Sweet Bitter



「わかってる。私の言ってることはただのわがままだって。わかってるはずなのに、繰り返して、その度に落ち込んで、どんどん自分のことが嫌いになっていって。その連鎖を断ちたくて色々頑張ってるつもりだったけど、やっぱり駄目みたい。さっきみたいにああやってすぐ襤褸が出る」


 私のことなんてほっといて。DDDももうすぐなんだし、人のことより自分のことでしょ。
 そう言えたらどんなに良かっただろう。
 言えなかった。職員室であんな醜態を晒してしまった時点で、偉そうなことを言う資格なんて私にはないし、一人になりたかったのにこうして付いて来られたら、もう、彼に従うしかない。


「……これでいい?」
「駄目です」
「なんで!?」
「まだまだ溜め込んでいるのではないですか? この際、我慢しないで不平不満愚痴その他諸々、負の感情を全部吐き出しましょう。解決はしなくても、すっきりすると思いますよ」




 職員室から半ば逃げ出した私の後を、伏見はすぐに追って来たらしい。何も考えずに食堂に辿り着いてどっと溜息を吐いた瞬間肩を叩かれて、また何も考えずに振り返ったら穏やかな微笑を湛えた彼がいて、私と違って息を切らすこともなく「いい運動になりましたね」なんて言い放ったのだ。

 そして、今に至る。食堂の椅子に座ってテーブルを挟んで向かい合い、笑顔で圧を掛けられている。なんでも、私が存分に愚痴を吐いてすっきりするまで、帰らせる気はないと言うのだ。この光景、まるで刑事ドラマでよく見る尋問じゃないか。
 大丈夫、これは私自身の問題だから自分で解決する。そう言ったもののまるで聞く耳を持たず、観念するしかなかった。

 そうは言っても、親しい間柄でもないクラスメイトの愚痴なんて、聞いていて楽しいものではない。私を職員室へ連れて行ったのも元はと言えば彼だし、椚先生かあるいは副会長から、私をなんとかするよう指示でも出ているのだろう。私がどれだけほっといてと言っても、彼にしてみれば目上の人間からの指示を優先するしかない。
 ――これでも一応同じ転入生の立場なのに。私がプロデュースするどころか、逆に私が彼の世話になっているなんて。DDD間際の貴重な時間を私なんかに宛がって。

「樹里さん、またマイナス思考なことを考えていますね? 顔に出てますよ」
「え、嘘」
「ああ、別に悲愴感が出ているわけではありませんよ。落ち込んでいる時、決まって自然と視線が下に落ちていらっしゃるので」
「うわ、人を観察しないでよ」
「ふふっ」

 元々副会長の指示で私を監視(言い方は悪いけどそういう事だろう)していたとはいえ、そんな細かいところまで気付くなんて。愚痴を言って申し訳ないと思ったけど、前言撤回。なんか楽しそうな顔して、含み笑いまでしてるし。

 でもさすがにDDD出場直前のアイドル、それも学院一のユニットのメンバーを長時間引き留めるなんてしたくない。ここは大人しく従ってさっさと吐いて、彼には早急にレッスン室へ行って貰おう。

「焦らなくてもよろしいですよ。ここ一週間近く働き詰めでしたでしょうし、たまにはこういう日も良いのではないですか」
「いや、私は良くても伏見が良くないでしょ。最後の詰めとかあるだろうし」
「それが、わたくしは及第点だと会長さまから勿体ないお言葉を頂きまして、本日は休養を頂いてしまったのです。とはいえ、坊ちゃまを放っておくわけにはいきませんし、後で合流するつもりではおりますが」
「ふうん……それって会長なりの気遣いなのかもね。家に帰っても姫宮くんのお世話とか色々あるんでしょ? 伏見の方こそ働き詰めだし少しは休め、みたいな」

 彼は私の当てずっぽうな発言を聞いて、意外にも納得がいったらしい。「会長さまに気を遣わせてしまうなんて、わたくしもまだまだ未熟ですね」と、独りごちた彼の表情は、どこか曇っているように見えた。
 ただの主観でしかないけれど。大体、普段から何考えてるか分からないヤツだし。

 この学院において絶対権を持つ会長の命令ならば、休んだって罰は当たらない。とはいえ、主を放っておくなんて出来ない彼の気持ちも分かる。なにせお昼休みまでお弁当箱を携えて主を探し回ってるんだし。ちっとも休みではない。
 まあ今回は一時間程度なら、彼の中でも会長の中でも許容範囲内だろう。と思いたい。

