If I Could Reach Your Heart



 ゆっくりと時間をかけて、遠矢樹里との距離を徐々に縮めていこうと思ったのも束の間。そんな悠長なことは言っていられない状況に陥ってしまった。

 僅か数日で、この学院の勢力図は一気に変わろうとしていた。フラワーフェスから間もなく行われたS1で、副会長率いる紅月がまさかの敗北を喫したのだ。

 紅月に勝利したのは結成されたばかりのユニット『Trickstar』。そして副会長が危惧していた通り、彼らの傍らには2年A組の転校生の存在があった。まさか、生徒会の地位が揺らぐ程の大事になろうとは、誰も、副会長ですらも想像できなかった事だ。Trickstar及び、彼らに協力した面々を除いては。



 夜が更けても生徒会室の明かりは煌々と灯っている。事後処理に追われているのだ。生徒会の役員である我が主も居残ることとなり、当然の如く己も主の補佐をしている。機密事項がある為、主に代わって直接手出しすることが出来ないのが実に歯痒い。

 Trickstarのメンバーには、己と同じクラスであり、またこの生徒会の役員でもある衣更真緒がいる。勿論彼もこの場にいるのだが、主だけはそれが気に食わないようで、何度も彼に突っ掛かってはこちらが止めに入っている。生徒会に反旗を翻したことは事実だが、彼は校則に反することは何もしていない。全ては決められたルールの中で行われたことだ。

 尤も、紅月も今回の一件で完全に崩壊するほど脆いユニットではない。再び戦うときを虎視眈々と狙っているだろう。学院の勢力図に変化はあれど、生徒会の権力が即座に奪われたわけではない。主にはもう少し割り切って、堂々として頂きたいものだ。


 一区切りついたのか、山積みの書類の処理に追われていた副会長の手が止まる。程なくして立ち上がり、自然と視線が合った。
「伏見。資料室まで一緒に来てくれ」
 副会長が己を呼び出す目的は分かっている。遠矢樹里のことだ。

 ここまで来たら、彼女が敵対勢力に加担するのを何としてでも阻止しなければならない。性格上そんなことはしないと予測していたが、ここまで状況が変われば話は別だ。
 居場所がないと感じている彼女に、隣のクラスの転校生やTrickstarの面々――例えば同じクラスの衣更真緒が、一言「協力して欲しい」と頼めば、あっさりとそちらに靡いてしまいそうなくらい、今の彼女の心は不安定だ。



 副会長の後を追い、足を踏み入れた資料室はすっかり冷え切っていた。夜更けの使われていない教室は物音ひとつ立てただけで響く程、日中の喧騒とは無縁な静寂に包まれている。

「伏見、貴様なら分かっているとは思うが」
「ええ。遠矢さまのことですね」
「あいつらと手を組まれたら更に厄介なことになりかねん。ただ、手を打つ前に――貴様から見て彼女はどうだ? 遠慮はいらん。取り繕った回答は不要だ」

 特にこちらを試すような物言いではない。出来る限り主観を省き、これまで見てきた彼女の為人をそのまま報告するまでだ。

「実に模範的な生徒と見受けられます。欠席や遅刻の類はなく、非常に勤勉で、アイドル科の生徒とも適切な距離感で接しておりますし、周囲の評価も上々です。ただ――」
 言葉を濁した瞬間、副会長の眉が微かに動いた。彼女が己に対して良い感情を持っていないことは、伏せておくべきだろう。第三者の視点が存在しない以上、主観に過ぎないからだ。

「――少々、ご自身に厳しすぎるきらいがあるかと。その所為か、情緒不安定であるように感じます」
「どういう事だ?」
 即座に副会長に問いを投げ掛けられた。後半は不要な発言だったか。とはいえ、返答に苦慮する程のことではない。

