美しきこの世よさらば



 愛する人のいない世界で生き続けるくらいなら、死んですべてを失った方がずっと楽だと思っていた。死とはすべてを無に還すことで、人格も意思もすべてが消失する。ルクスはそう思っていた。
 だが、死後の世界――『星海』と呼ばれるここは、決して無の世界ではなかった。転生という魂の循環が行われるまで、死者の魂は生前の記憶を少しずつ失っていく。逆に言えば、記憶がすべて溶けるまでは、間違いなく己という存在は星海に在り続けるのだ。
 失うまでにどの程度の時間を要するのかは人それぞれで、現世に未練がない者はすぐに記憶が溶けて転生するだろうし、その逆であれば、溶け切るまでにかかる時間は未知数だ。
 ルクスが知っているのは、そこまでである。

 そんな世界で、愛する人は既に転生し、星海にはもういないというのなら。
 愛する人のいない世界で生き続ける事と、一体何が違うのだろうか。

 アモンは『暁の血盟』を倒せば安息が訪れると言っていた。
 けれど、アモンも結局はあの英雄の力には対抗できず、ルクスはただ、打ちひしがれる彼を見遣る事しか出来ずにいた。

「――この馬鹿ッ!!」

 甲高い声が耳をつき、ルクスは我に返った。いつの間にかアリゼーが目の前に立っていて、どういうわけか己に怒りを向けている。

「皆、ルクスの事を信じてたのよ!? なのに、よりによって、蛮神召喚までしてファダニエルに協力して……挙句の果てに殺されるなんて……」

 アリゼーの双眸に涙が浮かぶ。己もこんな風に純真無垢に生きていけたら、違う道があったのだろうか。ルクスはふとそう思ったものの、すぐに邪念を振り払った。呆然としていても、それなりに頭は働くらしい。
 ルクスは、彼らと同じ道を歩むのは不可能だと悟っていた。生まれた国、育った環境、受けた教育、そして、己の本質。
 何もかもが、彼らとは違い過ぎるのだ。

「アリゼー」
「馬鹿……大馬鹿よ……!」
「私は私の意志でそう決めたのです。あなたがたに流されて、自分を偽ったまま生きるくらいなら、命を賭して戦い、散る事が私の最後の望みだった……」

 そのはずだった。だが、ルクスは願いを叶えたというのに、その表情には暗い影を落としている。
 そんな矛盾を指摘するかのように、エスティニアンがきっぱりと告げた。

「違うな。お前のその意志とやらは、結局はファダニエルとゼノスに流されただけにしか見えん」
「あなたに何が分かるんですか」
「今のお前を見れば、誰でもそう思うだろうさ」

 この期に及んでまだ人を小馬鹿にするのかとルクスは苛立ちを覚えたが、次いでサンクレッドが険しい顔付きで言い放つ。

「ルクス、お前は結局逃げただけだ。愛する人を喪っても、俺たちは生きていかなきゃならないんだ。……心半ばに散った、皆の想いを背負ってな」

 サンクレッドだけではない。『暁の血盟』も、あの星に生きる人たちも、大切な人を喪っている。それでもなお、逃げずに前を向いて歩いているのだ。彼の言葉は、ルクスの心を抉るには充分すぎるほどであった。
 死者の魂となったルクスにはもう、涙を流す事は出来ない。だが、それでも彼らに言い返せずにはいられなかった。

「……それは……あなた達が『正義』だから言えるのです……! 私はどうせ生き延びたところで、テロフォロイの一員として、犯罪者として扱われるだけ! たとえ終末を退けたとしても、私に未来などありません!」
「そんな事はさせない!」

 アルフィノが叫び、ルクスの訴えを遮った。

「エオルゼアも、帝国も、手を取り合って終末に抗っている! 君が『超える力』を正しく使ってくれたなら、帝国の皆の希望になったはずだ!」

 ルクスにはそうは思えなかった。今は協力しているとはいえ、もし終末が去ったとしたら、帝国の民に残るのは、瓦礫の山と化した故郷だけである。ゼノスはもう皇族としての資格を失い、すべての帝国人の恨みを買っている事も知っている。統治者を失った国に待ち受けるのは、他国の侵略だ。
 だが、もしルクスが生きていたとしたら。アルフィノの言う通り、希望という存在になれたとしたら。