「樹里さん、どちらへ?」

 椅子を引いた途端、彼は鋭い視線をこちらへ向けてきた。さっきの曇った表情は私の気のせいだったのか……と己の勘違いを悔やんだけれど、すぐに平常心を取り戻した。さすがに今日は睡眠不足も祟って、細かいことにいちいち突っ込む程の気力もない。精神的にもほとほと疲れたし。

「逃げないから。ちょっと、ここに来た目的を達成するだけ」





 何も考えずに来たつもりだったけど、前にここで鳴上くんに背中を押して貰ったお陰で、一歩前進することが出来た。だから、無意識に足を運んでしまったのかもしれない。
 そもそも、食堂とは本来美味しいものを食べる場所だ。何も口にせずに愚痴るところではないのだ。



 注文してたいして待たずに出て来たパフェは、以前と変わらない美味しさだ。コストパフォーマンスが実に良いので、卒業までリピートしてしまうかもしれない。そんなささやかな幸せを噛み締めている私とは正反対に、彼は目の前に置かれた私とお揃いのパフェを見て呆然としていた。

「あの、樹里さん。これは一体」
「パフェ。見て分からない?」
「馬鹿にしてます? わたくしが言いたいのはそういうことではなく、」
「ああ、甘いの嫌い? ごめん、愚痴に付き合ってくれるお礼にって思ったんだけど。食べないなら私が貰う」
「いえ、嫌いという訳ではないのですが……というか、二人分も食べれるんですか?」
「甘いものは別腹」

 ストレス解消にスイーツをやけ食いする人の気持ちがなんとなく分かった。ついさっきまで心の中はぐちゃぐちゃだったのに、黙々と食べていると段々どうでも良くなってくる。というか、寧ろ職員室で晒した醜態が本当に子供じみていて、今更ながら恥ずかしさで顔から火が出そうだ。ああ、時間を巻き戻せたらいいのに。

「樹里さんは本当に見ていて面白いですね」

 人が食べている様子を観察するな。
 さすがに生クリームやら何やらを口に含んでいる状態で喋るわけにはいかず、無言で睨み付けたけれど、彼はびくともしないどころか、まるで小動物を見るかの如く穏やかな顔をしている。……多分、小馬鹿にされている。

「食べながら色々考えているのが分かりますよ。幸せそうな顔をしていたと思ったら、突然表情が曇って、かと思えば今度は顔を赤くされて」

 いい笑顔で解説するな。
 このまま黙ってはいられなくて、ごくりと喉を震わせて甘味を胃へ追いやれば、咳払いして改めて睨み付けてやった。

「いちいち解説しないでよ。こっちは本当に穴があったら入りたいくらい恥ずかしい思いして後悔してるのに、人の気も知らないで」
「後悔?」
「当たり前でしょ? あれじゃまるで聞き分けのない小さな子供だよ。何でも持ってるあんずちゃんに嫉妬丸出しで、何も出来ない癖にあれは嫌これは嫌って主張だけはして。ああやって精神年齢の低さを露呈すればするほど、あんずちゃんとの差は開いてますます一人じゃ何も出来なくなるのに。佐賀美先生には別に何思われたっていいけど、椚先生に呆れられたら私……ああもう、こんな自分が嫌。こうして伏見に愚痴ってる自分も嫌」

 負の感情を吐き出せと言って来たのは彼のほうだけど、そもそもそんな事を言われてしまう時点でプロデューサー失格だ。立場が逆転している。アイドルの悩みを聞いたり、解決に導くのもプロデューサーとして出来る事のひとつだと思うのに。プロデュースされる側の人間にフォローされるなんて、お前は不要だと言われているようなものだ。

「そんなにご自身を責めなくても、大丈夫ですよ」
「あのね、慰められると余計辛くなるだけだから。もういいよ、私の事はいいからレッスン室に行きなよ」
「はい、人の話は最後まで聞きましょうね。聞きたくない話をご自身の我儘で強制終了させようとするところは、樹里さんの悪い癖ですよ」
「は?」

 まさか、説教するのが目的だったのか。
 彼の言うことは全て正論だってわかってる。わかってるけど、放っておいて欲しい時だってあるのだ。言いにくいことを言ってくれるのはある意味ありがたいけれど、せめて今じゃなくて別のタイミングにして欲しい。

「御心配なく。お説教ではありませんから」
「うわっ、人の心読んだの?」
「わたくしにそんな力があれば、これまで樹里さんの反感を買うこともなかったでしょうね」
「冗談だから。どうせ私はすぐ顔に出るしわかりやすいし」

