言いそびれたアイラブユー


 離島での生活は不自由もなく、撮影も実に順調に進んでいた。最初にスケジュールを見た時はかなりハードだと思っていたけれど、想定よりも自由時間が多いと感じるのは、315プロの皆が極力NGを出さずに演技しているからだろう。

「スタッフさんの準備ができるまで待ち時間だって! ねえねえ、何する?」

 今日も突発的に自由時間が出来て、かのんくんが満面の笑みで皆に訊ねた。ただ、海水浴も山登りも既にやっている。子どもたちから大人組まで誰もが楽しめる遊びというと、意外と難しい。各自好きなように過ごすのも良いけれど、日々忙しい315プロのアイドルたちが、こうして皆で南の島に来て自由に過ごす機会はあまりないと思うと、どうせなら皆一緒のほうが良い想い出になるだろう。

「そうだな……腹も一杯だし、山の探検も……」

 朱雀くんも悩んでいるようで、皆で考え込んでいると、突然咲ちゃんが駆け付けて来た。

「ねえみんな! スタッフさんがイルカツアーの船を予約してくれたんだって!」

 前にかのんくんが海に行きたいと言った時に、柏木さんが調べてくれていたツアーだ。
 今がまだ夏休みシーズンに入る前だからこそ押さえる事が出来たのだろう。とはいえ、スタッフさんの気遣いに感謝しなくては。観光客が多ければ、この大所帯で貸切るのは無理だったに違いない。
 皆が盛り上がる中、315プロのプロデューサーさんが私の傍に来て手招きした。一緒に行こう、という事だろう。

「お気遣いありがとうございます、私まで頭数に入れて頂いて」
「事務所が違っても、深雪さんも仲間ですからね。それに……」

 プロデューサーさんは話をいったん止めると、既に移動を始めている皆へと顔を向けた。

「プロデューサーさん、西篠さん、早くしないと置いて行きますよ〜」

 皆と一緒にいる東雲が私たちを急かした。プロデューサーさんの言う通り、皆の中で私はただのエキストラという立場ではなく、プライベートの時間を共に過ごせる仕事仲間なのだと思うと、なんだかこそばゆい。
 プロデューサーさんと互いに顔を見合わせて笑みを浮かべれば、私たちは急いで皆の元へ向かったのだった。



 イルカツアーの船は小型船で、かなりの揺れが予想されたけれど、幸い波も穏やかで、船酔いしがちな『彩』の清澄九郎くんも大丈夫そうだった。『F-LAGS』の一希くんが予め酔い止めの薬を用意していたりと、皆が当たり前のように互いを気遣っている。
 世代も経歴もばらばらな皆が、まるで大家族のように過ごしている。改めて315プロのアイドルの人柄の良さや、プロデューサーさんの手腕の凄さを実感していた。

「西篠さん、船酔いしてませんか?」
「うん、大丈夫。風があるから心地良いよ」

 皆でイルカとの遭遇を待つ中、東雲が声を掛けてくれた。フェリーもだけれど、小型船に乗る機会もあまりないから、新鮮な気持ちと高揚感でいっぱいだ。
 ただ、イルカの姿は見当たらない。尤も、水族館とは違うのだから、大自然に生きるイルカと必ず会えるわけではない。お目にかかれたら運が良いと思っていたほうが、がっかりしなくて済むだろう。そう思っていた瞬間。

