How's the heart?


 初めは気が滅入ると感じていたパンデモニウムでの生活も、今では随分と慣れて、自分なりに気持ちの切り替えが出来るようになっていた。というよりも、魔法生物への捉え方が変わったという方が近いかも知れない。
 不要だからと事務的に切り捨てるのではなく、どうしたらこの子たちを生かす事が出来るのか、切り捨てられない為に私たちには何が出来るのか、そう考えるようになったのだ。例えそれが、人間のエゴだとしても。



「あまり根を詰めるなよ」

 ティーカップを置く乾いた音がして我に返った。論文を読み耽っていて、時間の概念をすっかり忘れてしまっていたみたいだ。甘酸っぱい香りが漂ってきて、それだけで疲れが取れたような気がする。まあ、そんな気休めではなく、しっかり休息を取るに越した事はないのだけれど。

「ありがとう、エリクトニオス」

 礼を告げると、彼ははにかむように微笑んで、椅子を持って来て私の隣に腰掛けた。
 ふと、私が彼にお茶を差し入れした時に、自分も休む口実が欲しかったと言ったのを思い出した。きっと今の彼もそうなのかも知れないと思うと、巡り巡って彼の役に立てたような気がして、少しだけ嬉しく感じる。まあ、これは自意識過剰かも知れないけれど。

「随分と熱心に読み耽っていたみたいだが……見てもいいか?」
「はい、勿論」

 論文に目を通すエリクトニオスの横で、ティーカップに口をつけた。この風味は、恐らく私が口にした事のないものだ。思わず目を見開くと、エリクトニオスは論文から目を離し、恐る恐る私を見つめて来た。

「……その、なんでも新しく開発された茶葉だと聞いて、入手してみたんだが……」
「そうなんですね? ふふっ、エリクトニオスもお茶に興味を持つなんて、ちょっと意外です」

 飲食はエーテル不足を補う為の行為に過ぎず、美食に囚われるのは罪だという主張もある。だから、あまり声を大にしては言えないのだけれど、実はエリクトニオスもお茶に拘りがあるのなら、趣味が一致して嬉しい。そういう意味で言ったのだけれど、エリクトニオスは気まずそうに私から目を逸らして、頬を掻いた。

 もしかして、私が喜ぶと思ってわざわざ手に入れてくれたのだろうか。いや、さすがにそれは自意識過剰だ。こんな事を考えるなんてどうかしている。エリクトニオスの言う通り、私は根を詰めすぎなのだろう。
 有り難く新種の味と香りを堪能する私を、エリクトニオスが優しい顔で見つめていた事など、この時の私は知る由もないのだった。



 平和な日々は永遠に続くものだと思っていた。私が自らの役目を終え、星に還った後も、人の命はエーテルとして循環し、世界は滞りなく巡っていく。私だけではなく、きっと誰もが当たり前のように、そう思っていた。

 そんな世界の理が崩壊すると判明したのは、つい先日の事。
 アーテリス各地で生物が異形の化物へと変異し、人々に襲い掛かる事態が起こり、それが私たちの創造魔法にも多大なる影響を与え、魔法が暴発し始めたのだ。
 人々はそれを『災厄』と呼び、そして、災厄を止めない限りアーテリスに『終末』が訪れる。そう結論付けて、十四人委員会を中心に、終末を回避するために人類は動き始めた。
 けれど、その努力も虚しく、終末――この世界の終わりは着々と近付いていた。



 このパンデモニウムでも、いつ創造生物たちが変異するか分からない。以前にも同じ事があったけれど、その時はラハブレア様の手によって解決している。
 創造生物が意思を持って人間に歯向かう事は有り得ない。けれど、今現在起こりつつある災厄と何が違うのか。意思を持っていなくとも、これは創り出した命を雑に扱って来た人間への罰ではないのか。

「――プラクシテア、少し休もう」

 軽く肩を叩かれて、我に返った。顔を上げると、エリクトニオスが困ったような笑みを浮かべていた。いつもと変わらない。彼といる時だけは、災厄が起こる前の世界と変わらないように感じる。
 そんなわけがないのに。辛いのは、エリクトニオスだって同じだ。

「……ごめんなさい。そういうエリクトニオスこそ休んだんですか?」
「いや、俺もちょうど休憩するところだ」
「お互い自分の仕事に集中し過ぎていて、止める人がいないと大変な事になりますね」

 恐らくは同僚の誰かがエリクトニオスを止めて、今に至るのだろう。想像に容易いと思いつつ、彼の言葉に甘える事にした。

「エリクトニオス、お茶でも入れて来ますね。軽食も必要であれば――」
「いや、一緒に行こう」

 突然の言葉に、一瞬頭が真っ白になってしまったけれど、何もおかしな事ではない。単にいつもどちらかが事前にお茶を用意して声を掛けていただけで、今日は偶々準備していないだけの話だ。ふたりで一緒に用意するなんて、ごく普通の話だというのに。
 それなのに、どういうわけか、私はエリクトニオスの誘いが嬉しくて仕方がなかった。

