Primavera



 フラワーフェス当日、天気は快晴。
 緊張はない。本番も、いつも通り淡々と為すべき事をやるだけだ。日々樹渉から別途提示された段取りは、主にはあえて伝えていないが、必ずやり遂げてみせるだろうし、万が一何らかのトラブルが生じても絶対に自分が助けてみせる。恐れる事は何もない。

 ステージ衣装を身に纏い、主の身嗜みを改めて入念に整える。完璧だ。後は開始の時間まで待機。fineの出番が迫りつつあるなか、主がふと思い出したように呟いた。
「ねえ弓弦」
「いかがなさいました? 坊ちゃま」
「樹里とはうまくやってる?」

 何と答えれば良いものか。
 主が彼女を下の名前で呼ぶほど打ち解けている事を『うまくやっている』と表現するのならば、自分は到底うまくやってはいないだろう。
「お恥ずかしい話ですが、良好とは言い難いですね」
「どうして?」
「どうして、と言われましても……」
 それが分かれば苦労はしない。

 そもそも、主こそ何故彼女への態度を緩和させたのだろうか。彼女を生徒会に引き入れる大義名分があるとはいえ、初めは懐疑的な目を向けていた筈だ。
 その疑問を見抜くかの如く、主は屈託のない笑みを浮かべた。

「樹里、いいヤツだよ。今は役立たずだけどさ、それはこれからの努力次第だし。ボクの命令にも素直に従ってくれるしね」
「命令? わたくしの目を盗んで、遠矢さまに何を…?」
「怖い顔しないでよ〜! ちょっとお使いに行かせたりしただけだって!」
 従者の自分ではなく赤の他人をこき使うとは。苛立ちを隠せない己を見て、主は弁解するように言葉を続けた。

「あとさ、樹里っていつもお昼一人でいるでしょ?」
「はあ、言われてみれば……あの、まさか坊ちゃま、遠矢さまのプライベートな時間にまで介入を」
「違うって! 樹里ってね、英智さまのファンなんだよ」
「は?」
「お昼休み、いっつも熱心に携帯見てるんだよね。気になってこっそり覗いてみたら、英智さまの記事だったんだよ! 英智さまを好きな人に悪い人はいない!」
 あまりにも短絡的すぎてつい溜息を零せば、主は馬鹿にされたと思ったらしく、愛らしい顔を一気に顰めさせた。

 遠矢樹里が生徒会長の記事を熱心に見ていたのは、fineの練習見学をしているからこそ、不在のリーダーの過去を知りたいと単純に思ったからではないのか。
 主の『英智さま』への崇拝は度が過ぎていると感じる事がある。姫宮家の次期当主としての自覚を持つよう何度も言い聞かせているが、聞き入れる様子は全くない。小言の一つでも言おうとした瞬間、
「あ! あれってもしかして……ちょっと行ってくるね!」
「坊ちゃま!? もうすぐ出番がー―」
 制止する暇もなく、主は走って行ってしまった。
 本番前に勝手な行動をするなと説教したいところだが、今日ぐらいは大目に見よう。これから、主の華々しいデビューが待ち構えているのだから。我ながら甘やかし過ぎていると自責しつつ、主の後を追った。


 主を追い掛けた先には、先程まで話題になっていた遠矢樹里がいた。紅月のパレードの真っ最中だが、彼らの舞台を見るのをあえて諦めて、駆けつけて来てくれたのか。てっきり自分たちのステージは、空いた時間で遠巻きに見られるだけだと思っていたから正直意外だ。
「おや? 遠矢さま」
「ひっ!?」
 彼女以外にもこう大袈裟な驚き方をされる事が割とあるのだが、そんなに自分は存在感がないのだろうか。
「驚かせてしまい申し訳ありません」
「いや、私こそぼけっとしてて――」
 彼女の言葉はそこで途切れた。

 心ここに在らず、という事は前にもあったが、今回は不自然だ。己の姿を見るなり言葉を失うに至る理由がない。
「遠矢さま?」
「弓弦、こいつ今日ちょっとおかしいんだよね。話し掛けても反応ないし」
 彼女の代わりに主が怪訝な顔で答え、これで原因は自分ではない事が証明された。だとすれば考えられる事はひとつ。
「確かに……恐らくお疲れなのでしょうね」
「え〜!? これからボク達の出番なのに! 樹里〜! しっかりしろ! ちゃんと見ててよね、ボク達のこと」
 主は声を荒げると、彼女の手を掴んで一喝した。それで漸く彼女の意識も現実に戻って来たようだ。体調が芳しくないのであれば、無理強いはしたくない。念の為確認しようとしたが、訊ねる前に杞憂に終わった。

