Bless the Child


 ――あなたが生きている世界は、幸せに満ち溢れていますか?



 何が起きているのか理解出来なかった。災厄によって世界が滅ぼうとしている中、私はエリクトニオスと共にパンデモニウムに残る事を選んだ。私が覚えているのはそこまでだ。
 目を覚ました私は、エリクトニオスと過ごした日々を昨日の事のように思い出す事が出来た。私が今紛れもなく生きている。つまり終末は避けられ、人類は救われたという事だ。

 ただ、目覚めたは良いものの、今いるこの場所が何処なのか分からなかった。
 パンデモニウムでもなければ、エルピスでもない。地理に詳しい訳ではないけれど、こんな場所は今まで見た事がなかったし、人から聞いた事もなかった。不気味な形状をした道がどこまでも続き、なんとも形容し難い不安になるような音が聞こえる。

 ひとつだけ分かる事がある。
 ここは、私の知っている世界ではない。

 せめて人がいれば良いのだけれど。ただ、私の知る世界ではないのなら、言葉が通じるか定かではなく、それ以前に私たち人類と同じ姿をしているかも分からない。
 こんなに不安を覚えるのは、きっと、ここに私ひとりしかいないからだ。
 心細いという身勝手な理由で創造魔法を使うのは気が引けるけれど、使い魔がいてくれるだけでも有難い。そう思って、魔法を行使しようとしたものの、

「……そんな……」

 魔法が使えなかった。決して難しい術式でもない、本当に簡単なものだ。それなのに、何も出来なかった。
 まるではじめから魔法が使えないかのような手応えに、さすがに呆然としてしまった。

 なんらかの結界が張られているのか、あるいは魔法が行使できない環境なのか。どちらにせよ、今の私は無力だ。
 現実を叩きつけられた瞬間、瞬く間に不安と恐怖に襲われた。こんな事、今まで生きて来て一度もなかったのに。

 ただ、黙って立っていても事態は好転しない。とにかく人を探そう。たとえ言葉の通じない相手だとしても、動かなければ何も始まらない。
 自分を奮い立たせるようにそう言い聞かせて、ゆっくりと歩を進めた。行く宛もなく、方角さえも分からない。空は何かに覆われているかのように曇っていて、見た事のない色をしていた。災厄とも違う、琥珀色の空だ。

 ふと、背後に人の気配を感じて、咄嗟に振り向いた。
 誰かと訊ねるより先に、私は相手が誰なのかを認識し、言葉を失った。
 私と同じ装束を纏っている女性。会話を交わした事は一度もないけれど、私はその人を知っている。

「あら、探索の邪魔をしてしまったかしら……?」

 優しく微笑むその人に、私は首を横に振った。
 邪魔だなんて有り得ない。寧ろ、私はこの未知の世界で、強力な味方と出会ったと言っても過言ではないのだから。

「……お会い出来て光栄です、アテナ様……!」

 目の前のいるのは、パンデモニウム初代所長アテナ、その人に違いなかった。とはいえ、相手はただの獄卒でしかない私の事など、知るわけがないのだけれど。

「あら、これは思わぬ誤算……いいえ、運命の巡り会わせね」

 少なくとも、アテナ様は私に敵意は抱いていないようだ。良かった。
 私は何の違和感も持たず、とにかく元の世界に戻りたい一心で訴えた。

「アテナ様、私はプラクシテアと申します。パンデモニウムのしがない獄卒にしか過ぎませんが……ここであなた様にお会い出来たのは、幸運としか言いようがありません」
「嬉しい事を言ってくれるのね。私が生きているうちに、あなたと出会えたら良かったわ」
「生きて……?」

 アテナ様の言葉に、私は漸く現状の異常さを認識した。
 アテナ様は既に星に還っているはずだ。彼女の意思を継ぐために、夫であるラハブレア様が、十四人委員会と並行してパンデモニウムの長官に着任したのだから。

