亡国の少年たち III
 平穏な日々の終わりは突然だった。
 いつもと変わらず、オフィスビルの一室でユキヤたちの帰りを待っていたリンネは、突然鳴り響いた銃声に背筋を凍らせた。
 アンダーグラウンドは、決して平和な世界ではない。
 己たちが生きる為の物資は、何もせずに与えられるものではない事くらい、リンネとて分かっている。日本人というだけでまともな職に就く事など出来ないのだから、何かを得る為には、犯罪に手を染める事になる。
 寧ろ今まで見逃されていた事が奇跡だったのかも知れない。ここ、パリのアンダーグランドではマフィアの抗争が激化しており、己たちがターゲットにされるのは時間の問題だったのだ。

「リンネ! こっち!」

 息を切らしながら走って部屋に入って来たアヤノが、有無を言わさずリンネの手首を掴む。リンネより長くこの地にいるアヤノならば、抜け道も知っているはずである。だが、逃げ切れるとは限らない。地の利があるのは、今このオフィスビルを攻撃している何者かも同じであろう。

「アヤノ、他の皆は……」
「いつもならリョウたちが見回りから帰って来るはずだけど、このままじゃ……」

 銃声は外から聞こえ、下手をしたら既に攻撃を受けている可能性もある。リンネも他の皆も、護身用として銃は所持しているが、奇襲に太刀打ち出来る保証はない。

「どうしよう、ユキヤが……」
「弱気になるな! 信じろ!」

 涙声になるリンネを叱咤するようにアヤノが叫ぶと、同時に窓の外から銃弾が放たれた。運良く、ふたりがいた場所とは少しずれた場所が襲われ、間一髪でかわす事が出来た。
 リンネが悲鳴を上げるより先に、アヤノが手首をきつく掴んで廊下を走り出す。そのまま死角を抜けてビルを後にしようとした瞬間。
 ふたりの目の前に、少年が血を流して横たわっていた。副リーダーのシンジ――『家族』の一員である。

「シンジ!!」

 アヤノが即座に駆け寄って、リンネもその後を追う。何度も声を掛けるアヤノの横でリンネはシンジの容態を確認した。太ももと脇腹が抉られ、とめどなく血が流れている。

「リンネ、手伝って! シンジを安全なところへ運ぶ!」
「分かった」

 きっともう助からない。頭では分かっていても、リンネはアヤノに歯向かう気はなかった。自己保身ではなく、こんなところにシンジを置いてきぼりになんてしたくないと思ったのだ。このビルの中に、他にも銃弾に倒れている家族はきっといる。全員は救うのは不可能だ。でも、目の前に倒れている人を見捨てるほど、リンネとて人の心は失っていなかった。
 例え助からなくても、最期は穏やかでいられるように。それは、生き延びた者たちが唯一出来る弔いである。



「――マリコ! マリコ、しっかりしろ! 畜生!」

 シンジの肩を支えながら、裏路地に避難したリンネたちの耳に、聞き慣れた声が響く。己たちのリーダー、佐山リョウの声に違いなかった。
 すかさずアヤノが声を上げる。

「リョウ! こっち!」

 裏路地から見えるリンネの視界に、血まみれになったマリコを抱えるリョウと、銃を連射して抵抗するユキヤの姿が飛び込んで来た。

「急いで! あいつら、ナイトメアまで持ち出して来たんだ! 地下道に逃げ込まないと、間に合わない!」

 リンネたちの存在に気付いたユキヤが声を荒げた。だが、リョウの腕の中にいるマリコを放ってはおけず、アヤノが泣きそうになりながら声にならない声を上げる。

「リョウ……! マリコは、マリコは……!」

 シンジと違い、マリコはもう息絶えているように見えた。銃弾をまともに喰らい、既に息を引き取っているのは想像に容易いが、認めたくはなかった。アヤノも、リンネも。だが、僅かな希望を消し去るように、血の臭いが漂っていた。

「……わかってる……!」

 マリコの亡骸を地に置いて、リョウは彼女が持っていた物を拾い上げ、リンネたちの元へ走り出した。手元にあるのは、マリコがリョウのために用意していたプレゼントであった。日頃の労いの為にこれを渡したいと話していたのは、つい昨日の出来事である。



 地下道へ逃げ込んだ後、ユキヤはシンジに一本の注射を打った。『リフレイン』と呼ばれる麻薬である。せめて最期は苦しまないように。
 シンジはリフレインで意識が朦朧とする中、情報を伝えようと必死で口を開いた。

