Mer noire



「樹里さん。あなたは何故、ご自身が教師や副会長から評価されていると思いますか?」
「評価なんてされてないよ」
「あの、質問の答えになっていないのですが」

 単刀直入に言いたいことを言ってしまえばそれで済む話なのだが、いちいちこうやって思わせぶりな言い方をしてしまうのは、きっと、彼女と少しでも多く言葉を交わしたいからなのかも知れない。

「上手く持ち上げて、生徒会に歯向かわないようにしただけでしょ、結局は」

 言葉に棘はあるものの、彼女の表情と声色は至って淡々としている。
 彼女は変わった。狂っていた歯車が上手く回り出したことによって、心にも余裕が生まれたのだ。

「本当に気付いていないのですか? それとも、やはりわたくしには本音は言い難いでしょうか」
「え? そんなことないけど。寧ろかなり本音言ってるほうだと思うし……でも」
「でも?」
「あまり知られたくないことは、極力言わないようにしてるけどね。それは伏見だけじゃなくて、皆に対してそうだけど」

 彼女は己から少し距離を取って、先程転んだ時に制服や膝に付いた砂を軽く払えば、広がる海に視線を移して、ぽつりと呟いた。

「誰かに聞いたんでしょ、私の過去」

 その声は酷く落ち着いていた。彼女が言うように、触れられたくないことなのだろう。だが、その壁を越えなくては、己は彼女に詫びることすら出来ない。

「ええ。以前、副会長さまを問い詰めて聞かせて頂きました」
「問い詰め、って……ていうか副会長も知ってたんだ」
「はい。それで全て合点が行きました。副会長さまや教師たちが何故、早くからあなたを高評価していたのか」

 彼女は己へ顔を向けて、ひどく驚いた顔をした。まさか本当に自身が評価されているという認識がなかったとは。とはいえ、生徒会が裏で彼女の自由を奪っていた以上、そう思い込まれても仕方のないことか。

「……評価されてるって、そういうことだったんだ。でも、どちらにしても私は評価されるに値しない人間だから。副会長も先生たちも、見る目がないね」
「それ以上自虐すると怒りますよ?」
「はあ!? なんで私が伏見に怒られなきゃならないわけ!?」
「あなたがご自身を否定することは、すなわちあなたを評価してくださった方々を否定することと同義ですからね」

 笑みを作ってそう言い切ると、彼女は苦虫をみ潰したような顔をして押し黙った。別に彼女を虐めるつもりはないのだが、つい口が滑ってしまった。
 しかし、このままではいけない。目的も達成することも出来ず、クラスメイトの計らいも無にしてしまう。

「言い過ぎてしまいましたね、申し訳ありません。わたくし、決して樹里さんを責めたいわけではないのです」
「はあ……別にいいんだけどね。伏見の言うことは全て正論だし」

 彼女は小さく溜息を吐けば、再び海へと顔を向けた。

「伏見、謝らなくていいんだよ。謝る必要なんてない。むしろ私の方が散々ひどい態度取っちゃったし。だから、おあいこ」
「樹里さんはきちんと謝られたではないですか。これではおあいこになりません」

 このまま押し問答をしていては一向に話が進まない。意を決して彼女に歩み寄れば、逃がさんとばかりに手を取った。瞬間、彼女はこちらに顔を向けた。困惑の色を露わにしている。

『あまり知られたくないことは、極力言わないようにしてるけどね』

 つい先程彼女が呟いた言葉が脳裏をよぎる。
 彼女の過去は、間違いなく『知られたくないこと』に該当するだろう。果たして、今、己が我を通すことは本当に正しいのだろうか。己の謝罪は、彼女を傷付けてまでする事だろうか。己がただ、楽になりたいが為に。

「……呼び出したのはそっちなんだから、早く用件言ってよ」
「あの……本当によろしいのですか?」
「は!? 今更それ言う? 謝らないと気が済まないって言ったよね?」
「ですが、そんなに『謝らなくていい』と連呼されたり、御辛そうな顔をされると……樹里さんのお気持ちを尊重した方が良いのでは、と」

