嵐の朝



「納得出来ないのなら貴殿も戦果を挙げるべきだろう。属州民でもサスの階級にはなれるのだからな」

 第XIV軍団の人間にそう言われた瞬間、アサヒは怒りを覚えるよりも呆れ果てた。いくら属州の人間も帝国人と同様に扱うと軍団で大義を掲げようと、頭を失えば部下はこうも簡単に本性を露わにする。奴等には信念など存在しない。ただ出世の為に上官に媚び、使えるものは何でも利用する――あさましい連中だ。
 せいぜいゼノス様が『超える力』の研究に飽きる時が来ない事を祈っていればいい。どうせ奴等はガイウス・ヴァン・バエサルの遺産を利用して取り入っただけであり、実力などないのだから。そう思う事でアサヒの気は紛れたが、どちらにせよ第XIV軍団の事を受け容れる事は到底出来なかった。どうせ顔を合わせる機会など滅多にない、そう思っていたのだが――。



 翌日、アサヒの元にひとりの女が訪れ、女は開口より先に深々と頭を下げた。
 突然幕僚に抜擢された、ルクスという名の女である。

「……一体何なんですか……?」

 冷静に考えればどういうつもりでこの女がわざわざ己の前に現れ、頭を下げたのか、それ位推測出来るのだが、まるで予想していなかっただけにアサヒも頭が回っておらず、怪訝な表情で女に訊ねてしまった。アサヒは間もなく、馬鹿正直に聞かずに突き放せば良かったと後悔する事になる。

「昨日は仲間が酷い事を言ってしまい……本当に、申し訳ありませんでした」

 女は恐る恐る顔を上げれば、神妙な面持ちで虫唾の走る綺麗事を宣ってみせた。忘却の彼方へ追い遣っていた不愉快な記憶を思い出す羽目になったアサヒは、舌打ちしたいのを堪えながらなんとか口角を上げた。

「別に気にしていませんよ。あなた方はただ『当たり前の事』を仰られただけの話ですから」
「そ、そんな事は……!」
「何が違うんです?」

 アサヒは女を早々に追い返すか迷ったものの、もう二度と己に話し掛けようと思わない程に徹底的に突き放すべきだと結論付けた。そもそも『仲間が酷い事を言った』という言い回しの時点で、自分だけは違うとでも言いたいのだろう。彼女の保身とも取れる発言の時点で、アサヒは内心腹を立てていた。

「違います……だって、ガイウス様は属州の民も同じ帝国人だといつも仰っていました。だからこそ、第XIV軍団では属州出身でも――」
「サスの階級までしか上がれないんですよね?」

 女が言い終えるより先に、アサヒは遮って問い返した。『帝国人と属州人は平等』『属州出身でも出世できる』など理想論、それどころか詭弁に過ぎない。当たり前のように差別が存在しているのが現実で、アサヒもそれを受け容れていた。愚かな反乱軍のように帝国に楯突きさえしなければ、命の保証はあるのだから。結果を出せば帝都の魔導院にも招聘され、帝国軍へ入隊し、衣食住に困る事もない。アサヒは現状に満足していた。だからこそ、こうして綺麗事を宣う存在が心底不快であった。

「先程も言いましたが、あなた方は何も間違った事は言っていないのですから、私への謝罪は不要です」
「ですが……」
「はっきり言われないと分かりませんか? 軽々しく謝られるほうが不快です」

 もう二度と己の前に顔を見せるな。最早本音を隠す気もなく、アサヒは女に向かって問い掛けた。

「仮に私が謝っても許さないと言ったら、あなたは何をしてくださるんですか?」

 当然、女は答えを持ち合わせておらず、黙り込んだ。
 アサヒがこのルクスという女が気に食わないのは、まさに『何も出来ないのに理想論だけを振りかざしているから』であった。これが仮にガイウスであれば、実際に属州の民の地位を上げるよう動き、実績もあったのだから、まだ耳を傾けてみようとは思える。
 だが、この女が何も出来ない事は明白であった。本当に仲間の発言に問題があると思っているのなら、その場で𠮟責しそれこそ頭を下げさせるくらいは出来た筈である。この女はただ単に、八方美人なだけなのだ。己にも良い顔をして、形だけの謝罪をして許されようとする――アサヒにはルクスという女の姑息さが許せなかった。

