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 主に付き添う為、この夢ノ咲学院に転入してからというもの、学院生活は実に充実していた。主が羨望してやまない生徒会長・天祥院英智が所属するユニット『fine』への加入を果たし、アイドル活動に特化したカリキュラムを日々消化する傍ら、主を補佐する為に生徒会の仕事にも僅かながら従事しているが、余力はまだまだ残っている。寧ろ、手持ち無沙汰な時間を作らない為に、もっと仕事を任せて欲しいくらいだ。

「伏見、頼みがある」

 そんな折に、願っても無い好機が訪れた。
 ある日の放課後、弓道場にて。副会長・蓮巳敬人の呼出に馳せ参じるや否や、まさに期待通りの事が起ころうとしていた。

「わたくしに出来る事であれば、何なりとお申し付けくださいませ。副会長さま」
「そう言って貰えると助かる。まあ、貴様にとっては造作もないことだ」

 どんな指示であれ、巡り巡って主の為になるのであれば、それを達成することは己の義務であり、同時に喜びでもある。
 だがこの日、副会長が命じた内容は、全く以て想定外の事だった。

「貴様と同じクラスの転校生――遠矢樹里を、『こちら側』に引き入れて貰いたい」
「……遠矢さまを、ですか?」
「何か問題でもあるのか?」
「いえ。そもそもわたくしは、遠矢さまがどのような方なのか未だ掴めておりません。ですが、副会長さまが引き入れたいと思う程の御方であれば、部外者の口出しは不要かと」

 全ては主の為である。彼に恩を売らない選択肢など存在しない。だが、形式上依頼を承諾はしても、それを実行する必要性を聞かせて貰わない事には納得はし難い。彼女にそれだけの価値があるのか、自分にはさっぱり分からないからだ。
 逐一訊ねなくとも、彼ならば今の言葉で全てを理解し、己の求める答えを提示してくれるだろう。
 その予感は的中した。副会長は眼鏡をくいと上げて咳払いをひとつすると、淡々と語り始めた。


「――かしこまりました。彼女の事はわたくしにお任せください」
 全てを聞き終え、出来る限りの微笑を湛えてそう返答したものの、不安要素がひとつだけある。
 副会長には打ち明けなかったが、自分はどうやら、彼女――遠矢樹里の不興を買ってしまい、嫌われているかもしれないのだ。




「ふーん。別にいいけどさ、そいつ、ちゃんと英智さまの役に立ちそうなの?」

 いつも通り主と夕食を共にしながら、副会長からの依頼内容を報告すると、予想通り難癖を付けられた。無理もない、自分も最初聞いた時は正直首を傾げざるを得なかった。だが、副会長の目は節穴ではない。納得のいく理由は在った。

「役に立つか否かではなく、不穏分子になる前に予め手を打っておくという事です。副会長さま曰く、A組の転校生さんが何やら不穏な動きをしている様ですので。結束される前に『こちら側』に取り込んでおきたいのでしょう」
「はあ? アイドルでもなんでもない、プロデューサーごっこしてる奴らなんて、何も出来るわけないと思うけどね〜」
「その油断が命取りとなるのですよ」

 副会長・蓮巳敬人の依頼は今の会話内容通りだ。自分より少し遅れて転入した、プロデュース科の女子生徒たち。そのうちの一人、2年A組の転校生が、クラスメイトと結束して生徒会に反旗を翻そうとしているらしいのだ。今の段階では憶測に過ぎないが、副会長も理由もないのに疑う事はしないに違いない。

 自分も主の手伝いで生徒会の仕事に少しばかり携わっているが、今この学院が混沌としている事は手に取るように分かる。
 規則違反のゲリラライブが起こる度、生徒会が厳しく取り締まる。生徒会長が病に伏して休学しているのもあり、事後処理などで生徒会の仕事は増える一方だ。副会長は生徒会長が復帰する前に、何としても出来る限り不安要素を取り除いておきたいのだろう。

 尤も、主の言う事も一理ある。隣のクラスの転校生たちが何をしているかは己の与り知らぬ事だが、少なくとも自分と同じクラスの転校生は、生徒会に盾突くような性質には見えない。まあ、それも憶測に過ぎないからこそ、副会長の依頼を承諾したのだが。

