花の都、パリ。E.U.が観光地として海外にアピールする為にそう称しているだけであり、実際のところ、特権階級の住まう場所以外――郊外は荒れ果てたものであった。旧日本人はシテ島の収容所へと投獄され、他の自治州と同様、パリもまた差別に溢れていた。
果たしてアムステルダムと何が違うのか。どこも同じだ。リンネははじめこそそう思ってはいたが、以前とは確実に違う事がひとつあった。己たちは収容施設で迫害される事はなく、アンダーグラウンドで慎ましく生きられる事である。
しかしながら、安寧の地を手に入れるには対価が必要である。ユキヤはともかくリンネは何も出来る事がなかった。一体己には何の価値があるのか。何故ユキヤはアムステルダムを脱出するのに己を誘ったのか。訊ねても答えはなかっただけに、リンネはこの先己は本当に生き延びる事が出来るのかと、不安な日々を送っていた。
そんなある日、転機が訪れた。リンネだけでなく、ユキヤにとっても同様である。
シテ島の収容所を脱走した旧日本人、佐山リョウと偶然出会い、彼らに迎え入れられる事となったのだった。
内装工事が途中で放棄されている、小さなオフィスビル。そこがリンネの新たな家となった。
収容所を脱走した二十人ほどの日本人が、ここで共同生活を送っている。女子部屋と男子部屋に分かれており、生活には困らない。尤も、生活費を稼いで来るのは専ら男子の仕事であり、当然真っ当な職に就く事が出来ないだけに、悪事に手を染める事となる。
「アンダーグラウンドは、あたしたち日本人だけじゃない。ユーロピア全域から来た移民がここに集ってるんだ」
「移民の人たちが日本人を迫害する事はないの?」
「うん。今のところは、だけど」
遥々アムステルダムからやって来たリンネを、同じ女子の香坂アヤノは快く歓迎した。ユキヤは早速リョウと意気投合し、漸くリンネは彼の庇護から離れる事となった。正直寂しくはあるものの、己の存在がユキヤの足を引っ張っていたとしたならば、これが最善だと受け容れた。なにより、アヤノが気さくな性格ですぐに打ち解ける事が出来、それがリンネにとっては救いであった。
「ここではあたしたちは家族みたいなものだから、リンネも安心して過ごして欲しいんだ」
「……家族? もしかして、私も?」
「うん、勿論」
笑みを浮かべて即答するアヤノに、リンネはこんな幸せな事があって良いのかと、感極まって双眸に涙を浮かべた。
「ど、どうしたの!?」
「私……お父さんが戦場で死んで、お母さんもその後を追って……ずっとひとりぼっちだったから……」
「ひとり? ユキヤは?」
アヤノはてっきりユキヤとリンネは兄妹だと思っていた為そう訊ねたのだが、リンネは涙を拭いながら首を横に振った。
「ユキヤは、赤の他人の私を助けてくれたの。私を連れて、アムステルダムを抜け出して……」
「えっ、リンネとユキヤは全然面識なかったの?」
赤の他人なのに迫害から助けるなど、成瀬ユキヤという少年はさぞ正義感の強い性格なのか――素直にそう思ったアヤノであったが、それは違うとばかりに他の場所から唐突に声が飛んで来た。
「それは違うんじゃない? だって、二人とも同じゲットーで暮らしてたんでしょ?」
「どういう事? マリコ」
アヤノからマリコと呼ばれた『家族』のひとりは、興味深そうにリンネを眺めれば、得意気に言い放った。
「ユキヤはさ、リンネの事が好きだったから、これがチャンスだって助けたんじゃない?」
「え、そうなの?」
「そうなの、って……本当アヤノは色恋沙汰には鈍いよねえ」
きょとんとするアヤノを呆れ顔で見遣るマリコであったが、リンネはそれは有り得ないと首を傾げた。ユキヤの存在を知ってはいても、話した事は一度もなかったのだ。突然投げ込まれた手紙の指示通りに待ち合わせ場所へ行き、会話をしたのはその時が初めてである。
リンネはマリコを否定したいわけではないのだが、考え難いと首を横に振った。
「でも、ユキヤが私を好きになる理由がない」
「リンネが気付いてないだけで、何かきっかけがあったのかも」
「それはない……ただ、同じように迫害を受けていたから、仲間意識はあったのかも。それだけだと、理由としては弱いけど……」
それでも足手まといの女を連れてパリまで長旅をするなど、自分だったら考えられない。一体ユキヤは何を思って、何の理由があって己を助けたのか。いくら考えても、リンネの疑問は解消される気配がない。
だが、マリコだけはそうは思っていなかった。
「だから、絶対ユキヤはリンネの事好きなんだよ」
女子部屋の外で佇む青年と少年。ふたりは顔を見合わせ、平然としている少年とは対照的に青年のほうが気恥ずかしさで頬を引き攣らせている状態である。