「はい、是非!」



 創造生物の監視のため、パンデモニウムに泊まり込む獄卒はそれなりにいて、今となってはここに籠城するほうが安全なのではないかとの話も出ている。ゆえに多くの獄卒がここで暮らすようになり、生活には困らなかった。エーテル補給のための食事を作る事も容易く、ふたりで協力すればあっという間だった。
 最後の仕上げにお茶を淹れようとしたものの、どの茶葉を使おうか悩んでしまった。栄養の詰まった果実が入ったものが良いか、または疲労回復に特化したものか。無言で考えていると、エリクトニオスが私の顔を覗き込んで来た。

「珍しいな、プラクシテアが迷うなんて」
「いえ、私結構迷いますよ……? エリクトニオスはこういうのは好きじゃないんじゃないか、とか……」
「えっ、俺が……?」

 何か変な事を言っただろうか。エリクトニオスが珍しく素っ頓狂な声を上げて言うものだから、つい目を見開いてしまった。

「エリクトニオスの好みではなかったらどうしよう、と思うのは普通ではないのでしょうか」
「……普通……いや、そうだな、はは……」

 どこか歯切れの悪い様子で、力なく笑みを零すエリクトニオスに、余程疲れているのだろうと思っていた。やはり彼にはゆっくり休んで貰い、私が率先して食事の準備をすべきだった。
 悩んでいる時間が惜しい。今回はこれにしよう。果実の入った茶葉を選び、ティーポットに入れて、熱湯を注ぐ。
 美味しく堪能するには決められた時間で蒸らす必要がある。エリクトニオスには先に部屋に戻って貰おうと思ったのだけれど、彼の言葉で私の提案は遮られた。

「その……プラクシテアは、相手が俺じゃなくても、いつもそんな風に気を遣ってるのか?」
「え?」
「いや、疲れるんじゃないか、と思っただけだ」

 私が呆けた声を出すと、エリクトニオスは気まずそうに視線を逸らしてそう言った。別に疲れると感じた事はないし、気遣いというほど特別な事をしているつもりもない。そこまで考えて、果たして私はエリクトニオス以外の相手に、ここまで色々と考えた事があるだろうかと気付いた。
 実のところ、己の為した事に相手がどう思うかなど、考えながら行動した事はなかった。
 けれど、エリクトニオスは気を遣っていると言っている。
 ならば、私の自覚のない気遣いは、きっとエリクトニオスだけに向けられているのだ。

「考えてみたら、私がこうして悩むのは、エリクトニオスの時だけかも知れません」
「なっ……」

 彼の驚愕の表情を、どういう意味で捉えれば良いのだろう。
 どちらにせよ、私はエリクトニオスに対して嫌な感情は何ひとつ持っていない。だからこそ、正直に説明する事も出来る。

「今まで意識した事もありませんでした。ですが、確かに差し入れの時はエリクトニオスが気に入ってくれるかどうか、いつも考えながら選んでいます」
「いつも、考え……?」
「でも、決して苦ではありませんよ。楽しいです」
「楽し……」

 もしかして、今のエリクトニオスは赤面しているのだろうか。いや、まさか。疲れで体調が良くないと考えるほうが自然だ。
 気付けば時間は過ぎており、茶葉もしっかり色濃く出ていた。果実の甘酸っぱい香りが鼻腔を擽る。さて、エリクトニオスの口に合うのだろうか。彼ならば、きっと苦手でも無理して美味しいと言いそうな気がするけれど。

「さて、エーテル補給をして、少し休んで、また頑張りましょうか」

 そう告げて、ふたりで作ったサンドイッチの乗った皿を抱え、もう片方の手でティーポットを持つと、エリクトニオスが慌ててふたり分のティーカップの取手を摘まんだ。傍から見ればちょっと可愛い光景かも知れない。

「いや、これはおかしい。プラクシテア、そっちは俺が持つ」

 エリクトニオスの言っている意味が分からず、首を傾げてしまった。そんな私とは対象的に、彼は両手にそれぞれ持っていたふたり分のティーカップを、今度は右手の指を取手に絡ませて、器用に片手でふたり分を携えた。そして、空いた左手を私に差し出して来た。
 それで漸く、彼が私の両手が塞がっている事を気にしているのかと察した。

「……ああ、エリクトニオスこそお気遣いは不要ですよ。これくらい普通です」
「いやいや……無論落としたりはしないだろうが、これでは俺が手持ち無沙汰だ」

 エリクトニオスはそう言って、私が片手で持っていたサンドイッチの乗った皿の底に手を掛けた。互いの指が触れ合って、ここは譲らないほうがかえって失礼だと、私は渋々皿から手を放した。

