Fools Rush In
嫌な夢を見てしまった。
夢の内容は覚えてないけれど、嫌な夢という感覚は残っている。
……いや、違う。思い返したくないだけだ。
よりによって、転入初日の夢なんて。
正直言ってあの日の出来事は、前の学校での様々な苦い経験と同じくらい、トラウマだ。だからこそ、こうしてたまに夢に見るのだろう。
傷付いたとか恥をかかされたとか、そういう被害者意識よりも、今となっては調子に乗っていた自分がただただ恥ずかしくて、もう一度転入初日をやり直せるのなら是非したいくらいだ。今の記憶をそのまま持ち越して、自己紹介だってちゃんとはきはき喋って、面白がって彼氏に立候補しますなんてのたまうクラスメイトにも「アイドルと恋愛はしません!」ってきっぱり断って、午後のダンスの授業だって「私はプロデュース科なので、皆さんのダンスを見て勉強させて頂きます」って先生にちゃんと意思表示して。そうすればあんな事態は防げたはずだ。謙虚さを忘れるからあんなことになったのだ。自業自得だ。
ああ、もう、思い出すだけでも顔から火が出そう。私の馬鹿!
後悔と羞恥で頭の中がぐちゃぐちゃになって、つい足をばたばたさせてしまった。すると、白いカーテンが音を立てて開かれ、光に当てられて反射的に目を瞑った。
というか、ここは何処?
「おっ、お姫さまがお目覚めか」
は?
「遠矢ちゃん、もうちょっと寝ててもいいんだぞ」
現実を直視したくなかったけれど、残念ながらもう夢から覚めてしまったので、強制的に現実世界へ戻された。
最悪だ。
ここは保健室。カーテンを開けて呑気な顔でこちらを見ているのは、佐賀美先生だ。保険医だから、ここにいるのは当たり前だ。だからこそ極力保健室には行かないようにしていたのに、どうして私はここにいる?
まだ頭が働かない私をよそに、佐賀美先生はいったん姿を消したかと思えば、手元にスポーツドリンクを携えてすぐに戻って来た。とりあえず、具合が悪いわけでもないのに寝たきりなのも失礼かと思って、上体を起こした。
「はい、水分補給」
「あ、ありがとうございます。というか……すみません」
「ん?」
「私、アイドルでも何でもない、ただの生徒なのに、こうしてご迷惑をお掛けしてしまって」
佐賀美先生からドリンクを受け取って、一口飲んで喉の渇きを潤したあと、自分の不甲斐なさに軽く溜息を吐いた。先生は黙っている。やっぱり呆れられた。そうだよね、あんずちゃんはきっとしっかりやっているのだし。先生から目を逸らして俯いた瞬間、頭をわしゃわしゃと撫でられた。
「ひゃっ! な、何するんですか!」
「アイドル科だろうとプロデュース科だろうと生徒は生徒。上も下もない。わかったか?」
「……」
「返事は」
「は、はいっ」
つい反射的に返事をしたら、先生は満足したのかにんまりと良い笑顔を浮かべて、手を離してくれた。あの乱暴な撫で方、絶対に今の私の髪はぐしゃぐしゃになっている。まあ、寝癖もついているだろうから、どちらにしても後で直すけど。それにしたって高校二年にもなる生徒を教師が普通撫でる?
「遠矢ちゃんの課題は、まずはアイドル科の生徒と対等に接するってところだな」
「え? 対等に接してますけど」
「対等だと思ってたら、『アイドルでも何でもないただの生徒』なんて言葉は出て来ないぞ」
「それは……事実だと思います。プロデュース科の生徒がアイドル科の生徒より目立つなんて本末転倒ですから」
私は当たり前のことを言っている。と思ったのだけど、先生にとってはそうではないらしい。急に神妙な面持ちになって、私が寝ているベッドの空いた位置に腰を下ろせば私の顔をじっと見てきた。
「そうやって自分を押し殺していたら、出来ることも出来なくなっちまうぞ」
「はあ……ですが、私はプロデュース科の生徒であって、アイドル科の生徒ではありません。プロデュースの勉強をしに通っているのであって、皆と青春する為に転入したわけじゃありませんし」
「何言ってんだ、学校は青春するところだろ」
は? 何言ってるんだこの人。
という台詞が喉まで出掛かったけど、なんとか堪えた。相手は教師だし。とはいえ、どうやら顔に出ていたらしく、私の顔をまじまじと見た佐賀美先生はやれやれと溜息を吐いた。なんで溜息吐かれなきゃならないわけ!?