「帰って来たは良いが、声を掛けるタイミングじゃねえよな……」
「そう? 別にいいんじゃない?」
「いや、ユキヤ……なんで張本人のお前がそんなに冷静なんだよ……!」
「リョウって意外とそういうの気にするんだ」
焦るリョウをよそに、ユキヤはしれっとした顔で女子部屋の扉をノックした。扉の向こうで会話が止まる。
「ただいま。『仕事』が終わったから帰って来たよ」
暫くして、扉が開かれる。出迎えたのはアヤノであった。
「おかえり、ユキヤ。あれ、リョウもいたの?」
「そりゃいるに決まってるだろ」
「いつもリョウが率先して声掛けるのに、ユキヤの後ろにいるなんて意外だね」
良くも悪くも何も分かっていないアヤノの横をすり抜けて、ユキヤは女子部屋で寛いでいるリンネに向かって手を振った。
「ただいま」
「……おかえり」
リンネはまさか先程の会話が聞かれてはいないかと、頬を染めつつ返したが、ユキヤはいつもと変わらず飄々とした態度でいた。果たして聞こえなかったのか、あるいは聞こえても気にしていないのか。
彼らの後ろで、リョウとマリコが目配せして苦笑いを浮かべているなど、当の本人たちとアヤノは知る由もないのだった。
男子部屋へ戻ったリョウは、真っ先にユキヤに小声で訊ねた。他の『家族』はちょうど出払っており、わざわざ人目の付かない場所に移動してまで話す事ではない為、リョウは一先ず簡潔に済ませようとした。
「で、どうなんだよ。実際のところは」
「何が?」
「リンネの事だ。好きなのか?」
「さあね」
適当にはぐらかすユキヤに、リョウは追及するように距離を詰めて険しい顔付きを見せる。
「え? この展開って、もしかしてリョウもリンネの事好きなの?」
「んなわけねえだろ」
「そうあっさり否定されると、リンネも傷付くんじゃない」
「はぐらかすな。お前の覚悟を聞いてるんだよ」
覚悟という単語に、それまで飄々としていたユキヤの顔色が変わる。その表情から笑みは消え、冷たい眼差しをリョウへと向ける。
「リョウ、それってどういう意味?」
「この『城』もいつまで持つか分からねえ。もしリンネに何かあったとしたら、お前はどうする?」
「どうするって……」
抽象的な言い方で何をどう返せば良いのか。とはいえ、ユキヤとてリョウの真意は理解していた。アンダーグラウンドとは常に危険と隣り合わせであり、特にここパリでは、犯罪組織の抗争も起こっている。自分たちも悪事に手を染めているだけに、この場所が襲撃されるのも時間の問題だとユキヤは察している。
つまりリョウは、非戦闘員であるリンネが抗争に巻き込まれる事を想定して話をしているのだ。
ユキヤは隠し事をするつもりはなかった。そんな事をしても益はなく、別に個人的な感情をリョウに伝える分には何も失うものはないからだ。
「リンネは僕が命を懸けても守るよ」
「……は?」
「もしかして、質問の意図はそういう話じゃなかった?」
「いや、合ってるが……まさかそこまでとは……」
リョウは自分自身が思っていた以上に動揺したが、軽く咳払いをしていったん思考をリセットすれば、再度真剣な顔付きでユキヤを見つめた。
「そうあっさり命を懸けられたら、正直こっちは困る。ユキヤ、俺はお前の能力を高く買っている」
「ありがとう。まあ、僕もそう簡単に死ぬつもりはないけどね」
「……じゃあ、仮にあの子が死んだら、お前はどうする?」
刹那、場の空気が凍り付く。
「この手で復讐する。一人残らずね」
恐ろしく冷たい眼差しで告げるユキヤに、リョウはたじろぐ事もなく、静かに頷いた。
「……分かった。その覚悟が聞けて満足だ」
「へえ、窘めないんだ。感情的になるなとか言われると思ったけど」
「いいや、ここに住む奴らは全員『家族』だ。ユキヤ、お前の判断は正しい」
「それは良かった」
成程、己を試していたのかとユキヤは肩を竦め、安堵の溜息を吐いた。ここにはリンネと同様、非戦闘員の子どもたちもいる。『家族』として受け入れられる為には、時として感情論も必要なのだ。
ユキヤは冷淡に見えて、ここでの暮らしは気に入っていた。リンネと同様、アムステルダムで迫害されて来た己が、やっと手に入れた安寧の地なのだ。手放したくはないし、この平和が壊される事があれば復讐する。はじめからそう考えていたわけではなかったのだが、徐々にそんな気持ちが湧き始めていたのだと、ユキヤはリョウとの対話で気付かされたのだ。
「さて、重苦しい話はここまでにして」
「まだ何かあるの?」
「お前らの馴れ初めを聞いてねえ。リンネはお前に惚れられるアテがないみたいだが……」
そう言ってニヤリと笑うリョウに、ユキヤは打って変わって呆れ果てる様に肩を落とした。
