Deeper Down


 これは告白と捉えるべきなのか。
 ――違う。彼女は不甲斐ない己を気遣って言っただけだ。同情を愛情と錯覚してしまっているか、あるいはそもそも恋愛感情など抱いていないかのどちらかだ。
 きっと後者だ。そもそも『好き』としか言われていないのだ、それを己が勝手に誤解しているだけの話で、それならばすべての辻褄が合う。

「プラクシテア、気を遣わせてしまったな。すまない」

 ローブ越しでも分かる、己を抱き締める細い腕を解こうと、彼女の肩に手を掛ける。

「体調を崩してるんじゃないか? 無理するな、君に倒れられたら皆……」

 そう言って彼女の背中を撫でると、突然胸元を押され、思わず体勢を崩しかけてしまった。漸く己から離れてくれて、彼女もらしくない行動を取ってしまったと我に返ったのだろう。己を押し退けて距離を取った彼女の顔を見ると、頬は紅潮し、瞳は潤み、まるで熱を帯びたように見える。
 間違いなく疲労だ。

「やっぱりな、顔色が良くない。今日はもう休んだ方がいい。後片付けは俺がやっておくから――」

 何も間違った事は言っていない。その筈なのに、彼女は今にも泣きそうな顔をして、再び己の目の前まで歩み寄り、そして。

 一体何が起こっているのか、理解するまでにどれほどの時間を要したのか。唇に触れるやわらかな感触。肌に微かに感じる息遣い。己の肩に触れる彼女の手は弱々しく、払おうと思えばいとも簡単に出来てしまうだろう。
 それでも、己は彼女の口づけを押し退ける事が出来ず、焦点が定まらないまま、ただ呆然とするばかりだった。
 無抵抗の己の唇に、生暖かいものが這いずろうとした瞬間。さすがにそれはまずいと漸く冷静になり、慌てて彼女の肩を掴んで引き剥がした。

「いや、駄目だ! こういう事は、本当に愛しているヤツに……」
「エリクトニオスは、私の事が嫌いですか?」
「何言ってるんだ、好きに決まってるだろ! だからこそ、自分を大事にして欲しい……!」

 こんな事、何かの間違いだ。最初に浮かんだ仮定を改めよう。彼女は間違いなく、己への同情を愛情だと勘違いしている。この行為は己を気遣った彼女の優しさに過ぎず、そこに愛は存在しない。
 人は人を愛さずとも生きていけるのだ。無理にこんな事をする必要はない。彼女が場の雰囲気に呑まれて、こんな事を易々としてはいけないのだ。
 けれど、彼女はどういう訳か、嬉しそうに目を細めて己を見つめている。果たして己の訴えが届いているのか定かではないが、ここは毅然とした態度でいなくては。

「プラクシテア。お前が優しいのはよく分かっている。だから、俺を憐れんでこんな事をしてしまったんだろう。でも……」
「憐れむ?」

 彼女の顔付きが変わって、失言だったかと早くも後悔してしまった。彼女の胸の内を勝手に決めつけてしまうのは良くない。だが、そうだとしか思えないのも事実だ。
 黙り込む己に、彼女は真っ直ぐな瞳で言い放った。少し、怒気を孕んだ声で。

「私が同情でこんな事をするとでも?」
「あ、いや、その……」
「私はずっとあなたの事をお慕いしていました。その想いが伝わっていないのは、仕方のない事です。ですが……」

 彼女の瞳から一筋の涙が零れるのを、ただ茫然と見つめる事しか出来なかった。

「私の感情は私が決める事です。勝手に同情だって決めつけないで」

 失望。落胆。幻滅。そう言われているような気がして、もうまともに彼女の顔を見る事が出来ない。目を逸らすように俯いて、これで良かったのだと自分に言い聞かせた。彼女にはもっと自分を大事にして欲しいし、己よりも遥かに良い相手がいるだろう。己のせいで感情を振り回されるなど、あってはならない。結果的に彼女を傷付ける事になったが、これで良かったのだ。

「……すまない」

 沈黙を破ろうと必死で考えた結果零したのは、たった四文字の言葉だった。今彼女がどんな顔をしているのか分からないが、呆れて早々に己から距離を置いて休んでくれるのなら、それが一番良い。
 そう思ったものの、彼女は一向にこの場を離れる気配がない。無理やりにでも休ませるべきかと顔を上げた瞬間。
 ほぼ同時に、彼女が再び己の傍に来て、またしても抱き付かれてしまった。