 己が彼女を呼び出したという事になってしまっている以上、己の発言に彼女が苛立ち、怒るのは無理もない。
 彼女に詫びる行為はただの自己満足であり、単に自分が彼女に許されたいだけなのかも知れない。
 それでも。
 いい加減腹を括らなくては。
 彼女を傷付けることを躊躇っているのではない。彼女を傷付けることで、己自身も傷付く事を恐れているのだ。きっと。

「あなたを呼び出しておいて、随分と勝手な態度を取ってしまいましたね。正直……謝るつもりでいたのに、謝ったことで樹里さんにこれ以上嫌われてしまうのが、恐いのかもしれません」

 己は一体今どんな顔をしてこんな台詞を吐いているのだろう。彼女は目を見開いて、驚きを隠せない表情で己を見上げていた。

「……えっと、なんて言ったらいいか分からないんだけど……って、駄目だ。一応プロデューサーなんだし、しっかりしないとね」
「それとこれとは別問題ですよ。変なことを言ってしまって申し訳ありません」
「ううん、変じゃないよ。ただ、すごくびっくりしただけ……伏見もそんな風に思うことがあるなんて、思いもしなかったから」
「そんなに驚かれることでしょうか? ふふっ、わたくしも人の子ですので」

 淀みない純真無垢な瞳で言うものだから、ついこちらも笑みを零してしまった。一体己は彼女にどんな人間だと思われているのだろう。完全無欠な人格者だと思っているのだろうか。そんな事などあるわけがないのに。

「ねえ、伏見。謝らなくていいとは言ったけど、もし、謝ったことで伏見が楽になれるなら、全然、言って貰って構わないからね」
「わたくしが、楽に……」
「あ、いや、変な意味じゃないの! 私の勘違いだったら申し訳ないんだけど、DDD直前あたりから、ちょっと伏見の様子がおかしいなって思う事が多々あって……それが今回の行動と直結してるなら、むしろ吐き出してくれた方が嬉しい」

 彼女は自然な微笑を浮かべて、そう言った。裏表など一切ない、純粋な気持ちだろう。

「私も、前に伏見に面と向かって謝ったでしょ? あれってね、鳴上くんに背中を押されたからなんだ。楽になれたし、結果的に素直になれて、少しは大人になれたかなって思うこともあって……」

 ゆっくりと落ちていく夕陽が、景色をあたたかく照らす。そのせいだろうか、彼女が慈愛に満ちた笑みを湛えているように見えるのは。

「だから、伏見も遠慮しないで。嫌ったりなんてするわけないでしょ。いや、言葉のアヤで嫌いって言っちゃうことはあるけど……でもそんなの本心じゃないって、伏見なら分かってるよね?」
「えっ、本心じゃなかったんですか?」
「は!? え、ちょっと待って、私てっきり、伏見とは軽口を叩ける関係って思ってたんだけど……」
「冗談ですよ。本当に嫌っていたら、それこそ軽口なんて叩けませんからね」
「もう、馬鹿! 本気にして損した!」

 ついついからかってしまい、彼女は声を荒げたが、まるで怒っていないどころか、楽しそうにさえ見える。
 ふと、こんな何気ないやり取りがまた出来ていることを不思議に感じた。彼女の立ち位置が一気に変わったことで、もう今までの関係には戻れないと思っていたからだ。

 生徒会が彼女のプロデュース業を阻害していたことは、一部の人間の行き過ぎた行為に過ぎない。だが、その事実に気付いたにも関わらず見て見ぬ振りをしていたこともまた、加担していたのと何ら変わらない。
 ――ああ、謝らなければならないことがまた出て来てしまった。今まで通りの関係で居続けたいなんて、烏滸がましい話だ。
 彼女の優しさに甘えてはいけない。やはり、けじめは付けなくては。


