What Ever Happened



 色々あって、高校二年目の春にこの夢ノ咲学院に転学した私は、今日から新たな制服を纏い、新たな環境で学校生活を送ることになった。私ともう一人、同じように他校から転校して来た女の子と共に、来年から新たに設立される『プロデュース科』のテストケースとして、アイドル科の教室を借りて学ぶのだ。

「よろしくね、あんずちゃん。プロデュース科は私たちだけだし、ふたりで一緒に頑張っていこうね」

 職員室で顔合わせしたもう一人の生徒、あんずちゃんと当たり障りのない会話を交わしたけれど、彼女は緊張しているのか表情が硬かった。まあ、無理もないか。プロデュース科なんて実際何するのって話だし。そもそもこの夢ノ咲学院は、アイドル達が自分で仕事を取ってきたり衣装の調達などをしているみたいだし、プロデュースなんてしたこともない学生が出来ることなんてあるんだろうか。

 不安だけど、学院側だって考えがあるのだろうし、それなりにお膳立てはあるはずだ。何事もやってみなくては分からない。不安になるのは壁にぶち当たってからでいい。
 そんな風に余裕綽々でいられたのは、あんずちゃんと別れて2年B組の教室に足を踏み入れるまでの、ほんの短い間だけだった。




 教室に足を踏み入れた瞬間、頭が真っ白になった。
 ちゃんと考えてきた自己紹介の挨拶も、何もかも全部頭から飛んでしまった。
 呆然と立ち尽くしていると、担任の先生がどうした?と声を掛けて来て我に返った。

「あの、先生。このクラス、女子はいないんですか?」
 先生に、アイドル科が男子だけなのはこの学院の基本中の基本の情報のはずだと驚かれた。それは分かっていたけどそうじゃない、と私は弱々しく頭を振った。
「だって、プロデュース科の設立を機に共学になるって。……あ! アイドル科の女の子は新入生だから、一年にしかいないんですね。あはは、私てっきり同じ学年に女の子がいるって勘違いしちゃってました」
 共学になるのは来年の話だと返されて、絶句した。
「うそ……」
 先生に、遠矢は見た目と違ってうっかりしてるんだなあと笑われたけど、笑い事じゃない。

 信じられない。アイドル科に女子が一人もいないなんて。
 この校舎にいる女生徒は、私と、隣のクラスになったあんずちゃんだけだ。
 どうして。どうしてこんな事に。


 教壇の前に立って、改めて教室内を見渡した。
 当然ながら、目の前にいる生徒たちは選ばれし者だ。

 夢ノ咲学院なんて、昔は凄かったらしいけど今なんて全然……だし、他のアイドル養成学校のほうが断然評判は高い。
 ただ、この学院は今ちょうど過渡期だとも聞いている。プロデュース科の設立も、この学院が昔の栄光を取り戻すための一環なのだと。

 正直言って、甘く見ていた。
 私なんて何の役にも立たない。プロデュース科なんて名前だけで、そんなご立派なこと、出来るわけがない。

 学院側でお膳立てしてくれるだろうなんて甘いことを考えていたけれど、そもそも正式に設立されたわけではなく、今年度はあくまで『ものの試し』だ。学院側が失敗だと判断すれば、プロデュース科が正式に設立することはなくなるだろう。
 そうなれば、無力な私なんて確実に路頭に迷る。これから過ごす一年間は全て無駄になる。前の学校を捨ててここに来たことも、すべてが無駄になってしまう。

 遠矢、大丈夫か?という声と同時に肩を叩かれて、我に返った。
 びくりと思い切り肩を震わせて、先生の顔を見上げたら、どうやら助けを求めていると思われてしまったらしい。先生は皆に向かって「男しかいなくてショックだそうだ」なんて言い放った。教室は瞬く間に笑いの渦に飲み込まれた。
 誰もそんなこと言ってない! いや、ショックを受けてることは確かだけれど!
 転入一日目どころか挨拶前にして、光の速さでクラスメイトに悪印象を植え付けてしまったんじゃないのか。最悪だ。最悪すぎる。もう嫌だ。帰りたい。

 ほら遠矢、適当でいいから自己紹介しなさい、と先生に笑いながら小突かれた。仕方ない、なるようになれ。弱々しい足取りで黒板の前に行って、チョークで乾いた音を鳴らしながら名前を書いた。緊張して線は歪んで、おまけに斜めってるし。いつもはそれなりに綺麗に書ける字も、今日に限っては酷い。

 とにかく早くこの場を逃れたい。そんな思考回路になってしまって、名誉挽回しようだとか、せめてこの場は取り繕うとか、そういう事はすっかり頭から抜けてしまっていた。
 くるりと振り返ってあらためて教室内を見回したら、なんだか涙が出て来そうになった。勘弁してよ、これから喋るっていうのに。

「は、初めまして、遠矢樹里と申します。……ええっと……右も左も、何もかも分かりませんが……精一杯頑張りますので、えっと、あの、その……よろしくお願いします」

 深々と頭を下げて一礼。鼻の奥がつんとした。自分でもはっきりと分かるくらい、今の私の声は涙声だった。絶対、面倒臭い、ウザイ奴だって皆に思われた。たかだか自己紹介ごときで泣きそうになってるなんてコイツ大丈夫かって。私だって、なんで泣きそうになってるのか分からない。もう、頭の中が滅茶苦茶だ。

