Storm



 私は姫宮くんにひとつ嘘を吐いた。何も分かっていないなんて真っ赤な嘘だ。あえて無知なふりをしていた方が、面倒事に巻き込まれないし生き易いから。
 結局私は、嫌なことから逃げているだけだ。この夢ノ咲に来る前と何も変わっていない。転学して環境が変われば私自身も変われると思ったけれど、本人に変わる気がないのに自然と変われるわけがない。



「わあっ、樹里お金たくさん持ってるね! ちょうだい!」
「はあ!?」

 明星くんと共に近くの公園に行って、自販機で缶ジュースを買おうと小銭を出したら、とんでもないことを言われて思い切り素が出てしまった。いくらこの学院は変わり者が多いといえど、常識と節度は弁えて欲しいのだけれど。
 それに、明星くんの父親ってあの有名な――若くしてこの世を去って、明星くんも見えないところで大変な思いをしているとは思う。とはいえ、一般家庭の私よりはお金もあるのではないか。

 ちょうだいと言われたからと言ってお金を渡しはしないけど、ジュースを奢るくらいなら必要経費だ。多分、話は長くなりそうだし。適当に二人分買って、明星くんにひとつ差し出した。

「はい、どうぞ」
「えっ、いいの?」
「いいの?って……奢って欲しかったんじゃないの?」
「ううん。俺、キラキラしてるものが大好きなんだ!」

 ますます訳が分からない。多分、相手の思考回路を理解しようと考えても、こちらが疲弊するだけだ。天才とは得てして変わり者なのだと思えば腹も立たない。そう、例え初対面で呼び捨てにされようとも。私が記憶喪失を起こしていない限り、下の名前で呼び捨てにされる程の関係では全くないはずなのに。

 どちらともなくベンチに腰掛けて、プルタブを開けて缶ジュースに口を付けた。瞬間、寒さを感じて身震いしてしまって、この季節ならホットの方が良かったかと後悔した。ちらりと横目で明星くんを見たら、美味しそうに飲んでいるので、まあ失敗ではなかったと思うことにしよう。

「……じゃあ明星くん、本題だけど」
「良かった! 話、聞いてくれるんだ」
「聞くだけだから。私はきっと……ううん、絶対、明星くんの期待に応えることは出来ない。だから、話を聞いたところで何も出来ないから。ごめんなさい」

 明星くんはジュースを飲むのをぴたりと止めて、私の顔をじっと見つめてきた。そんな態度を取られると、心が揺らいでしまいそうになるけれど、人には出来ることと出来ないことがあるのだ。力の有無とか、立場とか、様々な事情で。

「いいよ、樹里。巻き込もうとは思ってない。でも、知っていて欲しいんだ、真実を」





 家に帰って、楽しみにしていたお風呂に浸かっても、疲れなんて取れやしなかった。明星くんからあんな話を聞かされたお陰で、家でも休まらないなんて勘弁して欲しい。

『あんな話』なんて、聞かなかったことにしてしまえばそれまでだ。明星くんが嘘を吐いていないと断言できる程の間柄ではない。
 それでも、明星くんの話したことが言葉通り『真実』であれば、言葉に出来ない違和感が全て納得のいく理由で払拭できるのだ。

 あんずちゃんがTrickstarの面々に嗾けられたからといって、生徒会に反抗すること自体が、普通に考えれば有り得ないことだった。私と同じ立場で、新設された科で右も左も分からない状態で、わざわざ権力者に盾突くなんて。
 つまり、私と同じ立場の彼女があんなリスクを冒したのには、それ相応の理由があったからだ。行動には必ず理由が伴うものである。

 私はこの学院の違和感の理由を、気付いていながら深く知ろうとはしなかった。知らなかったのではない。面倒事を避けるために、何もかも気付かないふりをしていただけだった。


 今の夢ノ咲学院のシステムは、全て生徒会に有利に働き、公平性は完全に失われているということ。
 生徒会側のユニットには勝てないルールの隙間を突いて、紅月に勝利したTrickstarは、それぞれ別のユニットへの移籍を生徒会長に命じられたこと。
 Trickstarは空中分解し、明星くんとあんずちゃんだけが残されたということ。
 ふたりは、この学院の革命をまだ諦めていないということ。

 そして、私は反乱分子にさせない為に、上手い具合に生徒会に取り込まれてしまっていたということ。
 私のことに関してだけは、明星くんはあくまで自分達の憶測に過ぎないと言っていたけれど、限りなく事実に近いのだろう。


