Valse des fleurs



 フラワーフェス当日、天気は快晴。
 過ぎてみればあっという間だったのは、毎日放課後に予定が入っていたお陰だ。見学だけとはいえ、本当に何もないよりは充実していた。
 私は今回特にやる事はない。要するに足手纏いは黙って見ていろという事なのだろう。って、駄目だ。またマイナス思考になってしまった。

 ステージとなる商店街は、どこを見てもたくさんの花で飾りつけられている。催しが始まるまでの間、ぐるぐると歩いているとあんずちゃんの姿を発見した。隣のクラスなのに、物凄く久し振りに会った気がする。まあ、あんずちゃんは今の段階で既に忙しそうだし、私は私で彼女を避けてしまっているので、久々なのも無理はない。

 学院内と違い今日は、あんずちゃんは一人だ。思い切って駆け寄って声を掛けてみたら、満面の笑みで応えてくれた。話を聞けば、商店街の飾り付けの手伝いをしたのだと言う。
 しまった。迂闊だった。こんな事なら私も積極的に志願すれば良かった。こういう積み重ねが、いずれプロデューサーとしての自分の評価に繋がってくるに違いない。
 というか、そもそも私はこんな風に損得勘定で物事を考えるから駄目なのだと改めて思った。屈託のない笑みを湛えている彼女は、損得なんて考えないで善意で行動してそうだし。そういう人が慕われ、人望を得るのだ。

 あんずちゃんと別れて、自分の不甲斐なさを情けなく思いながらとぼとぼと歩く私は、なんてこの麗かな春の宴に似合わないのだろうか。正直もう帰りたい。けれどやらなければならない事はある。

『弓弦には情熱が足りないって』
 姫宮くんから聞いた、日々樹先輩の言葉。練習で見ている限りでは、やっぱりよく分からなかったけれど、本番で見たら気付く事があるかもしれない。伏見くんとの約束がなかったとしても見るつもりだ。


 突然、歓声と拍手が湧き上がった。ぼうっとしていた意識が明確になり、瞬間、一気に目の前の光景に釘付けになった。
 ついにフェスが始まった。副会長率いる『紅月』が、圧倒的なパフォーマンスを道行く客に振る舞う。彼ら目当てで見に来た観客は勿論、そこに住む人達も、通りすがりの人達も、一斉に皆が彼らに魅せられている。



 fineのステージが始まるまで、時間が迫っている。紅月を引き続き見られないのは名残惜しいけれど、カメラが回っているはずだし、後で椚先生か副会長に頼んで資料として見せて貰おう。
 時間には十分間に合うけれど、駆け足でfineのパフォーマンスが行われる場所へ向かった。



「あ、樹里だ! おーい」
「姫宮くん」
 声が聞こえた方へ顔を向けると、姫宮くんが大きく手を振っていた。離れた距離からでも、このフェスの為に作られたステージ衣装を纏うその姿が、更に彼の魅力を際立たせている事は素人目でもよく分かる。
 姫宮くんの傍に駆け寄って、間近で見た瞬間、あまりの可愛らしさに言葉を失ってしまった。

「樹里、ねえ見て! 似合ってるでしょ?」
「………」
「ん? おい」
「………」
「奴隷! ぼけっとしてないで、主人の話をちゃんと聞け〜!」
「は、はいっ」

 姫宮くんの怒声で我に返って、ついうっかり勢いよく返事をしてしまった。肯定してしまった時点で、私は姫宮くんの奴隷であると自分自身で認めてしまったも同然ではないか。そんなつもりは全くないのに。
 そんな私の葛藤など知るよしもなく、あまり背丈の変わらない眼前の美少年は、私の顔を至近距離でまじまじと見遣った。

 陽光に当たってきらきらと輝く髪。透き通るような肌。まるで宝石のような瞳。学院は整った顔立ちの生徒で溢れているから気にしていなかった――というかそもそもプロデューサーという立場なので、そういう感情を持たないよう意識している――けれど、この日の為に誂えた衣装を身に纏い、天使のような笑顔を浮かべる姫宮桃李というアイドルを目の当たりにして、何もかも許してしまいそうな気持ちにさせられてしまった。