「にゃにゃにゃっ!? 前方にイルカの影を大発見でにゃんす!!」
「ええっ!? どこどこ?」
「うわぁ、ほんとだ! すっご〜い!」

 キリオくん、志狼くん、かのんくんの声が聞こえ、皆一気に沸き上がった。
 私も目を凝らして大海原を見遣ったものの、タイミングが悪く見つけられなかった。

「うーん、どこだろう」
「西篠さん、あの辺りですよ」

 眉間に皺が寄っていたであろう私のすぐそばで、東雲が指さした。その指先の向こうをじっくりと見つめていると――。

「あ……!」

 ほんの一瞬の事だった。イルカが海の中から飛沫をあげながら跳ねて、再び海の中へ潜っていく。

「すごい! 本当に見れちゃった……」
「水族館のショーとはまた違った趣がありますね」
「うんうん、私たちラッキーかも」

 写真に収められなかったのが残念だけれど、カメラを構えている時は現れず、諦めると出て来る、というのが定説な気がする。人生とはそういうものだ。
 何はともあれ、この目で見られただけでも大収穫だ。そういえば、こんな話を聞いた事がある。

「ねえ東雲、イルカって幸運を呼ぶって言われてなかった?」
「スピリチュアルですが、確かにそんな話はありますね」
「だよね。ドラマも大成功するんじゃない?」

 当たるも八卦、当たらぬも八卦。それでも、前向きでいたほうがより良い作品が出来上がるのではないか。
 東雲は私の願望めいた言葉に、笑みを浮かべて頷いてくれた。

 いつもより距離が近いこんな日が、ずっと続いてくれれば良いのに。
 それが叶わぬ願いである事は分かっているし、叶う事があってはならない。スケジュールは予め決まっているのだから、この島での生活が予定より長く続くという事は、仕事が遅延しているという事になる。
 この撮影が終わった後、皆はそれぞれ他の仕事に戻っていく。私も、東雲も。

 島での楽しい日々はもうすぐ終わってしまう。そう自覚した瞬間、少しだけ寂しさを覚えた。



 そして、撮影終了前日の夜。明日が終われば、元の日常へと戻る事になる。
 寂しいと思っているのは私だけではなく、咲ちゃんやかのんくんが本音を零した。

「なんだか合宿みたいだったし、終わっちゃうの寂しいね」
「おうちも大好きだけど、波の音が聞けなくなっちゃうのはさびしいなぁ」

 都会の喧騒から切り離されたこの島は、波の音がよく聞こえる。高層ビルなどの遮蔽物がないからこそ、夏の陽射しがより厳しく感じる。でも、それは決して不快ではなく、寧ろ子どもの頃の夏休みを思い出させた。今この時も漂う潮の香りも、日常に戻れば味わえない。
 楽しかった日々だけに、終わるのが名残惜しくてたまらない。

「……最後に何かもうひとつ、想い出が残せると良いが……」

 一希くんがぽつりと呟くと、キリオくんが名案を思い付き声を上げた。

「きゅぴぴぴ〜ん! それなら、今からみんなで星を観に行くでにゃんす!」

 急だけれど、この日を逃したらもう後はない。柏木さんと朱雀くんが真っ先に賛成する。

「わあ、すごくいいね! 撮影で疲れちゃって、ゆっくり夜空見れてないし!」
「っしゃあ! 決まりだな! 行こうぜ!」

 疲れはあっても、この島で最後の想い出を作れるならどうって事ない。そう思っているのは皆同じで、各々に出発の準備を始めた。
 すると、東雲が見せびらかすように何かを掲げた。

「ふふ……こんな事もあろうかと、望遠鏡を持って来ました」

 東雲の手にあるのは、片手で持ち運びできるタイプの望遠鏡だった。用意周到だ。巻緒くんも興味津々で望遠鏡を見遣る。

「さすが荘一郎さん! へぇ、そんなコンパクトな望遠鏡があるんですね!」
「みんなで順番に見ましょうね」
「やったぁ!」

 真っ先に歓喜の声を上げたのは志狼くんだ。ここは子どもたちに優先して、私はのんびりと満天の星空を眺めよう。そう思いつつ、皆と共に見晴らしの良い場所へと向かった。



 静かな夜に、虫の音が響く。幸い天気も良く、漆黒の夜空にたくさんの星が瞬いていた。都会の空では見られない光景に、息を呑む。
 皆で東雲の望遠鏡を交代で使いながら、楽しんでいる声が聞こえてくる。
 ずっとこんな日が続いて欲しいと思ったけれど、きっと終わりがあるからこそ、楽しかった記憶になるのだ。感傷に浸っている今も、日常に戻れば良い想い出になるのだろう。