 先生に背中をぽんぽんと軽く叩かれて、漸く頭を上げた。多分ひどい顔をしているであろう私を見ても、先生は嫌な顔ひとつしないで笑みを湛えてくれていた。色んな生徒がいるから、私みたいな駄目な奴も見慣れているのかもしれない。一先ず、先生に迷惑を掛けてはいけないという目標がひとつ出来た。

 指定された暫定の席に歩を進めている途中で、居眠りから目覚めたらしき生徒が「ぐだぐだすぎでしょ……」と呟いて、どう考えてもさっきの私の自己紹介にもなっていない挨拶のことを言っているのだと、恥ずかしさのあまりまたしても泣きそうになってしまった。





 一時間目の授業が終わるや否や、私の席にどっと生徒が押し寄せてきた。ドラマや漫画でよく見る転校生の恒例行事だ。当事者になったのはこれが初めてだけれど。

 遠矢さんってどこの学校から来たの? どこに住んでる? 学院の近く? プロデュース科って、前の学校でそういう事やってた? やっぱり何かの専門学科だよね? 前の学校もアイドル養成学校? もしかして、遠矢さんって実は元アイドルだったり? いや、遠矢さん可愛いし。ていうか……遠矢さんって彼氏いる? いない!? じゃあ俺立候補してもいい? 何って、遠矢さんの彼氏候補に――

「おーいお前ら、その辺にしとけって。ほら、遠矢泣きそうになってるだろ〜。初日から女子泣かせるなっての」

 こっちが答える暇も与えてくれないほど、複数の生徒から質問責めに遭って思考がフリーズしていた最中、救いの手が差し伸べられた。散れとばかりに私を取り囲む生徒を片手で払った後、文字通り私に救いの手ならぬ片手を差し伸べた赤毛の少年は、人懐っこい笑顔を向けてきた。それだけで、なんとかこの学院でやっていけそうだと思ってしまうくらい、彼は輝いて見えた。

「俺は衣更真緒。一応クラス委員長やってるから、困ったことがあったら何でも言ってくれよ」

 まさに今困っていたし、助けを求める前に助けてくれるなんて。差し出された手を握ってありがとう、と言うと周囲から野次が飛んできた。衣更抜け駆けすんなとか、そういうんじゃないって!とか、そんな声が飛び交っているうちに自然と手は解けて、衣更くんの顔と視線は周囲の生徒に移っていた。まあ私もそんなつもりはないし……と少しほっとしていると、すぐ横で殺気を感じて反射的に身体がびくっと震えた。一体何なんだ。

「ちょっと、あんた」
 恐る恐る顔を向けると、透き通るような白い肌に紅い双眸を光らせた、どこか人間離れしているような美しい男の子が目の前にいた。
「は、はい」
「ま〜くんは誰に対しても優しいだけだから、勘違いしないで」
「……は?」

 とりあえず敵意を向けられていることは分かる。けど、何を言っているのか瞬時に理解できなかった。勘違いも何も、そりゃあクラス委員長なんだから、誰に対しても優しいだろうし、ましてや転入生に対して親切にするのは委員長の仕事の一環だと思うし。ていうか、一体いつ誰が何を勘違いしたっていうの!?

「チッ、うるせーな。自己紹介ひとつ満足に出来ねえ女に何群がってんだか」
 更に、教室の端から物凄く傷口を抉る発言が飛んできた。
 うるさいのはそっちだ! 私だって、アイドル科がまだ共学じゃないってちゃんと前もって認識出来ていれば、脳内シミュレーションではばっちりだった自己紹介だって、一切噛まずに実行出来たはずなのだ。

 ……いや、違う。
 普通に考えれば、今年から共学になると勘違いしていても、この学年のアイドル科に女子が存在することは有り得ないと、少し考えれば分かるはずだった。
 ――ああ、私は本当に馬鹿だ。新しい環境に舞い上がり過ぎて、様々な事を見落としていた。こうなるべくしてなったのかも知れない。そう思うと、批判も甘んじて受けるべきなのだと思うしかなかった。





 やっと昼休みが来た。プロデュース科とは名ばかりで、今年はまだテスト運用だ。アイドル科の校舎で、アイドル科のクラスに混じって一日の授業をこなす。授業内容はアイドル科と同じだ。事前にある程度聞いていたからまだ良かったけれど、それでも慣れるには相当時間がかかりそうだ。

 そういえば、隣のクラスのあんずちゃんはどうしてるんだろう。やっぱり私と同じで気疲れしてるよね。この一年間、女子は私たち2人だけなのだし、交友を深めるならこの昼休みしかない。この調子だと放課後も別行動になりそうな感じだし。
 善は急げだ。早速隣のクラスに行ってあんずちゃんをお昼に誘おう。クラスメイトたちのランチの誘いを遠慮がちに断って、足早にA組へ向かった。

 けれど、あんずちゃんとお昼を共にすることは叶わなかった。
 私が声を掛けるより先に、同じクラスと思われる男子たちと共に食堂へ向かう彼女の後ろ姿が目に入ったからだ。

 ……まあ、そうだよね。周りが放っておくわけないよね。




 ひとりぼっちで教室に戻るのも気が引けて、とりあえず食堂に向かった。事前に学院の見学も済ませていたし、どこに何があるかも全部把握していたはずなのに、いざ目的地に行こうとしたら思いのほか道に迷ってしまった。転入初日だし、別に迷ったって何がどうってわけじゃないんだけど、食堂に辿り着くまでの間に結構な人数の生徒に私が右往左往する姿を見られてしまい、またしても気が滅入ってしまった。共学だったら、きっとこんな変な注目の浴び方をすることもなかったのに。