「おや? 遠矢さま」
「ひっ!?」
 邪な気持ちは一瞬にして消え去った。姫宮くんの傍にこの人がいないわけがない。伏見くんが近くで待機している事は、冷静に考えればすぐに分かる話なのだけれど、今この時ばかりは完全に油断していた。
「驚かせてしまい申し訳ありません」
「いや、私こそぼけっとしてて――」
 ごめん、という言葉は続かなかった。伏見くんに顔を向けた瞬間、彼を見た瞬間、私は言葉を失った。

「遠矢さま?」
「弓弦、こいつ今日ちょっとおかしいんだよね。話し掛けても反応ないし」
「確かに……恐らくお疲れなのでしょうね」
「え〜!? これからボク達の出番なのに! 樹里〜!」

 手を引っ張られて、漸く我に返った。目の前には、私の手を取りながら、頬を膨らませてしかめっ面をしている姫宮くんがいる。
「しっかりしろ! ちゃんと見ててよね、ボク達のこと」
 ちょっとぼうっとしていただけなのに。つい私も不満を顔に出してしまいそうになったけれど、考えるまでもない、もうすぐfineの出番なのだ。姫宮くんの言う通り、今しっかりしていなくては、これまでの見学の意味もなくなってしまう。

「ごめん。しっかり見届けるから。頑張ってね。姫宮くんも、伏見くんも」
 二人を交互に見て笑ってみせた。ちゃんと笑えてた、と思う。不貞腐れていた姫宮くんの表情が、満開の花の如く輝かしい笑顔になったから、多分今の私はちゃんと正しい振る舞いが出来ている。

 ステージに向かう二人を見送った後、適当な場所まで移動して、一観客としてfineの出番を待った。
 それにしても、姫宮くんに言われた通り、今日の私は確実におかしい。きっとこの陽気のせいだ。
 ここのところ、外を出歩くのは家と学院の往復だけだったし、空いている時間は図書室で借りた資料を読み耽ったり、学院で保管されているライブ映像を見たり、とにかく毎日が勉強漬けだ。春の訪れを感じる心の余裕なんてなかった。こんな開放的な気分になれたのは、転入してから今日が始めてだと思う。そしてこのフラワーフェスという舞台。街中が彩られ、人々がみな幸せに溢れていると感じる。
 だからだ。全てはこの状況のせいだ。

 ……私が、伏見くんに見惚れてしまったなんて。

 己の感情をそう認識した瞬間、顔が一気に熱くなった。いや、冷静になれ。姫宮くんはいつも以上に紛れもなく天使そのものだったし、日々樹先輩と初めて会った時はあまりの美しさにそれこそ本当に見惚れていた。伏見くんだって元から綺麗な顔立ちをしているのだから、華やかなステージ衣装を身に纏った彼を見て、そういう感情を抱いてしまっても何らおかしい事はない。人にそう思わせてこそアイドルだ。そう思えば、私は何も動揺する必要などないのだ。



 もうそろそろfineの演目が始まる時間だけれど、日々樹先輩が現れる気配がない。いつも派手な演出をしている日々樹先輩の事だから、準備に時間がかかっているのだろうか。きっと、思いも寄らない方法で突然現れるに違いない。私はあくまで練習を見学させて貰っただけの部外者だから、詳細は聞かされていないし。
 注意深くステージの周りを見渡していると、先程から空を浮遊していた気球が、徐々に舞台に近付いている事に気付いた。まさかとは思うけど、

『Amazing! お待たせしました、あなたの日々樹渉です!』

 そのまさかだった。いつだって突拍子もない事をやるのが、奇人・日々樹渉だ。気球に乗って登場するぐらい、彼にとっては造作もない。
 私を含めて、ステージ付近に集まる観客が皆、顔を上げて日々樹先輩に釘付けになっている。どんな方法でステージに降り立つのだろう。そう心が躍った瞬間、観衆が一斉に驚きの声をあげた。