「ごめん。しっかり見届けるから。頑張ってね。姫宮くんも、伏見くんも」
 彼女は主と自分を交互に見遣れば、微笑を浮かべて激励の言葉を紡いだ。それに応じるように、主は彼女から手を離して満面の笑みを浮かべた。
「当然でしょ! 言われなくても頑張れるから。ボクのパフォーマンスを見てファンになってよね! ファンっていうか奴隷だけど」
「坊ちゃま」
 主を窘めようとしたものの、ふと彼女の顔が視界に入り、その表情を認識した瞬間、言葉を失った。
 彼女は完全に主に魅了されている。主の暴言を気にも留めず、目を細めて優しく微笑むその姿を見れば一目瞭然だ。

 何とも形容し難い感情を覚えたが、余計な事を考えている暇はない。時間が差し迫っている。
「坊ちゃま、そろそろステージに戻りましょう」
 半ば強引に主の手を引いて、彼女とは目を合わせずにこの場を後にした。手の掛かるガキではあるものの、目に入れても痛くない程愛らしい主が、更にステージ衣装を身に纏っていれば、誰もが魅せられるのは当然の事である。そう、遠矢樹里が主に見惚れて、従順になってしまうのも無理のない話なのだ。




 主の初舞台は滞りなく進行している。日々樹渉との打ち合わせ通りに事を為し、主は今、幾多の花で彩られた空中ブランコに乗って蒼空を浮遊している。何かトラブルが生じれば、この身を犠牲にしてでも主を助ける覚悟は出来ていたが、その心配はなさそうだ。
 街中に愛らしい歌声が響く。観客は勿論のこと、ただの通行人も皆足を止めて、主に魅入っている。ぶっつけ本番だったにも関わらず、主はfineの一員として相応しい堂々たる振る舞いが出来ている。最早自分の助けなど不要だ。

「おおっと、執事さん? 他人事みたいな顔をしていては駄目ですよ、あなたは観客ではなくアイドルでしょう?」
 日々樹渉は己の意志など知った事ではないと言わんばかりに話を進め、どちらが観客から多くの花を投げ込まれるか競う事になってしまった。尤も自分は初めから勝負事などする気はないのだが。
「そういえば」
 彼は観客に顔を向けながら、意味あり気に視線だけこちらに移して呟いた。
「執事さん、あなたには聞こえましたか? 彼女の声が」
『彼女』が誰のことを指すのか訊ねるまでもないが、彼の発言は無視出来なかった。

「……いえ、わたくしには聞こえませんでした。大体、今どこにいらっしゃるかも分かりませんし」
「フフフ、五感に頼るだけではいけませんよ! 私には聞こえましたよ、彼女の姫君への声援が」
 日々樹渉は不敵な笑みを浮かべてそう告げると、己の返答を待たずに、観客へ視線を戻してパフォーマンスを始めた。
 瞬く間に場の空気が変わった。彼の歌声、動作、その全てがここに集まった観客を虜にしている。
 己もfineの一員である。負けが決まっているからと言って投げ捨てるつもりは全くない。それなりに良い勝負をしなくては――視線を観客に移そうとした、刹那。


『伏見くん! 頑張って!』


 日々樹渉は五感に頼るなと言っていたが、聴覚以外で聞く手段があるなら教えて欲しい。生憎ごく普通の人間である自分には不可能だ。そう思っていた。
 どうやら、世の中には理屈で説明できない事象があるらしい。多くの観客が日々樹渉を見つめるなか、ひとりだけ、彼女は己を見据えていた。この位置では彼女が今どんな表情をしているのか、それを知るのは至難の業だ。それなのに、何故だか彼女に叱咤激励されたような気がしてならないのだ。
 そう、例えば『伏見くんもfineの一員なんだから、この場で一人でも多くのファンを掴むぐらいの気持ちで、しっかり責務を果たして貰わないと!』なんて事を、若干苛立ちながら思っているのではないか。

