万霊節のための連祷



 人は死んでしまえば、すべてが無に還る。己という人格は消失し、ただのエーテルと化す。エーテルは星海と呼ばれる死後の世界を漂い、やがて新たな生命として転生する。
 ルクスはヤ・シュトラからそう聞いていたし、暁の血盟が嘘を言っているとは思っていない。
 だが、これは何なのか。
 どういうわけか、ルクスは今、宇宙のような空間を漂っていた。

 ファダニエルに殺されたルクスは、痛みに悶え苦しむよりも先に、生命活動を停止し、短い人生に幕を閉じた。長い時間苦しまないよう『上手く』命を終わらせてくれた事に関しては、ルクスはファダニエルに感謝していた。
 だが、本来そんな感情を抱く事自体が有り得なかった。

 死ねばすべて終わりではなかった。
 ルクスは間違いなく死に、生き返る事もない。
 肉体の感覚もない。
 けれど、魂は『ここ』にあり、ルクスはすべてを覚えていた。

 ルクスは今あの星で何が起こっているのかを観測する事が出来たし、考える事も出来た。
 肉体は消失しているが、意識だけは存在しているというべきか。ルクスは正しい答えを持ち合わせていなかった。
 エーテル、この星海では『記憶』とも称されるそれは、星海にて少しずつ溶けていく。記憶がすべてが失われた時、魂は循環し、新たな生命として転生する。
 ルクスはそんな世界の理など知らなかった。暁の血盟から多くの事を聞こうとはしなかったし、知るのが恐かったのだ。

 ルクスは今、その身を以て、己の選択はすべて誤りだったのだと理解し、そして絶望していた。
 死後もこうして意思は残存し、星海から現世を観測できるという事は。
 アサヒも同じように、自らが死した後の世界を、すべての事を観測している事になるのだから。



 ただただ後悔に苛まれながら、泣く事も暴れる事も出来ず、星海を漂うばかりのルクスの元に、エーテルが流れ着いた。すなわち、ルクスと同じ死者の魂である。偶にすれ違う事があるが、相手は赤の他人ゆえに対話する事もない。そのはずが、突然現れたエーテル――誰かの魂は、自らの意志でルクスの元に現れたように見えた。

「ふふ……随分と憔悴してるみたいだねえ」

 エーテルは生前の姿へと形を変えた。生前に因縁のあった、ヨツユであった。彼女がわざわざ己の元に来る理由など、嘲笑うか謝罪を求めるかのどちらかであろう。ルクスは何を言われても仕方がないと諦めていたし、ヨツユの要望には応えるつもりでいた。

「ヨツユ殿……」
「そんな泣きそうな顔するんじゃないよ、別にあんたを罵りに来たわけじゃない。ルクス、あたしはただあんたと会話をしに来たのさ」

 生前ならば、絶対に裏があると思っただろう。だが、穏やかな笑みを浮かべるヨツユを前に、ルクスは何も考えられずにいた。この人も、こんなに優しい顔をするのだと、今更ながらに気付いたからだ。
 ドマでアサヒを殺したという事は、記憶を取り戻したからに他ならない。今目の前にいる女は、記憶を失ったツユという女ではなく、ヨツユ・ゴー・ブルトゥス本人に違いなかった。

「どうして、私と……?」
「星海からあんたをずっと見ていて、あたしと似ていると思ったのさ。もう未練はないはずなのに、ついついあんたを追い掛けて……今ここで話をすれば、あたしも満足して完全に溶ける事が出来そうだ」

 ヨツユの言葉から、ルクスは暁の血盟の説明は間違いではなかったと確信した。どの程度の時間を要するかは定かではないものの、生前の未練を失えばどうやら完全にエーテルが溶け、新たな生命として転生する事が出来るらしい。
 尤も、破滅の道を進んでいるあの星に生まれたとしたら、生前以上に苦しむ羽目になりそうだが。

「……あたしの両親は早くに亡くなってね。幼いあたしは、親戚の家に引き取られた。アサヒはその家の実子だ」
「そうだったのですか」
「その顔、本当に何も聞かされていないんだね。あたしとアサヒが従姉弟だって事も」

 一応血の繋がりはあったのかとルクスは驚いたが、逆に納得できた。彼女を疎ましく思っているアサヒの前では言えなかったが、ふたりはどことなく似ていると感じていた。東方出身だからというだけではなかったのだ。

「……てっきり、おふたりともブルトゥス家の養子だから、義姉弟という扱いなのだと思っていました」
「とんでもない。あたしたちは両親に売られたのさ」
「…………」
「尤も、奴隷以下の扱いを受けていたあたしと違って、アサヒは可愛がられて学舎にも通わせて貰っていたし、そのお陰で出世も出来た。それに比べ、学のないあたしは――」

 ルクスはあくまで聞き役に徹するつもりでいたが、何かがおかしいと、つい口を挟んでしまった。

「あの、まさかヨツユ殿は……教育を受けられなかったという事ですか?」
「そんなに驚く事かい?」
「当たり前です! 属州法で決まっているのです、皆平等に学舎で帝国式の教育を受けさせると……」