「遠矢ちゃん、お前たちはまだ学生だ。社会人じゃない」
「でも、やっている事は社会人と同じだと思います。中には、既に芸能活動をしている生徒だっています」
「それもそうだが……遠矢ちゃん、あまりにも上を見過ぎてないか?」
図星だ。
上ばっかり見ていて自分は駄目だって落ち込むの、疲れない? そんな台詞をこの十数年間、一体どれだけ言われただろう。
「で、でも。下を見て『自分はまだマシ』って安心するのって、相手に対して凄く失礼じゃないですか?」
「違う違う。そうじゃなくて。自分のことは一旦置いといて、アイドル科の生徒の話だ」
そう言われて、やっと先生の言いたいことに気付いた。私は何も見えていなかった。私はプロデュース科の生徒としてやるべきことをやらないとって、いつも口ばっかりで、肝心なことは何も出来ていない。
何故かって、自分のことしか考えていないからだ。人のために何かをしようとしていない。ここで言う『人』とは、『アイドル科の生徒』だ。
皆が皆、はじめから完璧なわけじゃない。周囲の手助けがあれば、一気に輝く人もいる。私がするべきことは、その手助けだ。今はまだ上に行けない生徒たちが、自分みたいな落ちこぼれにならないように、夢を諦めることのないように。
「佐賀美先生! 私、やっと目が覚めました」
「おっ? どうした急に」
「自分のやるべきことが、やっと見えました。こんな簡単なことなのに、何も見えてなかったなんて、私……」
「先生の言いたいことが伝わったか。良かった良かった」
「でも」
散々彼に使うなと言われた禁止語句を散々使っているけれど、そんなの気にしていられない。形から入るんじゃなくて、成功を少しずつ積み重ねていけば、きっと自信は自然とついていくのだ。
「やっぱり私、明星くんたちが生徒会に盾突くのは、支持できません。校則という決められたルールに則るべきです」
先生はわざとらしくがくっと項垂れた後、肩を竦めた。なんとなく察してはいたけれど、やっぱり佐賀美先生は明星くんたち側の人間なのか。まあ、2-Aの担任だし、思い入れもあるか。
「……だけど」
先生が顔を上げて、思い切り目が合ってしまった。先生が期待するようなことやご立派なことは言えないけれど、私にも、私なりの正義がある。
「現状のルールの弊害で、実力があるのに上に行けない生徒たち、そもそも場数をこなすこともさせて貰えない生徒たち。そういう人たちが、少しでも成長出来るよう、私なりに出来ることをしていきたいです。きっと、それは、私が出来る数少ないことです」
先生の顔を見据えて、宣言した。先生は一瞬目を丸くした後、目を細めて優しい微笑を浮かべた。この学院が共学あるいは女子高なら、今の微笑でファンになる生徒は多いに違いない。さすが、一世を風靡した元アイドルだ。今がどうであれ、そこは認めざるを得ない。
「うんうん、ちゃんと分かってて先生安心した。ま、頑張り過ぎて空回りしても良くないし、遠矢ちゃんの場合はもうちょっと肩の力を抜いたほうが、何事も上手くいくんじゃないか?」
「そうは言っても、椚先生も仰っていましたが、私、いつの間にか生徒会寄りの存在になっていたみたいで……ある程度は模範的でいないと」
「あ〜、それな、多分生徒会が事前に根回ししてたからだと思うぞ」
「それは何となく気付いてました」
そう、副会長が何の結果も出していない私を評価しているなんてそもそも有り得ないし、英智さま――会長がやけに優しかったのも、姫宮くんが可愛いのも、全部仕組まれていたことなのだ。最後はなんか違う気がするけど、まあいい。
そもそも大前提として、転入初日に嫌な思いをさせられたせいで避けていた相手が、何度も接触してきたこと自体が、裏で何かが動いているのだと誰だって気付く。
「みんな接触の仕方が不自然というか強引でしたし。特に伏見……くん」
「伏見? ああ、そういや」
彼の名前を出した途端、先生が思い出したように何かを言い掛けた。けれど、保健室の扉がノックされて、先生が何を言いたかったのか聞くことは叶わなかった。