「それにしても珍しいね。弓弦が自分からそういう話をするなんて」
「お恥ずかしい話ですが、坊ちゃまのお力が必要となるかも知れません。勿論、そうならない様に全力を尽くす所存ですので、頭の片隅にでも置いて頂ければと」
「そんなに厄介な相手なの? その遠矢ナントカってヤツ」
「ナントカではありません。遠矢樹里さま、ですよ。我が学院に女生徒は二人しかいないのですから、それ位覚えましょうね」
「奴隷の分際で馬鹿にするな! 大体そいつ、名前を覚える価値もないヤツかもしれないし!」

 敢えて主を怒らせてあっさりと話を逸らす事が出来たは良いものの、痛い所をつかれて、心の中で溜息を吐かずにはいられなかった。

 いくらなんでも理由もなく人から不興を買う事はない。恐らく自分は初動を誤ってしまったのだ。彼女を生徒会側に引き入れるなら、自分ではなく副会長が直に動いた方が、確実かつ効率が良い。
 だが、副会長は敢えて自分を指名したのだ。これは己が生徒会にとって有能な人材である事を知らしめるチャンスである。自分自身の為ではない。全ては我が主、姫宮桃李の為だ。

 必ずや遠矢樹里を我々の同志として引き入れてみせる。それを全うするのが今の自分に与えられた課題だ。





「伏見くん、それ嫌味?」
 認めざるを得ない。早くも前途多難だ。
「『プロデュース科』なのに、プロデュースなんて何も出来てない私が馴染んでるように見えるんだ、へえ」

 本人は全く気付いていないようだが、遠矢樹里の愛想の良さは折り紙付きである。プロデュース業であれ何であれ、この世界で要領良く生きていく為には必要不可欠な要素だ。転入初日は正直「この子はやっていけるのか」と生徒全員が思ったに違いないと断言できる程、彼女の表情は不安に満ち溢れていたが、今では「プロデュースなんて本人もどうしていいか分からないだろうに、泣き言言わないで頑張ってるよな」、それどころか「樹里ちゃんの笑顔見てると癒されるなあ」なんて声が聞こえてくるほど、彼女はあっという間に順応していた。
 己がクラスメイトとあまり慣れ合わない性質なのもあり、素直に彼女を羨ましく思ったのだが、それがまさか嫌味と取られるとは。

 彼女の返答から、どうやらプロデュース業が出来ていない事に対し引け目を感じているのは分かったが、発足したばかりの科に転入して何日も経っていない生徒に出来ることなど限られている。誰も彼女を責めてなどいないし、これから少しずつ経験を詰んで結果を出していけばいいだけの話だ。
 今出来る事は全てしているではないか。噛み砕いてそう説明したのだが、
「また嫌味」
 己の場合は何を言っても彼女の神経を逆撫でてしまうらしい。

 ところが、何気なく副会長の名前を出した途端、彼女の表情は一気に変わった。いかにも「あなたと話す事はない」と言わんばかりのつんとした態度が一気に緩和し、瞳を輝かせている。まあ、名ばかりのプロデュース科で肩身の狭い思いをしている(と本人が感じている)状態で、実質学院トップの存在から認められている事を知れば、嬉しくなるのも無理はない。

 彼女にとって有益な情報を与え続ければ、己への見方も徐々に変わっていくだろう。副会長だけではない、あの教師やあの教師も貴女の事を褒めていた、気に掛けていた、等々、今の彼女にとって心地良いであろう褒め言葉を掛けたのだが、
「……遠矢さま?」
 まさに心ここにあらず、自分の話など彼女の耳には全く入っていないようだ。
「伏見くん、ごめん、聞いてなかった」
 己とて一人の生徒である。ここまで一方的に邪険な扱いをされるのは癪に障る。

「謝る必要などございませんよ、遠矢さま。わたくしの様な、未熟で取るに足らない存在の戯言など、どうぞ聞き流してくださいまし」
 言った瞬間、彼女は怒髪天を衝かんばかりにその表情を一気に歪めさせて、反論したい気持ちをぐっと堪えたのか、無言で教室へと突き進んでいった。