 ふと視線を横に逸らした先にある海は、朱の空に呼応するように、青から朱色へ染まっていた。海面を輝かせる陽光が眩しくて、思わず目を瞑りそうになる。

「綺麗だね。こんなところで愛の告白なんてされたら、一生の思い出になりそう」

 視線を戻すと、彼女も顔を海へ向けて、己と同じように目を細めてぽつりと呟いた。

「ここ、ずっと来たいと思ってたんだ。一人だとなかなか来る機会がなくて。だから、誘ってくれてありがとう」
「いえ。愛の告白ではないのが心苦しいですが……」
「いや、されても困るし。プロデューサーとアイドルが付き合ったりしたら駄目じゃん」
「そういうものなのですか?」
「そういうものなの」

 冗談で言ったつもりなのだが、彼女は本気にして真面目な顔付きで答えた。そういうところは変わっていない。

 彼女は変わった。環境も、彼女自身も。
 だが、根本的なところは変わっていない。何も変わっていない。
 案外、己が勝手に彼女は変わったと思い込んでいただけで、実際のところは何も変わっていないのかもしれない。

 勝手に距離を置いて彼女に余計な心労を掛けて、ここ数日の己はどうかしていた。

「樹里さん」
「は、はいっ」
「『嫌ったりなんてしない』と仰ってくださっただけで、弓弦は充分幸せです。……ですが、ご自身の言葉に縛られないでくださいね。わたくしの話を聞いて、嫌うのも、距離を置くのも、全て樹里さんの自由ですから」



 夕陽が少しずつ水平線に沈み、青から朱へ染まった空は、今度は夜の色へと徐々に変化していく。
 話が終わる頃には、眩しかった海も黒く染まるだろう。その時には、もしかしたら彼女は己のことを軽蔑し、本当に嫌ってしまうかもしれない。
 否、嫌われたところでどうという事はない。己は我が主を支える為だけに存在するのだから、極端な話、彼女が主に何らかの悪影響を与えたりしなければ、それで良い。
 その筈なのに、彼女との関係が少しでも悪い方向に変わってしまうことが――この感情を形容する言葉が、残念ながら今の自分には思い付かなかった。





 彼女の過去を知らなかったとはいえ、転入初日に彼女の名誉を傷付ける発言をしてしまったこと。
 それがきっかけで、クラスメイトに非難されたこと。
 それが彼女曰く結果的に良かったこととはいえ、彼女を酷く傷付けてしまったことに変わりはないこと。

「本当に、申し訳ありません。あなたがいくら謝罪は求めていないと言おうと、あなたが積み上げてきた経験を無価値であるかのように言ってしまったことは、許される発言ではありません」
「いいよ、事実だから」
「いいえ。わたくしの見る目が無かっただけです。それこそ、わたくしの発言を許すということは、あなたを評価している方々を否定することになりますからね」
「いや、それは極端すぎでしょ!? 白か黒かで考えなくてもいいんじゃないかなあ……だって」

 過去を掘り返されて怒っているのか、傷付いているのか、辛いのか。それすらも分からない。彼女は至って無表情で、淡々と言葉を紡いだ。

「評価が人それぞれ違うなんて、当たり前だからさ。それは伏見もDDDで分かったはずだよ」
「わたくしが……ですか?」
「そう。fineが良いっていう人もいれば、Trickstarの方が良いっていう人もいる。皆好みはそれぞれ違うんだよ。だから、私のダンスを見てすごいって感じる人もいれば、素人じゃんって思う人もいて当たり前。まあ、すごいっていうのは『好意を持って見たから先入観で良く見えた』だけであって、実際のところは伏見の客観的な判断が正しいと思う」

 そんなことはない、と言おうとした瞬間、彼女は己を見上げて、ひどく悲しそうに笑ってみせた。

「普通の人よりは出来るかもしれないけど、誰もが認めるほど秀でたものではない。だから私は、アイドル養成学校を辞めて、アイドルになるのを諦めて、普通の人生を送ることにしたの」





