Higher than Hope


 己は『神の原型』として母に創られた存在でしかなかった。才能のない、役立たずな人間として生きて来たのも、努力でどうにかなるものではなく、母によってそのように創られたのだ。何をどう足掻いても、全て無駄だったのだ。

「くっ……魔力をぶつけて、星海に満ちる魂を打ち消すつもりか……! このままでは、この星に新たな生命が生まれなくなってしまうぞ!」

 クローディエンが所持していたクリスタルは、案の定アテナに奪われて、プラクシテアもまた己たちと同じように幻体として実体化させられていた。
 プラクシテアに真実を伝えなかった事が、まさかこうして最悪の形で巻き込むとは思ってもいなかった。記憶を元にした姿とはいえ、己が愛した人に他ならないのだ。己の手を掴むプラクシテアの小さな手は、いつにも増して力なく感じる。

 ――俺が守る。俺が、プラクシテアを守らなくては。
 常に己の味方であり、こんな己の存在価値を認めてくれた彼女に、これ以上辛い思いをさせたくはない。
 必ず、この窮地を乗り越えてみせる。己には秘策があるのだから。
 己にしか出来ない、こんな己だからこそ出来る、唯一の策が。

「……なら、アテナ自身に抑え込ませればいい。この戦いに挑む前、ラハブレアに言われたんだ。『お前が最後の鍵だ』と」

 ラハブレアの意図は分かっている。かつて憎んでいた父にこうして背中を押される事になるとは、昔の己が知ったらさぞ驚くに違いない。
 そして、母がすべての元凶であった事も。

「クローディエン、そいつは俺の魂を受け継ぐもの……この時代に生きる『俺』なんだろう? だからこそ、神の原型としてアテナにも適合した……。クローディエンの魂は、俺と同等の性質を持っている。ならばこの幻体に定着している記憶も、彼に適合し、影響を与える事が出来ずはず……」
「クローディエンに……彼を取り込んだアテナと融合して、その魂を揺さぶり起こそうというのか!?」

 どうやらテミスは反対――というよりも、必ずクローディエンを救えると断言出来る案ではないと分かっているのだろう。最悪アテナを止める事が出来ない可能性もある。
 けれど、試したからといって、誰かの命が失われるわけではない。

「他者の意思が、肉体の内で目覚めた時、それでも、アテナの自由に行動出来るかどうか……。試してみる価値はあるだろう?」

 今の己は記憶を元に実体化した幻体でしかない。エリクトニオスという存在は一万二千年前に星へと還ったのだ。失うものなど、最早何もないのだ。

「落ちこぼれのエリクトニオス……。自分にしか出来ない事を探し求めていた男が、漸く、その役目を見つけられたよ」
「エリクトニオス、待って……! 融合って、つまり……」

 己の決断を阻止しようと、プラクシテアが涙を浮かべながら必死に訴えようとしている。彼女は何も知らないのだから無理もない。だが、アテナの野望を阻止すれば、この星を救う事が出来る。それは己が消えた後、ラハブレアやテミスが彼女に説明してくれるだろう。

「プラクシテア、大丈夫だ。心配する必要なんてない」
「違うの! だって、アテナ様と融合したら、エリクトニオス、あなたは……」

 消えてしまうかも知れない、と言いたいのだろう。彼女は己が、そして自分自身が幻体である事すら気付いていない。説明する時間が惜しい。
 ラハブレアを見遣ると、己の意思を察したのか、プラクシテアの腕を掴んで己から引き剥がした。

「ラハブレア様! 何故……!」
「お前にしか出来ない……。だからこそ、お前自身に決断を託した」

 幻体とはいえ、プラクシテアとこんな形で別れてしまうのは心苦しいが、やむを得ない。
 すべてを知れば、彼女もきっと分かってくれる。そして、いつものように己を肯定してくれるはずだ。

「ゆけ、息子よ。お前は……私の誇りだ」

 心強い父の言葉。もう迷う事など何もなかった。
 アテナに向き合い、手を翳す。母の言い方を借りるなら、この理論が正しいのだと証明してみせる。アテナと己の記憶が融合する事で、取り込まれたクローディエンを救い出す事が出来るのだと。