「ねえ、リョウ。それって僕を『家族』として認める為の質問? それとも興味本位?」
「後者だ」
「はあ……」
別に隠す事ではないのだが、マリコがリンネに訊ねて困らせていたのと同じ言動ではないか。ユキヤは呆れつつも、己たちを受け容れてくれたリョウのちょっとした質問に答えるくらいなら良いだろうと、仕方なしに口を開いた。
「リンネが迫害される原因を作ったのは僕なんだ」
「……なんだと?」
「本人は何も気付いてないけど」
「だな……それどころか、傍から見てもお前に感謝しているようにしか見えないぜ」
これは単なる惚気話ではない、とリョウは神妙な面持ちになって、ユキヤの隣で傾聴の意思を示した。
「……僕はゲットーの学校で、毎日暴力を受けていたんだけど……偶々それを見掛けたリンネが、教師をその場に呼びつけたんだ」
「へえ、なかなか出来る事じゃないぜ」
「ただ、教師も見て見ぬふりだから、暴力はただの遊びで済まされて終わって……今度はリンネもターゲットになった」
「正直者が馬鹿を見る、ってか……クソくらえだ」
淡々と呟くユキヤの話に、リョウは苦虫を噛み潰したような顔で忌々しく吐き捨てた。ふたりがどうやってアムステルダムのゲットーを脱走したのか、リンネは多くは語らなかったが、リョウはユキヤから直接詳細を聞いていた。爆発物を自ら作り、校舎を爆破して多くの死者を出した、と。その能力を買って、ユキヤと連れのリンネを受け容れたというのが事の顛末である。
「だが、アヤノがリンネから聞いた話とは違うな」
「へえ、リンネもそこまでアヤノと打ち解けたんだ。良かった」
「ああ。俺もリンネは嘘を吐く子だとは思ってねえ。そしてユキヤ、お前も同じだ」
お前を否定する意図はない、と念を押すリョウに、ユキヤは苦笑しつつ言葉を続けた。
「ありがとう。リンネは『両親が亡くなってから迫害されるようになった』って言ってたでしょ?」
「なんだ、知ってたのかよ」
「タイミングが近かったからね。勿論、父親が市民権を得る為に軍人になったは良いものの、捨て駒として前線に出されてブリタニア軍に殺されて……母親もその後を追ったとなれば、そりゃあ本人も塞ぎ込むし、弱者を求めている周囲にとっては格好の餌食だ」
ユキヤの話に、リョウは「待て」と一旦中断させた。リンネの父親のくだりはリョウは初耳であり、ユーロピアの軍人になったのなら、例え捨て駒だろうと戦死すれば市民権を得られるからだ。
「その話が本当なら、戦死した父親の子どものリンネは、E.U.の市民権を得たって事になるが……」
「法律上はそうだけど、アムステルダムは本当に酷かったんだ。徹底的にリンネを精神的に追い詰めて、正常な判断が出来ない状態にして……本人の気持ちが落ち着くまではゲットーで預かるって事になったわけ」
「勝ち逃げは許さねえってか」
「まあ、市民権を得てゲットーを離れたところで差別はあるし、リンネがひとりで生きていけるかはまた別の話だけど」
市民権を得たところで、生まれ持った人種も変わるわけではない。『イレヴン』と蔑まれる旧日本人である事に変わりはなく、愛する両親を喪い、行った事のない故郷にも帰れず身寄りのないリンネが、たったひとりで日本人のいない学校に通い、卒業して就職し、不自由な暮らしが出来るとは言い切れなかった。
「……成程な。ただ、ユキヤが原因ではないと俺は思うがな」
「色々な事が重なったからね。でも、リンネが僕を助けようとしなければ、今頃正式にゲットーを離れてそれなりの暮らしをしていたかも」
「悪いが、それは有り得ねえ。日本人同士で迫害しているってんじゃ尚更だ」
ただ、リョウは新たな疑問が湧いた。ユキヤが何故リンネを連れてアムステルダムを離れたかは理解出来たが、それは決して恋愛感情と結びついているわけではないだろう。どちらかと言えば、贖罪の為にリンネを助けているといったようにリョウは感じた。尤も、リンネの迫害がユキヤのせいだとは全く思ってはいないのだが。
「しかし、マリコも先走り過ぎだな。リンネが本気にしたらどうすんだか」
「本気って、何が?」
「お前がリンネの事が好きって話だよ」
「え? 好きって言ったよね?」
いや、それは恋愛感情とは言わないだろう。リョウはそう言い返そうとしたのだが、ユキヤの真っ直ぐな瞳に何も言えなくなってしまった。
「皆が見て見ぬ振りをする中で、勇気を出して助けようとしてくれた子だよ。好きになるに決まってるよ」
「そうか……いや、そういうもんなのか……?」
「うん」
リョウはいまいち納得がいかなかったが、ユキヤの言葉は本心であった。本人には決して打ち明ける事のない事情を抱え、この命に代えてでも彼女を守る――成瀬ユキヤは、嘘偽りなくそう思っていた。
2023/05/13