「遠矢さま」

 ……さま?
 混雑する食堂内を彷徨って、漸く空いている席に着くや否や、言われ慣れない呼称で声を掛けられた。

「ご迷惑でなければ、相席してもよろしいですか?」
「あ、はい、どうぞ」

 生徒や教師にしては言葉遣いが場にそぐわない。かと言って事務の人や用務員さんだとしても、生徒に対してさま付けなんてしない。じゃあ一体誰なのか、と一瞬思ったけれど、相手の姿を認識して即座に解決した。この学院の制服を着ていたからだ。

 向かいに座った男子は、他の目立つ子たちみたいな華美さとはまた違う、ただそこにいるだけで場の雰囲気が凛とするような、不思議な魅力を湛えていた。短く切り揃えられた清潔感のある髪、どこか憂いのある瞳……あ、泣きぼくろあるんだ。見た目は同年代だけど、随分と大人びた印象を受けた。言葉遣いだけではなく、彼の雰囲気自体がとでも言うべきか。

「あの、遠矢さま。あまり凝視されると、食事し難いのですが……」
「あっ、ごめんね。見惚れちゃって、つい……」

 私は何を言ってるんだ。
 案の定、目の前の男子は言葉を失ってるし。馬鹿じゃないの、私。相手は友達のきょうだいでも憧れの上級生でもバイト先のちょっと気になる男子でもなんでもない、れっきとしたアイドル候補生だ。綺麗な顔立ちで当たり前。私が見惚れてしまったのも当たり前。でも、これからプロデュース科の生徒としてやっていく以上、私はいわばアイドルの関係者になる。公私混同なんて絶対にやってはいけない。同じ学院の生徒に対して「かっこいい〜」なんて口が裂けても言ってはならないのだ。

「ごめんなさい! 今のは忘れてください! というか、聞かなかったことにしてください……」
「かしこまりました、他言無用という事ですね」
「はい……本当にすみません、私、これでも一応プロデュース科なのに、アイドル科の人に変な事言っちゃって」
「変な事……ではありませんけれど、慎んだほうが賢明でしょうね」

 ああ、転入初日からこんなことを言われてしまうなんて。こうやって思ったことをうっかり口にしてしまうのは私の悪い癖だ。直さないと。

「遠矢さまのような可愛らしい方に、例え冗談でも『見惚れていた』なんて言われたら、勘違いする輩も出て来るでしょうし」

 初日ぐらいは何事もなく過ごせると思ったけど、そんな訳がない。まあでも落ち込んでいても仕方ない。お弁当食べて元気出そう。今回の転学で家族には迷惑を掛けたから、これ以上迷惑を掛けるのも嫌で、せめてお弁当ぐらいは自分で作ろうと思って早起きして頑張ってみたけど、こうして改めて見ると、全体的に茶色いし女子が作ったお弁当とは思えない。

「おや。そのお弁当、遠矢さまの手作りですか? お弁当箱も随分と可愛らしいですね、ふふっ」

 そういえばあんずちゃんはどうしてるんだろう。あんずちゃんの周りにいた男子たちが食堂に行こうって言ってたから、ここにいるんだろうけど。どこで食べてるのかな。いや、会ったら会ったで気まずいか。向こうは同じクラスで楽しくやってるだろうし、私が突然声を掛けたら水を差すみたいで嫌だし……うん、このまま一人でいるのがいい。私がベタベタ付き纏うせいで、あんずちゃんが同じクラスの子たちと仲良くする時間がなくなったりしたら、それこそどうなのって思うし。

「遠矢さま」
「は、はいっ」

 突然大きな声で呼ばれて、変に裏返った声で返事をしてしまった。急にどうしたんだろう。

「わたくしの話、聞いていましたか?」
「えっ、あ……えっと……」
「結構ですよ。わたくしのつまらない話など、どうぞ聞き流してくださいまし」

 どうしよう。怒らせた。
 声色は穏やかだし、顔は笑っているけれど、内心怒ってるって分かる。

 こういうタイプは、苦手だ。
 例えこっちが悪いとしても、腹が立ったなら、はっきり言うなり顔に出すなりすればいいのに。
 ……まあ今回は、話を聞いていなかった私が悪いけど。

「……ごめんなさい」
「どうぞお気になさらず。貴重な休息時間に面白くもない話など聞きたくもないでしょうし」

 うわ。面倒な奴。
 これは何を言っても『ああ言えばこう言う』みたいな感じで、聞く耳を持たないパターンだ。
 こんな奴とは距離を置き……たいけど、一応プロデュース科だし、違うクラス、違う学年の生徒ともそれなりに上手くやっていかないと。初日から『2年B組のプロデューサーは人の話もろくに聞かないヤツ』なんて噂を立てられたら溜まったものじゃない。
 というか、私だけが言われるならまだしも、あんずちゃんまで一緒にされて被害が行ったら大変だ。剰え私とあんずちゃんの区別が付いていない人が勘違いして、あんずちゃんがそういう態度を取ったなんて言いふらす可能性だって無きにしも非ずだ。駄目だ、そんなの絶対駄目。

 ――ここはなんとしても、汚名返上しなくては。

「あ、あの!」

 と、声を上げたものの、目の前の男子の名前が出て来ない。
 本当は事前に、アイドル科全生徒の名前と顔写真と所属ユニットぐらいは把握しておきたかったのだけれど、学院側から機密事項だからと断られてしまっている。どうせ最初から出来ることなんて限られているのだから、せめて転入前に基本的なことは全て把握しておきたかったのに。大体、事前に名簿さえ手に入っていれば、アイドル科はまだ共学にはなっていないことにも気付けたし、彼の名前だって思い出せたはずだ。

 こうやって脳内で御託を並べたところで、彼の名前を思い出す以前に元々知らないので時間の無駄だ。聞こう。そして、聞く前に自分から名乗るのは自己紹介における基本ルールだ。

「あの、私、遠矢樹里っていいます。クラスは2年B組で」
「ええ、存じておりますよ」
「あ」

 そうだ。だって遠矢さまって呼んでたじゃん。何やってるの私の馬鹿!馬鹿馬鹿!