「……申し訳ありません」
「ああ、ごめん、なんか辛気臭くなっちゃったね。だから謝らなくていいって言ったの。こういう雰囲気になるの分かってたし、人に気を遣わせちゃうの、余計辛いんだよね」

 彼女は片手をひらひらと振って苦笑いを浮かべた。彼女のもう片方の手は未だに己が握っている。解くタイミングが掴めないだけなのだが、ここで放したら彼女に逃げられてしまいそうな気がしていた。異性に強引に手を繋がれるのは不快かもしれないが、話が終わるまでは辛抱して貰おう。

「簡単な話でさ、私は単に才能がなかっただけ。それがちゃんと分かってるのに、無駄な時間を消費したって、家族に迷惑掛けるだけ。だから、これで良かったの」
「無駄ではありません。あなたの人生は、何ひとつ、無駄なことなどありませんよ」
「なんでそう言い切れるわけ? 単に話を聞いただけで、実際に見てきたわけじゃないのに」
「人生は積み重ねです。前の学校での経験があるからこそ、この夢ノ咲で教師や副会長さまがあなたに一目置いているのではないですか? それとも、彼らの目は節穴とでも?」
「もう、どうしてそういう意地悪な言い方するかなあ」

 彼女は大きな溜息を吐いた後、視線を己から外して海へと移した。陽はまもなく沈みそうで、薄紫色の空に月がうっすらと見えている。

「……伏見と話してて、やっと分かったよ。一部の人達が私を評価してる、理由」
「そうですか、それなら良かったです」
「私がこの学院でやるべきこと、それと密接に繋がってたんだ」
「やるべきこと……転入して一ヶ月も経っていないのに、そこまで答えを導き出せているのなら、もう何も迷うことはありませんね」

 励ますつもりで言ったのだが、彼女はそうは受け止めなかったらしい。もう片方の手が、己の制服の袖を摘まんだからだ。

「樹里さん? わたくし、また失言をしてしまったでしょうか」
「ううん、違う……迷うことなんてない、けど、恐いんだ」
「恐い?」
「嫌なことから逃げた私が、私なんかが、誰かを助けたいなんて、無理があるって」

 声が震えている。過去を思い出してしまい、涙が零れそうなのを堪えているのか。やはり、彼女の過去を掘り返す行為は避けた方が良かったのかもしれない。
 だが、今更思っても後の祭りだ。それなら、出来ることはひとつしかない。

「伏見? あ、あの、ごめん! 別に慰めて欲しいとか、そういうつもりじゃなくて!」

 手を解いて、彼女の身体を抱き締めた。第三者に見られたら間違いなく誤解される行為だが、彼女も己に下心がないことなど百も承知だろう。

「ちょっと! 聞いてる!? ていうか正気!? 誰かに見られたらまずいから!」
「痛みを人一倍知っているあなただからこそ、同じ思いをしているかもしれない誰かに寄り添うことが出来、それで救われる方もいると、わたくしはそう思います。それに、一人で背負う必要はありませんよ。わたくしがいます。会長さまもいます。坊ちゃまも、日々樹さまも、副会長さまも、クラスメイトの皆様も。あなたはもう、ひとりではないのですから」

 そう言って彼女の背中を優しく撫でると、次第に己の胸元で彼女の身体が震え出した。鼻を啜る音が時折聞こえ、泣いているのだと分かった。泣かしてしまうつもりも当然なかったのだが。己は彼女を傷付ける行為ばかり、無意識にしてしまう運命にあるのだろうか。

「申し訳ありません。やはり、言うべきではありませんでしたね」
「ち、ちがう、そうじゃなくて……ありがとう……」
「は?」

 まさか感謝の言葉が出て来るとは思わず、素っ頓狂な声が漏れてしまった。ほんの少しだけ手の力が弛み、彼女もそれを感じ取ったのか、己の胸から少しだけ離れて、顔を上げた。至近距離で、目と目が合う。