「深雪さん! 良かったら望遠鏡――」
「あ、ありがとう」

 咲ちゃんに声を掛けられて、望遠鏡を受け取ろうとしたのだけれど、自分の声が涙混じりな事に気付いて、自分自身で驚いてしまった。
 どうやら、感傷的になりすぎて自然と涙が浮かんでいたみたいだ。

「深雪さん!? な、何かあったんですか……?」
「ううん。皆との生活ももう明日で終わりだと思ったら、寂しくなっちゃって」

 明らかに動揺している咲ちゃんに心配はかけまいと、なんとか笑みを作ってそう答えたのだけれど、何を思ったのか咲ちゃんは私ではない相手に声を掛けた。

「そ、そういちろう〜!」

 なんでそこで東雲が出て来るんだ、と思ったけれど、そもそも咲ちゃんは私が東雲の事を好きだと知っている。しかもここにいるのは315プロのアイドルたちとプロデューサーさんだけで、信頼できる人たちしかいない。他の誰かがいれば、関係を誤解されかねない言動はしないだろう。とはいえ、気恥ずかしい事に変わりはない。

「どうしました? 水嶋さん」
「深雪さんが寂しいって」
「ちょっ、咲ちゃん! 違うから!」

 間違ってはいないけどあまりにも端折り過ぎだ。これではまるで私が寂しいから東雲を呼びつけたようなものではないか。

「西篠さん、違うんですか?」
「明日撮影が終わったら、元の日常に戻るから、それで寂しいって言ったの!」
「ああ、ですよね。水嶋さん、聞く人によっては誤解しかねない発言でしたから、気を付けましょうね」

 東雲は私の主張に同意すれば、咲ちゃんをたしなめた。と言っても別に怒っているわけではなく、あくまで恋愛スキャンダルに発展しないよう言い方には気を付けよう、という指摘だ。

「はわわ……ごめんなさい、深雪さん……」
「まあ、ここにいる皆なら誤解する事はないって分かってるから、大丈夫だよ」

 咲ちゃんにしてみたら、私が東雲に片想いしていると知っているからこそ、色々と気を遣っているのだろう。それゆえの発言だと思うと、すべての原因は私にある。年下の子に気を遣わせてどうする。
 すると、東雲が思いも寄らない事を口にした。

「誤解する事はない、ですか。それなら、二人きりになっても問題なさそうですね」
「うんうん……って、え?」

 聞き間違いじゃなければ、東雲は今「二人きりになっても」と言った。いや、いくらなんでも聞き間違いだ。反射的に疑問を投げかけてはしまったものの、気のせいならスルーするまでだ。そう思っていたものの。

「気持ちが落ち着くまで、少し散歩でもしましょうか。変な事はしませんので」
「え!? いや、疑う事なんてないけど……いいの? 皆と一緒にいなくて」
「すぐに戻るでしょうし、お気になさらず」
「それなら良いけど……」

 東雲は半ば強引に決めてしまえば、私の手を取って歩き出した。
 これではまるで抜け出してデートするみたいじゃないか。いや、すぐ戻ると言っていたし、本当に少し散歩するだけなのは分かっているけれど。
 私たちの後ろ姿を見送った咲ちゃんが、ぽつりと呟く。