 彼の言葉を信じていいんだろうか。勿論、心を読む云々ではなく説教をしないという点だ。信じるからね。嘘吐いたらただじゃおかないから。いや、そんなの口だけで私には何も出来やしないけど。
 とりあえずパフェの残り半分に手を付けつつ、彼の顔をじっと見遣って傾聴の意思を示した。
 相変わらずその作られたような微笑の裏を読み取ることは出来ないけれど、彼は至って淡々と、思ってもいなかった事を口にした。

「樹里さんはこれからプロデューサーとして立派にやっていけると、わたくしは心からそう思っております」

 思わずパフェを食べる手を止めてしまった。一体何の根拠があってそんなことを言っているのか。彼のことだし、私が疑り深くて面倒臭い性格だってことも嫌というほど分かったと思うし、だからこそ適当な事は言わないと思っていたから、意外すぎて何も言葉が出て来なかった。
 黙って訝しげな視線を彼の顔をぶつけても、その穏やかな微笑は崩れない。

「ご自身では気付いていないでしょうけど、あなたもまた、皆様に受け容れられているのですよ」
「……待って、何の話? 私じゃなくて同姓同名の赤の他人の話?」
「樹里さん。自虐も度が過ぎると、あなたを評価している方々に対しても失礼ですので、程々になさった方がよろしいかと」
「でも」
「お言葉ですが、『でも』『だって』『どうせ』も口にしないよう善処すべきかと存じます。ご自身を否定すればするほど上手く立ち行かなくなるのは、既にお気付きですよね」
「……分かってるよ、そんなの」

 本当にこの男は人の心を抉る言葉をずけずけと。正論だからこそ何も言い返せない。でも――でもって言ったら駄目なわけ? じゃあ言わせて貰うけど、説教しないって言ったのに結局してるじゃん。嘘つき!
 いや、駄目だ。言われて当然の発言をしたのは私だし。

「言葉が強すぎたでしょうか? 申し訳ありません。適度に自分を甘やかす……と言いますか、肯定していかないと身が持ちません。ご自身に厳しいのは結構ですが、それこそ度が過ぎると辛くなる一方ですよ」
「そうだね、それは一理ある。でも」
「『でも』?」
「……あーもう! もういい、何も話したくない」
「ふふっ、ちょっと虐めすぎてしまいましたね。使用頻度を徐々に減らすよう心掛ければ良いだけの話で、別に一切使うなとは言ってませんよ」

 ああ言えばこう言うし。もう知らない。御忠告どうもありがとう。完全に不貞腐れた顔で引き続きパフェを口に運ぶ今の私は、さぞかし可愛さの欠片もないことだろう。

「では本題に戻ります。『そんな話信じられない! 当然根拠はあるんでしょ? 勿体ぶってないで早く言ってよ!』そう仰りたい気持ちが愛らしいお顔からよく伝わってきますよ」
「は!? ちょっと、今の何!? 声真似!?」
「おや、如何なさいましたか? わたくしの声真似を先にされたのは樹里さんではないですか」
「え? してないよ」
「してました」

 笑顔できっぱりとそう言うってことは、事実なんだろう。ただ、思い出せない。いつの話?

「お忘れになられたのですか? 似ても似つかない声で小馬鹿にするように『坊ちゃま〜、どこにいらっしゃるのですか、坊ちゃま〜』と」
「あ」

 言った。確かに言った。けど、それって相当前の話だったはずだけど。確かフラワーフェスの前で、それどころかfineの練習見学をさせて貰う前で……。

「あのさ、伏見。そんな遥か昔の話を持ち出されても」
「一ヶ月も経っていませんが」
「ていうか聞いてたなら、その場で聞こえてますよって言えばいいじゃん! 今更言われたって、その…………ごめん」
「謝らなくて結構です。忘れた頃にそっくりそのままお返しさせて頂きますので」
「それが嫌だから謝ってるの! も〜! 勘弁してよ〜!」

 この男に口喧嘩で絶対に勝てないのは分かっているから、だからこそこうして素直に負けを認めているのに。ていうか完全に楽しんでるよね? 私の愚痴を聞くってどの口が言った? そもそも話が途中だ。肝心の本題が放置されている。

「そうやって話逸らしてさ、結局、私がプロデューサーとしてやっていける根拠なんてないんでしょ」
「ありますよ」

 私が疑いの眼差しを向けても、彼は絶対に微笑を崩さなかった。一体その自信はどこから来るのか。

「教師の皆様はあなたがたをゆっくり育てるつもりでおりますから。隣のクラスの転校生さんは、様々な偶然が折り重なって、一足早く結果を出す形になりましたけれど、だからと言って誰もあなたに低評価を下したりなどしていません」