 さっきまでステージ上にいた姫宮くんが、空へ飛び立ったのだ。正確には、気球にセットされたブランコに乗って。そして姫宮くんと入れ替わるように、日々樹先輩が気球から舞い降り、ステージへ着地した。
 日々樹先輩が乗っていた気球と地面は物凄い距離だったけれど、一体どういう仕掛けで降り立ったんだろう。まさか種も仕掛けもなく生身で飛び降りたなんて――いや、日々樹先輩について考えるのはやめよう。答えを導き出せるわけがない。

 それよりも、姫宮くんがあんなことをするなんて全然知らなかった。てっきりあのブランコはステージのオブジェだとばかり思っていた。観客を驚かせる為とはいえ、仮にもプロデュース科に所属する身なのに全く気付けなかったなんて。
 自分が情けない。何の為の見学だったんだろう。このままじゃまるで、自分が役に立たないという現実を突き付けられる為に、この数日間を過ごしたようなものだ。

 嫌だ。終わらせたくない。まだ転入してきたばかりなのに。何もかも、始まってすらいないのに。


 無心だった。
「姫宮くん!!」
 まるで自分の声じゃないみたいだ。私は無心で、ただ叫んだ。
「頑張れー!!」

 姫宮くんの耳には届いていないだろう。私の声なんて通るわけでもないし、人一倍大きくもない。こんなのただの自己満足だ。
 それでも、行動しないよりはマシだから。黙って何もしないで見ているだけなんて、役立たずのままなんて、絶対に御免だ。
 まあ、こんな応援にもならないような声しか出せないようでは、役立たずを脱するのはまだまだ先になりそうだけれど。

 少しして、姫宮くんが歌い出した。マイクを通して聴くその歌声は、外見に負けず劣らず愛らしくて、春の訪れを彩るこのフェスティバルに相応しいものだった。遠くからでもわかる、姫宮くんは花のように愛らしい笑顔を振りまいている。例え新入生だろうと、fineの名に恥じないように、堂々として。
 当たり前の事だけれど、姫宮くんは私なんかが想像できないほどの努力を重ねて、この舞台にいる。元々の才能もあるけれど、観衆を魅せる事ができる人が努力を怠る事はないのだ。

 姫宮くんがどんどん遠ざかっているのを見上げながら、私なんかの悩みは彼らに比べたら本当にちっぽけなものなんだろうな、と思った。立つステージが全く異なるといえど、私も悩んでいる暇があれば、彼らのように努力すべきなのだ。

 再びあがった歓声で我に返った。慌ててステージに目を向けると、日々樹先輩がパフォーマンスを始めていた。一気に観客が日々樹先輩の世界に飲み込まれる。
 何度見ても圧巻だ。ここにいる誰もが魅せられ、日々樹先輩に向かって花を投げている。良いパフォーマンスを見せたアイドルには花を投げ込むという暗黙のルールがあるらしい。宙に舞う大量の花は、まるで日々樹先輩を引き立たせるエフェクトのように見えた。

 そういえば、同じステージに立っているはずの伏見くんは――そう思って視線をずらすと、日々樹先輩のパフォーマンスをじっと見つめている伏見くんの姿があった。って、伏見くんもパフォーマンスを見せないといけないのに。まさか本人がそれを忘れるなんてことは有り得ないし、いくら付き合いが短く浅いとはいえ、彼は緊張やら何やらで頭が真っ白になるようなタイプではないと思う。

 日々樹先輩に圧倒されている可能性はあるけれど、それだけで自信喪失するような性格ではない。単純に、私たちのように日々樹先輩に魅せられているのだろうか。って、それじゃ困る。伏見くんだって、学院のトップユニットのfineの一員なのだ。この場で一人でも多くのファンを掴むぐらいの気持ちで、しっかり責務を果たして貰わないと。

「伏見くん! 頑張って!!」

 さっき姫宮くんに向かって叫んだ時もそうだけど、いくら無心とはいえもうちょっと気の利いた事は言えないのだろうか、私は。また自己嫌悪の無限ループに陥りそうになったけれど、壇上にいる伏見くんと目が合った気がした。
 負の感情は一気に吹き飛んだ。伏見くんもフラッグを構え、パフォーマンスを始めたからだ。


