから」

 きっぱりそう言い切られるとは思わず、ユニスは苦笑しつつハンナから離れて、深々と頭を下げた。

「ハンナ様とお話出来て良かったです。この旅が、私にとっても意味のあるものに変わった気がします」

 ユニスの言葉をハンナは追及せず、ただ優しい笑みで彼女を見送ったのだった。





「本当に助かりました。あの兵装のままじゃ、悪目立ちし過ぎた」

 翌朝、クライヴがハンナから受け取った着替えは、かつてエルウィン大公が纏っていた装備であった。
 それに着替えたクライヴを見るなり、ハンナは懐かしそうに目を細めた。

「こうして見ると、若い頃のエルウィン様にそっくり」
「まさか父上のものが残っているとは」
「大公をお継ぎになる前は、よく旅に出てらしたから。うちの人と一緒に。記念に残していたものです。お役に立てたのならなによりですわ」

 マードック将軍のものではないとはいえ、これも形見のひとつと言えるだろう。エルウィン大公と将軍が旅に出ていた、当時の思い出が詰まっているに違いない。

「でも、よかったんですか? 思い出の品だったのでしょう?」
「お気になさらず。エルウィン様もお喜びでしょう」

 だが、ハンナは気にする事もなく笑みを湛えており、その表情に嘘偽りはないように見えた。
 クライヴ、ジル、そしてユニスはハンナに礼を述べれば、旅を続けるため別れを告げた。

「まるで昔に戻ったようで、たとえひとときでも幸せでした……お元気で。皆様に幸多からんことを」

 ハンナは三人の後姿を見送ると、再び静寂が訪れたこの地で寂しく微笑んだ。

 この出会いはユニスにとって、前向きな未来を考えるきっかけとなるはずであった。
 この後惨劇が待ち受けている事など知る由もないまま、ユニスたち三人は歩を進める。すべてが終わり、すべてが始まった因縁の場所――フェニックスゲートへと。

2024/03/02
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