「あっ、ええと、その」
「わたくしの名前ですか?」
「……はい」
「2年B組、伏見弓弦と申します」

 2年……B?

「わたくしなど、他の皆様に比べたら未熟も未熟、存在感など皆無ではございますが。プロデューサーさま、これからどうぞご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します」

 うわ。上手く言い表せないけど、いちいち刺々しい。なんなのコイツ。大体、名簿も顔写真も渡されていない状態で午前中だけ過ごして、クラス全員の顔と名前覚えるなんて無理だって! プロデュース科ならそれぐらい出来て当たり前っていうなら、私は今すぐ退学しないといけないレベルの落ちこぼれじゃないか。

 転入して半日も経っていない現時点で早くもやっていけない気持ちになってしまったけど、駄目だ、ここで下手な態度を取ったらあんずちゃんにまで被害が……とりあえず引き攣った笑みを作って「こちらこそよろしくね」と返した。同い年なんだし敬語じゃなくていいでしょ。ていうか、なんで馬鹿丁寧な敬語で喋ってくるんだろう、この人。余程育ちがいいのか。

「あの、伏見くん。別に敬語使わなくていいから」
「ですが、職業柄どうしてもこのような喋りになってしまうのです」
「職業柄?」
「ええ。わたくし、1年B組の姫宮桃李さまの執事を務めさせて頂いております」
「執事!?」

 嘘、だって同い年なのに。お帰りなさいませお嬢さまとかそういうヤツでしょ? でも、嘘でしょって言えない説得力が彼にはあった。やけに大人びた雰囲気も、凛とした佇まいも、丁寧すぎる口調も、言われてみれば成程、と納得せざるを得ない。

「そんなに驚くことでしょうか」
「うん、驚く……私みたいな平凡な家庭では、執事が存在するなんて考えられないから」
「大したことはしておりませんよ。こうして、坊ちゃまの付き人として転入し、普通に学校生活も送っておりますし。ああ、申し遅れましたがわたくしも転入して来たばかりなのです」
「伏見くんもそうなんだ! ああ、良かった。私、もう、何もかも分からなくて不安で。同じ境遇の人がいるだけでもほっとした」

 伏見くんの話を聞いて、なんだかやっと一息吐けた気がする。それにしても、付き人なのに転入が許可されるなんて、その、姫……ええと、坊ちゃまとやらは余程権力があるのだろう。夢ノ咲がいくら昔ほど凄くないと言ったって、定員割れなんてことは当然なく、選ばれた人達しか入れない。転入なんて、普通に試験を受けるなら更に難関だ。
 大したことはしていないなんて言っても、私がしてきたような普通の高校生のバイトとはわけが違うだろうし、転入試験に合格するレベルを身に付ける暇なんてないんじゃないか。かといって、学院側も素人を簡単に転入学させるなんてしないだろうし、やっぱり余程強力なコネクションがあるのだろう。

 そんな風に自己解決してしまったけれど、この時の私は、目の前にいる伏見弓弦という男の子が、執事としての役割も完璧にこなし、アイドルとしてのスキルもプロ同然に身に付けている、とんでもない人間だなんて気付けるはずもなかった。

「同じ境遇と言うなら、わたくしよりも隣のクラスの転校生さんのほうが、共感できることも多いのではないですか?」
「うっ……ええと……あんずちゃんは、えっと、あんずちゃんっていうんだけどね。同じクラスの子と楽しくやってるみたいで、輪に入っていけなくて……あ、ごめん、愚痴りたいわけじゃなくて、何ていうか、その」
「無理して話そうとしなくても、大丈夫ですよ」

 絶対呆れられた。伏見くん、優しそうに微笑んでるけど、内心馬鹿にしててもおかしくない。

「まずは同じクラスの生徒と交友を深めるのは自然の流れですし、気に病む必要はないと思いますよ。隣のクラスの転校生さんとは、徐々に距離を縮めていけば良いかと」

 お気遣い頂きありがとう。でもその優しさが今はとても辛い。だって、あんずちゃんはすぐにクラスの子と馴染めているのに、私なんて全然だ。皆珍しがって質問責めにしていただけで、飽きれば離れていくのは目に見えている。それだけなら別にいい。問題は、私がプロデュース科だということ。アイドルの役に立たなければ、意味がないのだ。役立たずと思われたら最後、私の居場所はなくなる。

 前の学校とは、やることも、求められることも、全然違うけれど。
 もう、前の学校と同じことは繰り返したくない。

「遠矢さま、聞いてませんね?」
「は、はい!」
「良い返事ですね」

 あ、また怒らせた。もう、何やってるんだ私は。多分、だけど。これってきっと構ってくれてるんだよね。たまたま空いてたから座ったのかと思ったけど、もしかして、転校初日にしてひとりぼっちでお昼を食べる羽目になった私を見て、可哀想に思ったからわざわざ向かいに座ってくれたのかも。駄目だ、そういう解釈をするとそれはそれで落ち込む。