……この後、否が応でも知る羽目になるのだけれど。
「失礼します。あの、遠矢はまだ――おっ、いたいた!」
保健室に現れたのは衣更くんだった。入ってすぐ私の姿を確認すると、人の良い笑みを浮かべて駆け寄って来た。
「よっ、遠矢」
「衣更くん。って、な、何?」
出会い頭にいきなり小銭を握らされて、あたふたしてしまった。
「パフェ奢って貰ったけど、ジュースより値も張るし、やっぱりちゃんと返しとこうと思ってさ」
「別にいいのに……って、あれ衣更くんが食べてくれたんだ。ありがとう。あんな美味しいパフェ、処分するなんて罰が当たるしね」
「ははっ、遠矢って律儀だよな〜」
「衣更くんもそうじゃん。それに比べて明星くんなんて、初対面で『お金ちょうだい!』だよ? 同じユニットなんだし、ちゃんと注意して――あ」
慌てて片手で口を塞いだけどもう遅い。もうTrickstarは解散して、衣更くんは紅月に移籍したっていうのに。頭では分かっていても、Trickstarと紅月のあの戦いの舞台をじかに見て、悔しくて泣いてしまった身としては、どうしてもあの時のイメージが離れない。だからと言って、うっかり言っていいことと悪いことがある。
「衣更くん、ごめん、間違えた」
「いや、そんなんで謝るなって。気にしてないから」
「気にしてないならいいけど。……あ、そういえば」
昨日、伝言を頼まれたのを思い出した。今日は一日中眠気との戦いだったし、まともに頭が働いていなかったからちゃんと話せなかったけど。今なら言える。周りに生徒会の人もいないし。
「昨日、明星くんが言ってたよ。『サリ〜は何も悪くない、Trickstarと生徒会の板挟みで苦しんでたと思う』って」
言った瞬間、衣更くんは酷くショックを受けたように目を見開けば、その視線は徐々に地へ移っていき、苦しそうな顔で俯いた。
どうしよう、まずい事を言ったつもりはないのだけれど。いや、まさに明星くんの言う通り、板挟みで苦しんでいるのだろう。それこそ、今も。
「え、ええっと、サリ〜ってあだ名可愛いね! 私も呼ぼうかな? いや、そんなことしたら朔間くんにまた白い目で見られちゃうね……」
何を言っているんだ、私は。引き攣り笑いを浮かべながら、そういえば肝心なことを把握していないことに今更気付いた。
「あのさ、衣更くん! 私なんで保健室にいるのか分からないんだけど、も、もしかして私、どこかで倒れた!?」
「倒れてない倒れてない! だからそんなに顔面蒼白になるなって!」
私が大きな声で言うと、衣更くんは漸く我に返って、慌てて両手を横に振って否定した。
という事は、本当にどうして私はここにいるんだろう。食堂で彼と話してて、その後で衣更くんが来て。それから……記憶がない。倒れてはいないって事は、居眠りか。起こしてって言ったのに。いや、起こしても全然起きなかったとか? 情けないにも程がある。
「ごめん。衣更くんがここまで運んでくれたんだよね」
「え? あ、いや、俺ではない」
「じゃあ誰? 伏見?」
「えっと……その……」
「誰?」
衣更くんは珍しくしどろもどろになっている。何? 何があったの? 若干苛立ちを覚えた私に、答えを教えてくれたのは佐賀美先生だった。
「伏見だ」
「ほら、やっぱり伏見じゃん。衣更くんなんで隠したの?」
「ええっと……」
「遠矢ちゃん、真実を知りたいか?」
「えっ、先生何ですか急に!?」
「ちょっ、まずいですって本人に伝えるのは!」
「衣更くんも何なの!? 何!?」
世の中には知らない方が良いこともあるけれど、現実はそう甘くはない。私はこの数秒後に顔から火が出そうになるほど恥ずかしい思いをすることになるのだった。
馬鹿じゃないの!? 馬鹿! 馬鹿!! 有り得ない!! DDD直前でレッスン室が借りれなくて廊下で練習する生徒がたくさんいるなか、なんてことをしてくれたの!? あの男は!!