 二度と会えないはずの人がここにいる。
 つまり、この世界は。

「……ここは、冥界なのですか? 私は星に還り、世界は終末を乗り越えられなかった……?」

 愕然とする私とは対照的に、アテナ様は変わらず優しい笑みを浮かべていた。何を不安がる必要があるのかと言いたげに。
 そして、信じられない事を口にした。

「違うわ。プラクシテア、ここは『未来』の世界。あなたと私が生きていた時代から、ちょうど一万二千年の時が経った世界よ」



 アテナ様の話は、初めは信じられなかったけれど、逆に否定する事も出来なかった。それは、この世界で会話が出来る人間がアテナ様しかいないから、頼るしかないと言うべきか、それとも、私自身がアテナ様の虜になっているのか。分からなかったけれど、私は最終的にアテナ様を信じる事にした。

「私たち人類は終末を乗り越える事が出来なかったわ。世界は分かたれ、人は非常に脆い存在となってしまった。私たちとは比べ物にならない程にね」

 十四人委員会の秘策は無駄に終わり、世界は歪な形で辛うじて存在しているという事なのだろう。
 終末で星へ還った人類は、気の遠くなるほどの転生を繰り返し、一万二千年後の今に至る。私たちのように自らの意思で星に還るのではなく、一定の年月を経て強制的に生は終わるのだ。更に、エーテルも非常に希薄で、私たちならば掠り傷程度の衝撃でも、命を落としてしまうという話だ。
 話を聞いていて、未来の人たちは、まるで私たちが魔法で創り出した生物のようだと思えてしまった。厳密には違うのだろうけど、あまりにも不完全だ。何某かの保護がなければ、この星は遅かれ早かれ滅びてしまうと思うほどに。

「……プラクシテア、あなたなら私の想いを分かってくれると信じているわ」

 私の考えなどお見通しなのか、あるいは同じ時を生きた人類なら皆同じ事を思うだろうと判断したのか。アテナ様は私の手を取って、優しく囁いた。

「私が神となり、この世界をあるべき姿へと正す」
「……そんな事が出来るのですか?」
「ええ。理論は完成している……あとは漸く手に入れたこの器で証明するだけ……」

 アテナ様の言っている事はよく分からなかったけれど、その理論を以てこの歪な世界を元に戻す事が出来るのなら。
 私たちが生き、守れなかったあの世界を蘇らせる――否、あるべき姿へと導く事が出来るのなら。
 私に、アテナ様に同調する以外の選択肢はなかった。

「アテナ様、私もそれを望みます。このままでは、世界が滅びを迎えるのは明白です」
「いい子ね。あなたには特別に、私が神となる瞬間を見せてあげるわ」
「よろしいのですか……!?」
「ええ、でも……」

 瞬間、私の視界は暗転し――そして、再び意識が途切れた。

「私とあなたの間に余計な邪魔が入りそうだし……プラクシテア、あなたは最後の研究まで、少し休んでいて頂戴」





 再び目を覚ました私の視界に広がったのは、どこまでも美しい青空が広がる、まるで楽園のような場所だった。
 否、楽園てばない。上体を起こして周囲を見回し、地に触れた手から伝わる冷たい感覚に、ここはやはり私の知る世界ではないと思わざるを得なかった。
 無機質な床、そして目の前には白い雲が広がっている。まるで遥か天上の世界だと錯覚したものの、私はすぐに現実へと引き戻された。

「プラクシテア、しっかり見ていて。私が神となる瞬間を」

 アテナ様が背を向けて、私にそう告げた後。
 真っ白な光に襲われて、反射的に目を瞑ってしまった。そして恐る恐る目を開けた私は、目の前の光景に息を呑んだ。
 転身。
 説明されずとも分かる。今、私の目の前にいる、蝶のような羽根を纏って宙に浮かぶ存在は、アテナ様の転身した姿だ。
 本来、私たち人間が転身する事は滅多にない。恥ずべき事だとされており、転身するという事は、『そうしなければならない』事態が起こっているからに他ならない。

「神の御座へようこそ――さあ、貴方のすべてを見せて頂戴」

 一体アテナ様は誰と話しているのか。目を凝らしてアテナ様と対峙しているであろう相手の姿を見た瞬間、私は言葉を失った。
 見た事がある。あの人は――アゼム様の使い魔だ。

 どうしてふたりが対峙しているのか。その答えも分からぬまま、アテナ様とアゼム様の使い魔は戦いをはじめ、激闘の末、アテナ様は転身を解いてその場に倒れ込んだ。



「アテナ様!!」

 何が起こっているか分からないものの、アテナ様にいなくなられては困る。残念ながら今の私は魔法を使う事も出来ないし、一縷の望みに賭けて対話で解決する事しか出来なさそうだ。アテナ様の傍に駆け寄れば、アゼム様の使い魔を恐る恐る見遣った。