「歴史あるアイドル科への転入ならまだしも、新設されたばかりのプロデュース科となれば、不安に思うのも無理はありません。泣きそうな顔になってしまうのも、わたくしが話しているのに目も合わせず下を向いて考え事をしてしまうのも、仕方のないことです」
「いや、あの、ごめんなさい」
「――ですが」

 何を言われるんだろう、と無意識に身体が強張った。内心びくびくしながら続く言葉を待っていたら、思いのほか、伏見くんはとても穏やかな微笑を見せた。

「不安なのは、恥ずかしながらわたくしも同じです。使用人という身分で恐れ多くもこのような学科に転入する運びとなり、右も左も分からず、毎日が新しいことの連続です。それでも、わたくしは坊ちゃまの支えになるために、前向きに、日々精進していきたい次第です。ですから、遠矢さま。貴女も」

 伏見くんはそう言ってがたりと立ち上がると、手を差し出してきた。

「右も左も分からない者同士、一緒に頑張りましょう」

 最初は馬鹿にされてると思った。言葉はなんだか嫌味だし、ああ、舐められてるなって。この学校でも同じ目に遭うんだなって。私はどこに行っても駄目な人間なんだって。
 そう思ったけど、撤回しよう。今、私に向けられている優しい言葉と微笑は、きっと裏表なんてなくて、彼の本心なんだって、そう思い込んだっていい。

「うん、一緒に頑張ろうね、伏見くん」

 彼に倣って立ち上がり、差し出された手を取って握手を交わした。その手はとてもあたたかくて、嫌な感情を持ってしまった自分を恥じてしまうくらい温もりに溢れていて、自分でもなんだかよく分からないけれど涙が込み上げて来そうになった。

 私、この学校では、今度は、なんとかやっていけそうだ。

 そう思った瞬間、その思いは見事に打ち砕かれた。

 食堂の外が何やら騒がしい。マイクで実況している声も聞こえる。これってもしかして。
 悠長に会話している場合じゃないのではないか。名残惜しいけど、伏見くんと繋いでいだ手を離した。

「ねえ、伏見くん。外が騒がしいのって、ドリフェスってやつ? 昼休みもやってるんだね」
「ええ、一応は。ドリフェスといっても、『B1』と呼ばれる非公式の野良試合でしょう」
「非公式? それって校則違反にはならないの?」
「違反ですよ」
「えっ」

 伏見くん、随分しれっと言ったけど、つまりこの学院はこういった校則違反が日常茶飯事のように行われているのか。
 なんだか居ても立っても居られなくて、お弁当を一気にかき込んで平らげれば、立ち上がって伏見くんに簡潔に告げた。

「ちょっと見てくるね。この学院が今どんな状態なのか、ちゃんと知っておかないといけないから」

 席を離れる前に、伏見くんが食べていたお弁当が視界に入った。だいぶ減っていたけれど、それでも色取りのバランスが良いのは見て取れた。私が作った茶色いお弁当とは雲泥の差だ。お母さんが作ったのかな。本人が作ってたりして。だとしたら、私って一体。
 ……お弁当、もう作って来るのやめよう。





 行き着いた先は、野外の仮設ステージだ。

「何、これ……」

 心の声が口に出てしまう程、驚愕したし、呆然とした。
 視線の先では、大乱闘が繰り広げられていた。腕章を付けているのは、恐らく生徒会か。校則違反でライブを行った生徒を取り締まっているのだろう。腕章を付けていない生徒たちが逃げ惑う。これでは、まるで学生たちの戦争だ。

「まるで戦争ですね」
「ひっ」

 いつの間に傍にいたんだ。伏見くんは当たり前のように私の隣に佇んでいて、溜息混じりに私の心の声を代弁した。

「嘆かわしいですが、これがこの学院の日常です」
「日常……私、この学校では平和にやっていけると思ったのに……」
「おや、以前の学校も荒れていたのですか?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど……」

 伏見くんは何気なく聞いただけのようで、追究はしなかった。有り難い。過去を詮索されるのは苦手だ。

 私は伏見くんみたいにご主人様を補佐するために転校して来たのではなく、前の学校で色々あったから転校して来たのだ。その『色々』については、正直誰にも触れて欲しくなかった。教師は皆情報共有しているけれど、学院長の話では緘口令を敷いてくれているみたいだ。

 そんな経緯で、転校先のこの学院では、今までの私じゃない、新しい私の新しい生活が、平穏な日々を送ることができると思っていたのに。これでは、別の意味で精神的に疲弊しそうだ。

「遠矢さま」
 突然肩に触れられて、びくりと身体を震わせてしまった。わざわざ肩に触れて話し掛けるということは、どうやら私は伏見くんに『声を掛けただけでは気付いてくれない、人の話を聞かないヤツ』と認識されてしまったらしい。

「あちらでスタンガンを振り回しているのが、わたくしの主、姫宮桃李さまです」
「スタンガン!?」

 また更に物騒な単語が……勘弁してよ、と思いながら注視すると、桃色の髪の小柄な麗しい男の子の姿を見つけた。

「あの子がひめみやとうりくん、ね。覚えた」
「ふふっ、愛らしい姿とは裏腹に末恐ろしい方でしょう」

 愛らしいのも末恐ろしいのも同意するけど、そうだねって呑気に返せる状況ではないと思うんだけど。いくら校則違反とはいえ、武器ひとつ持たない生徒にスタンガンを使うのは、それこそ違反じゃないのか、と突っ込みたくなるけれど、生徒会なら何をやっても許されるのか。