佐賀美先生に聞いた瞬間、恥ずかしさのあまり挨拶もろくにしないで保健室を飛び出して。今こうして廊下を走っている間も、すれ違う皆が私に注目してる。ああ、転校生が走ってるなって、ただ見ているだけじゃない。私は聞き逃さなかった。「あっ、姫だ」「お姫様抱っこされてた方の転校生だ」「遠矢さん、fineのあいつとそんな仲だったのか……」とか、とか……もう! そんな仲ってどんな仲!? もう、信じられない!!
あいつ、絶対に許さない!!
「伏見!! いるんでしょ!? 開けて!!」
fineが使っているレッスン室の扉を強く叩いてはみたけれど、そもそも学院トップのユニットが使う部屋は、当然防音設備もしっかりしている。どんなに叩いたって叫んだってびくともしない。でも、このまま帰るのは腹の虫が治まらない。無意味だと分かってはいるけれど、どうしても文句のひとつは言ってやりたい。いっそレッスンが終わるまで待とうか。いや、そもそも私今日は早く帰るようにって言われていて、それに衣更くんが食堂に来たのは、椚先生が私を探していたからだ。まずい、怒られる前に椚先生に会いに行かないと。怒りに任せて優先順位を間違えてはいけない。
漸く冷静になってレッスン室に背を向けた瞬間、扉が開く気配がした。
こういう時、一番最初に扉を開くのは、多分、彼だ。
冷静さはほんの数秒で失われた。すぐ椚先生の元に向かうけれど、文句だけは言いたい。言ってやる。私は再び振り返って相手の顔もろくに確認しないで、声を上げた。
「も〜! 伏見!! なんってことしてくれたの!? 馬鹿じゃないの!?」
「…………」
「………あ」
私の目の前にいたのは彼ではなかった。更に言うと、姫宮くんでもないし会長でもないし日々樹先輩でもない。
「遠矢……か?」
「ええと……氷鷹、くん?」
なんでこの人がここにいるんだろう。隣のクラスの委員長、そしてTrickstarのリーダーでもある氷鷹北斗くんが、目を見開いて呆然として私を見下ろしていた。
あ、そういえば、氷鷹くんはTrickstarからfineに移籍したんだっけ。私は移籍の手続き書類を見ていないから、正式に移籍したのかまだ暫定で口約束のようなものなのか分からないけれど、ここにいるという事は、つまり、そういう事なのだろう。
「すまん、伏見ではなく俺で」
「は!? い、いや、こちらこそごめんなさい……人違いで……さっきのは忘れてください……」
「それにしても随分と通る綺麗な声だな。あの噂もあながち嘘ではないのかもしれん」
「あの、よく分からないけど、とにかくさっきのは忘れて欲しいんですけど……」
私の話聞いてないし! この人、ご両親とも超有名人なだけあって、明星くんとはまた違ったオーラがあるし、綺麗な顔立ちだけど凛々しくて男らしさも兼ね備えていて、さすが生徒会に反抗出来る力を持っているのも納得できる……のだけど、もしかしてちょっと天然入ってる?
「おや、樹里さん。随分と腰が低いですね。わたくしに対する態度とあまりに違い過ぎて、さすがにショックなのですが……」
「は?」
わざとらしく悲しそうな顔をして、氷鷹くんの後ろにしれっと現れた彼を見た瞬間、しおらしい気持ちなど吹き飛んでしまった。
「あんな恥ずかしいことしといて、よくそんなこと言えるよね」
「恥ずかしいこと……とは? わたくし、樹里さんを辱めることなど何ひとつした覚えがないのですが」
「は!? 充分辱められたんですけど!?」
「おい、伏見。遠矢に何をしたんだ」
私と彼が言い合ってるところに氷鷹くんが真顔で割り込んで来て、二人して少し驚いてしまった。
「伏見……まさか、遠矢と不純異性交遊を」
「はい?」
「いや待って何の話!?」
明らかに話が明後日の方向に行っている。2-Bにこんな大真面目な生徒はいないから、どう対応していいのか分からないし、そもそも不純異性交遊なんて言葉、普通出て来ないと思うけど!?