 ――なんだ、ちゃんと出来てるし。私が見る必要なんて初めからなかったじゃん。観客に笑顔を振りまく伏見くんを見て、一瞬だけ心の中で悪態を吐いてしまった。
 確かに日々樹先輩のようにはいかないけれど、初めての表舞台でここまで落ち着いて堂々とこなせる人もそうそういない。そもそも伏見くんは、この学院に転入してきてから一ヶ月も経っていないのだ。

 そう考えると、彼らの練習を見学させて貰えたのは奇跡に近いことだったのだと改めて思った。
 奇跡、ではないか。演劇部の部室に迷い込んだ事は偶然だったけれど、その後見学に至るまでの流れは初めから仕組まれていたという事は、流石に私でも分かる。その理由だけはどうしても分からないけれど、そのうち全てを知る日が来るだろう。それが今である必要はない。

 今まで抱いていた劣等感だとか卑屈な心だとか、今まで自分で自分を苦しめていたものが徐々になくなっていく気がした。なんで伏見くんに対して意地を張っていたんだろう。彼と自分を比べて自分は駄目だと思うこと自体が間違っている。初めから住む世界が違うんだし。
 伏見くんがいつもより何倍も魅力的に見えたのは、ここがステージだからという理由だけではない。私が今まで彼に対して穿った見方をしていただけなのだ。




 フラワーフェスは盛況のうちに無事終了した。あれだけたくさんいた観客はみな帰路へつき、街並みは普段と変わらぬ姿へと徐々に戻っていく。今日の出来事が本当にあった事なのか、実は夢だったのではないか、と本気で疑ってしまうくらい、意識がぼうっとしている。アイドルというものは本当に夢を与える仕事なんだなと、当たり前の事を改めて思った。

 もう少し余韻に浸っていたいし、このまま帰るのは勿体ない。というか、紅月とfineのメンバーが今どこにいるか分からないけれど、せめてお疲れ様の一言ぐらいは言いたい。
 あてもなく歩き回っていたら、見覚えのある後姿が目に入った。

「えっと……影片くん!」
 よく似た他人かもしれないけれど、とりあえず脳内の情報と一致するクラスメイトの名前を呼んでみたら、ぴくりと肩を震わせて恐る恐る振り向いたのは、Valkyrieのメンバー、影片みかに相違なかった。
「な、なんや。あんたと話す事なんかあらへん」
 どうも私は影片くんに嫌われてしまっているらしい。前に練習を見学させて貰えないか訊ねた時も、こんな感じで全く取り合って貰えなかったし。
「ごめん、馴れ馴れしかったよね。話し掛けてごめんね、ほんとに」
 こういう態度を取られるとつい謝ってしまうのだが、理由もなく謝られたら相手に尚更嫌われるだろうな、と後悔した。典型的な『謝れば許されると思っているタイプ』に自分が該当すると思ったからだ。

 影片くんは無言でそっぽを向いた。そこで初めて、彼が箒を持って掃除に勤しんでいた事に気が付いた。成程、確かに祭の後片付けに取り組んでいる最中、私みたいな役立たずに呑気に話し掛けられたら苛立つのも無理はない(元から嫌われているであろう事を抜きにしても)。

 今できる事があるなら率先してやるべきだ。決心さえすれば行動を起こすのは容易い。ここから至近距離にある花屋まで走って、ちょうど表に出ていた店員に声を掛けて箒を貸して貰った。
 今の自分に出来る事は掃除の手伝いくらいだ。私は今の今まで本当に何もしていないし、せめてこれくらいはしないと。気付かせてくれた影片くんに感謝しなければ。とりあえず影片くんの視界に入らない場所に取り掛かり始めた。彼の目の前でやるのはさすがにわざとらしい気がするし。




「――さま。遠矢さま」
 誰かに肩を掴まれて、歩道の塵を掃く手を止めた。もしかして勝手に掃除したら駄目だったのかな、と思いながら恐る恐る顔を向けると、つい数時間前に観客の注目を浴びていた人物がそこにいた。
「掃除はもう結構ですよ。あらかた終わりましたから」
 伏見くんはジャージに着替えていて、箒を手に持っていた。視線を移すと、自分がこれから片付けようとしていた場所は既に綺麗になっている。伏見くんがやってくれたのだろう。