「……今更そんな事言われても、もう何もかも遅いのです……アサヒ様がいなければ、私は……」

 いつもルクスは周りに流されて生きて来た。
 帝国軍人になったのは、両親が勧めたからである。今思えば、不貞の子であるルクスを目の届かない場所に追い払いたかったのだ。
 第XIV軍団でも、ガイウスの教えは絶対だと信じ、躊躇う事なく蛮族を殺して来た。
 軍団が壊滅した際、仲間に手を引かれてエオルゼアから脱出し、第XII軍団への転属が叶ったのも、すべて仲間たちがやってくれた事だった。
 自分なりに頑張ろうとしたけれど、ゼノスの一声で都度その意思を失ってしまったし、そして、アサヒが死んだあの任務の際も、強引について行けば良かったものの、結局は待つ事を受け入れてしまった。
 アサヒの死後は、エスティニアンが先程言った通り、ルクスはファダニエルの言いなりになっていた。

 自らの意志を捨て、周りに流されるという事は、要するにすべての責任から逃げているという事に他ならなかった。



 本当にこれで良かったのか。後悔に苛まれているのはルクスだけではなく、アモンも同様であった。英雄はアモンと対話を試みている。
 暁の血盟は、死してこの場にいるのではない。終末を退けるため、シャーレアンが建造した星海観測機構『アイティオン星晶鏡』を用いて、星海の深層を潜航しているのだ。星海の深淵にいる、ハイデリンに会うために。

「かつて偉大な皇帝と、皆が導いた超大国が示しました。最後に待つのは無であると。生きるのはただ、そこに至る道程でしかないのだと」

 ルクスはアモンの話をぼんやりとしか聞いていなかったが、どうやら英雄とは遥か昔に因縁があったらしい。アモンとしてではなく、一万年以上前に生きた『古代人』ヘルメスという男だそうだ。ヘルメスなる者の魂が、幾度も転生を繰り返し、結果的に最後の転生となったのが、第三星暦の魔科学者、アモンという男だったのだ。

「……だったら何故生きる? 他者を踏みつけ、足蹴にし、傷付けながら、どうして生き続ける必要があるんだ? 人はあらゆる言葉で生を讃えるが、見てみろ、人生の大半は暗澹たる闇の中だ。しかもその闇を、自分たちで吐き出しているときた。全く以て質が悪い」

 ルクスはファダニエル――アモンの考えは尤もであると思っていた。アモンは五千年もの間、人間の愚かさを延々と見続けている。古代人なる者の存在を認めるならば、そんな愚かな世界は一万年以上も続いているという事だ。

「だったらもういい、やめてしまえばいい……! この星に生きる、いつまでも、どこまでも愚かな人類が、誰ひとりそれを謳わなかったとしても……終わる事こそ、ただひとつの正しい答えだ!」

 それなのに、どうしてアモンは己と同じように迷いを抱えているように見えるのか。ルクスには、彼の事が何も分からなかった。己たちは願いを叶えたはずなのに、どうして満足して眠る事が出来ないのか。

「それが正しいと……真理だとわかっているのに……どうしてこんな、口にするたび、何かに負けたような気がするんだ……。これじゃないなら、私は何を求めていた……?どういう結果なら良かったんだ……」

 英雄は何も言えずにいた。暁の血盟の面々もふたりの様子を見守っている。
 ルクスは思わずアモンの元へ向かおうとしたが、ヤ・シュトラが片手を出して制止する。

「ルクス、彼に寄り添っては駄目よ」
「でも……」
「あなたが愛しているのは、アモンという男ではないのでしょう?」

 そんな事は分かっている。だが、例え愛がなくとも、世界を破滅に導きたいと願う彼に協力したのは、紛れもなくルクスの意思である。云わば共犯者だというのに、見捨てるほうが人でなしだ。ルクスはそう思っていたのだが。