「ねえロン毛、フジュンイセイコーユーって何?」
「例え姫君の頼みでも、それに答えたら私は執事さんに殺されてしまいますねえ〜」
「え〜? 何〜?」
姫宮くんと日々樹先輩の声が聞こえて来て正気に戻った。このレッスン室はfine専用だから、当然他のメンバーもいるわけだ。そもそも彼は会長に暇を貰ったとかで、放課後私に構ってくれたのだし。こんな事になるなら構って欲しくなかったけど。
姫宮くんの言葉を聞いた瞬間、彼は血相を変えて慌てて主の元へ駆け寄って、何やら苦し紛れの言い逃れをしている。いい気味だ。だいぶ気が紛れてすっきりしたものの、すぐ傍で氷鷹くんが心配そうに私を見ている。
「あの、氷鷹くんが思っているようなことは、絶対にないから」
「そうか……だが、辱めというのは一体どういう事なんだ? あれだけ怒るというのは余程の事だろう」
「ふふっ。北斗、それはね」
何やらわいわい騒いでいる姫宮くんたちをよそに、生徒会長が緩慢な足取りでこちらに歩み寄って来て、スマートフォンの画面を私たちに向けた。
「ほら、校内SNSでちょっとした話題になってるよ。fineの伏見弓弦が2-Bの転校生『樹里ちゃん』をお姫様抱っこして校内を歩いてた、って」
「はああ〜!? ふ、伏見〜っ!!」
校内SNSでそんな話をするな!と該当の生徒たちに説教したいけど、原因を作ったのは紛れもなく私、というより彼だ。人が寝ているのをいいことに、好き勝手して! まだまだ言い足りないと思って彼の元に向かおうとしたら、氷鷹くんに腕を掴まれて、危うくバランスを崩しそうになった。
「遠矢。身体は大丈夫なのか?」
「はい?」
「お姫様抱っこなんて、余程の事がなければしないだろう。それこそ、倒れたとか」
氷鷹くんの言葉を聞いて、今度は姫宮くんが血相を変えてこちらに駆け寄って来た。
「ええっ、樹里倒れたの!? 大丈夫!? やっぱりメガネにこき使われてるの!?」
「えっ、いや、違」
「大丈夫だよ、桃李。敬人も敬人なりに樹里ちゃんの身体を気付かって、あまり残らせないようにしていると言っていたからね」
「うう……会長がそう言うなら信じるけど……じゃあどうして樹里は倒れたの?」
目を潤ませて心配そうにこちらを見つめる姫宮くんを見て、まさか放課後にパフェを食べてお腹がいっぱいになったせいかついつい居眠りしたなんて、口が裂けても言えるわけがない。
「心配しなくても大丈夫ですよ、坊ちゃま。食堂でパフェを食べて居眠りした樹里さんを、保健室までお運びしたまでです」
口が裂けても言えないことをしれっと言われてしまった。
彼はいつの間にかご主人様の傍に立っていた。本当に、この男はどこまでも人を馬鹿にして! 満面の笑みを浮かべながら答える彼に、完全に怒りが頂点に達しそうになった。
けれど。
それよりも、本日の醜態がよりにもよってfineの皆様にバレてしまったことの方が大問題だ。皆、DDDに向けて頑張っているのに。もう嫌だ。恥ずかしい。なんでこんな事に。
「ごめんなさい! みんな大変な中、呑気にパフェなんて食べて……」
もう誰の顔も直視できなくて深々と頭を下げた。瞬間、私の髪を誰かが撫でた。
「いいんだよ、樹里。おまえはアイドル科じゃないんだし、食事制限なんてしないで、好きなものを食べればいい。毎日生徒会の手伝いとか色々頑張ってるご褒美と思えばいいでしょ?」
「姫宮くん……」
その優しい声色に、ゆっくりと顔を上げたら天使の笑顔がそこにあった。ここは楽園か。
「その代わり、DDDが終わったらボクにもパフェを食べさせてね!」
「うん、もちろん!」
「いけません、坊ちゃま。樹里さんも坊ちゃまを甘やかさないでください。また坊ちゃまの前でデレデレとだらしない顔をされて、公私混同も甚だしいですよ」