「……プラクシテア?」
「私は別に、あなたに私を好きになって貰おうとは思っていなかったんです。私の想いを拒否するのは自由……他に好きな人がいても、人を愛する事に興味がなくても、それはそれで仕方のない事です」

 幻滅された筈が、彼女はまだ己の傍にいる。何を言っているのかろくに頭に入って来ず、どうしたら彼女が目を覚ましてくれるか、無意味な事ばかり考えていた。

「ですが、あなたの言葉で気が変わりました」

 己の言葉で漸く冷静になったのだろう。そう思ったものの、では何故彼女はその両手で己を包み込んでいるのか。ろくに頭が働かない己に、彼女はきっぱりと解を言い放った。

「エリクトニオス、あなたは私の事が好きだと言いましたね?」
「……え?」
「言いました」

 呆けた声を出した己に、彼女は再度強い口調で言えば、拘束を解いて己に顔を近付けた。また同じ事をされるのではと、思わず彼女の両肩を掴んだ。

「……もう休んだほうがいい」
「それは、エリクトニオスが休みたいという意味ですか?」
「プラクシテアが休んだ後、俺も休ませて貰うよ」
「一緒に、では駄目なのですか?」

 確かに、彼女の言う通りだ。別にこのまま一緒に過ごすのは何も悪い事ではない。ただ、一線を超えるような事があっては駄目だと思っているだけだ。彼女が自分の気持ちを否定されたくないのと同じくらい、己も彼女にはもっと自分を大切にして欲しいと思っている。その気持ちに嘘はない。

「……プラクシテアがちゃんと休んでくれるなら、勿論構わないが……」
「分かりました。約束ですよ?」

 彼女は漸く機嫌を直したのか、やっとその顔に笑みが浮かんだ。先程の事は水に流すとして、この場で共に休むなら寝床を準備しなければならない。ひとりなら机に突っ伏して寝るところだが、彼女がいるならそうもいかない。

「では、私は食器を片付けて来ますので。勝手にいなくなったら絶対に許しませんから」
「そんな事するわけないだろう。その間に寝床を用意しておく」

 苦笑しながら答えると、彼女は心の底から安堵したように目を細めて微笑んだ。やはり、彼女にはずっと笑顔でいて欲しい。
 以前、パンデモニウムで創造生物たちが暴れ出す前――心が荒んでいた時、彼女は苛立っている己に対して嫌な顔ひとつせず、いつも笑顔で接してくれていたのだ。その恩を忘れた事はないし、誰に対しても優しい、慈愛に満ちた人なのだと分かっている。例え彼女が己に対して特別な感情を抱いているような言葉を口にしても、それに深い意味はないのだ。



 二人分の寝床を用意して、彼女が戻るのを待とうとしていたが、ふと睡魔が襲ってきてしまった。まあ、少しくらい居眠りする程度なら、彼女も怒りはしないだろう。ひとりでさっさと寝るなんて、と幻滅される可能性は大いにあるが。

 ほんの僅かな時間意識を失って、微睡の中にいた己は、くすぐったい感触で覚醒する事となった。

「ん……?」

 首筋に小動物か何かがじゃれついているような感覚だったはずが、生暖かい感触を覚えて、まさか、と漸く完全に目を覚ました。
 ふと見れば、彼女が己の首筋に顔を埋めていた。ならば、この感触は――と考える間もなく、慌てて彼女の身体を引き剥がした。

「プラクシテア、ここで寝たいのなら場所を変わろう」
「何故別々に寝る必要があるのでしょうか。効率的ではありません」
「効率? いや、いくらなんでも駄目だろ。家族や恋人でもないのに……」
「では、恋人になれば良いという事ですね?」

 そこで漸く気付いた。彼女は己に幻滅などしておらず、寧ろ躍起になっている。

「プラクシテア? いや、待て。そういう事は、じっくり考えて決めなくては……」
「じっくり考えた結果が、今この瞬間です」
「そんな、簡単に決める事ではないだろう……! 二人で何度も話し合って――」
「エリクトニオスは私の事が好きだと言いましたよね?」