「……リョウ兄、ユキヤ。仕掛けてきたのは”Dr.”の手下どもだ。あいつら、いきなりナイトメアを出して来て……」
「わかってる」

 リョウはシンジの手を握り締め、安心させるように言葉を紡ぐ。

「目が覚めたら、何もかも元通りだ。俺たちの、俺たちだけが住める国を作ろう」
「あるのかな、そんなところ」
「あるさ。チャカで奪われたものは、チャカで取り戻してやる。それが俺達のやり方だ。そうだろ?」
「そうだね……」



 束の間の楽園は、一気に崩れ去った。
 もう後戻りはできない。過去に戻る事も出来なければ、再び平穏な日々を手に入れる事も出来ない。己たちがこれから歩む道は――。

 復讐。
 家族を皆殺しにした輩を、一人残らず同じ目に遭わせてやる。
 生き残ったリョウ、アヤノ、ユキヤだけでなく、非力なリンネも同じ事を思っていた。



「これからどうするの?」

 暗い下水道で、弔いのようにライターの炎を掲げるリョウに、アヤノが訊ねた。

「決まってる。この世界で、負けた奴に与えられるものは何もない。まずは、Dr.を勝負に引きずり出す」
「仇を討つんだね」

 きっぱりと言い切るリョウに、アヤノは同調したが、思いも寄らない言葉が返って来た。

「違う」
「え?」
「奴の首を取るのは、オードブルみたいなもんだ」

 不敵な笑みを浮かべるリョウに、リンネは少しばかり肩を震わせた。当然、皆の仇は討つ。けれど、単なる復讐では終わらないとはどういう事なのか。
 小動物のように目を瞬かせるリンネとは対照的に、リョウは獰猛な獣な眼差しで言い放った。

「手に入れるんだよ、俺たちの国を……!」





 リンネたちの住処を狙ったのは『Dr,』と呼ばれるリーダー率いるギャングであり、エリア18――北アフリカから流れて来た難民が、今回の襲撃犯であった。彼らがリョウたちのテリトリーでリフレインを売り捌いていた為、三下に『焼き』を入れたところ、こうして報復を受けたのだった。
『Dr.』はブリタニアの研究機関出身の元軍人であり、エリア10のカンボジアから流れて来たのだという。巨額の富を手に入れる為、アンダーグラウンドに身を落とす――リンネにはその行為が甚だ信じられなかったが、『家族』を殺した奴の事など理解したところで意味がないというものである。

「リンネ」

 暗闇の中、仮眠を取ろうにも寝付けずにいたリンネに、ユキヤがそっと声を掛けた。

「……ユキヤは寝ないの?」
「うん。ちょっとやる事があってね」

 ユキヤはそう言うと、リンネの隣に座ってノートパソコンを開いてみせた。ハッキングの類の知識などないリンネは、英数字の文字列に首を傾げるばかりであった。

「……どういう意味なのか分からない」
「ははっ、今度教えてあげるよ」
「いいの?」
「お、乗り気だね。リンネもハッキングに興味あるんだ」

 リンネは即座に頷いた。全く興味がないわけではないが、ユキヤが得意としている分野を少しでも知りたいというのが本音である。呑み込みが悪く幻滅されるかも知れないが、今のリンネには、そんな後ろ向きな感情は存在していなかった。少しでも未来に希望を持ちたいという気持ちが無意識に働いているのか、あるいは、リョウの復讐の熱にあてられて、リンネ自身も気が昂っているからなのか。

「……私も復讐の手伝いがしたい」

 ぽつりと呟いたリンネの言葉に、ユキヤは驚きのあまり言葉を失った。ただ、リンネの決意を無視するわけにはいかなかった。

「……僕としては、リンネには安全な場所で待っていて貰いたいんだけど」
「安全な場所なんてない」

 己たちはこうしてあっさり居場所を失ったのだ。リョウとユキヤが復讐の為に動くとはいえ、アヤノも当然ついていくだろう。自分だけが安全な場所で待っているなんて御免だ。仮に戦力外として自分が安全な場所で待機していたとしても、三人が帰って来るまで無事でいられるとは限らない。寧ろ皆と一緒にいた方が安心でもあり、なにより、最悪三人が命を落として自分だけが生き残る事のほうが、リンネには耐えられなかったのだ。

「……そうだね。リンネの言う通りだ。僕たちが無傷で戻って来られる保証もないし、四人全員で協力しようか」
「足手まといにならないよう、頑張ってみる」
「うん。絶対に成功する為の作戦を練るよ」