「は!? デレデレなんてしてないし!」
折角幸せな気分に浸っていたのに、見事に台無しにされてしまった。この男はいつもいつも横槍を入れるわ小言は絶えないわ、常に傍にいたらノイローゼになりそうだ。文句も言ったし(相手はまるで堪えてないけれど)早く退散しよう。
「じゃあ、そろそろ行くね。用もないのにこれ以上居座ってたら、また誰かさんにネチネチ言われそうだし」
「えっ、樹里さん用もないのに来たんですか?」
あんたに文句を言いに来たの!と言いたかったけど堪えた。もうこれ以上痴態を晒したくない。よりによって会長――英智さまの前で。日々樹先輩は元々私の存在なんてどうでもいいだろうし良いとしても、学院の権力者の前で己の馬鹿さ加減を露呈するのは極力避けたい。今だって、笑ってはいるけど心の中でどう思われているかは分からない。
「ねえ樹里、良かったらボクたちの練習、見ていかない? 今日は暇だから来てくれたんでしょ?」
「えっと、そのお誘いは凄く嬉しいんだけど、椚先生のところに行かないといけなくて」
「ああ、その件でしたら、わたくしがここに来る前に職員室に寄って椚先生に事情を説明して来たので、わざわざ出向かなくても大丈夫ですよ」
「は!? 食堂でパフェを食べて居眠りしたって言ったの!? よりによって椚先生に! 馬鹿〜!!」
もう嫌だ。本当に涙が出て来そうだ。ぽかぽかと身体を叩いてやろうかと思ったけど、相手は同級生である以前にアイドルだ。万が一身体に傷を付けるようなことがあってはいけないので嘆きの声を上げるだけに留めた。私だって一応分別は付く。
「弓弦、ちょっと樹里ちゃんをいじめすぎじゃないかい?」
「そんなつもりはないのですが……というか樹里さん、勝手に誤解しないでください。椚先生には『随分とお疲れだったので保健室へ連れていった』としか言っていませんよ。校内SNSの書き込みを見ればわたくしの言葉が嘘ではないと分かるでしょうし、帰宅してから一報入れるだけで充分でしょう」
会長に窘められたせいか、彼はやっと私を弄るのをやめて事情を説明してくれた。最初からそうしてくれればなんてことないのに。私だって好きで怒ってるわけじゃないし出来れば怒りたくない。
「まあ、弓弦が弄りたくなる気持ちもなんとなく分かるけど」
「か、会長までなんてこと言うんですか!」
「ふふっ、ごめんごめん。渉からも樹里ちゃんの話を色々と聞いているから、なんとなく、ね」
私の与り知らないところで一体何の話がされているんだ。気になるけれど、多分聞いたら立ち直れなくなりそうだから、追求はしないでおこう。
「そんなに悲しそうな顔をしなくても、悪いことは言っていませんよ。まあ、ネガティブ思考の妖精さんが聞いたらショックを受けるかもしれませんが! あははははは!」
「はい、聞きたくないので結構です……」
「渉も茶化したら駄目だよ。さて、僕たちのレッスン室に足を踏み入れたからには、笑顔で帰って貰わないとね」
追い打ちをかける日々樹先輩の笑い声にに凹んでいると、会長がこちらに満面の笑みを向けて言って、思わず背筋がぴんと伸びた。笑顔で帰って貰うって、何だろう。
「椚先生のところに行かなくていいなら、桃李の願いを叶えることは出来るよね?」
「姫宮くんの願い……あ! 本当にいいんですか? 部外者の私が練習を見させて頂くなんて」
「つれないことを言わないの。僕がいない間、毎日練習を見に来てくれていたんだよね。それはもう部外者とは言わないよ」
まさに天使のような微笑で言われて、もう、断るなんて出来なかった。そしてとどめを刺すかの如く、日々樹先輩が傍に来て耳元で囁いた。
「姫君、フラワーフェスが終わってあなたが来なくなってから、寂しそうにしていましたよ」