「エリクトニオス……あなた、何を……? や……やめなさい! エリクトニオス!」
「俺はもう、お前の言葉になど従わない。この記憶が、心が従うのは……。父と、愛する人と……友への想いだ!」
「力が押さえ込まれる……肉体を、保てない!?」

 そうして、己の意識は途切れた。きっと上手くいったはずだ。ただ、プラクシテアにちゃんと向き合う時間がなかった事だけは心残りだ。幻体なのだから、こんな事を考える必要などないのだが。それでも、叶うならもう一度彼女と――。



「――、エリクトニオス!」

 意識を取り戻すや否や、耳に飛び込んで来たのはプラクシテアが己を呼ぶ声だった。どうやらまだ幻体を保つ力は僅かに残されているらしい。
 ただ、これが最後だ。あとはもう、己という存在が消えゆくのを待つのみだと分かっていた。

 とにかく、プラクシテアを安心させなくては。実体化すると、彼女は己の姿を目の当たりにするや否や、顔をくしゃくしゃにして抱き付いて来た。

「エリクトニオス! 良かった……!」
「良かった……という事は、上手くいったみたいだな」

 プラクシテアの髪を撫でながら、周囲を見回すと、ここパンデモニウムは徐々に崩壊し始めていた。アテナの魔力が失われたためだろう。
 こうして、一万二千年後の未来に突然現れた、あるはずのないパンデモニウムは消滅し、冥界――否、『星海』は元通りになる。人類の魂はこの星海を漂い、そして新たな生命として生まれ変わる。そうして人の命は循環していく。
 あるべき姿へと、戻ったのだ。

 視線を下に移すと、アテナが力なく横たわっていた。辛うじてまだ意識はあるようだが、彼女も己たちと同じように、このまま消えゆく運命だ。
 プラクシテアと共に、ゆっくりとアテナの傍へ歩を進めると、アテナは己の存在に気付いてこちらを見て、微笑んでみせた。
 この星を滅ぼそうとしていた存在だというのに、それでも、己は母への情を捨て切れずにいた。この期に及んでも。

「あら、まだ母と話が……? それとも、最後にやはり情が湧いて、クローディエンの肉体を連れて来てくれたのかしら……?」
「あいにく……ここにいるのは、お前の記憶に焼き付いた残滓さ。出来る事なんて、『悪』が滅びるのを見届ける事くらいだ」
「それは、残念……。本当に役に立たないのね」

 母は己に愛情などこれっぽっちも抱いていない。分かっていたはずなのに、どうしようもなく胸が苦しいのは――

「お前が、そう作ったんだろう」

 アテナというどうしようもない母親を、愛しているからに他ならなかった。



 母だった女が消えゆくのを黙って見届ける己に、プラクシテアは何も言わずに寄り添ってくれていた。言いたい事も聞きたい事も多くあるだろうに、ただ黙って、弱々しくしがみ付いている。

「……プラクシテア。巻き込みたくないと思って、多くの事を黙っていた結果がこれとは……どう謝れば良いのか……」
「何故エリクトニオスが謝るのですか? 私は巻き込まれたなどとは思っていません」

 弱々しい様子など嘘だったかのように、プラクシテアは顔を上げ、不貞腐れた表情で己を見つめた。

「……寧ろずっと蚊帳の外だったのですから、どんな形であれ、こうして知る機会が出来た事を嬉しく思っているくらいです」
「はは、『蚊帳の外』か……確かに、ちゃんと真実を話していれば、プラクシテアがアテナに騙される事もなかっただろうな」

 一万二千年も前の事を後悔しても仕方がないのだが、彼女を巻き込みたくない一心で隠し通すよりも、事の顛末をすべて話したほうが、こんな事態にはならなかったのではないか。
 そう思ったものの、プラクシテアは首を横に振った。

