ほんの少しのスパイスで


 大学に進学した私は、怒涛の勢いで講義を詰め込み着実に単位を修得していき、三年目には毎日キャンパスに通う必要もないほど、時間に余裕が出来ていた。これで就職活動に勤しめると思ったものの、進路は未だ漠然としていた。やりたい事を見つける為に進学したは良いけれど、勉強とアルバイトに明け暮れる日々の中で、きらきらと輝く夢は見つけられずにいた。
 このままで良いのだろうか。自分に出来そうな業種にひたすら応募して、何処かに引っかかれば良いなんて。それが普通の人生なのだろうと思いはしたけれど、果たして本当に――。

 そんなある日。大学で知り合った、芸能事務所に所属している友人に「エキストラとして出てみないか」と誘われて、小規模な舞台に名前も台詞もない役で出る事になった。
 まあ、台詞すらないただの村人Aで良ければ……と、フットワークの軽い私は了承したのだけれど、いざステージに立つと、瞬く間に舞台美術の世界に心を奪われていった。

 手作業で作られた簡素なステージ。けれどそこは、本番が始まった瞬間、夢のような世界へと一気に変わった。たとえエキストラであろうとも、スポットライトを浴び、観客の視線が自分へと集まる。
 いつもの私なら、耐えられなくて卒倒してしまうに違いない。けれど、この時の私は違った。
 紛れもなく、舞台上の私は『自分ではない誰か』になっていた。
 台詞もない、名前もない、ただの村人Aでも、だ。

 それはまるで、ある種の魔法のようでもあった。
 子どもの頃に学芸会で体育館のステージに立って、二言三言喋った事はある。けれど、はじめてれっきとした舞台に立ってみて、この『夢のような世界』を再び味わいたい――アドレナリンが出ていたのだろうか。この時の私はどういうわけか、突拍子もなくそう思ったのだ。



「……とはいえ、この年齢でのスタートは遅すぎるか……せめて演劇関係の学校に行かないと……」

 あの日以来、取りつかれたようにネットで情報を集めたり請求した資料を見ている私に、この仕事を紹介した友人が、驚きつつも思い掛けない言葉を掛けてくれた。

「わざわざ他校に編入するより、このまま経験を積んでみるのはどうだろう。深雪の事、紹介してみるよ」

 エキストラの仕事は単発だったけれど、友人はどうやらコネクションがあるらしく、芸能事務所の人に私を紹介してくれる事になった。とんとん拍子で話が進んでいき、学生かつ友人のような芸能活動とは無縁だったゆえに、取り敢えず『予定が合えば使えるエキストラ』として、演劇の世界に片足突っ込む事になったのだった。

 いくら一、二年で大半の単位を取り、毎日大学に通わなくてもよくなったとはいえ、仕事と学業の両立は大変だった。アルバイトより拘束時間も長く、日々の生活における比重は、学校より仕事のほうが圧倒的に高かった。とはいえ、例えば定時制や通信制の学校に通いながら社会人として働いている人もたくさんいるのだから、泣き言は言っていられなかった。
 それに、自分で『これがやりたい』と思って決めたのは、多分、今が初めてだ。
 全力でやってみたい事が漸く見つかったのだ。辛い事、落ち込む事は勿論あるけれど、それ以上に、忙しい毎日はとても充実していた。





「俺だって驚いたよ。まさか、大人しかった西篠が舞台女優になっていたとは」

 人生は偶然の連続であるとは、一体誰の言葉だっただろうか。
 さすがに舞台女優とまではいかないものの、エキストラのひとりとして各地を回っていた私の目の前に、アイドルとして活動している高校時代の同級生が現れたのだから。

 神谷くんは、言われてみれば確かに当時からオーラが違ったから……とある意味納得出来るところはある。世界を見て回るなんて言っていたから、大物になりそうだと漠然と思ってはいたけれど。
 でも、まさか東雲まで一緒にアイドルとして活動しているなんて。

「西篠さん、私が作ったケーキ食べてくれないんですか?」

 ……いや、『まさか』という感想は訂正しよう。東雲は有言実行してパティシエになっているのは紛れもない事実だ。目の前に出された、果実がふんだんに乗ったチョコレートケーキ――ショコラベリーケーキなる名前がつけられたそれは、口にするのが勿体ないと感じてしまうほど、丁寧に、美しく造られていた。アクセサリーショップできらきらと輝くピアスやリングを見ている時、コスメ売場で新作がディスプレイされているのを見た時のような、心が躍る感覚を自然と抱いている事に気付いて、我ながら高校時代と何も変わっていない、と心の中で苦笑してしまった。