 全てを聞き終えた時は、大してパニックにはならなかった。この学院は何かがおかしいと、私も心のどこかで無意識に察していたからなのだろうか。
 おかしかろうと何だろうと私には関係ない。今の私は順調だ。裏にどんな思惑があろうと、私は生徒会と関わりを持ち、自分の立ち位置を確立しつつある。

 芸能界なんてそんなものだ。実力のある者が必ずしも評価されるとは限らない。情報操作、圧力、コネクション、強力なバック――挙げればキリがない。でもそんなのは当たり前のことで、芸能界に限らず、綺麗事だけでは世の中は生きていけないのだ。

 だから私は、権力に媚びることで生き易くなるのなら、ちっぽけなプライドなんて捨ててもいい。自我だって不要なら消しても構わない。教師や生徒会にとって都合の良い生徒を演じて、安定した未来が手に入るのなら、自分を押し殺したっていい。そもそも押し殺すほどの自我もなければ、成し遂げたいこともない。

 そう思っていたのに。

 この学校では、今度こそは、上手くやるって決めたのに。なんでまた面倒事に巻き込まれるんだろう。


 巻き込もうとは思ってないなんて嘘だ。本当に巻き込みたくないなら、真実を知らせる必要なんてないはずだ。
 明星くんの話なんて聞かなかったことにしたって構わない。大体、さっき初めて会ったばかりだし、馴れ馴れしくて苦手なタイプだし。あんずちゃんもよく付き合えるものだ。
 それでも、なかなか吹っ切れないのは、明星くんが最後にこう言ったからだ。

『サリ〜がもし自分を責めていたら、サリ〜は何も悪くないって言って欲しいんだ。俺たちと生徒会の板挟みで、苦しんでたと思うから』

 サリ〜って誰、と訊ねたら、衣更くんのことだった。そこで、姫宮くんが言っていた『サル』が誰を指すのかやっと理解して、全ての辻褄が合った。

 真実を知ったところで何も出来ない。無力な私には、何も。
 副会長も見る目がない。私なんかを取り込んだところで何の役にも立たないし、仮に私が反乱分子になったところで、副会長のシナリオが崩壊するなんて有り得ないに決まっている。
 私は、無力だ。いてもいなくても変わらない。

 ああ、駄目だ。どうしても後ろ向きになってしまう。結局のところ、環境が変わっても根本的な性格を変えることは出来ないのだ。私のように、何もかも他人任せにしている人間には。





 ろくに眠れなかった。お母さんに起こされなかったら確実に寝坊していた。それを相当疲れが溜まっていると解釈した家族に「DDDとかいうのが控えてるなら、今日は大事を取って休んだ方がいいんじゃないか」なんて言われる始末だ。そういう訳にはいかない。一番疲れているのはアイドル科の生徒たちだ。DDDを成功させる為に毎日遅くまで残っている生徒会だけでなく、出場する生徒たちも、皆。

 いくら私がいてもいなくてもいい存在だからって、体調を崩しているわけでもないのに休んだら、ますますいらない存在になってしまう。そんなのは御免だ。
 こんな私にだって、意地はある。




「樹里さん」
 その声で一気に現実に引き戻された。
 気付けば一日の授業は終わり、今は放課後。これから生徒会室に向かうべく廊下を歩いていたら、横から声を掛けられた。
「何? 伏見」
「生徒会室に行く前に、少しお時間を頂戴してもよろしいでしょうか? 副会長さまには既に許可を頂いております」

 何が「お時間を頂戴してもよろしいでしょうか」だ。副会長に許可を貰っているなら、拒否権はないって事じゃないか。

 一体何の話だろう。そういえば、昨日帰り際に姫宮くんの髪を勝手に撫でたり抱き付かれたりして、凄い形相をされたのを思い出した。今まで思い出さなかったのは、今日彼から特に何も咎められなかったからか。という事は、これから説教が待っているのだろうか。

 彼の後をついて行って、辿り着いた先は職員室だ。連れて来られるにはおかしな場所だと気付けない程、今日の私はいつにも増して頭が働いていなかった。ろくに睡眠を取っていないせいで、今日は一日中睡魔との戦いだったから無理もないけれど。

 ふたりして職員室に入り、とある教師のデスクの前で彼の足が止まる。そこには椚先生が座っていた。目が合った瞬間、鋭い視線に貫かれて、ぼうっとしていた頭が一気に覚醒した。

「お待たせ致しました、椚先生。遠矢さまを連れて参りました。……が、本当にわたくしも同席してよろしいのでしょうか」
「ええ、寧ろ伏見くんも居た方が良いでしょう。遠矢さんにとっても、生徒会にとっても」