 パソコンのモニタから放たれる淡い光が、ふたりを照らす。
 ユキヤは決してリンネを否定したりしなかった。自分が彼女を巻き込んだ事への贖罪か、あるいは彼女を好いているからか。恐らくは両方だ。

「でも、ちょっと意外だった。まさかリンネがそんな事を言うなんて」
「ずっと守られてばかりだったから。少しは役に立ちたい」
「誰も役に立ってないなんて思ってないよ」
「ううん。誰がどう思うかじゃない。私がそう思うだけ」

 ユキヤの邪魔をしたくないとは思いつつも、もしかしたらゆっくり話せるのは今が最後かも知れない。そう思うと、リンネは自然と饒舌になっていた。

「……皆が私を迎え入れてくれたのも、ユキヤが頑張ってくれたから」
「何もしてないよ。偶々リョウが僕たちを受け容れてくれる事になっただけで」
「嘘」

 決してユキヤを責めるわけではないが、リンネは何も知らないわけではない。アヤノをはじめとする、家族となった皆から色々な事を聞いていたし、生活のために男子たちが犯罪に手を染めている事も知っていた。

「……マリコから聞いたの。人身売買組織に売り飛ばされたマリコを、皆で協力して助けたんでしょ」
「……ああ、そんな事もあったね」
「私が家族になる前の話だけど、ユキヤもハッキングしたり、大活躍したんだよね」
「ま、これくらいは朝飯前だからさ」

 そう言いながら、ユキヤはパソコンの画面を見つめていた。何もしていないわけではなく、様々なシミュレーションを試みて、リンネが生存する為の最善策を練っているのだ。

「家事はマリコは率先してやっていたし、戦えなくても皆の役に立っていた。どうして私が生き残っちゃったんだろうって、少しだけ思う」
「リンネ、自分を粗末にしたら怒るよ」
「……だから、せめて、私も少しでも役に立ちたい。マリコやシンジ……皆の命が無駄にならないよう、ちゃんとこの命を有効活用したい」

 淡々とそう告げるリンネに、ユキヤはまさか彼女は、復讐の為なら自らの命を犠牲にするのではないかと、少しばかり不安を覚えてしまった。
 だが、計画通りに行けば、生存できる。リンネだけではない。アヤノも、そしてリョウも。
 ユキヤは漸くモニタから目を離せば、リンネを見つめてあやすように髪を撫で、笑みを浮かべてみせた。

「……決まったよ。リンネはアヤノと行動する事」
「それは、アヤノが私を守るんじゃなくて、一緒に戦うって事で良い?」
「そうならない事を願いたいけどね。いざとなったらふたりで協力する事。ひとりで突っ走らないで、ちゃんと相談して、アヤノの指示に従う事」
「それって、結局アヤノに守られるって事じゃ……」

 納得いかないと思いつつも、ユキヤにも考えがあって言っているのだから従うしかない。アヤノのほうが修羅場を経験しているだろうし、とにかく足を引っ張らない事を第一に考えよう。
 唇を尖らせていじけた顔で頷くリンネに、ユキヤは改めて髪を撫でて、そっと手を離した。

「さて、僕はリョウとちょっと話し合いをするから……リンネはアヤノと一緒に寝ておいで」
「……子ども扱い」
「ふたりが起きたらちゃんと話すよ」

 仕方ない、とリンネは頷いて、ユキヤから離れてアヤノの元へ向かった。もしかしたらユキヤも仮眠を取るかも知れないし、無駄話をして疲れさせては駄目だと思ったからだ。
 すぐ近くで横になっているアヤノの傍に移動し、隣に寝転がると、リンネの肩に何かが覆い被さって来た。下水道をうろつくねずみにしては重い。触れてみると、それはアヤノの腕であった。寝惚けているのか、それとも起きているのか。

「アヤノ、おやすみ」

 どちらでも良い。己はアヤノの傍にいるまでだ。リンネは優しく囁けば、アヤノの腰に手を回して抱き締めて、そのまま目を閉じた。肩に触れていたアヤノの腕が、抱き返すようにリンネの身体を包み込む。
 きっとアヤノも心細いのだろう。突然家族を、住処を失ったのだから当然だ。マリコの代わりにはなれないけれど、一緒に仇を討つことは出来るはずだ。成し遂げてみせる。もう、リンネの心に迷いはなかった。

2023/06/02
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