 声を荒げるルクスに、ヨツユは甲高い声で笑ってみせた。やはり、この女は何処までも純粋で、穢れのない――己とは全く違い世界にいる人間だと、改めて思い知らされたからだ。
 まさに地獄に落とすに相応しい。
 ヨツユは笑うのを止めて、ルクスの傍へ顔を寄せる。

「あたしの人生、もっと聞かせてやろうか? アサヒの出世が決まるや否や、あたしはろくでもないクソオヤジの元に嫁がされ、暴力を受ける毎日だった……更には旦那が早々に死んだ矢先に、両親はあたしを女郎屋へ売ったのさ」

 そんな事がまかり通るわけがない。ルクスは呆然としていたが、かといってヨツユがこの期に及んで嘘を吐く理由もない。暁の血盟も、イルサバード派遣団も、決してルクスに嘘は吐かなかった。いつだって、ルクスが敵だと思っていた相手は、ルクスを謀ろうなどとしていなかったのだ。

「……どうして」
「ん?」
「どうして生きているうちに言ってくれなかったんですか!!」

 目の前にいるヨツユに向かって、ルクスは大声で叫んだが、当然相手は顔色ひとつ変えなかった。

「ルクス、世界はあんたが思っているほど綺麗じゃないのさ。あたしは幼い頃からずっとドマの連中から見て見ぬ振りをされて来た……奴隷みたいな生活をしていた子どもの頃も、旦那から暴力を受けていた頃も、そして、女郎屋に売られた時も」

 何度も何度も助けを求め、その度裏切られて来た。ヨツユはすべてに絶望し、誰かを信用するなど出来るわけがなかった。
 だが、娼婦として過ごした日々は、少なくとも金と自由は手に入り、ヨツユにとってはじめて人生で幸せだと思えた時であった。様々な巡り会わせで、帝国軍の諜報員として生きるようになってからは尚更である。
 ヨツユは己を見て見ぬ振りをし続けて来たドマの民を恨み、憎んでいた。だからこそ、帝国側の人間として、ドマの人間を苦しめる事で、今までかつてない喜びを味わっていたのだ。

「だから、ドマで圧政を……」
「ああ、そうさ。こんなあたしだからこそ、ゼノス様はあたしを選んでくれた。ドマの代理総督にしてくれた……」

 だから、ヨツユがドマの反乱軍に押されていると分かるや否や、ゼノスは彼女を突き放した。ルクスとて、ヨツユが思ったよりも役に立たないからそうなったのだと分かっていた。当時は、ただそれだけだと思っていた。
 だが、今は違う。ヨツユの過酷な生い立ちを知ってしまったのだから。

「私がドマに行った時、打ち明けてくれたら……私は、ヨツユ殿の傍にいたのに……最後まで……」
「馬鹿言うんじゃないよ。アサヒと一緒にあたしを陥れようとしていた癖に」
「誤解です!」

 即座に否定するルクスに、ヨツユは目を丸くした。あんなに弱り果てていた女が、まさかこんな態度を取るとは思わなかったからだ。

「あの頃はまだ、アサヒ様とは打ち解けていませんでした。それどころか、私は嫌われていたんですよ」
「でも、あんたはアサヒの事が好きだったんだろ?」
「ですが……それでも、ヨツユ殿を連れて逃げて匿うぐらい、私なら出来ます!」

 ヨツユにしてみれば、そんな綺麗事など信じられなかったし、そもそも当時もアラミゴから突然左遷されて来たわけのわからない女に、己の人生を語るわけがなかった。
 だが、ほんの少しだけ、ルクスに心を開いていたとしたら――ヨツユは一瞬そう思ったものの、すぐに余計な思考を振り払った。そんな事は有り得ないのだから。

「まあ、全てが終わった今、何を言っても無意味なんだけどねえ……」
「じゃあなんで私に話し掛けたんですか」
「あたしがあんたの愛するアサヒを殺した酷い女……単純にそう思われるのが癪だったのさ」

 とはいえ、誰も彼も死んだ今となっては、ルクスは恨む気力もなかった。
 ヨツユの言葉をすべて信じるならば、子どもの頃に酷い生活を強いられてきたヨツユを、アサヒは見殺しにしていたという事になる。そもそもアサヒとてもっと幼い子どもであったのだから、義理の姉を救えたとは思えない。ヨツユを連れて逃げ出したところで、野垂れ死ぬのは明白であり、下手に姉を庇えば、今度は自分自身が虐待される立場になるかも知れない。
 ルクスには正解など分からなかった。なにせ、自分は両親から愛を受けていなかったにしても、衣食住に困りはせず、教育は受ける事が出来たし、ルクス自身も勉学に励んで魔導院を卒業したのだ。どちらかというとアサヒに近いと言った方が正しいだろう。
 だが、ヨツユは思い掛けない事を口にした。