 真偽はどうであれ、今は為すべき事をやるまでだ。言われるまでもなく、責務は全うするのでご安心を――心の中でそう告げて、フラッグを構えた。

 練習通りにこなす事は容易い。だが、それだけでは日々樹渉の足元にも及ばない事は分かっている。
 例え勝負にならなくても、既に勝敗は決まっているも同然であっても。それでも、観客の前で幾度となく練習した歌を、ダンスを、パフォーマンスを披露する事が、これ程までに楽しいとは思わなかった。

 果たして今の自分は、彼女の瞳を輝かせる事が出来ているのだろうか。





 フェスは見事に成功を収めた。これを機に主は更に躍進していくに違いない。全てが完璧に終わり、肩の荷が降りたものの、やる事はまだまだある。
 観客は皆帰路につき、通行人もまばらになった中、街路に散らばった花弁を掃除するボランティアの数が足りないらしく、己も手伝う事にした。疲労感はなく、それどころか大勢の観客の前でパフォーマンスを見せたからだろうか、気分は高揚している。

「ゆっくん、本当おおきに」
「構いませんよ、同じクラスの誼ですから。それは遠矢さまも同じ気持ちです、きっと」
 道路を挟んで少し離れた場所で、黙々と掃除に励む彼女をちらりと一瞥して言うと、影片みかという名の少年は、気まずそうに視線を地面へと移した。

「影片さま?」
「あ、その……ゆっくん、ひとつ頼みを聞いて貰ってもええやろか?」
「はい、わたくしに出来る事でしたら、遠慮なくお申し付けくださいまし」
 おずおずと顔を上げて不安そうな眼差しを向ける彼に対して、にこやかにそう告げると、眼下に色とりどりの袋に包まれた飴玉がいくつか差し出された。

「これ、あの……あの子、えっと、名前なんやったっけ……」
「遠矢樹里さま、ですよ」
「ああ、そうやった、樹里ちゃん。これ、あの子に……」
 歯切れが悪いところから察するに、彼女に差し入れをしたいが、何らかの事情で直接渡す事が憚られるのだろう。
「後ほど遠矢さまにお渡しすれば良いのですね。かしこまりました」
 飴玉を受け取って微笑を向けると、彼は申し訳なさそうに目を細めてぎこちない笑みを浮かべた。彼女と何かあったわけではなく、ただ単に女生徒と話すのが苦手なのかもしれない。





「遠矢さま」
 少し離れた位置から声を掛けたものの、街路の花弁をかき集めるのに夢中でまるで耳に入っていないようだ。労働に没頭する彼女の姿は少しばかりいじらしく見えて、成程、クラスメイト達が彼女を好意的に捉えるのも分からなくもない、と妙に納得してしまった。
 また大袈裟な驚き方をされてしまうかもしれない、と思いつつ彼女の肩に触れると、予想とは逆に不安そうに眉を下げて恐る恐る此方を見上げてきた。と思えば、己の顔を認識するなり、また心ここに在らずと表現するに相応しい表情へと変化した。やはり今日の彼女は疲れているのだろう。
「掃除はもう結構ですよ。あらかた終わりましたから」

 同級生は体調を崩した家族を介抱する為ここを離れ、今この場にいるのは己と彼女の二人だけだ。晴れの舞台で大役をこなした主は、すっかり疲れ果てて眠りに落ち、今は紅月の鬼龍紅郎が主を見ている。あまり長居は出来ないが、いつもの校舎内とは違う開放的な場所で話でもすれば、何か解決の糸口が見つかるかもしれない。
「お疲れ様でした。今、何か飲み物をお持ちしますね」


 この間僅か数分。彼女を置いて、近くの自販機で飲料水を二人分購入し、足早に戻って来たが、彼女は忽然と姿を消していた。
 ここで待っていろと言わなかった己が悪いのか。いや、いちいち言わずともほんの数分で戻って来ることぐらい、考えなくても分かる筈である。完全に彼女に避けられているのだろうか。とは言え、いくらなんでも何も言わずに帰るほど、彼女も非常識ではないだろう。
 幸い、帰ったわけではないのは予想通りではあったが、行き先も告げずに黙ってふらりと買い物に行ってしまうのは、仮にもプロデューサーとしてどうなのかと首を傾げざるを得ない。