 彼女は嘘は言わない、誠実な人だ。
 言っていない事を『言った』とは言わない。
 だが、正直己が彼女に愛の告白をした覚えはない。だが、言葉のあやで言ってしまった、なんて宣おうものなら、彼女を酷く傷つけるのは明白だ。

「同僚としての『好き』であって、恋愛感情はないなんて、今更言わないでくださいね」
「それは……」

 彼女は口調とは裏腹に、その表情には明らかな不安が露わになっていた。今にも泣きそうな顔をしているものの、ここで心を鬼にして己が彼女を拒否したとしても、彼女は決して己を責めたりはしない筈だ。
 だが、己は彼女を嫌った事など一度もない。好意を抱いているのは紛れもない事実だ。
 ただ、この気持ちは恋愛感情と称するものなのか、これまで考えた事もなかった。

 駄目だ。正直に気持ちをぶつけてくれた彼女に向き合わなくては。逃げずに、考えなくては。

 もし彼女が己に見向きもしなくなり、このパンデモニウムを出て行ってしまうとしたら。
 ――ふと、心の奥底に負の感情が渦巻いている事を自覚した。
 災厄でいつ世界が崩壊するか分からない。彼女がここを出て行くという選択肢を取るのは自由で、誰にも止める権利はない。寧ろ彼女を愛しているのなら、己が彼女をここから逃がす事が真の愛ではないのか。
 分からない。一体何が正解なのか。
 ……今更取り繕っても無駄だ。ここは、本心を口にするしかない。

「……プラクシテアの優しさに、俺は何度も救われてきた。お前は俺を好いてくれているとは言ったが、それでも、俺はお前に相応しくないと思っている」
「エリクトニオス。相応しいかどうかは、あなた一人が決める事ではありません」
「……なあ、プラクシテア。なんで俺なんかを好きになったんだ……?」

 ごく当たり前の質問だ。どうして彼女はここまで己というさして価値のない存在に固執するのか。まるで分からなかった。
 すると、彼女は軽く息を吐けば、微笑を湛えてはっきりと答えた。

「何度でも繰り返し言いますよ。私はあなたのひたむきな姿に、ずっと救われて来たのです」

 それは、少し前に彼女が言った言葉と変わらなかった。
 己が彼女の心の内を勝手に否定しただけで、答えはとうに出ていたのだ。

「信じられませんが、あなたが私の存在に救われていたのだとしたら、私たち、同じですね」

 ひとつ気付いた事がある。自分に自信がないのは、彼女も同じだ。案外似た者同士だから惹かれ合うのか――そう思うと、少しだけ気が楽になって、今ならば素直に彼女の気持ちを受け容れる事が出来そうだと思ってしまった。我ながら単純だ。

「プラクシテアも『信じられない』なんて思うんだな。人の事は言えないな?」

 そう言うと、彼女は驚いたように目を見開いて、そして肩を竦めて力なく笑ってみせた。

「エリクトニオス、漸く笑いましたね」
「……そんなに今まで不機嫌な顔をしていたのか……?」
「不機嫌というか、困った顔をしていました。私のせいですが」

 どちらともなく笑い合って、漸くぎこちなかった雰囲気が和らいだような気がした。素直に認めてしまえば、こんなにも心が楽になるのか。信じ難いものの、今この瞬間くらいは、図に乗ってしまっても良いだろう。そんな柄にもない事を思ってしまうのは、彼女が勇気を出して一歩踏み出してくれたからに他ならない。

「プラクシテア、こんなところで言うのも締まらないが、その……」
「気にしなくて良いですよ。あなたとなら、何処だって」
「はは……まあ、こんな御時世じゃ致し方ないか……」

 パンデモニウムの仕事もあるが、安易に外の世界に出られるような情勢ではない。いつどこで創造生物が異形の化物へと変わり、人々へ襲い掛かるか分からないのだ。それに、この世界が終わりを迎えるまで、己がここパンデモニウムを守ると決めている。

「プラクシテア。俺も、お前の事が好きだ」

 果たしてこの言葉は、彼女を縛る鎖になってしまうのか。本当に愛しているのなら、彼女を敢えて遠ざけて、安全な場所へ逃がすべきではないのだろうか。答えの出ない問いを自身に投げ掛けながらも、目の前の彼女の潤んだ眼差しには抗えなかった。

2023/08/09

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