「何も出来ないなら、これ以上人の神経を逆撫でする発言は慎んで頂けますか、『幕僚殿』」

 さすがに言い過ぎたようで、女は瞬く間に双眸から大粒の涙を零して、何も言わず背を向けて去って行った。
 アサヒは己の発言に非があるとは思っておらず、全く後悔していなかった。あの女がゼノス様に告げ口をしようと、そもそも己はゼノス様に存在すら把握されていない程度の人間なのだ。寧ろこんな事で泣き付いているようであれば、ゼノス様も苛立ってその首を刎ねてしまうだろう。そうなれば見ものだが、あの女もそれが分かっているからこそ、余計な事は言わないに違いない。ゆえに、アサヒは問題ないと判断していた。

 その後、ルクスから接触してくる事はなかった。元来帝国軍は仮面を被り個を消して行動する事が多く、どこかの地で、どこかの戦場で共に戦う機会があった事もあるかも知れないが、どちらにしてもアサヒの神経を逆撫でするような事は起こらなかった。

 だが、アサヒにとって平穏な日々はそう長くは続かなかった。
 属州アラミゴとエオルゼアの間に位置する『バエサルの長城』にて大規模な反乱が起こり、蛮神召喚まで行われたとの報が帝都にもすぐさま舞い込んで来た。この一件により、ゼノスは臨時属州総督として、部下を引き連れアラミゴに向かう事となった。

 アサヒ率いる部隊は帝都での待機を余儀なくされたが、それよりも、彼にとって信じられない事態が起こっていた。アサヒはその一報を聞いて、はじめは耳を疑い、悪い夢なら今すぐに覚めてくれと心から願った。恐らくは、こんな感情になったのは生まれて初めてであった。それほどまでに、アサヒという男の人生は順風満帆まではいかなくとも、それなりに満足できる日々であった。
 まさかそれが、己の身内によって壊されるなど思ってもいなかった。

 第XII軍団が引き継ぐ運びとなった属州の新たな総督――要するに支配者について、アラミゴは軍団長ゼノスが直接赴き、総督の座に着く事となった。だが、問題はもうひとつの属州、ドマであった。先日の大規模な反乱も記憶に新しく、力のない者を総督に置けば、再度の反乱を許してしまう事になる。だからこそ、ゼノスに次ぐほどの力を持つ存在を代理総督に置く必要がある。誰もがそう考えていた。

 だが、実際に属州ドマの代理総督として選ばれたのは、第XII軍団も、そして元第XIV軍団も知らない人物であった。
 ヨツユ・ゴー・ブルトゥス――ドマで娼婦として生きて来た東方系ヒューラン族の女。そして、ガレマール帝国軍のスパイとして暗躍していた、誰も知らない存在であった。
 ただひとり、彼女の義弟であるアサヒを除いては。

 よりによって何故お前なのか。これは悪い夢だ。頼むから今すぐ覚めてくれとアサヒは願ったが、残念ながらヨツユが代理総督に選ばれたのは紛れもない事実であった。

 最早アサヒの耳には誰の声も届いていなかった。
 同じ貴族に売られ、同じ姓を持つドマ人という時点で、己とあの女が血縁関係にある事はいずれ周囲に知られてしまうのは明白であった。ましてや、いくら軍のスパイとして生きているとはいえ、娼婦である事に変わりはない。弟というだけでろくでもない事を言われるのは想像に容易かった。
 だが、アサヒにとっては自分が罵られる事はどうでも良かった。それよりも、問題はあのヨツユがどんな手を使って代理総督の座を手に入れたのか。スパイとして帝国軍に属しているとはいえ、同じ存在は他にもいくらでもいる。それがよりにもよって何故あの女なのか。
 最早、それ以上は考えたくなかった。否、考えないようにしたところで、耳を塞いだところで、周囲の心無い言葉はこの先嫌でも入って来る。