「仮初とはいえプロデュース科の人間であるにも関わらず、プロデューサーとしての仕事が何も出来ていないことを、過剰に気にしておられます」
「それは遠矢が貴様にそう言ったのか?」
「いえ……」
 言っていないわけではないが、あの時の彼女の言葉は云わば『八つ当たり』だった。副会長の問いは、恐らく彼女が己に相談を持ち掛けたかどうかだ。それならば答えはNOである。

「いけませんね、主観が入ってしまいました」
「構わん。冷静な貴様がそう感じたと言うのであれば、それなりの理由があるのだろう。彼女と一緒にいる時間が長いのは、俺達よりも遥かに貴様の方だ。余程彼女の本質を捉えているに違いない」
「流石にそれは買い被りすぎです」
 やんわりと頭を振って世辞の言葉を否定し、つい軽い溜息が零れてしまった。

 この学院の状況がここまで変わってしまったのならば、いっそのこと降参した方が事は全て上手く運ぶ。遠矢樹里を生徒会に今すぐ引き入れることが出来る程、早急に打ち解けるのは事実上不可能だ。下手に動いて警戒されてしまった結果、『あちら側』に付くようなことがあっては本末転倒である。
 負けを認めるようで悔いは残るが、意固地になってはいけない。副会長に恩を売るのも、生徒会の手助けをするのも、自分の為ではない。全ては我が主、姫宮桃李の為だ。

「……正直申し上げますと、副会長さまが直接動いた方が確実です」
 言いたくはなかったが、仕方がない。下手な意地を張る方が馬鹿を見るというものだ。

「それは根拠があるのか?」
「ええ。『副会長さまが貴女を評価している』と教えた時の遠矢さまの喜びようと言ったら、今まで見た中で一番輝いていたと言っても過言ではありませんでしたし」
「……成る程。自分の存在意義が見出せない時に他者から認められることは、不安定な彼女にとって心の支えになるということか」
「ただ、わたくしがいくら彼女を褒めても効果はありませんでしたので、恐らく上級生、特に権力のある者が彼女を認めることが最善かと」

 そう告げた途端、副会長は何か閃いたかの如く一瞬目を見開き、暫しの間を置いて口を開いた。

「分かった。やることは確定したも同然だ。礼を言うぞ、伏見。貴様のお陰だ」
「いえ、わたくしは何もしておりませんが……」
「そう自分を卑下するな。貴様が彼女の深いところまで探りを入れたお陰で、事は上手く運びそうだ。いや、運んでみせる。貴様がいなかったら、俺は遠矢を逃していたかもしれん」

 卑下ではなく本当に何も出来ていないのだが、本当に副会長は己を過大評価している。巡り巡って主の為になるのだから、当然嫌ではないのだが、何処かむず痒い。

「俺よりも英智の方が適任だな。シナリオはこちらで考えるとして……伏見、悪いがまだ貴様にも動いて貰うことになりそうだ」
「仰せのままに」
「そう畏まるな、面倒なことはさせん」
「……申し訳ありません」
 謝罪の意を述べると、予想外の言葉だったのか副会長は驚いた顔をした。

 遠矢樹里を生徒会に迎え入れることは己が課せられた任務だったのに、結局は達成できずに他の人間へ丸投げになってしまった。それも復学直前の生徒会長、天祥院英智に。状況の変化があったとはいえ、副会長の期待に応えられなかったことは事実だ。
 だが、副会長はそうは捉えていないらしく、逆に笑みを作って称賛の言葉を紡ぎ始めた。

「謝る必要など何処にある。遠矢の為人を短期間でそこまで把握出来たのは、伏見、貴様だからこそだ。俺や教師たちは、彼女の表面的な部分しか捉えることが出来ていなかったからな」
「そう仰って頂けて光栄です。わたくしのこの数日間が無駄ではなかったのなら幸いです」
「無駄どころか大助かりだ。これからもよろしく頼むぞ、伏見」