「……ちょっとお節介だったかな」

 実は少し前、咲ちゃんが東雲に「深雪さんを連れ出しちゃえば?」なんて言っていた事など、私は知る由もなかったのだった。



 皆の声が聞こえなくなるほど離れて、私はようやく東雲に声を掛けた。

「……あのさ、手、繋ぐ必要ある?」
「夜道は危険ですから、繋いでいたほうが安全だと思いましたが……嫌なら放します」
「いやじゃない、けど……」

 東雲が手を放そうと力を緩めた瞬間、つい強く握ってしまった。これでは素直じゃない、わがままな子みたいだ。良い大人だというのに、情けない。

「皆の事を信頼してるけど……さすがに手を繋ぐのは、誤解されないかなって……」
「まあ、これだけ真っ暗なら、誰かに見られても手を繋いでいるかどうかも分からないと思いますよ」
「そう? なら良いけど」

 別に東雲は私の事を異性として見ているからじゃなくて、単に夜道が危ないから手を繋いでいるだけだ。そう思うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。変に意識しているのは私だけなのだから、焦ったらかえって変に思われるだろう。

「……ここでの生活が楽しすぎて、終わらないで欲しいって思っちゃった。仕事で来てるのに、役者失格……」

 愚痴を言いたいわけではないのに、自然と弱音が零れてしまう。けれど、東雲は否定も叱咤もせず、同調してくれた。

「皆さん大なり小なり、同じ気持ちだと思いますよ。私もそうですし」
「東雲も?」
「はい。西篠さんとこうして一緒に過ごしていると、高校の頃を思い出します」

 私は自分が成長したつもりでいたけれど、東雲にとってはあの頃の私のままに見えるのだろうか。別に東雲は悪い意味で言っているわけではないと分かってはいつつも、複雑な気持ちになってしまった。
 私が黙っていると、東雲はぽつりと呟いた。

「……あの頃出来なかった事が、大人になった今、こうして叶っている事が不思議です」
「……叶う?」

 高校の頃出来なかった事が、大人になった今出来ている。そういう経験は誰しもある事だけれど、今の文脈では、まるで高校時代に『私』と出来なかった事が今出来ているという意味に取れる。
 あの頃よりも近い距離で、手を繋いで、二人きりで歩く。
 でも、もし高校生の頃に街灯の少ない道を歩くとしたら、きっと東雲は今と同じ事をしただろう。
 考えれば考えるほど、言葉の意図が分からなくなる。

「あれだけ一緒にいたのに、西篠さんと手を繋ぐくらいなんで出来んかったんやって、卒業してからずっと思ってましたからね」
「えっ!? いや、それは、そういう状況に置かれる事がなかっただけで……」
「まめに勉強教えて、こっちの自宅も把握されているのに、驚くほど何もありませんでしたし」
「あの、待って? いったん落ち着こう?」

 多分、落ち着いていないのは私のほうだ。びっくりしすぎてその真意を理解するより先に、東雲の言葉を止めようと試みていた。別に止める必要なんて何もないのに、その先を聞いてしまったら、もう引き返せない気がしていたからだ。
 東雲はアイドルで、私は役者だ。せめて、どちらかがそういう仕事についていなければ、ひっそりと愛を育む事も出来ただろう。でも、今は駄目だ。お互いに仕事を優先しなければならないし、特にアイドルという職業で、若くしてスキャンダルが起こるのは致命的だ。

「東雲のほうが感傷的になってない? なんか、東雲が私の事好きみたいじゃん」

 冗談めかして言ったはずなのに、私の声は上ずっていた。明らかに動揺している。駄目だ、明らかにおかしな事を口走っている。東雲に嫌な思いをさせる前に、弁解しなくては。

「いや、冗談だよ? そんな事、あるわけないし――」
「好きですよ」

 あまりにもあっさり言うものだから、そこに恋愛感情は含まれているわけがないと思った。そうなんだ、嬉しい、ありがとう。そう言おうとしたら、東雲は追い打ちをかけて来た。

「そもそも、好きでもない女子にわざわざ放課後に勉強教えるわけないでしょう」
「いや、それは、神谷くんの事があったから……」
「は? あんな辻褄の合わん理由信じてたん?」
「え!?」