「いえ。どちらにせよ、私はアテナ様に心酔していたと思います。そして、エリクトニオス。どんな状況下でも、あなたが私の目を覚ましてくれたはず」

 幻体だろうと、記憶だけの存在であろうと、プラクシテアはいつもと変わらない。
 いつだって、己の事を肯定してくれる。こんな己を認め、最期の瞬間まで傍にいてくれた。そして、今この時も。

「全く……プラクシテア、どうしてこんな俺の事なんかを好きになったんだ……?」

 もし、アテナがまだここにいたら。何もない、空っぽなエリクトニオスという男を愛する事で、自分の存在価値を見出していただけだ、などと宣うだろう。
 例えそうだったとしても。例え彼女の愛が同情だったとしても。それでも、己はプラクシテアに救われたのだ。だから、彼女が何を言っても受け止めるつもりでいた。
 けれど、プラクシテアは珍しく頬を赤らめて、いじけるように唇を尖らせてこう言った。

「もう、何度も言わせないでください。創造生物を守り抜くあなたの優しさに、私は胸を打たれたのです。命を身勝手に扱う世界で、あなたが……エリクトニオス、あなたの存在が、私を肯定してくれたのです」
「……そこまで言われたのは初めてだ」

 少なくとも、クリスタルに封じた時『まで』の記憶では、ここまで言われた事はない。『命を身勝手に扱う』など、プラクシテアが一万二千年前の世界をそんな風に捉えていた事も知らなかった。

「ええ、初めてです。だって、こんな事誰にも言えるわけないじゃないですか。世の理に反する危険思想など、冗談でも口になんて出来ません」
「そうか……一万二千年も経った今だからこそ言える事、という訳か」

 ずっと傍にいたいのに、もっと話したい事がたくさんあるのに、どうやらもう限界が近づいているようだ。己の身体が、意識が、徐々に薄くなっていくのを感じる。己の幻体が跡形もなく消え去るのは、もう間近に迫っている。
 プラクシテアも察したのか、泣きそうな顔で己を見上げている。

「そんな顔をするな、プラクシテア。俺たちはアテナによって、クリスタルに封じた記憶を基に幻体としてここにいるだけだ。『本物』は遥か昔に星に還り、俺たちの魂は、新たな生命としてこの未来の世界を生きている」
「……でも……例え記憶から作られた存在でも……エリクトニオス、今目の前にいるあなたは、私の愛する人に違いないのです」

 プラクシテアが幻体を保てなくなるのも時間の問題だが、どうやら己が消えるのが先のようだ。このまま消えるのは名残惜しいが、下手に何かをするほうが、かえって彼女を傷付けるのではないか。彼女が言ったように、例え幻体でも、愛する人に違いないのだから。
 否、それでも。何もしないよりは――。

「……ありがとう。お前と出会えて、幸せだった」

 そう告げて、プラクシテアの唇に口づけをした瞬間。
 意識が途絶え、エリクトニオスという男の幻体は、この世界から完全に消失した。


+++


 アテナ様が創り出したパンデモニウムが崩壊する中、再びひとりぼっちになった私に声を掛けてくれたのは、エリディブス様だった。

「間に合った……君にどうしても会わせたい人がいるんだ」
「私に……?」

 愛する人を目の前で失って茫然としていた私は、考える余裕もないまま、エリディブス様とともに空間転移して、またしても見た事のない場所に降り立っていた。遥か未来の世界なのだから、当たり前なのだけれど。

 アゼム様の使い魔が教えてくれた。ここは『アイティオン星晶鏡』。星海――私の世界でいう『冥界』を観測する場所なのだという。

「……私は未来の人たちを見くびっていたみたいです。冥界の観測など……」
「そうして君とエリクトニオスのクリスタルが発見されたんだ。未来も捨てたものじゃないだろう?」

 エリディブス様はそう言って、私に向かって微笑んだ。アテナ様の口車に乗らなくて良かっただろう、と言われているような気がしたけれど、何を言われても仕方ない。寧ろ、『蚊帳の外』である私に声を掛けてくださっただけでも光栄な事だ。
 というより、不思議でしかない。最早消えゆく存在の私に、何の用があるというのだろう。