 何の話だろう。何かをやらかした覚えもない。咎められるようなことは何もしていない。私は目立たない、問題も起こさない地味な生徒だ。自分のことをそう思っていたから、周りから恐い恐いと言われる椚先生に睨まれても、自分は何も悪いことをしていないのだから、恐れる必要など何もなかった。次の言葉が出て来るまでは。

「遠矢さん。あなたは昨夜、校舎を出てから帰宅するまで、どこで何をしていましたか」




「遠矢さま? 大丈夫ですか?」
 真横に立つ彼の呼声で、真っ白になっていた意識が戻った。
「椚先生。遠矢さまは朝から体調が優れないようなのですが……」
「そうですか。では遠矢さん、今日は生徒会に寄らずに真っ直ぐ帰宅しなさい。ただ、体調が優れないことと、今の私の質問に答えられないことは別問題です」

 きっと、椚先生は知っている。私が昨夜明星くんと会っていたことを。
 誰かに見られてたまたま先生の耳に入ったのか、それともその誰かが生徒会に属する人間で、先生に告げ口をしたのか。それとも――仮定を挙げればキリがない。とにかく、私は生徒会に少しでも関わる人間として、やってはいけないことをしてしまったのだと今はじめて気付いた。明らかに生徒会と敵対している生徒と二人きりになって、話を真面目に聞くなんて。裏切り行為だと思われて当然だ。

「あ、あの、申し訳ありません、私、そんなつもりじゃ……」

 気が動転して質問に答えられないでいると、椚先生の溜息が聞こえた。どうしよう。何て答えれば良いのか分からない。考えれば考えるほど混乱する。言葉が出て来ない。比喩ではなく、今にも倒れそうになった瞬間、私の手があたたかな感触で包まれた。
 彼の手が、私の手を包み込む。それは拘束ではなくて、まるで赤子をあやす優しい抱擁のようだった。

「樹里さん」
 彼は少し屈んで、私の耳元で小さく囁いた。
「椚先生は決して貴女を罰したいわけではありません。ただ、聞かれたことに対して答えるだけで良いのです。万が一雲行きが怪しくなれば、わたくしが助け舟を出します。ですから、どうか今だけでも、わたくしを信じてくださいまし」

 その言葉に恐る恐る顔を向けると、彼は普段と違わない、相変わらず何を考えているのかわからない、でも穏やかな微笑を浮かべていた。いつもならその飄々とした態度を苛立たしく思うことだってあるのに、今は何故か、とても心強い。普段と違わない、だからこそ私もいつもの私に戻れた気がした。

 顔を彼から椚先生に戻して、その鋭い視線をしっかりと見据えた。
 もう、恐くない。

「椚先生。私、昨日の帰り、2年A組の……Trickstarの明星くんに会いました」



 疚しいことなんてしていない。隠すことなんて何もない。私は事前に明星くんに「私は話を聞くことしか出来ない」と答え、それを了承した明星くんは私に『真実』を伝えた。ただそれだけの事だ。
 椚先生には「生徒会長の命令でTrickstarが空中分解した」ことだけを話した。それ以外の内容は、今この場では蛇足だと判断したからだ。生徒会が悪の枢軸とでも言いたげな内容は、何も生徒会の顧問の前で話すことではない。

「遠矢さん。本当にそれだけですか?」
「あとは……衣更くんのことを気に掛けていました。会ったら自分を責めないよう伝えて欲しい、とか、そんな事を」
「他には?」
「えっと……とにかく私には知っていて欲しいって、本当にそれだけです。知ったからと言って、私には何も出来ませんが」

 椚先生はどこか納得のいかない表情を浮かべていたけれど、また溜息を吐いて、渋々といった様子で頷いた。

「まあ、いいでしょう。今後は誤解を招くことのないよう、行動には充分留意してください。何処で誰が見ているか分かりませんからね。一時的なヘルプとは言え、貴女も生徒会の一員なのですから」
「はい……って、私が生徒会の一員だなんて、そこまでの事はしてません」
「貴女自身はそう思っていても、周りは違いますよ。模範的な生徒として見られている自覚をしっかりと持ってくださいね」

 彼の言う通り、椚先生は罰するつもりはないのだろう。これは牽制だ。お前は生徒会側の人間なのだから、反乱分子に不用意に近づくなという警告。今回は見逃がしてくれたけれど、きっと次はない。