「お疲れ様でした。今、何か飲み物をお持ちしますね」
 そう言うと、伏見くんは私の肩から手を離して、駆け足でこの場を後にした。確か少し離れた場所に自販機があったから、そこに向かったのか。
 そういえば、掃除が終わったなら借りていた箒をお店に返さなくちゃ。伏見くんが戻って来るまでに自分もここに戻れるだろうし。



 残念ながら、間に合わなかった。
「お帰りなさいませ、遠矢さま」
 伏見くんは私に待っていろと告げた場所と寸分違わぬ位置で、ペットボトルを両手に携えて笑顔を貼り付けていた。これは間違いなく怒っていると、己の本能が告げている。
「ごめんなさい」
「謝罪は結構です。差支えなければ、わたくしに黙って買い物に行かれた理由だけお聞かせ頂けますか?」
 彼が怒るのも無理はない。なにせ私は今、箒を借りた花屋で買った小さな花束を持っているからだ。

「だって、箒だけ借りてさよなら、ってわけにはいかなかったから。貸して貰ったお礼として、何か買うぐらいの事はしなきゃって思って」
「遠矢さま。お言葉ですが、それなりに順序立ててご説明された方がよろしいかと。わたくしは今の拙い言葉でもある程度は理解できましたけど、皆が皆そうとは限りませんので」
 どうしてこの人はいちいち癪に障る言い方をするのか。伏見くんに対する見方を変えようと思ったけれど、前言撤回だ。いくらアイドルとして優れていようと、やっぱりこの人は苦手だ。



「では、改めてお疲れ様でした、遠矢さま」
 二人で広場のベンチに腰を下ろすと、伏見くんに労いの言葉を掛けられた。私はお疲れ様なんて言われる事は何もしていない。複雑な気分だ。差し出されたペットボトルを受け取ったけれど、口を付ける気にはなれなかった。

 立場が逆転している。労いの言葉も差し入れも、本来は私が率先してやらなければならない事なのに。

「伏見くん、ごめんね」
 何も考えずに発した言葉に、また自己嫌悪した。謝罪の言葉は回数を重ねれば重ねるだけ、誠意がなくなっていく事は分かっているはずなのに。
 伏見くんは水分補給をやめて、穏やかな微笑を湛えて私を見た。その表情に負の感情は一切ない。
「先程の件でしたら、もう気にしていませんよ。わたくし、過ぎた事をいつまでも引っ張る程しつこくはありませんので。――ですが」
 一拍置いて、伏見くんの声のトーンが少し低くなる。
「遠矢さま。お言葉ですが、もっと自信を持ってくださいまし。謝罪の言葉が安易に出るのは、自己評価の低さから来るものです。自分に厳しいのは結構ですが、厳しすぎるとご自身が辛い思いをするだけですよ」

 正論なのは分かっている。でも、伏見くんには言われたくなかった。同じ転入生なのに、私と違ってなんでも出来る伏見くんにだけは。
 まあ、こんな醜い感情を本人にぶつけるほど落ちぶれてはいないつもりだ。
 あと、伏見くんは勘違いをしている。私が謝ったのは、さっき勝手にいなくなった事に対してではない。

「伏見くん、もういいよ」
「は?」
「副会長に言っといて。遠矢樹里は役立たずで使い物にならないって」

 キャップすら開けていないボトルを伏見くんに押し付けて、ベンチから立ち上がって歩を進めた。これ以上何も話すことはないし、何も聞きたくない。

 伏見くんが演劇部の部室で勝手に話を進めた時点で、全て仕組まれていた事なのだと気付いていた。
 他のクラスメイトと比べてやけに私に話し掛けるのも、私がユニットの練習風景の見学をしたがっていたのを知って自らのユニットに引き入れたのも、全部伏見くんの意思ではない。彼はきっと、副会長・蓮巳敬人の書いたシナリオ通りに動いていただけだ。