「えっ、そうなんですか? 信じられない」
「妖精さん、あなたは決して不要な役者ではありませんよ。私はあなたのことを、右手のひとがわざわざ役目を与えずとも、勝手に動いてくれる存在だと思っていますけどね」
「は? よく分かりませんが……」
よく分からないどころかさっぱり分からないけれど、多分、貶してはいない。と思うことにしよう。でも、彼は私がここにいてもいいんだろうか。
「ねえ伏見、私ここにいてもいいの?」
「会長さまが復帰された今、fineの決定権は全て会長さまにあります。わたくしに口を出す権利はありません」
「はあ……なんかごめんね」
「どうして謝られるのですか? 是非、坊ちゃまの練習の成果を見てあげてくださいまし」
「うん、そうする。伏見のこともちゃんと見るからね」
何気なく言ったのだけれど、彼は目を丸くして驚いた表情をしてみせた。別に変なことを言ったつもりはないのだけれど。
「ほら、フラワーフェスの練習の時言ってたじゃん。当日自分のことを見て欲しい、って。練習の時も見たほうが良かったんだなって思ってさ。アドバイスなんて何も出来なかったけど」
「ああ、そういえば……つい最近のことなのに、随分と懐かしく感じますね」
「本当にね。あの時は、ありがとうね」
彼は今度はきょとんと小首を傾げてみせて、なんだか本当に私が変なことを言っているのかと不安になってしまった。お礼を言われて困惑するということは、きっと、その理由が分からないからだ。
「あの頃の私、ひとりぼっちで、頑張って笑顔作ってたけど毎日つらかったんだ。そんな時に、居場所を作ってくれたのは伏見だから」
「…………」
「だから、ありがとう」
彼はなんだか気まずそうに私から目を逸らして、返す言葉を選んでいるようだった。なんでだろう。副会長の命令で私に接触していたのはなんとなく分かっているから、それで困惑しているんだろうか。私にしてみたら、事情はどうであれ彼がしてくれた事は絶対に無駄ではなかったと思っているから、この事に関しては感謝しかないのだけれど。それと日々の小言は別問題だし。
「おい奴隷! ぼけっとしてないで練習するぞ!」
「申し訳ありません、坊ちゃま。というかわたくしは奴隷ではないと何度言ったら分かるんですか」
姫宮くんの可愛らしい怒声で話は終わり、結局彼が何を考えていたのかは分からなかったけれど、とりあえず、私もこうして素直にお礼を言えるようになったのは、多少は精神的に成長したと思っていいだろう。自分を肯定していかないと駄目っていうのは、それこそ彼が教えてくれたことだし。
ふと、氷鷹くんが練習に合流する様子がないことに気付いて、顔を覗き込んだ。やっぱりと言ったらなんだけど、どこか居心地が悪そうだ。
「氷鷹くんは、練習に参加しないの?」
「ああ。普段はそれなりにしているが、俺はDDDに出場しないからな。下手に首を突っ込めば、四人のフォーメーションを乱してしまうだろう」
「そうなんだ。勿体ない……けど時間もないし仕方ないか」
「勿体ない?」
「うん。だって、Trickstarのステージの氷鷹くん、凄く輝いていたからね」
考えも無しに言ったのだけれど、氷鷹くんは眉を顰めて酷くショックを受けた顔をして、私から目を逸らした。保健室での衣更くんに対してといい、またやってしまった。迂闊な発言が多過ぎるし、やっぱり私、プロデューサーに向いてないのかな。
「こら〜! 樹里! 無駄話してないで世界一可愛いボクを見ろ〜!」
「あっ、ごめんごめん! ちゃんと見る!」
DDDまで、あと僅か。
その華やかな舞台で、まさか全戦全勝の彼らの敗北を目の当たりにするなんて、私は夢にも思っていなかった。
2017/12/02
[ 18/39 ][*prev] [next#]
[back]