 ここまで断言するということは紛れもない事実で、その根拠は教師や生徒の言葉を実際に耳にしたからあるのだろう。
 きっと私が思っているほど、周りは私のことを試してなんかいない。そもそも、年度が変わるつい先月までは、この学院にプロデュース科など存在せず、みんな自分達の力だけでやってきていた。評価を下す以前に、誰も私に期待などしていないのだ。

「……うん、伏見の言う通りなんだろうね。それでもやっぱり気にするよ。同じスタートラインだった子が、自分よりずっと先に進んでるんだから」
「そもそも、アイドルと違ってプロデュース業は他者と競い合うものではないでしょう。樹里さん、あなたは隣のクラスの転校生さんに勝ちたいと思っていますか?」
「ううん、それはない。そういうの苦手だから」
「でしょうね」

 そう言った彼の表情は、人を小馬鹿にするような笑みとは種類が違う気がした。いや、主観でしかない。ちょっとでも気を許したら、さっきみたいに過去の事を穿り返されたり、揚げ足を取られたりするのだ。

「悪い意味ではありませんよ。なんだか樹里さんらしい、と思いまして」
「私らしいって何。ていうかさ、大体、勝ち負けに拘ってギスギスしてたら本末転倒でしょ。私たちはまだテストケースだけど、来年には正式にプロデュース科が設立されるんだし。基盤はこれから私たちが作っていくようなものだから、協力して試行錯誤しながらやっていかないと」

 つらつらと尤もらしいことを言ってしまい、後悔した。そう、頭ではちゃんと分かっている。このままあんずちゃんと距離を置きっぱなしなのは良くない。学院にとっても、私自身にとっても、そしてきっとあんずちゃんにとっても。対立なんて足の引っ張り合いで、ゆくゆくは私があんずちゃんに迷惑を掛けることになってしまうだろう。
 私が今後やるべきことは、彼女の爪の垢を煎じて飲むことだ。良いところを見習って、私も少しでも戦力になるように、彼女ひとりに負担がかかることのないよう努めなければならない。

 そうしなきゃいけないって分かってるのに、つまらない意地を張って。いつまでも聞き分けのない子供のままでいてはいけないのに。

「……伏見、ほんとにごめんね」
「ええと、何がですか? 声真似に関してなら若干腹は立ちましたが、しっかりと仕返しさせて頂きましたのでお気になさらなくて結構ですよ」
「いやそうじゃなくて。ていうか、伏見ってかなり根に持つタイプなんだね……」
「人聞きの悪いことを言わないでくださいまし。自分がやられて嫌なことは人にしないようにしましょうね」
「だからごめんって……もう嫌〜!」

 残り僅かになったパフェを口に運ぶ気力もなくなって、テーブルに突っ伏して嘆きの声をあげると、がたりと椅子を引く音が聞こえた。もう話は終わって帰るのかと思いきや、背後に気配を感じて、と思えば今度は真横の椅子が微かに音を立てた。
 暫くした後、髪を優しく撫でられる感覚を覚えて、さすがにそれはどうかと思って漸く顔を上げれば、そんなことを平然とやってのける彼を思い切り睨み付けてやった。

「ちょっと伏見、なに勝手に触ってんの」
「おっと、失敬」

 何を思ってか知らないけれど、彼は向かい合わせからわざわざ私の隣に移動して来て、事もあろうに人の髪を勝手に撫でてきた。怒ったら何事もなかったかのようにさっと離してくれたから良かったけど。
 それにしても、そういう事を異性に対して軽々しくするタイプだとは思ってなかったけど……ああ、つまり私は女として見られてないって事か。いや、当たり前だけど。

「どうせ私のこと女だと思ってないからなんだろうけど、気安くそういう事するのやめてよね」
「はい、『どうせ』は禁止ですよ」
「え、頻度を減らせって意味で使用禁止じゃないってさっき言わなかった?」
「『でも、だって』は許容範囲ですけれど、『どうせ』は優先順位を上げてお止めになった方が良いですよ。ご自身の価値を下げますから」
「うう……」

 もう嫌だ。未だかつてここまで揚げ足を取られたことがあっただろうか。今日の彼はいつにも増して手厳しい。彼の言葉が胸にぐさりと刺さる事はこれまで何度もあったけど、もしかして今まではあれでも手加減していたんだろうか。

「樹里さんの仰る通り、異性の髪に軽々しく触れると、こうして不興を買いかねませんので、あまり褒められた行為ではありません。それでは樹里さん、どうしてあなたはこの間、馴れ馴れしく坊ちゃまの髪を撫でられたのでしょうか…?」
「は!? いや、それはその、ちょっと、待って!?」
「待ちません」
「なんでそう次から次へ……だってあの時は姫宮くんが泣きそうになってたから……撫でたくなるじゃん……」
「泣きそうになっている異性がいたら撫でるのですか? 会長さまや日々樹さまやわたくしが泣きそうになっていても撫でると? 違いますよね?」