「お帰りなさいませ、遠矢さま」
「ごめんなさい」
 即座に謝るあたり、悪い事をしたという自覚はあるようだ。反論がなければ責める必要もない。すぐ傍にある花屋で買ったであろう小さなブーケを手にしゅんとする彼女はさながら小動物そのものに見えて、怒る気もすっかり削がれてしまった。
「謝罪は結構です。差支えなければ、わたくしに黙って買い物に行かれた理由だけお聞かせ頂けますか?」
「だって、箒だけ借りてさよなら、ってわけにはいかなかったから。貸して貰ったお礼として、何か買うぐらいの事はしなきゃって思って」

 その発言の意味を汲み取る事は容易いが、もう少し言い方を考えた方が良いのではないか。己はともかく、心無い人間に揚げ足を取られる可能性も無きにしも非ずである。
「遠矢さま。お言葉ですが、それなりに順序立ててご説明された方がよろしいかと。わたくしは今の拙い言葉でもある程度は理解できましたけど、皆が皆そうとは限りませんので」
 心を鬼にしてきっぱりと告げれば、つい先程までしおらしくしていた彼女の目の色が変わった。「そんな言い方しなくてもいいのに」などと心の中で文句でも言っていそうだ。
 それにしても、掃除用具を借りるなら影片みかに直接言えば良い話なのだが、何故回りくどい事をしたのだろうか。


 機嫌を損ねて帰ってしまうかと思っていたが、意外にも彼女は己の後をついて来てくれた。広場のベンチに二人で腰を下ろし、ゆっくりと話す環境は整った。問題は、彼女が少しでも心を開いてくれるかどうかだ。

「では、改めてお疲れ様でした、遠矢さま」
 ペットボトルを差し出すと、受け取ってはくれたものの口を付ける様子がない。とりあえず自分は喉が渇いて仕方がないので構わず水分補給をしたが、気まずい雰囲気なのは否めない。横目でちらりと様子を見遣ると、ちょうど彼女と目が合った。
「伏見くん、ごめんね」
 タイミングを計っていたのか、己の顔を見てはっきりとそう言った。彼女の鞄の隙間から覗く華やかな花束とは対照的に、その表情に明るさはない。

「先程の件でしたら、もう気にしていませんよ。わたくし、過ぎた事をいつまでも引っ張る程しつこくはありませんので」
 余計な事を言うべきではない。彼女との距離を縮めたいのであれば、温和な態度で当たり障りのない慰めの言葉を掛けるのが賢明だろう。
 だが、少なくとも一年間は共に学ぶ仲だ。長い目で見て、果たしてそれが本当に彼女の為になるのだろうか。
「ですが、遠矢さま。お言葉ですが、もっと自信を持ってくださいまし。謝罪の言葉が安易に出るのは、自己評価の低さから来るものかと。自分に厳しいのは結構ですが、厳しすぎるのもそれはそれで困りものです」

 傷付けないよう精一杯言葉を選んだつもりだが、彼女にとっては堪えたようだ。反論がないのは、己の発言が事実だと受け止めているからなのかも知れない。

「伏見くん、もういいよ」
 漸く口を開いた彼女から放たれた言葉は、同意でも反論でもなく、己の理解を遥かに超えるものだった。

「副会長に言っといて。遠矢樹里は役立たずで使い物にならないって」

 そう言い切ると、彼女はペットボトルを己の手に押し付けて、立ち上がって歩き始めた。もう一切話す気はなく、帰るつもりだ。距離を縮めるどころの話ではない。彼女の脳内でどんな物語が展開されているのかは知った事ではないが、これだけは分かる。
 ここで誤解を解かなければ、彼女を生徒会に引き入れることは不可能になってしまう。


 最早不要となった飲料水をベンチに置き去りにして、彼女を追い掛けて、手首を掴んで引き留めた。
「ひゃっ!?」
 追い掛けて来るという予想は付かなかったのだろうか。彼女は心の底から驚いている。だが、己も引き留めたは良いものの、どう話を切り出すべきか。
 ――そうだ、大事なことを失念していた。つい先日、彼女に約束を取り付けたのは紛れもない自分ではないか。

「遠矢さま。何を勘違いして先程のような発言をされたのかは、一先ず置いておきますが。――約束、まさかお忘れになられた訳ではありませんよね?」
 果たしてどう返して来るか。そもそも返答があるかどうかも疑わしかったが、彼女も本来の目的を思い出したのか、一瞬申し訳なさそうに目を伏せた後、己を見上げて口を開いた。その顔に迷いはなく、先程までの重苦しい雰囲気はすっかり消えている。