「もう。気を遣わなくていいんですよ?」
「はは、プラクシテアの両手を塞がせているところを誰かに見られたら、俺の面目が保てないだろ?」
「誰も気にしませんよ、そんなの」

 苦笑しつつその場を離れようとすると、入れ違いに同僚の獄卒が入って来て、私たちの姿を見た瞬間頭を下げた。

「おふたりとも、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ。……もしかして俺たちが使い終わるのを待っていたのか?」
「いえ、今ちょうど来たところです」
「なら良いが。お前も根を詰めるなよ」

 エリクトニオスがそう言うと、同僚も自然と穏やかな表情へと変わっていた。

 ――彼は不思議な人だ。彼の優しさで、多くの人が救われている。
 それこそ、私たちは災厄から逃れる為の策を講じているわけではない。そんな事が出来るなら、私たちもとうに十四人委員会の一員に選ばれている。
 けれど、人を救うという行為は、選ばれた人間が大業を成し遂げる事だけがすべてではない。
 確実に言えるのは、エリクトニオスがいるからこそ、このパンデモニウムで働く皆が、心を病まずに済んでいるという事だ。



 たいした事はしていない。その筈なのに。
 誰が作っても同じ味になる筈が、今日ばかりはただのサンドイッチが美味しく感じた。今まで生きて来た中で一番、と言ったらさすがに大袈裟か。
 いつもと同じ部屋で、テーブルを挟んでふたり腰掛けて、ゆっくりと食事の時間を取っている。ひとりなら味わえない、至福の時だ。

「エーテル補給に味覚は不要、という意見もあるが……プラクシテアの顔を見ていると、全くそうは思わないな」
「……ん、私、そんなにだらしない顔、してました?」

 思わずサンドイッチが喉に詰まりそうになって、なんとか飲み込んでそう訊ねれば、喉を潤すためにティーカップへと手を掛けた。
 少し前に注がれたお茶は外気で程良い温度になっていて、口に含んだ瞬間、まさに絶妙な味わいが広がった。思わず頬が綻んでしまうほどに。

「だらしなくなんてない。幸せそうだ」
「……似たような意味では?」
「いいや。プラクシテアを見ていると、このパンデモニウムでの暮らしも悪くないって思えるよ」

 まさかそんな事を言われるとは夢にも思っていなかった。突然の事で言葉が出て来なかったけれど、一先ずエーテル補給という名目のサンドイッチを食べ終えて、咳払いした。

「それは私の台詞です。エリクトニオス、皆がここで頑張れるのはあなたのお陰なのですよ」
「……俺? いや、まさか」
「もう、ご自身では全く気付かれていないのですね。あなたの一生懸命さを皆尊敬し、だからこそ頑張ってここまで乗り越える事が出来たのです」

 至って普通に、けれど真面目にそう告げると、エリクトニオスは困ったように笑みを浮かべて、残りのサンドイッチを咀嚼した。ふたりで食べればあっという間だ。

「その言葉を受け止める度量は俺にはないが……プラクシテアがそう思ってくれるだけで、俺も頑張れるよ」
「私は嘘など言っていません! エリクトニオス、皆あなたの事を……!」

 エリクトニオスは真面目で、勤勉で、そして、自分に厳しすぎる。何がどうして彼をここまで自虐的にさせるのか。ずっと前から言葉の端々で気になってはいたけれど、どうして。いくら両親が偉大であっても、エリクトニオスにしか出来ない事だってある筈だ。

「いや、プラクシテアが嘘を吐いているとは言わない。これは、俺の問題で……」

 一体誰が彼を否定するような言葉を投げ掛けたのか。例えその相手が既に星に還ったとしても、言われた側の心には傷が残る。それは時間が経つと共に消えていくかも知れないけれど、ふとした瞬間に抉られる事だってあるだろう。

 どうすれば、彼に己の気持ちを分かって貰えるのか。皆あなたを必要としているし、あなたは大切な存在だ。
 でも、『皆』とは誰だ。獄卒の名前を具体的に挙げる事は容易い。けれど、エリクトニオスの求めている解はそういう事ではないだろう。
 どうすれば良いのか。
 ――違う。エリクトニオスはどうにかして欲しいなんて、一言も言っていない。そんな事は求めていない。

 これは、私の問題だ。

「エリクトニオス、私……」

 言葉で分かって貰えないのなら。行動に移すしかない。
 この時の私はどうかしていた。それはティーカップから漂う甘い香りがそうさせたのか。あるいは、終末が近付いているという事態が、人の心を惑わせるのか。

「私は、あなたの事が好きです」

 言葉にするより早く、私は立ち上がってエリクトニオスの傍に駆け寄って、私より一回りも大きいその身体を抱き締めていた。

「私があなたを肯定します。あなたが自分自身を否定しても、何度でも、いつまでも」

2023/07/17

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