「自分が……待っていたのは……望んでいたのは、どんな答えだ……?」

 英雄はアモンに答えるべく、自分なりの考えを説こうとしていた。だが、それは突然この場に現れたエーテル――何者かの魂によって遮られた。

「死者の問いに答えて、どうするんです? そいつに未練を晴らさせやしませんよ」

 その声は、見知らぬ人間の声ではない。
 少なくとも、ルクスにとっては、聞き間違う事など有り得なかった。

「アシエン・ファダニエル……お前が安らかに眠っていなくて良かったよ」

 その魂は、ルクスを無視してアモンだけを捉えていた。

「ここじゃあ、誰も彼もが静かに眠る。記憶も想いも溶かして、魂を癒すために……けれど稀に、気掛かりがあって眠るに眠れず、星海の水面に映る、現し世を眺めてる者がいるんです」

 ルクスはもう肉体も消失しているというのに、まるで血の気が引いたような感覚を覚えていた。
 ヨツユは間違いなく己に言ったはずだ。ルクスが愛する男の魂は既に溶け、星海にはもういないのだと。
 欺かれた――ルクスが気付いた時にはもう、何もかもが手遅れであった。

「例えばそう……己の骸がゲス野郎に使われていたり、ねぇ……」
「まさか、アサヒなのか!?」

 咄嗟にアルフィノが叫ぶと、エーテルは人の姿へと形を変えた。
 アサヒ・サス・ブルトゥスが、生前の姿そのままに現れ、そしてアルフィノに向かってきっぱりと言い放つ。

「やめて頂きたいですね。旧知の間柄みたいな言い草は。残念ながら、あなたがたには何の用もないんですよ」

 アサヒはただアモンを見下ろして、言葉を紡ぐ。ルクスなどまるで存在していないかのように。

「俺は、俺が死んだあとの世界なんて、どうでもいい。派手に滅びてそこの英雄殿を苦しめてくれるんなら、いっそ有り難いくらいです。身体を使われた事だって……まあ、不愉快だと思ったところで、死人に口なしですよ」

 英雄は口を閉ざして見遣っていたが、ふとルクスが気になって、彼女のほうへ視線を向けた。呆然としており、自ら動ける状態ではないように見える。

「……だが! お前が、俺の身体でゼノス様に近付き、裏切った事……それだけは絶対に、絶対に……死んでも許せるもんじゃあない!」

 声を荒げるアサヒに、英雄はルクスから彼へと視線を戻した。自身の尊厳を踏みにじった事ではなく、どこまでもゼノスが第一なのかと内心驚いたが、これではルクスも報われないというものである。
 尤も、現世を見ていたというのなら、アサヒがルクスに対して複雑な感情を抱いているのは明白である。それは己たちが口を出すべきではない事だと、英雄は分かっていた。

「お前はここで、俺とともに眠るんだ。問いの答えを得る事も、災厄の結末を知る事もなく! 次に生まれる事があったとしても……苦しんで、苦しんで、苦しんで、答えを探し続けろ……!」

 最早器として利用したアサヒに抗う力もなく、アモンは項垂れるばかりであった。
 ふと、グ・ラハ・ティアが耳をぴくりと動かせば、ルクスの元へ歩み寄った。アサヒの言う『災厄の結末を知る事もなく眠る』という事が、現世を観測する事も出来ないほどの深淵まで沈むという意味だとしたら――。

「ルクス」

 グ・ラハ・ティアの声掛けに、ルクスは答えない。

「きっと、今この瞬間を逃したら、アサヒとは二度と会えなくなる」

 その言葉に、ルクスは漸く顔を上げて、泣きそうな顔でグ・ラハ・ティアを見遣った。
 グ・ラハ・ティアは、ルクスの事をずっと、敵なのにどこか憎めない存在だと思っていた。それは今も変わらない。自然と笑みを零せば、彼女の背中を押すように言った。

「行って来いよ。もう二度と、後悔したくないだろ?」



 ふらふらと覚束ない様子で寄って来る女の気配に気づき、アサヒは仕方なくそちらへと顔を向けた。
 かつて恋した女は、己の生前に知っていた逞しさは消え失せ、弱々しい姿で漂っている。

「アサヒ様……」

 この女が何を求めているのか、己からどんな言葉を掛けられたいのか、アサヒは見当も付かなかったし、そもそも考える気もなかった。
 目の前にいるのは、アシエン・ファダニエルという別の男に惚れ込んだ女でしかないのだから。