「一体何故こんな事を……!」

 けれど、私の問いに答えたのはアゼム様の使い魔ではなかった。
 間もなくして、空間転移で次々と駆け付ける、かつて知る人たち。ラハブレア様に、エリディブスの座についたばかりの青年。そして――。

「プラクシテア! こっちに来るんだ……!」
「エリクトニオス!? どうして……!?」

 視線の先にいるのは、間違いなくエリクトニオスだった。私に向かって手を差し出す姿も、私の名を呼ぶ声も、以前と何も変わらない。ここは遥か未来の世界だというのに、どうして彼が、彼らがここにいるのか。
 ――否、どうして『私』はここにいるのか。

「あら。貴方たち、お友達だったの? それとも……」

 まるで思考を遮るように、アテナ様は私を抱き締めた。転身し戦う姿を見たせいだろうか、まるで獲物を捕らえた獣のように思えて、はじめてアテナ様に対して恐怖という感情を覚えた。

「嗚呼、どうして私の邪魔をするの? 何年も何年も焦がれ、物言えぬ石に閉じ籠ってまで耐えてきた。その悲願の成就まで、あと一歩だというのに……!」
「ただ独りで願うだけなら、それは我欲に過ぎない。誰もが望み、背中を押してくれるものでないといけないんだ」

 アテナ様も、エリクトニオスも、何を言っているのか分からない。でも、目の前にいるエリクトニオスは紛れもなく本人で、彼は私に自分の元に来るよう言っている。

「だから教えてくれ、アテナ。研究の先……『神』となった身で、この世界に、何をもたらそうというのか」

 エリクトニオスの問いに、ラハブレア様が忠告するように言葉を紡ぐ。

「それを聞いたとて、アテナが星に害を為したという事実は変わらぬぞ」
「……それでも、知りたいんだ。母が願い求めたものの正体を」

 星に害を為すとは、一体どういう事なのか。
 アテナ様はこの星のために神になろうとしているはずだ。
 世界が分かたれ、不完全になってしまった人類を、元に戻すために。

 けれど、肝心な事が分かっていない。
 何故終末を迎えたであろう私たちがここにいるのか。私とアテナ様だけじゃない。エリクトニオスも、ラハブレア様も、エリディブス様も、そして、アゼム様の使い魔も。

「エリクトニオス……その問いを発するなんて、貴方に探究者の素質はないわね」

 アテナ様は溜息交じりにそう告げれば、私の拘束を解いて、エリクトニオスをまっすぐと見つめた。

「理論を完成させた後、知の探究者が望むことはただひとつ。実践により、自らの理論が正しいのだと示すこと……そう、証明よ」

 アテナ様の腕から逃れられた私は、いつだってエリクトニオスの元に行く事が出来る。
 けれど、怖くて足が動かなかった。
 無力な自分が逆らえば、どうなるか分からない。そんな単純な理由ではなく、生物の本能として恐怖を覚えているのだ。

「神となり、『生命』の神秘すら理解できるようになれば、どのような生物も、望むままに生み出す事が出来る! 人を超越した高次の存在すら、容易く! まだ未完で未熟な、人の命を糧として、完全かつ美しき命を創り、この星を満たす……! それこそが、私の望みよ!」

 ――私は、思い違いをしていたのだろうか。
 アテナ様は、この世界を救うために『神』になるのだと思っていた。
 けれど、これでは。
 生物を創造し、不要であれば処分し、研究材料となり得る危険な生物は檻に閉じ込めて管理する――私たち、一万二千年前の人類がしてきた事と何も変わらない。

「今を生きる者を蹂躙し、新たな生命とともに生きるなんて、それはもう、世界の破壊だ!」
「何が悪いというの? 私たちは、幾千幾万の月日に亘って、この星にとって、より良いとされる生物を創造してきた……優れた生物が放たれれば、既存の弱き生命はやがて消えゆく。いいえ、人が手を出さずとも自然界の内で起こる競争は、進化と淘汰を促していくわ」

