Ritornare



 居ても居なくてもいい存在。何の役にも立たない存在。フラワーフェスが終わり、私の学校生活はまた以前のルーチンワークをこなす日々に戻ってしまった。
 更に追い打ちをかけるように、隣のクラスのあんずちゃんが早くも輝かしい快挙を成し遂げて、私は一気にどん底へと叩き落とされた。

 あんずちゃんがプロデュースしているユニット『Trickstar』。
 彼らが、生徒会副会長の蓮巳敬人率いるユニット『紅月』とS1で対決し、勝利を収めたのだ。

 私が知り得る限りでは、生徒会に勝てるユニットなど存在しなかった筈だし、ましてやTrickstarはメンバー全員が2年生とはいえ、今年度になって発足したばかりの新鋭ユニットだ。
 そんな彼らが、学院の頂点にいる生徒会のユニットに勝利したのだ。当然彼ら自身の力もあるが、紛れもなく、彼らのプロデューサーであるあんずちゃんの存在が大きかったからに違いなかった。

 勝利を収めたTrickstarのメンバーと共に舞台に立ち、拍手喝采を受けるあんずちゃんを、私は遠巻きに見ていた。
 涙が止まらなかった。感動の涙じゃない。悔し涙だ。
 学院に革命を齎そうとしている新星と、彼らを陰で支えた女神。
 それに比べて、何も出来ない、出来ないどころか何もしていない私は、なんて惨めな存在なんだろう。



 この学院において歴史的な快挙があった翌日も、私はいつもと変わらず機械のように笑顔を作った。まるで自分がこの学院において異物だという事実から目を背けるように。
 周りの目に私がどう映っているかなんて、知りたくもない。どうせ隣のクラスの転校生と比べてこっちはハズレ、だなんて思われているのだ。
 それでも、媚び諂うように愛嬌を振りまくのを止めないのは、そうした方が何事も上手くいくものだと大人たちがよく口にしているからだ。少なくとも、お飾りの存在がいつも仏頂面をしているより、馬鹿みたいにへらへらと笑っている方が、幾分かマシだということだ。



 さすがに食欲は湧かなくて、お昼は自販機で買った缶の紅茶だけ飲み干して、いつもの食堂ではなく教室でぼんやりと外の景色を眺めていた。
 もっと勉強したいこととか、たくさんあるのに。頭が働いてくれない。こうして逃避すればするほど、あんずちゃんとの差は開いていくばかりなのに。このままではいけないと分かっているはずなのに。

「遠矢さま」

 私を様付けで呼ぶ人なんて一人しかいない。出来れば今日は彼とは顔も合わせたくなかったけれど、目の前に来られたのでは避けようがない。顔を上げると、普段と変わらない穏やかな微笑を湛えた伏見くんがそこにいた。
「少々お時間を頂戴してもよろしいでしょうか」

 よろしくない、なんて言おうものなら間違いなく何故かと問い質してくる。残念ながら気持ちの問題以外で断る理由がない。
 未だこの人の前では笑顔が引き攣ってしまうけれど、いい加減苦手意識を克服しなければ。

「いいけど、何の用?」
「着けば分かることですので、わたくしから余計な事を言うのは控えさせて頂きます」
「着けば……って?」
「どうぞこちらへ」

 伏見くんは用件すら伝えず、黙って付いて来いと口にはしないものの、満面の笑みを以て私にそれを強制してきた。随分と遠回しな言い方だけれど、彼の口から言えないということは、誰かが私を呼び出したのだろう。私に拒否権はないので、大人しく彼の後を付いていった。

 少し考えて、呼び出したのは恐らく副会長だと予測がついた。先日のフラワーフェスまでの私の役立たずっぷりが、伏見くん経由で副会長の耳に入って、遠矢樹里はプロデュース科のテストケース失格と判断されたのだ。絶対そうだ。
 お説教程度で済めば良いけれど、最悪この学院を退学させられる可能性だってある。両親には昨日の夜、泣きながら最悪の可能性が起こり得ることを話したけれど、そんな馬鹿な話があるわけないと笑われてしまった。お父さんもお母さんも楽観的過ぎる。この学院はそんな生易しいところではないのに。