 所詮、己は副会長のシナリオ通りに動く駒であり、遠矢樹里も同様だ。むしろ、プロデュース業など出来る状態ではない現状を打破する為には、敢えて駒として使われる方が、彼女にとっては精神衛生上良いのかも知れない。





 いくら急がなければならないとはいえ、まさか翌日に決行することになろうとは。天祥院英智本人から「今日の昼休み、遠矢さんを捕獲して生徒会室に連れて来て貰えるかな? 無理にとは言わないけど」と、携帯に連絡が来たのが朝。副会長が生徒会長に『シナリオ』の連絡をしてから半日も経っていない。

 彼女の行動パターンは把握済みだが、今日の昼休みは食堂に現れなかった。いつも決まり切った行動をする彼女にしては珍しいこともあるものだ。
 教室に戻り、最初に視界に入ったのは、空き缶を塵箱に捨てて溜息を吐く遠矢樹里の姿だった。こちらに気付くこともなく、頼りない足取りで自分の席に戻れば、窓の外を顔を向けた。教室には他にも生徒がいるが、皆全てを察しているのか、遠巻きに彼女を見るだけで声を掛ける者はいない。

 こればかりは無理もない話だ。昨日、隣のクラスの転校生がTrickstarと共に舞台に立って脚光を浴びたのだ。元から自信喪失している傾向があったのだから、あの光景を見てショックを受けないわけがない。
 彼女には悪いが、生徒会に引き入れるには絶好のチャンスだ。今の彼女に一番必要なのは、権力者が彼女の存在価値を認めることである。

「遠矢さま、少々お時間を頂戴してもよろしいでしょうか」

 声を掛けた瞬間、ぎこちない笑みを返されてしまうあたり、やはりまだ彼女に苦手意識を持たれているようだ。




 大人しく後をついて来てくれるのは有り難いが、その表情は酷く痛ましい。「副会長が自分を試している」なんて考えに到るくらいなので、昨日の出来事を思えば、悪い意味で呼び出されたのだと悲観的になっているのだろう。だが、傍から見れば当然そんなことは起こり得ないのだ。

「ふふっ、そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。恐らく貴女にとっては朗報ですから」
「朗報? 退学は免れたってこと?」
「は?」

 思わず素っ頓狂な声が出てしまった。転入して一ヶ月も経っておらず、ましてや校則に違反することなど何もしていないどころか、模範的な生徒であるにも関わらず、『退学』という単語が出てくるとは。マイナス思考とはいえ、いくらなんでもこれは重症過ぎる。

 早く一人前になりたいのは分かる。早く結果を出したいと焦るのも分かる。自分と全く同じ立場の人間が持て囃されて、自信を喪失してしまうのも。
 己とて幼少期から姫宮の家に使用人として仕えてきたのだ。何の失敗もなく、何の努力もなくここまで来られたわけではない。

 成長に必要なのは時間と経験だ。しかしながら、学院の秩序が不安定な今の状態で、ひとりで何かを成し遂げるのはあまりにもハードルが高過ぎる。隣のクラスの転校生も、何もたったひとりでTrickstarを勝利へと導いたわけではない。裏で手を引くと言ったら聞こえは悪いが、協力者が複数人いたのは昨日のS1を見れば一目瞭然であった。

 今の彼女に最も必要なのは、居場所のない自分を導く存在だ。
 天祥院英智という絶対的な存在が彼女を認めることによって、彼女を生徒会側の人間に染め、Trickstarおよび隣のクラスの転校生と対立させる。それが、昨晩に蓮巳敬人が書いたシナリオだった。





 事は恐ろしい程にシナリオ通りに進み、遠矢樹里は何の疑いもなく生徒会長の口車に乗せられて、あっさりと陥落してしまった。

 彼はこの学院の頂点であり、己はただの一生徒に過ぎない。ここまで立場が違えば、比べること自体が間違っているのだが、どうにも後味の悪さを感じずにはいられなかった。自分が為し得なかったことを、彼は一瞬にして為し遂げてみせた。己の目の前で。
 彼女があんなに頬を紅潮させて恍惚の表情を見せたのは初めてだ。我が主や、日々樹渉と対面した時でさえ、あんな顔はしなかった。