 真っ向から否定するエリクトニオスの言葉は、アテナ様には届かなかった。

「そうした生物を、私が神として導いたとして、一体何を以て『悪』と断じるというの? 別に構わないはずよ」

 ――この人は、狂っている。

「プラクシテア。君はアテナの野望に与するような人ではないはずだ」

 そう告げるエリディブス様の声に引き寄せられるように、私は覚束ない足取りでアテナ様から後ずさった。そんな力ない私の手を誰かが掴んで、力強く引き寄せた。

「大丈夫か、プラクシテア。何もされてないか?」
「エリクトニオス……私、何も分からないんです。どうして私がここにいるのかも……」

 エリクトニオスに抱き締められた私は、取り繕う事すら忘れていた。
 アテナ様の話が事実なら、私たちは一万二千年ぶりに再会した事になる。そのはずなのに、昨日まで一緒にいたように感じて、どう振る舞えば良いのか分からなかった。
 何も分からなかった。皆が何故ここにいるのかも、アテナ様がどうして私たちと敵対しているのかも。

 ただ、ひとつだけ分かった事がある。
 アテナ様はこの世界を救おうなんて、はじめから考えていなかったという事だ。

「……残念だわ、プラクシテア。私よりエリクトニオスを選ぶなんて、馬鹿な子ね」

 アテナ様の冷たい声が響き、私は思わずエリクトニオスの身体にしがみ付いてしまった。これでは彼が私を守っているも同然だ。彼の力になりたいのに、何も言葉が出て来ない。

「神の原型としてしか価値のない『素体』風情に、そんな顔をされるなんて、不快極まりない事。自己のみで成長できるよう精神を残したのが間違いだったわね」
「……どういう意味だ?」
「あら、気が付いてなかったの? 貴方を生んだのは、神の原型として利用するため……。その肉体も当然、私と適合するよう『改良』を施していたのよ」

 私を抱き締めていたエリクトニオスの手から、力が抜ける。
 私には、アテナ様の言っている事はほぼ理解出来ない。その言葉が、エリクトニオスを傷付けているという事しか分からなかった。

「ほかにも、私の言付に従うよう、強い愛情を植え付けたり……色々と手を掛けてあげたのに。まさか、正面切って反発してくるなんてね」

 エリクトニオスはアテナ様に『創られた』存在だというのか。
 私たち人間が創造魔法で生物を創り出すのと、まるで同じように。

「エリクトニオス……」

 彼を励まそうとしても、何も言葉が出て来ない。彼の手を取って、ただ見上げる事しか出来なかった。

「この身体も、この気持ちも、お前が利用するため生み出したものだというのか……? 母への情を捨てられない、魔法もうまく使えない落ちこぼれ。そういった存在であれ、と……生まれた時から既に決められていたわけだ」
「だが、君はその前提を覆した。今君がここにいるのは、アテナを止めるためだろう!」

 自嘲するエリクトニオスの言葉に、エリディブス様がそれを否定するように訴えかけた。
 エリクトニオスは目が覚めたかのように顔付きが変わり、無力な私の手を握り返してくれた。まるで、もう大丈夫だと私を励ますように。
 そして、エリクトニオスの視線はアテナ様へと向かった。

「感じるはずのない痛みで、漸くすべてを理解出来た。他者の自我を顧みず、利用する事しかしないお前を、『神』と認めるわけにはいかない!」
「それならば、私も『悪』として振る舞うまでのこと……。私のものにならない星なんて、なんの価値もないのだから!」

 刹那、アテナ様は手を空へと掲げ、瞬く間に膨大な魔力が満ち始めた。
 何も知らない私は、アテナ様は私たちを消し去るつもりだと思っていた。けれど、その程度で済む次元の話ではないと、続くエリディブス様の言葉で思い知った。

「くっ……魔力をぶつけて、星海に満ちる魂を打ち消すつもりか……! このままでは、この星に新たな生命が生まれなくなってしまうぞ!」

 アテナ様は未来のこの世界を消し去ろうとしているのだ。神に至る理論を導き出したのだから、脅しではなく本当に実行するに違いない。
 私たちが生きた一万二千年前より遥か昔から続いている、この世界の命運は、私の手を強く握り返すエリクトニオスに託されていた。

2023/09/30

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