 前途多難ではあるが、遂行不可能ではない。残念ながら言葉で彼女の信頼を得るのは難しいが、正攻法が無理ならば、外堀を埋めれば良い。暫く彼女の様子を見て慎重に計画を立てなくては。




 数日間、遠矢樹里を監視(と言うとあまりにも聞こえが悪いが)した結果、収穫はそれなりにあった。
 まず、彼女が何も出来ていない現状をなんとか打破しようと、強豪ユニットに見学をさせて欲しいと声を掛けている事が判明した。残念ながらそれが叶う叶わないに関わらず、結果的に空回っているようである。

 次に、隣のクラスの転校生と交流している様子が一切ない。
 この校舎で女生徒は彼女を含む2人しか居らず、ましてや同じプロデュース科だ。互いにしか話せない、分からない悩みもあるだろう。にも関わらず、昼休みも放課後も全くの別行動だ。タイミング云々の問題ではなく感じる。
 思い返せば、フラワーフェスの話で副会長から呼び出され、自分を含めた転校生三名が顔を揃えた時も、遠矢樹里だけはどこかよそよそしい態度だったような気がしないでもない。

 隣の芝生が青く見えるという諺があるが、まさに今の遠矢樹里はその通りで、隣のクラスの転校生が上手くやっているように見えて自己嫌悪に陥っているのだ。第三者から見れば二人共たいして変わらないのだが、他人が、それも己が口出ししたところで、彼女は聞く耳を持たないだろう。
 彼女にとってはあまり良い状態とは言えないが、副会長の言う通り、隣のクラスの転校生が本当に生徒会へ反旗を翻そうとしているのならば、遠矢樹里が加担する可能性が低いのはこちらにとっては追い風だ。

 何はともあれ、やる事は単純である。彼女が完全に生徒会側の思想に染まるよう仕向ければ良い。
 休学中とはいえ生徒会長がリーダーである我がユニットと関わりを持てば、自ずと生徒会との繋がりも発生する。きっかけとして彼女にfineの練習見学をさせ、徐々に親交を深めていけば良いだけの話だ。例え己が彼女に嫌われていようとも、『生徒会長が所属するユニット』を邪険にはしないだろう。



 好機は重なるものである。
「伏見くん」
「遠矢さま。奇遇ですね、こんな所で」
 フラワーフェスに向けて練習していた放課後。日々樹渉のスパルタ教育に耐え切れなくなった主が脱走し、追い掛けた先にいたのは主に泣きつかれている遠矢樹里だった。
 まさかこちらから動く前に、偶然とはいえ彼女から接触して来るとは。これを易々と逃す訳にはいかない。
「何か御用があってこちらへ来たのではないですか? どうぞお入りください。坊ちゃまも我慢の限界のようですし、一度休憩いたしましょう」


 事は驚くほどすんなりと進んだ。主はともかく、顛末を知らない日々樹渉からもアシストがあり、あっさりと遠矢樹里を取り込む事に成功してしまった。とはいえ、これがゴールではない。フラワーフェスが終わるまでの間に、彼女とある程度信頼関係を築いておく必要がある。言葉で伝わらないのであれば、態度で示すのみだ。己が練習に打ち込む姿を見れば、彼女も次第に心を開いてくれるに違いない。そう思いながらフェスまでの日々を消化していたが、考えが甘かった。

 遠矢樹里の視線は常に、『奇人』日々樹渉に向けられていた。
 己の存在など気に掛けてすらいない。


「遠矢さま」
 自主練を途中で止めて声を掛けても反応はない。仕方なく肩に手を触れると、彼女は小動物のようにびくりと身体を震わせて、恐る恐るこちらへ顔を向けた。日々樹渉に向けていた羨望の眼差しは既に消え、己に向けられる視線には戸惑いの感情が見て取れる。
「いかがですか? 練習見学は」
「う、うん、すごく勉強になってるよ。日々樹先輩って厳しいけど、姫宮くんなら乗り越えられるって分かってるからなんだろうね。凄いよね、二人とも」

 彼女の脳内に己の存在はないのだろう。それはそれで結構だが、今回に限っては少しでも彼女との関係を進展させなくてはならない。仕方ない、ここは強硬手段に出た方が良い。
「……遠矢さま」
「ん?」
「日々樹さまが坊ちゃまに付きっきりなお陰で、わたくしの練習を見てくださる方がいらっしゃらないのですが……」
 溜息混じりにそう言って口を噤んだ瞬間、彼女の顔色が変わった。