「話はこれで終わりです。遠矢さん、体調が悪いのなら今日はもう帰宅しなさい。今無理をしてDDDで穴を開けられては困りますからね。自己管理はプロデューサーとして基本中の基本ですよ」
「はい、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

 頭を下げようとした瞬間、まだ彼と手を繋いだままだったことに気付いて、慌てて振りほどいた。彼が傷付き――は絶対にしないだろうけど、後で一応謝っておこう。流石に職員室で男女が手を繋ぎっ放しというのは、神に誓って下心がなかろうと何だろうと、それこそ誤解を招く。

 改めて先生に向き直って頭を下げたら、背後に気配を感じた。椅子が軋む音がしたから、他の先生が来て近くのデスクに座ったのだろう。
 頭を上げてちらりと後ろを見遣ると、佐賀美先生だった。正直、苦手な先生だ。椚先生とは逆に皆から慕われているみたいだけれど、職員室のデスクの上に堂々とビールの缶を置いているのはどうなんだろう。つい眉を顰めると、佐賀美先生と目が合ってしまった。

「おっ、遠矢ちゃん。毎日ご苦労さん」
「遠矢……ちゃん?」
「いや、オッサンが樹里ちゃんなんて呼んだら、セクハラだって訴えられそうだからなあ」
 だらんと背凭れに身体を預けながら、緩い笑みを浮かべる佐賀美先生に、ますます頬が引き攣ってしまった。名前にちゃん付けも苗字にちゃん付けも変わらないと思うけど。

「では、失礼します」
「あー、待った。前から聞こうと思ってたんだが」
「はい、なんでしょうか」
「あんずとは仲良くやってるか?」

 その名前を聞いて硬直してしまった。佐賀美先生はどこからどこまで知っているのか。それによって回答も変わるし、それ以前に椚先生がすぐそばにいる上に釘を刺されたばかりだから、何とも答えようがない。黙り込んでいると、佐賀美先生は苦笑いを浮かべた。

「ま、そうだろうな。やっぱり二人とも同じクラスの方が良かったか……あきやんもそう思うよな?」
「あきやんって呼ばないでください。生徒の前ですよ」

 佐賀美先生にあきやんと呼ばれたのは椚先生だ。二人とも教師になる前はアイドルだったし、あだ名で呼ぶあたり、案外仲は良いのかも知れない。

「大体、こんな事態になれば仲良くしようがないでしょう。遠矢さんは生徒会に協力してくれていますが、そちらのクラスの転校生はTrickstarの面々と盾突くような真似をして。陣――いえ、佐賀美先生。あなたの監督不行届ではないですか」
「協力、ね。さっきみたいに牽制されたら、そりゃ逆らえないでしょ」
「人聞きの悪いことを言わないでください。生徒会に協力しているのは彼女の意思です」
「ん〜、まあ、そういう事にしといてもいいけど。どちらにしても、遠矢ちゃん」

 突然話を振られてつい肩をびくりと震わせてしまった。何だか雲行きが怪しくなってるし、この会話に混じりたくないのだけれど。振られたところで何も答えられないし。

「DDDがどんな結果であれ、終わったらあんずと仲良くやっていくように」
「……は?」
「校内でたった二人のプロデューサーなんだから、協力してやっていかないと駄目だぞ?」
「でも……」
「ん? どうした?」

 佐賀美先生の言う通り、もし同じクラスだったら仲良くやれていたのだと思う。私がB組じゃなくて、あんずちゃんと同じA組だったら、きっとTrickstarと共にこの学院を変えようとしていたのかも知れない。
 でも、仮定の話をしたって意味がない。私はあんずちゃんとも明星くんとも同じクラスではないのだから、こうなる事は必然だったのだ。それに、

「佐賀美先生」
「ん?」
「あんずちゃんと協力しろというのは、私一人では何も出来ないからですか」
「……え?」
「私があんずちゃんより遥かに劣っているのは、私自身が一番分かっています。だからといって、彼女の功績を利用して甘えたくはありません」
「えっ、ちょっと待っ……」
「失礼します」

 冗談じゃない。同情なんて絶対に御免だ。
 足早に職員室を出るまでの間、背後で佐賀美先生が慌てふためいて何かを言っている声が聞こえたけれど、もう何も耳にしたくなかった。そして職員室を出て、血が昇った頭が徐々に冷えていくと共に、また後悔の念に苛まれた。こんな醜い感情、もう二度と吐露したくなかったのに。彼の前では。
 全てが上手くいっている筈だったのに。結局私は、嫌なことから逃げているだけだ。

2017/08/18


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