 廊下を闊歩する伏見くんは当然、私の胸中なんて知る由もない。彼の後ろをとぼとぼと付いていく私は、さながら処刑を待つ囚人のようだ。
「遠矢さま」
 突然、伏見くんはぴたりと立ち止まれば、身体をこちらへ向けて私の名を紡いだ。危うくぶつかりそうになったけれど、呼声のお陰でなんとか踏み止まることができた。

「ふふっ、そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。恐らく貴女にとっては朗報ですから」

 そんなに私は顔に出やすいんだろうか。伏見くんはまるで小さな子供をあやすように優しい声色で私の不安を取り除いてくれた。

「朗報? 退学は免れたってこと?」
「は?」
 伏見くんが間の抜けた声を出して、ほんの少し苛立ってしまった。かと言って返す言葉も思い付かなくて黙り込んでいると、伏見くんは困ったように笑ってみせた。

「遠矢さまは何もかも悲観的に捉え過ぎですよ。どう考えても、貴女を退学に追い込む理由がありませんし、そんなことをしても誰も得しません」
「居ても誰も得しないと思うけど」
「はぁ……全く、遠矢さまはどうしてそう、捻くれたことばかり言うのでしょうか」
「はあ?」
 今度は私が間の抜けた、というより怒気を帯びた声を出してしまった。

「転入して何ヶ月も経った状態ならば、そのような心境になるのも致し方ありませんが……遠矢さま、貴女はまだ転入して一ヶ月も経っていないんですよ?」

 過去にも同じ事を思ったけれど、転入後すぐに学院トップのユニットの加入試験にあっさり合格するような人に言われてもフォローにならないし、余計惨めになるだけなので、お願いだから黙っていて欲しい。

「それに、現状この学院は、残念ながらプロデュース業をゆっくりと学べる環境ではなくなってしまいました。遠矢さまもお辛いかとは思いますが、今暫く辛抱頂ければと存じます」

 てっきり私の劣等感を更に刺激する言葉が飛んで来るかと思いきや、伏見くんは真剣な眼差しで、まるで私の意思を尊重するようなことを言ってのけた。意外すぎて返す言葉が出て来なかった。今の私はさぞかし呆けた顔をしているに違いない。

 再び伏見くんは背を向けて歩き出し、私もほんの少し距離を置きつつ、その背中を追った。
 さっきは呆気に取られてしまったけれど、伏見くんの言葉がやけに引っ掛かる。ゆっくり学べる環境ではないってどういうことなんだろう。

 知らない、分からないことばかりだ。伏見くんは学院の色んなことを知っているのに。やっぱり私は結局何も成長していないし、ここにいる意味なんてない。いっそ死刑宣告をされた方が、この学院の為になるのではないだろうか。伏見くんが私のことを捻くれているだの何だの言おうと、この学院にいる限り、私は悲観的な考えを失くすことは出来ないだろう。




 伏見くんが足を止めた場所は『生徒会室』。予想通りだ。伏見くんは朗報だと言っていたけれど、副会長に褒められることなど、私は何ひとつしていない。
 彼が扉を叩くと、「どうぞ」という声が聞こえて来た。その声が副会長のものではないことに、この時の私は全く気付いていなかった。

「失礼致します」
 そう言って静かに扉を開け、伏見くんは生徒会室に足を踏み入れた。呼び出された意味が分からない以上、緊張するなと言うのは無理な話だ。私の受け答え次第では、やはりこいつは使い物にならない、と落胆されてしまうのではないだろうか。

「遠矢さま、どうぞお入りくださいまし」
「えっ、あ、はい! し、失礼します!」
 伏見くんに促されて、頭が真っ白になってしまった。何も考えずに入室して、頭を垂れると、後ろでぱたりと扉の閉まる音がした。伏見くんが閉めたのだろう。