 一体私が何をしたっていうんだ。いや、色々したけど。言ったけど。全ては私が撒いた種だ。だからって、何も今、こうして責め立てて来なくても。そもそも愚痴を聞くって話じゃなかった? 私、今、慰められるどころか逆に虐められてるけど。

「また言い過ぎてしまいましたね。どうか泣かないでくださいまし」
「泣いてないし」

 不貞腐れた私を見て、彼は困ったように眉を下げて笑ってみせた。苦笑いしたいのはこっちだ。

「さて、そろそろ声をお掛けしても良い頃合いですね」
「え?」

 彼は突然そんなことを言うと、斜め後ろを振り返って、私ではない誰かに向かって声を掛けた。

「遠矢さまに何か御用ですか? 衣更さま」


 全然気が付かなかった。衣更くんはかなり離れた席にいて、立ち上がって駆け足でこちらに来ると、気まずそうに苦笑混じりに頭を下げた。

「悪い、盗み聞きするつもりはなかったんだけど……」
「いえ、聞かれて困る話はしておりませんのでお気になさらず。遠矢さまを独り占めしていて申し訳ありません」
「いやいや、もし遠矢がまだ帰ってなかったら連れて来るようにって、椚先生からお達しがあったんだけど――」
「おや」
「衣更くん、なんで声掛けてくれなかったの!?」

 思わず二人の会話に割って入って、声を荒げてしまった。やっぱり椚先生、私があんな醜態晒したから、呆れ果てて怒ってるんだ。ああ、早く謝りに行かないと。

「なんでって、折角伏見と水入らずで話してるのに、邪魔したら悪いかなって」
「あ〜もう、そういう変な気は遣わなくていいから! 今すぐ先生のところに行かないと!」
「樹里さん、落ち着いてください」
「伏見は黙ってて!」
「『もしまだ帰ってなかったら』の話ですよね。帰ったことにすればよろしいのではないですか」

 彼のこの発言には私だけでなく、衣更くんも驚きのあまり口をぽかんと開けて言葉を返せずにいた。まさか、品行方正なこの男からこんな言葉が出てくるなんて。

「そんな反応をされることを言ったつもりはないのですが……大体、樹里さんが職員室を出た後にわたくしが後を追ったことは、椚先生も存じておりますので、ただ単に心配しているだけでしょう。帰宅した後にご一報でも入れればよろしいかと。椚先生も遅くまで校内にいらっしゃるでしょうし」
「……その言葉、信じていい?」
「ええ」
「何かあったら責任取って貰うから」
「ふふっ、構いませんよ」

 こうして自信満々に返されると、もう全面的に信用しても良いと思えるから不思議だ。決して彼自身を信用したわけではないけれど、たぶん、その場しのぎの適当なことは言わないと思う。
 なんだか安心して、気が弛んだ瞬間、眠気が一気に押し寄せてきた。耐え切れなくて、口許に手を当てて欠伸をしたら、ばっちり二人に見られていた。

「遠矢、大丈夫か? 今日朝から調子悪そうだったもんな」
「今日は色々とあって随分と疲れたでしょう。保健室で一休みしてから帰られたらどうですか?」
「うーん……今はちょっと佐賀美先生に顔合わせ難いし……五分経ったら起こして……」
「かしこまりました。どんなに幸せそうな顔で寝ていらっしゃっても、意地でも叩き起こしますのでご安心を」
「好きにして……」

 確かに色々あって疲れたけど、ほぼほぼ彼に過去を持ち出され怒涛のいびりを食らったことが原因だと思う。でも、そんな文句を言う気力もなくて、再びテーブルに突っ伏せば徐々に意識が遠のいていった。

「今日は言い過ぎてしまって本当にすみません。ですが、樹里さんが先の事をちゃんと見据えていらっしゃって安心しました。今抱えている悩みや苦しみは、時間が解決してくれますよ。樹里さんなら乗り越えられます、わたくしの口出しなどなくても、ご自身の力で」

 現実なのか夢なのか。優しい言葉を掛けられている気がするけれど、きっと夢だ。更にまた髪を優しく撫でられる感触を覚えて、ああ、これは絶対に夢だと確信した。
 あんなに散々言われたのに、さっき髪を撫でられた時、実は不覚にも胸が高鳴って、嬉しい、かも、なんて……ほんの少しだけ思ってしまったから。

2017/10/01


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