「だって私、嫌なことから逃げてこの学院に来たようなものなのに、そうやって言って貰えるなんて、思ってなかったから」
「わたくしだけでなく、あなたの過去を知っている人は皆同じことを言うと思いますけどね」
「待って、伏見どこまで知ってるの? というか、ちゃんと事実が伝わってるかも怪しいけど」
「『成績下位者から嫌がらせに遭い、心身共に弱り切って転学を余儀なくされた』と伺っておりますが、副会長さまも教師の皆様も同じ認識でいらっしゃるので、事実に限りなく近いと思いますが」

 きっぱりとそう言うと、彼女は怪訝な顔で小首を傾げてみせた。

「随分と美化されてるね……大体、本当に才能があったら嫌がらせにも遭わないよ。私、才能がないのに何故か評価だけはされてたから、なんであいつが、って思われても仕方のないことなんだよ。それに立ち向かう強さもなくて、自滅しただけ」
「まあ、樹里さんが反感を買う理由は、今の発言でなんとなく理解出来ましたが」
「は?」
「差し出がましいことを言いますが、過剰な卑下は身を亡ぼすだけですので本当に気を付けた方がいいですよ。かく言うわたくし自身もそういうところがあるので、まさに『人の振り見て我が振り直せ』ですね……」
「ちょっと、あのさ、喧嘩売ってる?」

 怪訝な顔など可愛いもので、今や完全に怒りの形相に変わっていた。なんだか良い話の流れになっていた気がしたのだが、どこで発言を間違えたのか。自分語りが拙かったのか、それともその前の忠告が原因か。

「はい、これで話は終わったよね? じゃあ私、帰るからいい加減解放して」
「いえ、もう一つ謝らなければならないことが」
「早くして!」

 もう駄目だ、完全に怒っている。しかしその割には、何の抵抗もなく抱かれているような気がしないでもないが。よく分からないが、とりあえず話は進めても良さそうだ。

「では単刀直入に言いますね。生徒会の一部の人間が、あなたの校内SNSに小細工をしていたこと、実はわたくしも前々から把握しておりました」
「それが何?」
「知っていたにも関わらず、見て見ぬ振りをしておりましたので……樹里さんには申し訳ないことをしたと反省しております。上申あるいは誰かに相談していれば、あなたが苦しむこともなかったでしょう」
「いや、それはどうなのかな」
「はい?」

 彼女は「なんだ、そんな事か」とでも言いそうな、呆気に取られた邪気のない顔になっていた。一体何故怒らないのだろう。個人的には、過去を掘り返されることより、自分の業務を邪魔されていたことの方が、余程許せないことだと思ったのだが。

「いや、弊害が何もない状態のほうが、かえって辛かったんじゃないかなって。生徒会とか何も関係ない環境で結果を出せないほうが、確実にあんずちゃんと比較されて今頃潰れてたんじゃないかな……」
「卑下は良くないと言った矢先にそれですか」
「寧ろなんで伏見はそんなに過大評価できるの!? 私としては、確かに辛い時期もあったけど、今が恵まれてるから全然気にしてないよ。それどころか、会長に生徒会を利用しろなんて言われるし……出来過ぎてて恐いくらいだよ」

 彼女の発言で、今度はこっちが呆気に取られてしまった。超弩級のネガティブ思考かと思いきや、変なところで前向きだ。その前向きさを自己肯定にも分配して欲しいと思うところだが、あまりとやかく言うのは、何も今である必要はない。

「わたくしには樹里さんの思考回路がさっぱりわかりませんが……とりあえず、本当に気にしていないのなら良かったです」
「伏見って変なところで気にするんだね? ここのところ様子がおかしかったのは、そのせい?」
「ええ。わたくし、遊木さまほど技術的なことに詳しいわけではありませんので。本当に生徒会の者が小細工をしたという確証が持てず……なんて言い訳をして、ずるずると隠し続けて来てしまいました」
「うっ……なんか、全然気にしてないこっちが逆に申し訳なくなってきたんだけど……」