「そんなに緊張しなくても、取って食いやしないから大丈夫だよ」

 副会長ではない声が、静かな室内に響いた。誰なのか考えを巡らす前に、私は自然と顔をあげていた。視線の先にいる人物。それが誰なのか、認識するのは容易かった。
 映像だけで、画像のデータだけで知っていた、画面の向こうのアイドル。
 この夢ノ咲学院の生徒会長にして、学院の支配者。
『皇帝』天祥院英智が、そこにいた。

「英智さま!?」

 つい大声を出してしまった。慌てて両手で口を塞いだけれどもう遅い。初対面で早速やらかしてしまった。最悪すぎる。恥ずかしさのあまり、顔が一気に火照る。滅多に起こらない眩暈すらしてきた。

「僕のことを知っているのかい? 嬉しいね」

 悠々と椅子に腰掛けて、天祥院英智は私のことをまじまじと見つめれば、瞳を細めて微笑んだ。その仕草だけで、普通の女の子ならば一目で恋に落ちてしまうんじゃないだろうか。尤も私の場合、一方的に好意を抱くだけで終了することが、恋が始まる前から確定しているのだけれど。彼は天祥院財閥の子息だ。私のような平凡な家の子とは、あまりにも住む世界が違いすぎる。天上の存在なのだ。

「ゆっくりお茶でも出来れば良かったのだけれど、あいにく放課後はこちらの予定が立たなくてね。貴重なお昼休みに呼び出してしまってごめんね、樹里ちゃん」
「えっ、あ、あの、暇してたので大丈夫、です」
「そう? それなら良かった」

 今、目の前の皇帝は私のことをなんと呼んだ? 聞き間違えでなければ『樹里ちゃん』と呼んだ気がする。下の名前で、しかもちゃん付けで呼んでくれる男の人なんて、この学院にはいない。これがときめかずにいられるだろうか。

 突然咳払いが聞こえて、ぼうっとした頭が現実に引き戻された。目の前にいる天祥院英智の視線が、私から斜め横へと移る。同じように私も視線を動かすと、そこには直立不動で静かに佇んでいる伏見くんがいた。

「会長さま。談笑中のところ恐縮ですが、次の授業まであまり時間が残されておりません」
「分かってるよ、弓弦」

 感情などまるで籠っていない、事務的に淡々と言う伏見くんに、天祥院英智は嫌な顔ひとつせずに優しく微笑んだ。色素の薄い髪、青白い肌、全てが儚げで、それなのに、この学院を支配するに値する圧倒的な存在感を放っている。目が離せなかった。

「樹里ちゃん」
 透き通るような青い瞳が、私の双眸を射抜く。
「一応自己紹介しておくとしようか。僕は天祥院英智。この学院の生徒会長。そしてここにいる僕の同士、伏見弓弦が所属するユニット『fine』のリーダーでもある。こうして君と会うことが叶って嬉しいよ。まだ穢れを知らない未来のプロデューサー、遠矢樹里ちゃん」

 多くの人を魅了してやまないその声で、私の名前を呼んで、彼は小首を傾げて微笑んだ。またしても顔が熱くなる。本気で倒れてしまいそうだ。って、ぼうっとしてる場合じゃない。皇帝陛下から直々にお呼び出しを受けたのだから、きちんと言葉を返さなくては。

「私の方こそ、英智さまとお会い出来て光栄です! 復学、おめでとうございます」
 深々とお辞儀して数秒。ゆっくりと上体を起こすと、苦笑いしている英智さまと目が合った。そんな顔をするなんて、今の私の言動でおかしいところがあったのか。理由を探る時間はない。私は鈍い頭を全力で働かせた。
「病み上がりで、色々と大変かと思いますので、私なんかで良ければ、いつでも英智さまのお力になります!」

 そう言い切った後で後悔した。私ごときに何が出来るのか。出来ることなんて何ひとつない。ああ、鼻の奥がつんとしてきた。このままだと涙が出て来てしまう。
 英智さまは目を見開いた後、すぐに慈愛に満ちた笑顔を見せた。私なんかにそんなに笑い掛けてくれていいんだろうか、と何故か申し訳ない気持ちになってしまった。