「ちゃんと見てたよ。練習の時より遥かに良かった」
「お褒め頂き光栄です」
「ていうか伏見くん、普段あまり感情を表に出してないよね」

 彼女はそう言った後、しまったとばかりに顔を顰めさせて、まるでフォローするかの様に慌てて言葉を続けた。

「いや、なんていうか、ステージではすごく楽しそうだったからさ。いつもとは全然違う伏見くんが見れて私も驚いたよ。普段からそういうのを出せるようになったら、もっともっと良くなるんじゃないかな」

 やはり副会長の目は正しかったのだ。彼女はちゃんと人を見ている。相手の事が嫌いだろうと何だろうと、今出来る事を全うしている。今の段階では何とも言い難いが、持ち前の笑顔と健気さを武器にして、彼女はいずれ慕われる存在になるだろう。確かに、今後生徒会の敵に回られるような事があっては色々と厄介だ。

「貴重なご意見、ありがとうございます」
「いや、子供でももうちょっとマシな事言うって。これで分かったでしょ、私は副会長が期待するような人間じゃないから」
 彼女は手を振り払うと、手首を少し擦ってみせた。逃がさない為とはいえ、力加減を誤ってしまったかも知れない。
 それよりも、誤解は未だ解けぬままだ。話はまだ終わっていない。ここで終わらせてはならない。

「初舞台、お疲れ様。気の利いた事言えなくてごめんね。でも、伏見くん本当に素敵だったよ」

 己の胸中など知る由もなく、彼女は笑顔を作ってひらひらと片手を振った。ここで別れれば、全てが無に返ってしまう。冗談じゃない。大体、人の話を聞こうという姿勢がまるでない。
 余計な事を言ってはならないと分かってはいるのだが、つい、普段の悪癖の小言が出てしまった。

「全く。遠矢さまは思っていたよりも遥かに、かなり我儘でいらっしゃるようで」
「は!? なにそれ、どういう意味?」
「言葉通りです」

 どうやら我儘という言葉は彼女にとっては地雷のようである。ほんの数秒前まで見せていた笑顔は完全に鬼のような形相に変わっている。ここまで顔に出やすいのは非常に分かりやすくて扱いやすいのは分かったが、さすがに怒らせたままでは拙い。

「影片さまからです。掃除を手伝ってくれたお礼、だそうですよ」
 預かりものの菓子を差し出すも、彼女はそれを見つめるばかりで、一向に受け取ろうとしない。貴女が嫌っている己ではなく人畜無害のクラスメイトからの差し入れを受け取るのに、何を躊躇っているのか。少しばかり苛立ってしまい、彼女の手を取って強引に菓子を握らせた。
「人の好意は素直に受け取るべきですよ」

 彼女はただ俯いて、何も言わない。こうして自分の殻に閉じ籠られてしまうと、さすがに何を考えているのか汲み取るのは難しい。
 もしかして彼女は影片みかに対しても苦手意識を持っているのだろうか。本人に声を掛けずに、わざわざ店に出向いて掃除用具を借りて手伝いをするあたり、苦手というよりは嫌われていると思い込んでいるのかも知れない。それでも出来る限りの事がしたくて、わざわざ離れた場所で掃除に勤しんでいたのか。憶測に過ぎないが、そう考えると辻褄が合う。

「遠矢さま。色々と誤解なさっているようですが、わたくしは貴女を試している訳でも、損得勘定だけで貴女と接しているわけでもありません。それはきっと、他の方々も同じだと思います」

 彼女は己の言葉に同意は出来ないとでも言いたげに目を伏せて、こちらへ視線を向ける事もなく背を向けて歩き始めた。これ以上追い掛けても、良い結果には成り得ない。言い過ぎてしまった自覚はある。
 遠矢樹里を生徒会に引き入れるという目的がある以上、彼女が己を嫌おうと何だろうと諦めるつもりはない。彼女が他者からの好意を悉く曲解しているのならば、それをとことん矯正してやるまでだ。

 しかしながら、必要以上に彼女の心の中に介入し過ぎてしまった気がする。だが、さしずめ気まぐれで気性の荒い猫のような彼女を、言い方は悪いがどんな風に攻略していくか考えるのも、不思議とまるで苦ではないのだ。この感情を表現する言葉が見当たらないが、どうしても放っておけない何かが彼女にはあるのだと思う事にしよう。

2017/03/01


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