 と思いきや、

「あれ、なんか恐い人にスタンガン取り上げられてない? あっ、倒れた」

 紅い髪をした、背の高い、恐そうな男の人――制服を着ているので生徒、恐らく三年生だと思うけど、私と一歳違いには見えない――が、姫宮くんからスタンガンを取り上げたと思えばもう片方の手を伸ばし、瞬間、姫宮くんは後手に倒れていた。遠くてよく見えなかったけれど、暴力を振るわれたようには見えない。軽く押されてバランスを崩したとか?

 ご主人様が大変そうだけど、その従者はというと。
 隣にいる伏見くんをちらりと見遣ると、盛大な溜息を吐いて呆れてはいるものの、気が気ではないだろう。私のことは放っておいていいから、ご主人様を助けに行っても良いのだけれど。

「伏見くん。姫宮くんのこと、助けに行かなくていいの?」
「坊ちゃまは正式な生徒会の役員ですが、あくまで従者であるわたくしは部外者です。勝手に手出しするわけにはいきません。ただ、坊ちゃまに本当に身の危険が迫るようであれば、我が身を犠牲にしてでもお守りする次第ですが」

『坊ちゃま』、か。本当に執事なんだなあ、なんて頭の悪い発言をしそうになったけれど、なんとか堪えた。

「今のこの状況は、姫宮くんの身の危険ではないの?」
「大丈夫ですよ。生徒会が優勢ですから」

 再び見渡せば、この場は完全に生徒会が制圧していた。逃げ切った生徒も何人かいるみたいだけど、腕章を付けていない生徒たちが生徒会の人達に取り押さえられている。

「これで一件落着……なの?」
「とりあえずは。午後の授業が始まる前に片が付いたようで何よりです」
「生徒会の人たちも大変だね。皆アイドルなんでしょ? 内輪揉めなんてしてたら、ますます他校との差が開くばかりだと思うけど……あ」

 しまった。うっかり悪口みたいなことを言ってしまった。

「あ、いや、今のは違うの。なんていうか、その」
「いえ、遠矢さまの仰る通りです。学院側もそれを分かっているからこそ、プロデュース科を実験的に作ったのでしょうね」
「そんな……私にどうこう出来る問題じゃないよ……」
「まあ、会長さまが復学すれば、ある程度秩序は保たれると思いますので、悲観することはありませんよ」
「会長さま? ……あ、この学校の生徒会長って、確か入院中だよね」
「ええ」

 学院がこんな状態だと、復学しても余計体調が悪化するんじゃないだろうか。まだ会ったことのない生徒会長に同情せざるを得なかった。それを考えると、学院の頂点である生徒会長不在の今、学院を統制する生徒会の人たちはさぞ大変だろう。

「姫宮くん、まだ一年生だよね。入学したばかりなのに大変すぎだね……」
「坊ちゃまは会長さまに憧れてこの学院に入学されましたので、生徒会の一員として働けるのはむしろ本望ではないでしょうか」
「そうなんだ。凄いなあ……」

 私の言葉を聞いた伏見くんは、主を褒められて嬉しいのか、目を細めて微笑んだ。

 校則なんて完璧なものではないし、当然、不満に思う生徒だっているだろう。だからといって、校則違反をして、こうして貴重な休み時間を生徒会の人たちから奪って、それで一体何になる? じゃあ他に何か代替案はあるのかと聞かれても、あいにく私には思い付かないけれど。
 ああ、なんだか前途多難だ。この学院の改革のためにプロデュース科が設置されたのだとしたら、あまりにも荷が大き過ぎる。





 不安な気持ちは、午後の授業で一気に打破された。私は瞬く間にクラスの注目を浴び、称賛されてしまったからだ。これは自意識過剰ではなく、紛れもない事実だった。

 プロデュース科は専門科目がまだ設けられていないから、アイドル科と一緒に同じ授業を受けることになっている。専門科目のダンスの授業で教師に「遠矢も見ているだけじゃなくて実際にやってみるか?」と無茶振りされて、クラスメイトの前で拙いダンスを披露する羽目になってしまった……のだけれど、これが意外にも好評だった。

 やっぱり遠矢さんってアイドル養成学校にいたんじゃないの?と室内がざわつき、一瞬血の気が引いた。けれど、それはすぐに払拭された。

「ほらほら! 女の子の過去を詮索する男子は嫌われるわよ〜!」
「な、なるちゃん、関わらん方がええって」
「大丈夫よ、みかちゃん」

『みかちゃん』と呼ばれた男子が横で制止するのをやんわりと断って、『なるちゃん』と呼ばれた男子が、まるでランウェイを歩くみたいにこちらに来て、小首を傾げて微笑んでみせた。その仕草だけで、大半の女子は恋に落ちてしまうんじゃないだろうか。

「触れられたくないことだから、朝の自己紹介でも前の学校のことは一切口にしなかったのよね」

 口調が女性的だからか、あまり警戒せずに相手の言葉を素直に聞くことが出来た。無言でこくこくと頷けば、『なるちゃん』は満開の花みたいに笑顔になって、それだけでこの室内の空気が一気に明るくなったように感じた。