「まさか樹里ちゃんから申し出てくれるとはね。驚いたよ」
「あ、あの、すみません! 身の程も弁えないで……」
「ううん、良いんだよ。かえって話が早い」

 英智さまはそう言うと、これまでとは打って変わって神妙な面持ちになった。思わず涙も引っ込んで、私はごくりと息を飲んだ。

「樹里ちゃんも、昨日のS1のことは知っているよね」
「はい。まさか紅月が負けるとは思ってなかったので驚きましたけど……でも、あんなやり方、私は正直納得できないです」
 紅月は生徒会側のユニットだ。生徒会長の前で毒づくぐらい構わないだろう。

 確かにTrickstarとかいう新星ユニットが勝利したことは純粋に凄い。でも、彼らだけの力ではない。紅月はTrickstarと戦う前に、UNDEADと2winkという2ユニットと連戦させられたのだ。ルール上は問題ない。ルールの穴をついた作戦だ。あんずちゃんが考えたのか、それとも影の協力者がいたのかは分からないけれど。
 私なんか、人を批判する立場ではない。でも、壇上の副会長が見せた苦々しい顔を思い出すと、何とも形容し難いもやもやとした気持ちが湧き上がってきてしまうのだ。

「樹里ちゃんは潔癖だね。でも、この世界は綺麗事だけでは頂点には立てないんだよ。彼らは別に卑怯な手を使ったわけじゃない。それは分かってくれるかい?」

 生徒会長にそんなことを言われたら、納得できなくても頷くしかない。この人がこの学院の支配者なのだから、口答えは許されない。

「勿論、僕だってこのまま黙っているつもりはない。早速、今日の放課後、B1でUNDEADに勝負を挑むつもりだよ」
「えっ!? その、お身体は大丈夫なんですか?」
「心配しなくても大丈夫。入院中も退屈で身体を鍛えていたくらいだからね。――それで、本題なのだけれど」

 生徒会長は――英智さまは、この世の至宝と言っても過言ではないくらいの満面の笑みを、私に向けた。

「樹里ちゃん。良かったら暫く、生徒会のサポートをして貰えないかな?」

 断る理由なんてない。この人に言われて、学院トップの存在に必要とされて、断るわけがない。
 英智さまが次の言葉を紡ぐ前に、私は無心でこくりと頷いて「はい」と声に出していた。

「焦らなくていいよ。急ぎではない…と言ったら嘘になるけれど。昨日のS1で生徒会の権力は地に落ちてしまった。これから雑務処理も増えて、敬人たちだけでは手が回らないんだ。ああ、難しいことはさせないから大丈夫。部外者に見せられない機密事項もあるし」

 英智さまが何を言おうと、私の答えは決まっていた。もっとお話を聞いていたかったけれど、あいにく予鈴の鐘が鳴ってしまった。

「勿論無理強いはしないけれど、良い返事を聞かせてくれることを願ってるよ。それと、放課後のB1、良かったら樹里ちゃんも観に来て欲しいな。ここだけの話だけれど、ちょっとした発表もあるんだ」

 何を言われても従う以外の選択肢がない。そう思わせてしまう程、この天祥院英智というアイドルは、人を魅了するものを持っているのだ。直に会って、実感せざるを得なかった。これは姫宮くんも虜になるわけだ。




「すっかり会長さまの虜ですね」
 本鈴が鳴るまでの残り僅かな時間、早足で教室へ向かっていると、私の前を歩く伏見くんがぽつりと呟いた。伏見くんがどんな気持ちで言ったのかなんて考えることもなく、私は素直にそれを飲み込んだ。