「ルクス、あなたがこの男を愛している事は分かっています」
「え……」
「ですが、俺にも譲れない意志があります。あなたがファダニエルを愛していようと、俺はこの男に復讐する為、ここより更に深い場所へ向かいます」
「……違う……!」

 アサヒはルクスと対話する気などなかった。散々罵ってやろうかと思ったが、言ったところで尚更自分が不愉快になるだけだと分かっていたし、何より暁の血盟を前に見世物になるのも癪であった。

「どうか、安らかに。俺の代わりに、世界を……ゼノス様を見守っていてくださいね」

 アサヒはこんな事など言いたくもなかったが、自然と優しい言葉を紡いでいた。
 ルクスという女は、最後までゼノスの部下であり続けていた。ゼノスがルクスの亡骸を見つめていた事を、アサヒもその目に捉えていたし、ファダニエルに裏切られたゼノスの傍にルクスがいればと思った事もあった。
 認めたくはなかったが、ルクスという女は、アサヒにとって理想の存在であった。命を懸けて戦い、己の敬愛するゼノスに対し、最後の最後まで忠義を果たした女。
 羨ましくもあり、憎かった。
 それほどの力を持ちながら、何故ファダニエル如きに絆されてしまったのかと。

「……嫌……!」

 悲痛な叫びに、アサヒは我に返った。
 見れば、ルクスはまるで小さな子どものように声を上げて泣いていた。涙は出なくとも、その感情を読み取る事は出来る。

「私もアサヒ様と一緒に行きます! 私だけが罪を背負わないなんて、許されない……!」
「あなたがファダニエルと別れたくない気持ちは理解しますが、俺にも意地が――」
「違う! 私が愛しているのは、アサヒ様だけ……!」

 今更そんな言葉を信じられるかと、アサヒは苛立ちを覚えたものの、このままでは埒が明かない。なにより、暁の血盟の連中がずっと己たちを見遣っているのが腹立たしかった。

「……そこまで言うのなら、仕方がないですね」

 アサヒは肩を落とせば、微笑を浮かべて、ルクスに向かって手を差し出した。

「後悔しても知りませんよ」

 ルクスは迷わずその手を取ろうとしたものの、後ろから「待て」と声が飛んで来て、思わず手を止めてしまった。
 その声は英雄であった。そして、アサヒを睨みながらルクスに問う。「本当にそれでいいのか」と。
 ルクスは目の前のアサヒが苦虫を噛み潰したような表情をしている事に気が付いて、少しだけ安堵した。己の為すべき事は決まった。そう思い、振り返って英雄を見据えた。

「英雄殿。アラミゴで、ファダニエルに連れられた私と再会した時の事を覚えていますか?」

 一体何の話をするのかと思いつつも、英雄は頷いた。忘れもしない、ルナバハムートと共に、ファダニエルが英雄たちの前に初めて姿を現した時である。

「あの時のファダニエルの言葉が全てです。私の望む世界は、アサヒ様がいなければ成り立たないのですよ」

 きっぱりとそう告げるルクスの目に、もう迷いはなかった。
 ルクスは英雄に背を向ければ、今度こそアサヒの手を取った。厳密には肉体は消失しているのだから、もう手を握る事など出来ない。だが、ルクスはそのつもりで振る舞っていた。そんな様子に、英雄はこれ以上何を言っても無駄だと諦めるしかなかった。
 だが、果たしてアモンは――ヘルメスと同じ魂のこの男は、自らの問いの答えを見つけられるのだろうか。敵ではあるが、英雄は複雑な思いを抱きつつ、アサヒの手によって深淵へ沈んでゆくアモンを見届けたのだった。