「あ、あの! 良かったら私、伏見くんの練習、見る……いや、えっと、見てもいい、かな?」

「おや、まるで御伺を立てるような言い方ですね。許可を取る必要などございませんよ」
 己の返答に彼女は一瞬頬を引き攣らせたが、すぐに凛とした表情に変わって「よろしくお願いします」と頭を下げた。別にそこまで恭しくする必要はないのだがと思いつつ、一対一の無言の時間が始まった。

 毎日毎日、幾度もなく繰り返したステップ、ターン。すっかり体に馴染んだ動作を他人に見せる事に対して、緊張や戸惑いはまるでない。寧ろ相手の反応を確認する余裕すらある。何度も彼女の顔を見た。
 だが、彼女が己のパフォーマンスを見て瞳を輝かせる事はなかった。

「遠矢さま、如何でしょうか」
「え?」
「今のわたくしの動きで改善点があればご指摘頂きたいのですが」
 練習を中断して声を掛けると、彼女は目を泳がせた。明らかに戸惑っている。

 この業界は実力が全てであり、持たざる者は自然と淘汰される。
 観客の目はシビアだ。それは目の前にいる転校生、遠矢樹里も同様である。
 己が彼女に嫌われているから、というのは絶対に口にしてはならない言い訳だ。嫌っていようと何だろうと、実力で魅せる事が出来れば、その無表情な顔を、いつもクラスメイトに見せている笑顔の様に華やかにさせる事だって可能な筈だ。
 それが出来なかった。つまり己の力不足だ。

「気を遣って頂かなくて結構ですよ。遠矢さまはこれから、プロデューサーとして多くの生徒をトップアイドルへ導いていく立場になるのですから、わたくしの事は実験台とでも思って、遠慮なくご指導の程よろしくお願い致します」
「あ、えっと……すごく良かったよ、うん。今のところ、これといって改善すべきところは特にないと思う」
「遠慮は無用だと申し上げたはずですが」
「遠慮とかじゃなくて……本当に、何も言う事はないよ」

 分かっている。彼女にアドバイスなど出来ない事くらい。自分と同い年の、それも素人の少女にそんな事が出来るなら、教師も専用カリキュラムも、この学院自体も不要だ。
 ――冷静にならなくては。

「……そうですか」
 そう返答し溜息を零したと同時に、聞き慣れた声が室内に響いた。

「あ〜もう無理!! 休ませろ!!」

 我が主、姫宮桃李の叫び声であった。



 休憩したいとごねるのはいつもの事だが、今日は勝手が違った。事も有ろうに使用人の自分ではなく、遠矢樹里を指名して、二人で部室を後にしてしまったのだ。
 一体いつの間にそんなに打ち解けていたのか。普段あれだけ彼女の事を役立たずだと罵っていたのに、下の名前で呼び、あまつさえ奴隷呼ばわりまでするとは。彼女がろくに反論しないのを良い事に、あのガキはやりたい放題――

「どうしました? 執事さん」
「日々樹さま。どうしたもこうしたもありません。全く、うちの坊ちゃまときたら女性に対して奴隷などと……」
「私が聞いているのはあなた自身の事ですよ」

 二人きりになった部室で、日々樹渉は道化のように張り付いた笑みを浮かべながら、視線を向けている。まるでこちらの心の中を覗き込むように。
「どうやら執事さんと転校生さんは折り合いが悪いようですねえ。姫君も気になって仕方ない様子でしたし」

 その言葉で自分は早くも失態を犯してしまったのだと悟った。己の力だけで為すべき課題が、結局、主を介入させる羽目になってしまった。
 冷静にならなければ。先程の自分は明らかに平常心を失っていた。

「彼女の役割は『右手のほう』のシナリオ通りに動くお人形さんかと思ってましたけど、どうやらあなたの前では違うようですね。そして執事さん、あなた自身も。これは番狂わせを期待しても良いかもしれませんね〜?」

 この男の前で隙を見せるのは危険だ。油断すると己の心を覗き込まれてしまう。だが、今回はらしくない発言をしてしまった自覚はある。変な意地を張ったところで話は先に進まない。