「……あなたが、プラクシテアさんですね」

 聞いたことのない声。恐らくエリディブス様が会わせたいと言っていた人だろう。
 声の主へ顔を向けると、どことなくエリクトニオスと似ているような雰囲気の男性が立っていた。

「私はクローディエン。星海観測の研究をしており、あなたたちの記憶のクリスタルを発見した者です」
「あなたが、私たちを……!」
「はい。そして、エリクトニオスさんの生まれ変わりでもあります」

 クローディエンと名乗る男の発言に、私は言葉を失った。
 星に還った私たちの魂は、新たな生命として星に生まれ、転生――魂の循環を繰り返す。今この瞬間、私はその事実を目の当たりにしている。

「エリクトニオスさんがその身を賭して、教えてくれました。プラクシテアさん、あなたがいつも支えてくれて、最後まで傍にいてくれたからこそ、災厄の恐怖を乗り越える事が出来た、と……」

 全く、エリクトニオスはどこまで私を泣かせるのだろう。あなたがいるだけで私は救われていたのに。記憶から生み出された幻体だというのに、心は痛むし、涙も溢れる。決して悲しいのではない。嬉しくて仕方がないのだ。

「私からも礼を言おう。……我が息子に寄り添ってくれた事を、心から感謝しよう」

 ラハブレア様からも私なんかには勿体ない言葉を掛けられて、恐縮してしまった。

「いえ、私はただ自分がそうしたいから、エリクトニオスと最後まで共にいただけです」

 言いたい事、聞きたい事はたくさんある。でも、幻体でしかない私が知ったところで意味はない。一万二千年後の私の魂は、私とは全く異なる生命として、今この世界を生きているかも知れないのだから。
 単刀直入に、これだけ確かめる事が出来れば充分だ。

「……アゼム様の使い魔……では、ないですよね?」

 パンデモニウムに突然現れた、アゼム様の使い魔を名乗っていたその人は、私の問いに苦笑しながら頷いた。
 聞かずとも分かる、この人は一万二千年後のこの世界を生きる人なのだ。それも、分かたれた世界でエーテルが非常に薄いにも関わらず、アテナ様に打ち勝つほどの力を持った、不思議な人だ。

「最初で最後になりますが、ひとつだけ質問に答えて頂けますか?」

 その人は、自分で分かる事なら、と快く頷いてくれた。

「未来の人へ。あなたが生きている世界は、幸せに満ち溢れていますか?」

 その人だけではない。クローディエンへ、彼の周りにいる仲間たちへ視線を向け、私は訊ねた。
 皆それぞれ、笑顔で頷いてくれた。
 未来の世界の人々もまた災厄に襲われたが、アゼム様の使い魔――否、アゼム様の魂を持ったその人の活躍で、終末を乗り越えたのだという。

「あなたがアゼム様の……道理で強いはずです」

 まさか消える間際に種明かしされるとは思わなかった。成程、というべきか。
 今になって、あの時の助言が脳裏を過る。ずっと記憶の奥底に眠っていたはずが、今になって思い返されるとは。

「覚えてますか? あなたは私に『最後までエリクトニオスの傍に寄り添って欲しい』と言ったのですよ」

 アゼム様の魂を持ったその人は、首を横に振った。忘れているのか、あるいは私の記憶違いなのか。
 どちらでも良い、私はこの人の言葉を無意識に覚えていて、だからこそ最後までエリクトニオスの傍にいる選択肢を取ったのだから。

「これで、私も満足して消える事が出来ます。皆様、どうか幸せに――」


+++


 プラクシテアの幻体が消滅した後。アイティオン星晶鏡に、ひとりの研究者が姿を現した。

「クローディエン先生が行方不明と伺って駆け付けましたが……どうやら解決済みのようですね」

 苦笑しつつも、安心したように胸を撫で下ろすその女性は、どことなくプラクシテアに似ていた。その事実に気付いたのは、クローディエンただひとりだけである。



 アーテリスと呼ばれる一万二千年後の星。エリクトニオスもまた、この世界を救った英雄のひとりと言っても過言ではない。そして彼が守ったこの遥か未来の世界は、プラクシテアが夢見た理想郷そのものであった。

2023/09/30

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