 そもそも副会長が、転入してきて間もない上に要領の悪い私を、気に入ったり期待したりするなんて有り得ない話なのだ。私がプロデューサーとしての責務を全うできるのか、伏見くんを使ってテストしていたのだと思う。
 そして、これまでの己の行いを振り返れば、どう考えても私は不合格だ。

「ひゃっ!?」
 突然手首を掴まれたかと思えば、思い切り引っ張られてつい変な声を出してしまった。
「遠矢さま。何を勘違いして先程のような発言をされたのかは、一先ず置いておきますが」
 何故か分からないけれど、伏見くんは今、若干怒っているみたいだ。
「約束、まさかお忘れになられた訳ではありませんよね?」

 ああ、そういえば約束なんてしていたか。とはいえ、それもテストの一環なのだろう。

「ちゃんと見てたよ。練習の時より遥かに良かった」
「お褒め頂き光栄です」
「ていうか伏見くん、普段あまり感情を表に出してないよね」
 これまで笑みを浮かべていた伏見くんだけれど、私の発言で眉がぴくりと動いたのを見てしまい、今のは失言だったかもしれない、と軽く後悔した。なんとかフォローしなければ。
「あの、なんていうか、ステージではすごく楽しそうだったからさ。いつもとは全然違う伏見くんが見れて私も驚いたよ。普段からそういうのを出せるようになったら、もっともっと良くなるんじゃないかな」
 自分でも何を言っているのかよく分からない素人の感想を、伏見くんは聞き終えた後、目を細めて優しく微笑んだ。

「貴重なご意見、ありがとうございます」
「いや、子供でももうちょっとマシな事言うって。これで分かったでしょ、私は副会長が期待するような人間じゃないから」
 吐き捨てるようにそう言って、思い切り腕を振って伏見くんの手を払い除けた。微妙に手首が痛む。こっちは一応女なんだし、少しは手加減してくれと言いたい。

「じゃあ、私もう帰るから。折角飲み物買って貰ったのに悪いけど、私は労われる事なんてしてないし、姫宮くんにあげなよ」
 あと、大事なことを忘れていた。
「初舞台、お疲れ様。気の利いた事言えなくてごめんね。でも、伏見くん本当に素敵だったよ」
 今思えば、私の受け取り方がどうであれ、なんだかんだで伏見くんには気遣って貰っていたと思う。これからは話す機会もうんと減るだろうし、気持ちよく別れた方がいいだろう。笑顔を作って片手を振って、背を向けようとした瞬間、

「全く。遠矢さまは思っていたよりも遥かに、かなり我儘でいらっしゃるようで」
 はっきりと聞こえるように盛大な溜息を吐いてそんな事を言い放つ伏見くんに、私もついうっかり不快感を露わにしてしまった。
「は!? なにそれ、どういう意味?」
「言葉通りです」
 作ってるのか素なのか分からない笑みを浮かべながら、伏見くんはポケットから何かを取り出して、私に差し出してきた。
「影片さまからです。掃除を手伝ってくれたお礼、だそうですよ」
 伏見くんの掌に、色とりどりの紙に包まれた飴が何個か転がっている。私が黙っていると、痺れを切らしたのか、私の手を取り強引に飴を握らせてきた。
「人の好意は素直に受け取るべきですよ」
 好意、ではないと思うけど。間に伏見くんを通すという事は、私には話し掛けたくなかったという事と同じだし。

「遠矢さま。色々と誤解なさっているようですが、わたくしは貴女を試している訳でも、損得勘定だけで貴女と接しているわけでもありません。それはきっと、他の方々も同じだと思います」

 その言葉に頷くことは出来ず、黙ってその場を後にしてしまった。伏見くんはもう追っては来なかった。


 とうに知っている。世の中はそんなに甘くはない。
 でも、伏見くんに真っ直ぐな瞳で見つめられてあんな風に言われたら、自分が間違っているのではないかと意思が揺らいでしまいそうになったのもまた事実だった。相変わらず何を考えているかは分からないし、苦手意識は抜けないけれど、彼が平然と嘘を吐くような人には見えないのだ。そんな風に思ってしまうのは、今日、一瞬でも彼に魅せられてしまったからなのだろうか。

2017/01/09


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