「全く、日々樹さまには敵いませんね。どこからどこまで御存知なのかは知りませんけれど」
「いえいえ、私はただの道化に過ぎません。それよりも執事さん、先程はどうしちゃったんですか?」
「それが、自分でも分からないのです。何故彼女にあそこまで嫌われているのか……」
「ほう?」

 日々樹渉が興味深そうに目を見開いて、こちらへと歩み寄って来た。他人の力を借りたくはなかったが、仕方ない。意固地にならず、他者の教えを乞う事も時には重要である。

「執事さん。彼女は本当にあなたを嫌っているのですか? あなたの思い込みではないですか?」
「は?」
「あのお人形さん、私だけでなく姫君に対してもしおらしいですしね」
「それは、恐らくどこかでわたくしが遠矢さまの地雷を踏んでしまったのでしょう。というか日々樹さま。遠矢さまは人形なんかではありませんよ。あとしおらしくもないです、決して」
 何かおかしなことを言っただろうか。真前にいる日々樹渉の表情が更に明るくなる。

「ふむ、分かりましたよ執事さん! ああ、世界は愛に満ち溢れていますねえ…!」
「はい?」
 あなたが一人で勝手に分かったところで、自分にはさっぱりなのだが。
「あの、日々樹さま」
「いいですか執事さん! これはまさしく愛です!」
「日々樹さまに教えを乞おうと思ったわたくしが間違っていました。もう結構です」

 この男に頼ろうと思った自分が浅はかだった。主と彼女もそろそろ戻ってくるだろう。この話は終わりだ。平常心を保つ事を心掛けながら、いつも通り彼女と接すればいい。

「私には分かりますよ。いつも媚び諂ってばかりのお人形さんが、執事さん、あなたの前でだけは意思を持つのです! 『好き』の反対は『無関心』です。彼女に嫌われているあなたは、それだけで彼女の特別なんですよ!」
「わたくしには分かりませんね。仮にそうであっても、嫌われていては信頼関係を築けないではありませんか。もうそろそろ二人も戻ってくるでしょう。この話は終わりです」
「執事さん。あなたは、彼女が理由もなく人を嫌うと思っていますか?」

 日々樹渉が問うと同時に、部室の扉を叩く音が聞こえた。主と彼女の帰還だ。

「理由が分かれば、自ずと彼女の扱い方も分かってきますよ、きっと」
「……御忠告、感謝します」

 彼女は人形でもなければ意思がないわけでもない。扱うだなんて失礼極まりない言い方だ。そう思いつつも、彼の忠告はとても意味を持つものであった。

 再び彼女の前で自主練に打ち込みながら、これまでの事を思い返した。彼女が自分にだけ冷たい理由は何なのか。原因を突き止めてそれを解消しなければ、いつまで経っても平行線だ。初めて出会った頃はこうではなかった筈だ。
 彼女が転入したばかりの頃、初めて話をした時、自分は何を言っただろうか。
 駄目だ。思い出せない。当たり障りのない事しか言わなかった気がする。

 ――焦りは禁物だ。今はまず、出来る事をやるだけだ。

「遠矢さま。ひとつだけ、願いを聞いて頂いて構わないでしょうか?」
「な、何かな…」
「当日、日々樹さまや坊ちゃまだけではなく、わたくしのパフォーマンスも見て頂きたいのです」

 今の自分が確実に出来る事は、少しでも彼女に振り向いて貰うよう努める事だ。何もフェスが終わるまでに結果を出さなくてはならない訳ではない。同じ教室でこれから共に同じ時間を過ごしていくのだ。溝は少しずつ埋めていけばいい。誠実であり続ければ、いつか彼女も心を開くだろう。

「言われなくても見るに決まってるよ」
「ありがとうございます、そう言って頂けて安心しました」
「伏見くん。初舞台、頑張ってね。私、全然、何も出来てないけど……せめて応援ぐらいはするから」

 己が平常心を取り戻したからなのか、それとも主が彼女に気を掛けたからなのか。その理由は分からないが、この瞬間に遠矢樹里が見せた微笑は、作られたものではない様に見えた。

2017/02/01


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