「それはまあ、そうなるでしょ。さすが姫宮くんが憧れるだけあって、オーラも何もかも違ったし」
「英智さま、という呼び方は坊ちゃまの真似ですか?」
「ああ、うつったのかな。フェスの練習期間、姫宮くんからちょくちょく英智さまの話聞いてたし」
「相手が生徒会長とはいえ、一人を特別視するのはお止めになった方がよろしいかと。貴女は曲がりなりにもプロデューサーなのですから」

 流石に、伏見くんが若干機嫌が悪いことに気が付いた。というか、普段ならすぐに気付く筈だけれど。英智さまとお会いして舞い上がってしまったせいで、感覚が鈍くなっていたのか。

「曲がりなりにも、って……なんでいっつも嫌な言い方するかなぁ」

 ついうっかり口に出てしまった私の独り言を、伏見くんは聞き逃さなかった。足をぴたりと止めて、振り返って私を見下ろすその表情に、いつも見せていた穏やかさはどこにもなかった。

「それはお互い様かと。礼を欠いた相手に対して、わたくしがこれまでどれほど気を遣って来たか、貴女はご存知ないでしょうけど」

 口角は上がっているけれど、目は笑っていない。完全に作られた表情。一種の恐怖さえ覚えるほど、冷たい微笑だった。

「遠矢さま。貴女がわたくしのことを快く思っていないのは、充分承知しています。ですが、わたくしも坊ちゃまの付添として生徒会の仕事に携わる身。もし貴女が生徒会に協力するのであれば、自己中心的な振る舞いで場の雰囲気を乱すことだけは、どうかお止めくださいね」

 言っていることは正論だ。正論すぎて何も言い返せない。それでも、自己中心的だろうと、我儘だろうと、この男にだけは言われたくないのだ。


 転入初日、様々なことが寝耳に水で、わけが分からなくて、右も左も分からなくて、逃げ出したくて、今にも泣きそうだったあの日。
 この伏見弓弦という人は、自分もつい数日前に転入してきたばかりで、何もかも分からない。貴女と全く同じ立場だ。だから、分からない者同士、一緒に手を取り合って頑張っていこう。そう言って、私を勇気付けてくれたのだ。

 私は人が自分をどう思っているのか察知することだけは敏感だ。クラスの皆が、新設されたプロデュース科に投げ込まれた私に対して「この子はやっていけるのか」なんて疑わしい眼差しを向けていた。そんな中、自分と同じ立場の生徒が偶然同じクラスにいて、声を掛けてくれて。なんて優しい人なんだと思った。発足したばかりのプロデュース科より、歴史あるアイドル科で何も分からない状態でやっていく方がずっと辛いだろう。そう思っていたのに。

 伏見弓弦が、学院の頂点に位置するユニット『fine』の加入試験にあっさりと合格したのを知って、私の心は粉々に砕かれた。私は人を見る目がないのだと痛感した。何が同じ立場だ。何が分からない者同士だ。何もかも分からない人間が、fineのメンバーになれるわけがない。fineの加入条件が異常なほど厳しいことも、周囲の噂で知って、彼に対する嫌悪感は一気に限界に達した。

 同じだなんてこれっぽっちも思ってなかったくせに。見え透いた嘘をついて、それに私は騙されて。だったら初めから心にもないことを言わないで欲しかった。どうして私に優しくしたの。嘘をついて内心馬鹿にしていたの。どうして。どうして。考えれば考える程、怒りは増していった。

 実は良い人なんじゃないかと思い直したりもしたけれど、やっぱり無理だ。
 私が悪い。私が役立たずだから。私が使えないから。この感情は嫉妬でしかない。
 頭では分かってはいるけれど、心がそれを許さないのだ。

 人の気も知らないで。言い掛けた言葉をなんとか飲み込んで、私は伏見くんを無視して逃げるように教室へ戻った。たまたま目が合った鳴上くんが「何かあったの?」と心配そうな顔で訊ねてきて、それに対して何もないよと答えるので精一杯だった。私の声は酷く震えていた。さぞかし酷い顔をしていたんだろう。

 私の声を聞いた伏見くんがどんな思いをしていたかなんて、この時の私には分かるはずもなかった。

2017/03/20


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