 今のはさすがに馬鹿にされていると分かり、素っ頓狂な声を上げると、東雲は悪びれもせずに言葉を続けた。

「はぁ……西篠さんがあまりにも純粋過ぎて、悪い男に騙されないか心配です」
「馬鹿にしないでよ、東雲の事信頼してるからそう思ってただけで……」
「信頼だけですか?」

 そう告げる東雲の口調はどこか得意気で、私の気持ちなどとうに気付いていたのだと、今この瞬間、漸く気付いた。
 咲ちゃんは口の軽い子じゃないし、高校時代の友人も公言するような子じゃない。ただ単に、隠し通せていると思っていたのは私だけだった、ただそれだけだ。

 それなら、もう隠す必要はない。

「……そっくりそのまま返す」
「と言うと?」
「東雲が勉強教えてくれたお陰で、私は大学に受かったんだよ? いや、結果よりも過程が大事。何の見返りもないのに、自分の時間を割いてくれて……好きになるに決まってるよ」

 東雲のお陰で私の人生が開けたから、好きになったわけじゃない。
 放課後のふたりだけの時間。東雲と過ごしたあの日々が、終わった後にとてつもなく愛しい時間だったと気付かされたのだ。
 神谷くんの為とはいえ、私の為に時間を割いてくれた。パティシエの道に進む為とはいえ、私にお菓子を作ってくれた。東雲にとっては些細な事かもしれなくても、私にとっては宝物のような時間だった。
 それがまさか、東雲にとっても同じだったなんて。
 すべてを知ってしまった今、想いを隠す必要はなかった。

「本当は卒業式の日、東雲に告白しようと思って……でも勇気がなくて諦めた。結果論だけど、東雲がアイドルという職業を選んだなら、告白しなかったのは間違いじゃなかったって思ってた」

 間違いじゃなかった。私が想いを伝えなかったのも、大人になって再会した後も想いを隠し続けていたのも、当然の事だと思ってた。それなのに。

「それなのに、なんで今になって……」

 告白が嬉しくないわけがない。でも、東雲には仕事を優先して欲しい。私のせいで仕事に支障が出たら、きっと一生後悔する。想いが実らない事よりも、東雲のアイドルとしての人生に支障が出るほうが嫌だった。
 けれど、東雲は何の迷いもない口調で、きっぱりと答えた。

「別に、お互いの気持ちが分かったところで、私たちは何も変わりませんよ」
「え? それって、どういう……」
「職業柄、大っぴらに付き合う事は出来ませんからね。ですが、お互いに想い続ける事は変わらず出来るのではないですか?」

 お互いに、想い合う。
 普通にデートしたり、ゆくゆくは同棲したり……いわゆる普通のお付き合いは今は出来なくても、お互いに好きでい続ける事は出来る。

「……確かに、そうだね。言われてみれば簡単な事だけど、ずっと恋愛は駄目だと思い込んでた」
「お互い仕事に支障が出るようでは、事務所もNGを出すしかないでしょうけど……西篠さんなら大丈夫でしょう」
「なんでそう言い切れるの?」

 私の問いに、東雲は繋いでいた手を放せば、答えるより先に私の身体を抱き締めた。
 突然の事に、私は何も考えられなかった。

「西篠さんも私と同じで、仕事に真剣に向き合っているからです。お互いの未来を考え、慎重な行動が取れるなら、危惧している事も起こらないでしょう」
「……言葉と行動がかみ合ってないけど?」

 シャツ越しに伝わるぬくもりに、気恥ずかしくてつい強がってしまったけれど、東雲はまるで気にせず、寧ろ後ろ手で私の髪を撫でて来た。

「今は誰も見てへんやろ。こういう時に本音言わんかったら一生告白出来んままや」
「ちょっと、急に素になるのやめてよ……」
「嫌ですか?」
「照れるから! 私が!」

 もう可愛げも何もあったものじゃない、余裕のない私に、東雲は幻滅しただろうか。
 東雲は私を拘束していた腕を解くと、また私の手を取った。今が夜じゃなければ、私の顔が真っ赤になっている事をからかわれたに違いない。