「それに、あんたはあたしと似ている」

 先程も口にした言葉である。ヨツユの意図が、ルクスには理解出来なかった。

「似ていませんよ……あんな話を聞かされて、そう思うほうがどうかしてます」
「大事なのは自由を手に入れてからの話……あたしもあんたも、帝国軍で居場所を見つけた。ゼノス様があんたを認めたのも、あんたの奥底にある狂気を見出していたからだ」
「そんなものは……」
「いいや、ある。あんたが召喚した蛮神……英雄と戦っている時の、あんたの狂気に満ちた笑顔……ルクス、お前に『良い子』は似合わないよ」

 ルクスは結局ヨツユが何を言いたいのか理解出来ずにいたが、別に本人が満足して溶けるのならそれでいいと思った。ヨツユが今にも消えそうな状態になっている事に気が付いたからだ。

「ああ、もう満足したみたいだ……ルクス、最後にひとつだけ願いを聞いて貰えるかい?」
「願い? お互い死んでいるのに?」

 怪訝な顔をするルクスであったが、ヨツユは気にせず、彼女の後ろの方角へ指を差す。

「あの向こうで、ファダニエルが待っている」
「……彼に会えと?」
「最後にあんたが愛した男だろ? 行っておやりよ」
「誤解です、それは……」

 ルクスは己が愛しているのはあくまでアサヒだと思っていたし、ファダニエルも己の事を愛してなどいないと分かっていた。単なる身体の関係があったに過ぎない。
 だが、ヨツユはそうは思わなかった。

「アサヒの事を気にしているなら、心配はいらない。あの子はもうエーテルが溶け切って、ここにはいない。きっと転生しているはずさ」
「……そう、ですか……」

 正直、ルクスは不覚にも安心してしまった。今更アサヒに合わせる顔などあるわけがなかったからだ。この無限に続く星海で、偶然鉢合わせになる事があるかも知れない。ルクスはそれをずっと恐れていた。
 だが、ヨツユの言葉でそれは杞憂に終わった。

「ひとりぼっちでいるよりも、『同志』と一緒に居た方がいいに決まってる。あたしと同じように、ふたりで話しているうちに、きっとあんたもエーテルが溶けて、転生できるはず――」

 ヨツユはそう言い残すと、跡形もなく消え去った。
 満足して完全に溶け切ったのか、あるいは何処かに行ってしまったのか。
 どちらにせよ、もう会話をする事は叶わない。

 ルクスはファダニエルの事を愛してはいないし、星海で再会したところで、何が起こるわけでもないと分かっていた。それは相手も同じである。
 ただ、もしファダニエル――アモンと会話が叶うのなら。願いを叶えてくれた事に礼を述べるぐらいはしても良いだろう。英雄に代わり、己を一思いに殺してくれたのだから。ルクスはそう決めて、ヨツユが指差したほうへ向かったのだった。



 ルクスはアモンの事を、アシエン・ファダニエルとしての姿しか知らなかった。五千年前に生きていたアモンという魔科学者が、どんな人物なのか。外見だけではなく、口調も、性格も、何も知らない。ゆえに、ヨツユに促されたほうへ向かってはいるものの、再会出来るとは限らなかった。ルクスはアモンの魂を見つけられる手段は持ち合わせておらず、逆にアモンはルクスを見つける事が出来ても、別に会いたいと思わないだろう。それに、世界に終末をもたらした事で、案外満足してエーテルも溶けているかも知れない。

 果たして己の行動に意味はあるのか。段々迷いを覚えてはじめていたルクスであったが、刹那、視界が塞がれた。
 誰かの手によって、物理的に塞がれたのではない。
 どす黒い空気がルクスを襲い、気付いた時には、『何か』の腕の中にいた。

 恐る恐る顔を上げたルクスの目の前には、己より、否、普通の人間とは思えないほどの巨大な化物がそこにいた。その顔は骸骨と化し、元の顔を窺う事は出来ない。

「――ルクス」

 聞き覚えのない声。だが、何故か何度も聞いたような気がする声。理屈では説明出来ない感覚に、ルクスは戸惑い、そして確信した。
 目の前にいるのは、ファダニエルの真の姿――魔科学者アモンだと。

「……アモン、私、分からないの……満足して死んだはずなのに、どうして……」

 どうして、緩やかに溶けていく事が出来ないのか。
 どうして、こんなに悲しいのか。
 どうして、こんなにも後悔に溢れているのか。

 その答えを、アモンは持ち合わせていない。何故ならば、彼もルクスと同じ気持ちに苛まれているからだ。

「大丈夫ですよ、ルクス。かの連中を倒せば、私たちには安息が訪れる……」

 アモンはそう告げると、ルクスから別の方向へと顔を向ける。同じようにルクスもその方角を見遣ると――どういうわけか、道なき道が強い光を放ちながら現れ、その上を走り続ける者たちの姿が見えた。

「『暁の血盟』……!?」

 何故死者の世界である星海に彼らがいるのか。己の知らぬうちに、彼らは災厄で命を落としたのだろうか。ルクスには知り得なかったが、ただ、それでも分かる事があった。
 彼らはあの青い星を救おうとしている。世界を終末から救うために、今この瞬間も戦っているのだと。

2024/01/22
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