 先生が小声で申し訳ない、と謝ってきたけれど「ただ、本当に何も知らない素人と思われて舐められるよりは、ある程度出来ることはアピールしておいた方が良い」と何やら言い訳めいたことを言われて、緘口令とは一体何だったのかと不安になってしまった。
 そんな私の気持ちは特に配慮されることもなく、先生は「早速遠矢もレッスン指導やってみるか?」と皆に聞こえるように言ってきた。

「はーい! アタシ、遠矢さんの指導受けたいでーす!」

『なるちゃん』が満面の笑みで片手を上げると、我も我もとクラスメイトが立候補してきた。指導なんてご立派なこと出来るわけがないけれど、多分、先生も、クラスの皆も、転入初日の私に出来ることなんて大してないことぐらい分かっているはずだ。尤もらしいことを言いながら、その都度先生に顔を向けてアドバイスを求めての繰り返しで、午後はあっという間に過ぎていった。




 なんとか転入初日を無事終えて、ほっとした。良い人たちばかりで本当に良かった。前の学校とは全然違う。昼時の野良試合だとか、問題は色々あるけれど、がむしゃらにやっていればいつか道は開けるはずだ。
 せめて、生徒会長が復学する時までには、もう少し風紀が落ち着いているといい。そのために、私に出来ることは何かあるだろうか。待っているだけじゃ駄目だ、出来ることを探さないと。

 挨拶もほどほどに教室を出ようとした瞬間、昼時お世話になった人物の姿が目に入った。

「伏見くん!」
「遠矢さま、お疲れ様でした。ふふっ、すっかり人気者ですね」
「からかわないでよ、みんな気を遣ってるだけだって」

 そうは言ったけど、正直この時の私は明らかに調子に乗っていた。前の学校の記憶なんて消したいと思っていたけれど、当時の辛く惨めな経験も無駄ではなかったのなら、過去の私も報われるというものだ。

「伏見くんから見て、どうだった? 私、ちゃんと出来てたかな」
「ええ。特にダンスなんて、未経験の素人なのに素晴らしかったですよ」

 伏見くんは悪意なんて一切感じさせないような微笑でそう言ったから、即座に反応できなかった。

「では、わたくしはこれから坊ちゃまをお迎えに参りますので、失礼します」



 伏見くんが教室を去り、場は一気に静寂と化した。というより、静かになったのは伏見くんが喋った瞬間だったかもしれない。いや、タイミングなんてどうでもいい。全員ではないけれどそれなりにまだ生徒が残っているのに、誰も喋ろうとしない。この現状が意味することは、ここにいる皆が、伏見くんの言葉を聞いていたということだ。

『未経験の素人なのに』

 伏見くんには、本当に私が『未経験の素人』に見えていたのだ。あれだけクラスの人たちが「アイドル養成学校にいたんじゃないの」「過去を詮索するな」と言っていたのに、あの話の流れを踏まえた上で、私のことをそう判断したのだ。
 それが私に相応しい、世辞も気遣いも遠慮もない、紛れもない事実なのだろう。

 ダンスの授業で私に声を掛けてきた『なるちゃん』と、彼の傍にいた『みかちゃん』。あの二人に言われるならまだ話は分かる。
 ついさっき思い出したのだけど、二人ともどこかで見たことがあると思ったら、『なるちゃん』は雑誌にも頻繁に載っている現役モデルの『鳴上嵐』で、『みかちゃん』は夢ノ咲では珍しくテレビに出たこともある程の実力を持つ『Valkyrie』のメンバー『影片みか』だ。
 そういう、既に学院の外でも精力的に活動し、結果を出している人たちに言われるなら分かる。
 でも、伏見くんって、ご主人様の付添で転入したって。右も左も分からないって。素人なのはそっちじゃないか。

「あーあ、言われちゃったね」

 静寂を破ったのは、朝方に何故か敵意を表してきた男子だった。

「まあ事実だし。本当に勘違いしちゃう前に、自分の身の程に気付けて良かったんじゃない?」
「おい、やめろよ凛月」
「ま〜くんは黙ってて。優しさだけじゃ本人の為にならない」
「遠矢、じゅうぶんすぎるほど出来てただろ。伏見の目がシビア過ぎるだけだ」
「それが当然だと思うけど」

 衣更くんに『りつ』と呼ばれた男子は、至って淡々と言葉を返すと、私の傍に歩み寄ってきた。

「転校生」

 目の前で立ち止まり、威圧するように紅色の双眸が私を見下ろす。

「あんたの前の学校がどれだけ凄いところなのか、あんたが何をして来たのかは知らない。知る気もない。でも、俺たちを舐めないで」
「舐めてなんか、」
「どうせ夢ノ咲なんて他校に比べたら落ちぶれてるって思ってる癖に」
「思ってない!」
「俺たちはあんたを持て囃すための存在じゃない。あんたはここでは俺たちを輝かせるための裏方。そこんとこ、忘れないで」

 分かってる、そんなこと。
 私は目立ちたいなんて思ってない。そういうのが苦手で、上手くいかなくて、仲間たちに迷惑を掛けて、両親の期待を裏切って……だから、前の学校を捨てて、この学院に来たのだ。普通科に転入するはずが、何故か新しく出来るプロデュース科への転入になってしまったけど。学院の提案に両親が大賛成して、両親が喜ぶならいいやって思って、承諾したけど。
 結局、私は何も変わっていない。変わらない。変わることなんて出来ないんだ。進路を変えたところで、負け犬は一生負け犬で、落ちこぼれで、優れたものなんて何ひとつなくて……