「もっと照れさせてみてもいいですか?」
「もっと、って……いや、待って! 心の準備が……!」
「嫌ならやめます」
「いや、東雲がしたいなら、いい、けど……」

 正直、今の言葉だけなら、東雲が何をしようとしているのか決めつける事は出来ない。ただ、ドラマや漫画だと、そういう流れになるだろう。これはただの想像であって、本当にそうなるとは限らない。だから、敢えて抽象的に言っただけなのだけれど。
 東雲の顔が近付いて、思わず咄嗟に目を瞑る。
 唇に柔らかいものが触れたのは、一瞬の事だった。
 その感触を味わうよりも早く、唇に初夏の生温い空気が触れる。

「さすがにここまでにしておかないと、私の身が持ちません」
「そ、そうだね、私もそのほうが、助かる……」
「これ以上は嫌ですか?」
「そうじゃなくて! どんな顔して皆の元に戻ればいいの……」

 今が日中なら、間違いなく熱中症で倒れている。夏の陽射しは帽子や日傘で防げても、好きな人からキスされて頭が真っ白になるのは防ぎようがない。今私の頭が働いていないのも、顔が熱いのも、ぼうっとするのも、何もかも東雲のせいだ。

「西篠さんが墓穴を掘らなければ、誰も気付かないので大丈夫ですよ」

 東雲は何枚も上手だ。身が持たないと言っておきながら、既にいつもの冷静な東雲に戻っていて、何事もなかったかのように私の手を引いて歩き出した。
 私は完全に振り回されている。でも、嫌ではないし、きっと卒業式の日に告白していたら、こんな日常があったのかも知れない。高校時代に出来なかった事が、大人になった今叶っている――東雲の言葉が、今になって私の胸に深く響いていた。





「……またね」

 翌日、南の島に別れを告げる巻緒くんの台詞が紡がれ、暫しの間を置いてスタッフさんからOKの合図が出た。

「クランクアーップ!! お疲れ様だぜ、巻緒さんよぉっ!」
「あ……お、お疲れ様でした」

 真っ先に労う朱雀くんに、巻緒くんはらしくない言葉を返していた。巻緒くんではなく、つい今まで演じていた『蒔苗汐』の口調だ。

「ふふ、巻緒さんはまだ役が抜けきっていないようですね」
「いつもの巻緒くんとは違うから、ファンにとっても新鮮だし、Café Paradeを詳しく知らない人は、アイドルの巻緒くんを見て驚くかも」
「西篠さん、もう放送後の妄想ですか」
「妄想って……今後の展開って言ってよ〜!」

 東雲に茶化されてつい声を荒げてしまった。昨夜の出来事は夢なんじゃないかと思ったけれど、すべて明確に覚えている。抱き締められた感触も、伝わって来たぬくもりも、唇に触れた一瞬だけの感触も。思い出すと顔が赤くなりそうだから、今は平常心を保つ事を第一に考えなくては。

「スタッフはまだ作業が多く残っているのだろうが……完成が楽しみだな」
「かのんたちもこれからいっぱい宣伝していかなきゃね!」
「それでなんですが、今から作戦を練りませんか?」

 私だけでなく、皆も撮影が終わったばかりだというのに、もう次の事を考えている。
 終わってしまうのがと寂しいと思っていたけれど、いざクランクアップしてみると、感傷に浸ってはいられないという気持ちになる。
 ただ、私がそう思えるようになったのは、東雲との距離が一気に縮まったお陰かも知れない。いわゆる恋人と言える関係ではなくても、お互いに同じ気持ちだったと分かっただけで充分だ。
 今は、お互いの仕事を第一に考えて、邁進していきたい――きっと東雲も同じ気持ちだからこそ、私も素直になれたのだ。

2024/04/20

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