 そして、もうここに用はないとばかりに、アサヒはルクスと手を繋いだまま、暁の血盟に向かって言い放った。

「俺がいるうちは、星海へ来ないで貰えますか? 死んでからもあなたがたの顔を拝みっぱなしとか、最悪なので」
「ああ……そうならないように、心掛けよう」

 そう返すアルフィノに、己が暁の血盟に死なないで欲しいと思っていると勘違いされたら堪ったものではないと、アサヒはつい舌打ちしてしまった。

「チッ、本当に言葉通りの意味ですからね」

 ルクスはそんなアサヒを見て、本当にアサヒに再会出来たのだと、心の中で喜びを噛み締めていた。尤も、己の生前の行いを鑑みれば、アサヒには己を罵る権利があるし、ついて来ても良いとは言ったものの、正直もう己への愛は失せているであろう事も覚悟していた。
 だが、それでも、ルクスはアサヒと共にある事が、何よりも嬉しかった。たとえそこが星海の奥深くで、二度と元の場所には戻れないであろう、遥か深淵であっても。



「本当にこれで良かったのかしら」

 深淵へ沈むアサヒとルクスを見送った暁の血盟であったが、どうも腑に落ちないと、アリゼーがぽつりと呟いた。

「……オレのせいだよな」

 ルクスをその気にさせてしまったのは自分だと、グ・ラハ・ティアが恐る恐る呟いたが、英雄は即座に首を振った。ルクスは自分たちがいくら止めたって聞きやしない。蛮神を召喚した時だってそうだった――英雄はそう告げたものの、アリゼーと同様に納得出来ない表情を浮かべている。
 アサヒは本当にルクスの事を愛していたならば、地獄へ引き摺り落とすのではなく、星海で安らかに眠る事を願うのではないか。
 そこまで考えて、英雄は漸くアサヒの意図を理解した。
 これはきっと復讐なのだ。ファダニエルに心を許してしまったルクスに、自分と同じ地獄を味わわせるために。

「私たちはあの子に散々言ったわよ。生きていればいくらだって道はあったわ。それを死という形で捨てたのは、ルクス本人なのだから」

 そう告げたのはヤ・シュトラであった。死者の問いに答えても意味はないとアサヒが言ったように、ルクスが己たちの想いを無下にした事を、あれこれ考えても仕方がない。暁の血盟にそんな暇はない。世界を救うため、この星海にいるのだから。

「それに、『本物』の彼と添い遂げられたのなら、寧ろ本望ではなくて?」

 そう付け足したヤ・シュトラは、どこか優しげな笑みを浮かべていた。





 どこまでも深い、光も届かない闇の中。それでも、ルクスは何も恐くなかった。愛する人が己のそばにいる限り。

「アサヒ様」

 特に話があるわけでもないのに、自然とその名前を口にするルクスに、アサヒは心底不快な顔をした。

「その呼び方、やめて貰えます?」
「何故ですか?」
「俺は『様』などと言われる存在ではなかったと、あなたももう分かっているはずじゃないですか」

 昇格も、称号も、全権大使の任も、何もかもが偽りであった。アシエンなる者がゼノスに憑依して、属州ドマへ再び攻め入る為に仕掛けた罠でしかない。それに――。

「思い出すから嫌なんです。あなたが俺ではない男をそう呼んでいた事を」
「……ごめんなさい」

 ルクスが謝ったところで過去は何も変わらないし、アサヒも余計苛立つばかりである。では、何と呼べば良いのか。

「もう忘れたんですか? あの時、対等な関係でいようと言ったじゃないですか」

 そう告げるアサヒに、ルクスは漸く思い出した。己が本当は何を求めていたのか。
 己の思い描く蛮神と化した時に願った、理想の世界。ドマで過ごした、平和な時間。例えすべてが偽りであっても、ルクスにとってはなにものにも代えがたい、大切な時間であった。あの時に戻れたらどんなに良かったと願うほどに。

「……アサヒ」
「はい、何ですか」
「ええと、呼んでみただけです……」

 アサヒは盛大な溜息を吐けば、己に寄り添うルクスを睨み付けた。

「言っておきますが、あなたを許したわけではないですからね。寧ろ絶対に許しませんから」
「うん、分かってる……」
「あなたがゼノス様への忠義を果たした事に対し、敬意を払っているだけですので」

 アサヒが己を愛していなくとも、ルクスはこうして傍にいるだけで充分だった。
 あの忌々しくも美しい世界に別れを告げ、愛する人と共に深淵に沈んだのは、紛れもなく、ルクスが初めて自らの意志で決めた事なのだから。

2024/01/25
- ナノ -