「一体何の騒ぎですか?」

 私の声が廊下まで響いていたのか、眼鏡を掛けた教師が教室に入って来たけれど、事情を説明する人は誰ひとりいなかった。当たり前だ。調子に乗っていた転校生を窘めただけの話で、騒ぎでも何でもない。それより、昼みたいな校則違反をどうにかする方が教師にとっては重要だ。

「なんでもないです」

 そう言った私の声は涙交じりで、あれ、どうしたんだろう。泣きたくなんてないのに。当然、教師は言葉通り受け止めるはずがなくて、「事情は後で聞きます」とだけ言って、強引に私の手を取って、引きずられるように教室を後にした。

 教室を出る寸前、「うざ…」という声が聞こえた。『りつ』くんの声だったけど、きっと、教室にいる生徒全員、同じ気持ちなのだろう。





 連れて来られた先は、生徒指導室だ。生徒指導。別に悪いことをしたわけでもないのに。転校初日にして問題児扱いされてしまうなんて。

「遠矢さん。一体何があったんですか」
「本当に何もないんです。ただ、皆のお世辞を真に受けて調子に乗っていた私を、クラスの子が嗜めてくれただけで、本当に、何もないし誰も悪くないんです」
「全く……何もないなんて嘘を吐くのはやめなさい」

 教師は小さく溜息を吐けば、眼鏡をくいっと上げて私の顔を見つめた。互いに見つめ合う状態になってしまった。
 この教師も随分と整った顔をしている。もしかして、元アイドルか。アイドルを辞めた大人が、自身の経験を活かして若い人材を育成するのはよくある話だ。

「ああ、言い遅れましたね。私は椚章臣、生徒会の顧問をしています。生徒指導も担当していますので、こうして遠矢さんの悩みを聞くのも仕事のひとつですよ」
「生徒会……あの、椚先生。私のことはいいです。ただでさえお忙しいのに、余計な時間を取らせるわけにはいきません」

 今こうしている間も、校則違反をするような人たちが、また何か画策しているかもしれない。私のちっぽけな自尊心が砕かれたことなんかに、生徒会の先生を付き合わせるわけにはいかない。

「相談したくないのであれば無理にとは言いませんが、自分自身で解決できますか?」
「はい。私なんかのことよりも、学院の風紀を正すことを優先して頂きたいです」

 言った瞬間、後悔した。椚先生の顔色が変わったからだ。よりによって転入初日に、しかも生徒指導室に連れて来られるような転校生が言うべきことではない。

「も、申し訳ありません! 出過ぎたことを言ってしまいました。まずは自分のやるべきことを一生懸命やりますので」
「いえ、構いません。昼の乱闘騒ぎを見れば、誰もがそう思うでしょうし、遠矢さんの言うことは尤もです」
「それでも、すみません……あの、生徒会長は今入院中だと伺っています。生徒会の皆様は本当に大変でしょうし、もし私に何か出来ることがあれば、是非お手伝いさせて頂きたいです」

 随分と意識の高いことを言ってしまった。プロデュース科なんて名ばかりの新設科で、まずはそれらしい事をするところから始めないといけない段階なのに。

「あ、あの、また出過ぎたことを……」
「いえ、寧ろ感心しましたよ。転入初日に学院の風紀や生徒会のことを気に掛けるなんて、なかなか出来ない事です」

 生徒会の顧問の先生にそんな言葉を掛けて貰えて、嬉しくなったけれど、ついさっき調子に乗って痛い目を見たのだから、常に謙虚でいないと。

「遠矢さん。自分の問題は自分で解決しろとは言いましたが、助けを求めてはいけない、という意味ではありませんからね。何か困ったことがあれば、いつでも相談してください」

 そう言った椚先生は、ほんの少しだけ口角を上げていた。愛想が良いわけではないし、とても厳しい印象を受けたけど、それが今の私にとってはかえって信頼感を覚えた。
 愛想良く、虫一匹殺さないような穏やかな笑みを浮かべておきながら、こちらの心を抉って来るような人より、ずっと信頼できる。
 そう、椚先生のような人や、衣更くんや鳴上くんのように徹底して社交的な人、言い難いことを皆の代わりにはっきり言ってくれる『りつ』くんのような人、そういう裏表のない人のほうが、温和な態度を取っておきながら後々傷付けてくる人より、ずっといい。




 転入初日から間もなく、私はあの『彼』が、学院トップのユニットに所属していることを知った。
 生徒会長率いる、学院最強のユニット『fine』。
 彼と彼の主は、絶対に誰も受からせる気はないと噂された加入試験に、あっさりと合格してみせたのだ。
 彼の主は分かる。生徒会長に憧れてこの学院に入学したというのだから。でも、彼自身は。ただの付添ではなかったのか。執事をやっているというのだし、主の世話をする為に転入したのではなかったのか。主の『ついで』で合格させるほど、この学院だって甘くはないだろう。

 私は彼に嘘を吐かれていたんだ。
 あれは謙遜じゃない。行き過ぎた卑下だ。本当に右も左も分からないような人が、学院トップのユニットにあっさり入れるわけがない。
 彼の話を額面通りに受け取った私が悪いのは確かだ。だからといって、何も転入初日で本当に何も分からない私に対して、栄光を約束されている人間が言う言葉ではない。

 ああ、本当に嫌だ。
 私は『彼』――伏見弓弦のことを、嫌いになってしまった。

2017/11/19


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