 お互い困惑しながら見つめ合って、数秒。どちらともなく根負けして、笑ってしまった。変なのはお互い様だ。己が彼女の思考や行動原理が理解できないのと同様、彼女も己に対して同じことを思っているに違いない。



「おーい! 奴隷ども〜! あまりにも待たせすぎだぞ! このボクが迎えに来てやったから有り難く思え〜!」

 主の声が聞こえて来て、彼女と一瞬目を見合わせた後、共に己たちが来た道へ顔を向けた。こちらに駆けて来る主と、その後ろを追う衣更真緒の姿が視界に入った。

「伏見〜! 遠矢〜! ったく、姫宮がお前らのことを気にして仕事が進まないから、気分転換も兼ねて連れて来てやった……ぞ……」

 距離が近付き、目が合った瞬間、衣更真緒は硬直したかの如くその足を止めた。

「い、いや、悪い! 大丈夫だ! 誰にも言わないから!」
「はい?」
「ほら! 誤解されちゃったじゃん! いい加減解放してよ!!」

 彼女の怒声で、今、己が彼女を抱き締めたままであることに気付いた。とはいえ、下心がないのはお互い重々承知しているし、堂々としていれば良い話ではないのか。そんな風にあたふたすればするほど、誤解される気がするのだが。

「こら〜! 奴隷! 早く帰って来てボクの仕事を手伝えって言っただろ!」
「申し訳ありません、坊ちゃま。ちょうど話も終わりましたので、すぐに戻ります」

 彼女から手を放して、主に向き直ってそう言うと、横にいる彼女から盛大な溜め息が聞こえた。やはり、異性に対して気遣いが出来ていなかったのは否めない。彼女に向かって詫びようとするも、主が先に声を上げて遮られてしまった。

「ねえ樹里、やっぱり今日も忙しい?」
「うーん、ちょっとパソコンを弄って色々作業したい、かな」
「じゃあ生徒会室で作業すればいいんじゃない? 樹里、最近忙しくて生徒会室に来ることもないでしょ? 皆寂しがってるからおいでよ! はい、決まり!」
「えっ、決まり!? ま、まあどこでも作業できるからいいけど……」

 主は満面の笑みで彼女の手を取れば、引っ張って走り出してしまった。拒否する暇も与えないといったところだが、当の彼女は嫌がっているようには見えない。それどころか、彼女は主にめっぽう弱い。

「坊ちゃま、強制してはいけませんよ! 樹里さんも、嫌ならちゃんと断ってくださいね!」

 学院へ向かう主と彼女の後ろ姿に向かって叫ぶも、聞く耳を持たないだろう。先程の彼女ではないが、己も盛大な溜め息を吐いてしまった。
 すると、傍でクラスメイトが視線をちらちらと逸らしながら、何やら言い難そうな素振りで問い掛けてきた。

「……伏見、あのさ」
「衣更さま。坊ちゃまがご迷惑をお掛けしたようで、申し訳ありません」
「いや、それはいいんだけどさ……お前、本当に遠矢とそういう関係なのか?」
「さあ? ご想像にお任せしますよ。では、わたくしも坊ちゃまを追わなければなりませんので」
「何もないんだよな!? 勿体ぶった言い方するなって! 余計気になるだろ!」

 クラスメイトを弄りつつ、主たちを追って砂浜を駆けながら、ふと横目に海を見遣った。
 陽はすっかり落ちて夜の世界が訪れ、夕陽で輝いていた海は漆黒に染まっている。
 彼女との関係が終わってしまうのではないか、なんて覚悟をしていたが、杞憂に終わったことを今更ながら実感し、嬉しさを噛み締めた。

 夜と共に訪れたのは終わりではない。新たな始まりだ。空を見上げれば、月と共に星々が瞬いている。潮の香りを運ぶ夜風が心地良い。ああ、どうしてこんなにも、心が弾むのだろうか。

2018/02/26


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