「ふふっ、西篠さんのその顔を見ただけで、口に合ったのだと分かります」

 ケーキを一切れ、口に含んで数秒も経っていないのに、そんな事を言われてしまうところも、高校時代と何も変わっていない。私も、そして東雲も。





 Café Paradeは従業員五人が全員アイドルとして活動している為、店舗は不定期営業なのだという。今回は偶々神谷くんが特別に店を開けてくれたけれど、また此処に来たいと思っても、仕事と学校が両方休みの日に都合良く営業しているとは限らない。そう考えると、私は相当幸運だったのではないか。
 夢のような時間だった。数年ぶりに神谷くんと東雲に再会出来たし、心残りといえば、他の三人とは挨拶くらいしか出来なかった事くらいだ。
 尤も、アイドルとプライベートで会うなんてもう二度とないかも知れない。神谷くんとも東雲と直接会話出来るのも、今日が最後だったのかも。そう考えると、一生分の運を使い果たしてしまった気がしないでもない。



 もう二度と会えないかも――そう半ば諦めていたのだけれど、芸能畑は広いようで狭く、この先Café Paradeと顔を合わせる機会がそれなりにあるなど、この時の私はまだ知る由もなかった。





「は!? いや、無理です! 私、学生ですよ!?」

 お偉いさんに呼び出された私は、開口一番に拒否した。当たり前だ。私をエキストラではなく、正式に舞台女優として使っていきたいというのだ。
 けれど、相手は「君を紹介した友人も、そしてアイドルだって学業と仕事を両立してる」と冗談めかして言って、そしてこう告げた。
「西篠さんに初めから完璧にこなして貰おうとは思っていない、社会勉強としてチャレンジして、成長して欲しい」と。
 もう、これは私の意思とは関係なしに決定事項ではないのか。

 勿論、本当に嫌なら断る事は出来る。
 けれど、これは重荷であると同時にチャンスでもある。
 演劇関係の学校に進学出来ていない時点で、私はハンデを抱えている。そんな私にチャンスが巡って来たのだから、ここは受けた方が良い。精一杯頑張って、駄目なら駄目で現実が分かったと諦めも付く。

「……分かりました。頑張ってみます。でも、何の経験もない私を採用するなんて、一体どういう事なんですか?」

 はっきり言って、友人をはじめとする演技の道を何年も続けている人とは、レベルが違い過ぎる。私なんて指示に従って、ただ闇雲に、けれど慎重にやっているだけだ。要するに常に余裕がない状態だ。ゆえに、特別扱いを受けるような存在では絶対にない。これは謙遜や卑下ではなく、れっきとした事実だ。
 その疑問はすぐに解消された。「Café Paradeのリーダーと同級生なんだって?」と言われ、なるほどそういう事か、とあっさり腑に落ちた。

「神谷くんが事務所の方に何かの拍子で私の話題を出して、その話がうちの事務所に……という流れですか」

 お偉いさん方は本当に同級生なんだ、と少しびっくりした様子だったけれど、「コネクションも実力のうちだ、良い縁に恵まれたと思って頑張りなさい」と言ってくれた。
 なんだか、何もかもが順調過ぎて若干怖いのだけれど、今が頂点で、ここから先は苦労の連続で現実に打ちのめされるかも知れない。マイナス思考というより、躓いた時に軌道修正出来るよう心掛けなくては、と自分を戒めていた。
 やってみて、最終的にこの道は自分に向いていないと気付かされるかも知れない。けれど、どこで何の縁があるか分からない。常に誠実に行動していれば、きっと挫折した時も何処かから救いの手が差し伸べられるかも知れないし。

 こんな風に考えるようになったのは、きっと神谷くんと東雲が『縁』を運んでくれたからだろう。二人に再会出来たのも、友人が偶々イベントスタッフの仕事を紹介してくれて、今の立場にならなければ有り得なかった事だ。
 すべて、見えない糸で繋がっているような感じだ。人生とは偶然の連続だけれど、自ら積極的に行動しなければ、その『偶然』を発動させる事も出来ないのかも知れない。