 敗残兵のルクスが幕僚に選ばれた際、第XII軍団の兵士たちは体を使ってゼノスに取り入ったのだと決め付けていた。
 あの時はゼノスがそんな手に騙されるわけがないとアサヒは本気で思っていたのだが、相手が己と同じ軍人ではなく娼婦となれば、正直断言する事は出来なかった。
 考えたくはないが、では他にどんな手段でゼノス直々に代理総督に選ばれたというのか。仮定すら思い付かないのなら、もう答えは出ているようなものであった。



「――、アサヒ殿!」

 我に返ったアサヒは、女の呼声に目を見開いた。その女とは当然忌まわしき義姉ではなく、ゼノス直々に幕僚に選ばれた女、ルクスである。

「は、はい。何か……?」

 アサヒはつい反射的にそう返してしまったが、このタイミングで声を掛けるなど、どう考えてもあの義姉の件だろう。この女の事だから、また綺麗事でも宣うに決まっている。話し掛けるなと返す事が出来ればどんなに良かったか、とアサヒは平常心を欠いていた己を詰った。
 だが、ルクスの言葉はアサヒの想像からは外れていた。

「勝手ですが、どうしても一言、お別れを言おうと思いまして……」
「お別れ?」

 ヨツユの事で気が動転しており、まるで見当が付かないアサヒに、ルクスは苦笑いを浮かべながら答えた。

「私たち、アラミゴに派遣される事になったんです。もしかしたら、帝都に戻って来れないかも知れないので、念の為お別れの言葉をと」
「そうですか……わざわざありがとうございます」

 正直、この時アサヒはルクスの言葉が全く頭に入っていなかった。聞いてはいるものの、その言葉の意味を理解し、適切な言葉を返せていないと言っていい。この場合の『適切』とは、元々第XII軍団にいる軍人を差し置いて、ゼノスと共にアラミゴに向かう事について嫌味のひとつでも返す、という意味である。

「正直、もしあの忌まわしき『英雄』と対峙したら、生きていられるか分かりませんが……私はともかく、ゼノス様が絶対に始末してくれると信じて、頑張って来ます!」

 ルクスは両拳を握ってそう告げたものの、アサヒは心ここに在らずといった様子であった。その理由は考えるまでもなく、さすがにルクスもある程度察してはいた。ただ、己と同様あのヨツユという女性も、決して身体を使ってゼノスに取り入ったわけではないだろう、とルクスは思っていた。ドマ出身者が統治する事で反乱の抑止に繋がり、また、貴族の養子であり帝国軍のスパイとして働いていたのであれば、帝国を裏切る事もない。恐らくは自分の身を守る程度であれば戦いの心得があり、それに護衛もしっかり付くだろう。ルクスはそう考えており、彼女の中では此度の任命は理に適った采配であった。自分が幕僚に選ばれた事よりも、遥かに。

「アサヒ殿も、どうかお元気で。またこうしてお会いできる日が来る事を願っています」

 ルクスはそう言って敬礼すれば、踵を返して仲間たちの元へと駆けて行った。ルクスと交流のある元第XIV軍団は、恐らく全員アラミゴへ派遣されるのだろう。



 ルクスの姿が見えなくなり、アサヒは漸く平常心を取り戻した。
 そして状況を理解し、力なく肩を落とした。元第XIV軍団は決してガイウスの遺産だけでゼノスに評価されたのではなく、その後も戦果を挙げ続けたからこそ、此度も同伴を許されたのだと納得せざるを得なかったからだ。
 この時、既にアサヒの中で燻っていた、ルクスに対しての憤りは消え失せていた。それ以上に許せない事が起きてしまった今、最早第XIV軍団への嫉妬や疑心などどうでも良い事であった。
 あの女――義姉は絶対に汚らわしい手段を使ったに違いない。実力と人種で代理総督を選ぶのならば、お前ではなくこの俺が相応しい筈なのだから。アサヒは表には出さずとも、心の奥底でヨツユへの殺意を無意識に抱き始めていたのだった。

2022/08/20
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