 仮定の話をしても無意味なのは充分承知している。だが、彼女に嫌われてさえいなければ、今日という日までに彼女を生徒会に引き入れることは、間違いなく可能だったと断言できる。
 どうしていつも、自分だけあんな態度を取られなければならないのか。

 転入して来たばかりの頃は、間違いなくこんな状態ではなかった。転入初日、男子しかいないアイドル科の教室にひとり放り込まれ、今にも泣きそうな顔で自己紹介をしていた彼女が、己に対してだけ大人げない態度を取るようになったのは、一体いつからなのか。何がきっかけだったのか。何度考えても答えは出なかった。


「すっかり会長さまの虜ですね」
「それはまあ、そうなるでしょ。さすが姫宮くんが憧れるだけあって、オーラも何もかも違ったし」
「英智さま、という呼び方は坊ちゃまの真似ですか?」
「ああ、うつったのかな。フェスの練習期間、姫宮くんからちょくちょく英智さまの話聞いてたし」

 己を差し置いて、知らぬ間に主と交友を深めていたことも腹立たしい。主には生徒会長を崇拝し過ぎるなと言い聞かせていたにも関わらず、裏で彼女と彼を称え合っていたとは。
 主以外の人間に小言など言いたくはなかったが、流石にそろそろ我慢の限界だ。

「相手が生徒会長とはいえ、一人を特別視するのはお止めになった方がよろしいかと。貴女は曲がりなりにもプロデューサーなのですから」
「曲がりなりにも、って……なんでいっつも嫌な言い方するかなぁ」
「それはお互い様かと。礼を欠いた相手に対して、わたくしがこれまでどれほど気を遣って来たか、貴女はご存知ないでしょうけど」

 教室まであと数歩。これまでの積もり積もった負の感情をぶつけるのは今しかない。彼女が生徒会の仲間入りをするのは確定事項だ。あれだけ生徒会長に傾倒していれば、どれだけ厳しい言葉をぶつけても、彼女の意思は揺るがないだろう。

「遠矢さま。貴女がわたくしのことを快く思っていないのは、充分承知しています。ですが、わたくしも坊ちゃまの付添として生徒会の仕事に携わる身。もし貴女が生徒会に協力するのであれば、自己中心的な振る舞いで場の雰囲気を乱すことだけは、どうかお止めくださいね」

 彼女を見据えて言い終えた後に気付いた。感情的になり過ぎていた。こんな言い方をすべきではなかった。せいぜい彼女を怒らせる程度で済む言い回しを選択することは出来た筈だ。
 怒るどころか、呆然とした顔で言葉を失っている彼女を前にして、己の選択ミスを後悔した。

 たった今発した言葉は紛れもなく本音であることは間違いない。だが、言い過ぎた。少なくとも今言うべきではなかった。彼女の心が不安定な今は伏せておくべきだった。言葉を選ぶことなど普段なら造作もないことなのに、どうして今言うべきだと判断してしまったのか。

 フォローに走ろうとするも、口を開く前に彼女は逃げるように教室へと走って行った。声を掛けるクラスメイトに対して「何もないよ」と答えた彼女の声は、泣きそうなのを必死で堪えていると明確に分かるほど震えていた。

 今まで課せられていた任務は昨日の時点で解かれている。己が時間をかけて遂行すべきだったことは、代わりに生徒会長の手によって成し遂げられた。全ては解決した筈なのに、鬱積を感じたのは何故なのだろうか。彼女が己を嫌う理由が分からない以上、この感情を形容する言葉はすぐには見つかりそうもなかった。

2017/04/05


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