***


「西篠さん、今頃驚いているでしょうね。『私には無理!』と泣きそうになっている様子が目に浮かびます」

 315プロダクションの一室にて。Café Paradeのメンバーが集う中、私――東雲荘一郎の発言は、神谷以外の三人を驚かせてしまったようだった。

「えぇ!? 深雪さんってパピッとした大人の女の人に見えたけど、そういちろうから見たら泣き虫さんなんだ?」
「まあ、実際に泣いているところは見た事がありませんが。尤も、水嶋さんや巻緒さんの前では、絶対にそんな姿は見せないでしょうけど……」

 高校時代の西篠深雪という子を思い返すと、自分に自信がないものの、プライドの高い気質だと感じ取れた。赤点を一度取った程度であんな騒ぎになってしまったのも、今となっては本人にとっても笑い話だとは思うが、当時はまるで、それこそ大学に落ちたかのような落ち込みっぷりであった。
 ただ、彼女の勉強に付き合ってみて、非常に素直な子だと分かり、結果的に充実した、個人的には楽しい時間を過ごす事が出来た。『神谷のやらかしをフォローする為』という口実ではあったが、女生徒から余計な嫉妬を買ってしまった西篠深雪が、少しでも残りの高校生活を穏やかに過ごせるように、と余計な御節介を焼いたのだった。だが結果的にすべてが良い方向へ進み、己としても安堵していた。

「……何なのだ、この親しみすら覚える感覚は……やはり彼女も闇の眷属なのか!?」
「アスランさん、西篠さんは普通の人間なので、くれぐれも巻き込まないように」
「ハイ……」

 アスラン=BBII世が彼女に変な事をするとは到底思えないが、彼女が彼の為人を把握するまでは、距離を置いておいた方が良いだろう。彼も決して悪い人間ではないから、いずれ自然と打ち解けるとは思うのだが。

「それにしても、すごい偶然ですよね。西篠さんがお芝居の道に進んでいなければ、再会する事もなかったかも知れないです」

 ふと、卯月巻緒の口からそんな言葉が漏れて、思わず頷いてしまった。

「ええ。まさか西篠さんが女優の道に進むとは。全く関係ない学科に進学したはずですが……人生とは不思議なものですね」
「東雲、きっと西篠も俺たちに対して同じ事を思っているぞ」

 己の呟きに、神谷が即座に反応する。確かに、卒業後に世界旅行をすると言っていた男と、パティシエを目指すと言っていた男が、揃ってアイドルになっているのだから、どちらかというと己たちのほうが異質であろう。

「そうですね。私たちも不思議な縁があって出会い、いまやCafé Paradeはアイドルユニットとなりました。西篠さんも、そういった縁があって今の立場があるのでしょうね」

 己たちはそもそもアイドルユニットを組む為に集められた、あるいは集まったのではない。カフェを経営しようと決めた神谷が己を誘い、料理の腕前は一流のアスラン=BBII世と偶然出会い、そしてCafé Paradeがオープンした。更に、大のケーキ好きの卯月巻緒と、彼と偶然出会った水嶋咲が、偶然己たちの店を訪れ、店員として働く事となり――最終的に、運命の悪戯と言うべきか、なんとアイドルユニットとして活動する事になった。
 すべてが偶然の連続であり、己たちが各々に行動を起こした結果である。

「そうだね。まさかプロデューサーに何気なく西篠の事を話したら、それが先方に伝わって、最終的に単なるエキストラだった西篠を本格的に女優の道に進ませる話にまで発展するとは。だが、西篠にとっては経験を積むチャンスでもある。良い方向に話が進んでくれる事を願おう」

 彼女――西篠深雪も、自分なんて無理だと諦めるのではなく、今回の話を受け容れたとしたら。
 このCafé Paradeと同様に、不思議な縁が結ばれて、彼女にとっても実りのある日々になるかも知れない。

「はい。神谷はそうして、人と人との縁を大切にして来ましたからね。きっと西篠さんも承諾して、この縁を大事にしてくれると思います」

 パティシエとして生きる傍ら、アイドルとしての道を歩み始めた東雲荘一郎と、いずれれっきとした女優となる為に、舞台の仕事を下積みから始めている西篠深雪。まるでお菓子作りと同じような積み重ねと、神谷によるスパイス――ちょっとしたきっかけ作りによって、己たちの人生は再び交わろうとしていた。

2023/02/19
2023/04/03 Revise

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